私のPCの初期画面。ここからHP作成に入る。マリリンは毎日見ているが、何年経っても見飽きない。
平成20年10月26日 歴史倶楽部第135回例会
奈良県桜井市の東部に「忍阪」という名の集落がある。標高292.5mの外鎌(とがま)山と標高245mの鳥見山の間を流れる粟原
(おおばら)川に沿って、外鎌山の西麓に広がる地域である。現在は「忍阪」と書いて”おっさか”と促音で読む。
しかし、古くは「忍坂」とか「押坂」と書かれ、読み方も”おさか”、”おしさか”とさまざまだった。この忍阪の集落を抜けて女寄
(みより)峠に向かう道は、かって忍坂街道と呼ばれた。現在は国道166号線が旧道に重なりながら、宇陀郡大宇陀町へと続いている。
記紀が伝える神武東征伝説では、この道を逆方向に進軍し、宇陀から忍坂へ押し出していった。
忍坂街道の沿線には、古代史に関わる史跡が多い。神武天皇が菟田(今の宇陀地方)を経て、この谷間を通り奈良盆地に進出したといわ
れる粟原・忍阪から磯城島を結ぶ道が粟原道である。わが国で最古の石仏といわれる白鳳時代の三尊石仏がある石位寺。額田王が老後の
身を養った終焉の地といわれる粟原廃寺。舒明天皇墓、鏡皇女墓、大伴皇女の墓など、古墳群も多い。舒明天皇陵の付近には、額田王の
姉で天智天皇の妃、中臣鎌足(藤原鎌足)の室で万葉歌人の鏡王女の押坂墓があり、また、辺りには敏達天皇の皇女で舒明天皇の母であ
る田村皇女の押坂墓、欽明天皇の皇女の大伴皇女の押坂内墓がある。
JR桜井駅南側の付近案合図の前で記念撮影。さぁ、例会のスタート。
跡見橋の上での錦織さん。しかし今回の、「風の中へ」の錦織さんの体験談は強烈でしたね。私、泣きましたよ。
【桜井茶臼山古墳】 (さくらいちゃうすやまこふん) 国指定史跡 年代 4世紀初頭
丘尾切断によって築造された前方後円墳。埋葬施設は竪穴式石室であり、墳丘には葺石をめぐらせていたようである。前方部が直線的な
柄鏡[えかがみ]の形をしていることから、前期古墳でも古い時代のものであると考えられる。竪穴式石室は朱塗りの板岩を積んだ豪壮
なもので、出土品には玉杖や玉葉、鉄刀、鉄剣などがある。墳丘の規模や副葬品などから大王級の人物が葬られたと推測されている。
4世紀初頭の築造と考えられる。
住所 633-0007桜井市外山522 交通案内(公共) 桜井駅からバスで「外山」下車
住宅の横を通って古墳へ近づく。
「上まで登ろうで。」」と誰かが言い出したものだから、四苦八苦している橋本さん。
上記は平成21年6月13日の産経新聞朝刊、下はその翌日の夕刊。
【宗像神社】 (むなかたじんじゃ)
神武天皇が大和に入り、祖神を祀る霊疇を設けた鳥見山の麓にある。鳥見山の北麓、国道165号南側に鎮座する。幕末の国学者、鈴木重胤
がこの地にきて、宗像三神の衰微をなげき村民と相はかって再興に努力し、安政6年(西暦1875年)に改めて筑前の宗像本社から神霊を迎
えたとされる。
住所 633-0007桜井市外山 所在概要 国道165号沿い、外山南側 交通案内(公共) 桜井駅から南東へ2km
この神社は現在全面的に改築中だった。上左の小さな小屋のような建物が臨時の拝殿である。なんとまぁ。
例によって野菜直売所をヒヤカす皆さん。ほんとに驚くほど安いのだが、白菜抱えて歩くわけにもいかんしねぇ。
見事な大クスと雨に打たれて泣いている狛犬。
【忍坂街道】 (おっさかかいどう)
初代天皇・神武天皇ゆかりの道。日向から瀬戸内海を東進し、難波から南に迂回した神武天皇は熊野・吉野の山中を越え、宇陀から忍坂
へと至り大和平定を成就したといわれている。記紀がもし事実を記録していたとすれば、この道を神武天皇も歩いたのだ。我が郷土の偉
人にして大先輩。日本国の創始者は遠い私の先祖かも。ははは。
【石位寺】(いしいでら)
「忍阪」バス停の傍に、石位寺方面の標識が立っている。標識に従って集落に入って行くと、集落を横切る旧街道ぶつかる。石位寺へ行
くには、この旧街道を右へ進めばよい。すぐの所に小さな高台があり、石位寺はその上に建っている。寺といっても、現在は小さなお堂
と本尊を安置するコンクリートの収蔵庫があるだけで、境内も狭い。住職も先年亡くなって以来、現在は無住の寺であり、いずれの宗派
にも属さず、融通念仏宗を標榜している。檀家や周囲の住民によって寺が維持管理されているという。本尊の石像浮彫薬師三尊像を拝観
できる時期は3月から5月および9月から11月と限定されており、桜井市観光課にあらかじめ電話予約が必要である。
収蔵庫に安置されている本尊は、白鳳時代に製作された薬師三尊であると伝えられている。我が国に現存する最も古い石彫りの三尊仏で、
国の重要文化財に指定されている。三尊を刻んだ石版の大きさは、高さ1.15m、幅1.5m、底辺1.21m、厚さ約0.2mで、
丸みをおびた砂岩製である。中尊は方形の台座に腰掛けた如来形で、頭上に天蓋が描かれている。背後に頭光と凭掛が薄肉で表示されて
いる。両脇侍は合掌して立ち、頭光が描かれている。割り出しは極めて念入りで、三尊とも薄い法衣を通して内部の肉体の起伏がよく現
れていて、布の質感も巧みに描かれている。作られたときは彩色されていたらしく、その痕が像の唇と着衣に残っている。
石像浮彫薬師三尊像
石仏の願主は万葉歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)だったとの伝承がある。額田王の念持仏として作られ、もとは栗原寺(おおばらで
ら)にあったが、栗原川の氾濫で流されてきたというのだ。栗原寺は、和銅8年( 715)に比売朝臣額田(ひめあそんぬかた)によって川
上の粟原集落に建立された寺だが、比売朝臣額田が額田王であるとする言い伝えが古くからある。 以前は寺の庭に放置してあったのを、
大正5年(1916)に関野貞博士によって認められてから、厨子に安置されるようになり、現在はコンクリート製の収蔵庫に納められている。
造型は、長谷寺の銅盤法華説相図中の三尊物とよく似ているという。
お堂と収蔵庫に分かれて雨の中の昼食。雨の中の昼食はこれで4,5回目かな。我々の例会はほとんど晴れるのだが、今日は誰か良くな
い行いをしたらしい。
【舒明(じょめい)天皇】
異名: 田村皇子(たむらみこ)、息長足日広額尊(おきながたらしひひろぬかのみこと)
生没年: 推古天皇元年(593)〜 舒明天皇13年(641)10月9日(49才)
在位: 舒明元年(629)1月4日 〜 舒明天皇13年(641)10月9日
時代: 飛鳥時代
父: 押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえ:敏達天皇の皇子)
母: 糠手姫皇女(ぬかでひめ:押坂彦人大兄皇子の異母妹)
皇后: 宝皇女(たからひめ:皇極天皇・斉明天皇)
皇妃: 田眼皇女、蘇我法提郎媛、粟田香櫛娘、蘇我手杯娘、蚊屋采女姉子
皇女子: 古人大兄皇子、葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(天武天皇)、
蚊屋皇子、布敷皇子、押坂錦向皇女、箭田皇女
宮居: 飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや:奈良県高市郡明日香村)、
田中宮(たなかのみや奈良県橿原市畝傍町)、厩坂宮(うまやさかのみや:奈良県橿原市大軽町)、
百済宮(くだらのみや……奈良県北葛城郡広陵町百済)
御陵: 押坂内陵(おさかうちのみささぎ:奈良県桜井市大字忍阪)
陵墓のそばに古い火の見櫓があって、杉本さんが登って騒いでいたら隣の家のおっさんが出てきて「そりゃもう朽ちてるから危ないでっせ」。
推古天皇は聖徳太子(厩戸皇子)を皇太子・摂政として政務にあたらせる。数々の善政を行ったとされる聖徳太子は、ついに天皇となる
ことなく49才で世を去るが、推古天皇はその後馬子の死も看取り、75才で崩御するまでさらに 6年在位した。通常なら、推古天皇の死後
は聖徳太子が後を継ぐのが順当だが、太子は皇太子のまま推古天皇より先に死んでしまっている。後継者としては、聖徳太子の子供であ
る山背皇子(やましろのおうじ:大兄)と、敏達天皇の孫である田村皇子(たむらのおうじ)の二人が候補者だった。しかし、推古天皇
はそのどちらを後継者にするとも決めぬまま崩御してしまうのである。
死期の迫った女帝は、孫の田村皇子(後、舒明天皇)を枕元に呼び、皇位に就くことの困難さを説き、謹んで物事をよく見通すように諭
した。同様に聖徳太子の子、山背大兄(やましろのおおえ)にはよく人の意見を聞くように忠告したが、ついに後継者を明言することは
なかった。その為両者はそれぞれが正統性を主張し、群臣たちも二派に別れる事になる。
山背大兄皇子は、聖徳太子と刀自古郎女(とじこのいらつめ)の間に生まれ、推古天皇の皇位を継承する最有力者と目されていた。しか
し、山背皇子を押す蘇我(境部)摩理勢が蘇我毛人大臣と対立して殺害されると(629年1月4日)、蘇我蝦夷・群臣達は一気に田村皇子
擁立に傾き田村皇子が即日、舒明天皇として即位するのである。だが彼は蘇我の血統からは離れた天皇であった為、影響力を行使しにく
いと考えた蘇我一族は、蘇我稲目の血を引く皇女・宝皇女を皇后に付ける。後の皇極天皇(斉明天皇)である。彼らの間には、二人の息
子(後の天智天皇,天武天皇)と一人の娘(後の孝徳天皇妃)が誕生した。
先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年)に死去した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子
と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。これには蝦夷が権勢を振るうための
傀儡にしようとした言う説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したと言う説がある。また近年
では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いであり豪族
達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。
ともあれ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。唐には使
者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、僧霊雲、僧旻、僧清安、高向玄理が帰国した。百済と新羅からの使節も訪れ
た。
『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。古い史料による確認は困難なものの、母である糠手姫皇女
(田村の御名は彼女から継承されたものである)が舒明よりも20年以上長く生きて天智天皇3年(664年)に死去している事や、子である
天智天皇らの年齢を考えると、ほぼ正確な年齢(もしくは数年の誤差)ではないかと見られている。
<舒明天皇押坂内陵(忍阪)>
外鎌山の西南麓の小尾根の先端に営まれた古墳で、二段築成の円形または八角形の墳丘の前面に、裾が拡がる三段に築いた方形段をもつ
といわれる。また、忍阪の集落内には、かつて舒明陵より出土したという室生安山岩製の加工磚を、家屋や石垣または近世の石仏の石材
として使用していることが調査されている。横穴式石室をもつ上円下方墳で、下方部三段、上円部は二段と記録されている。田村皇女
(母)との合葬とも考えられている。
日本書紀によれば、舒明天皇の在位中に初めて遣唐使が派遣されたり(630年2月、犬上御田鍬を唐に派遣)、学問僧が帰国したりして
(640年10月、留学生高向玄理、南淵請安帰国)、聖徳太子が進めた仏教文化移入が大い拡大した時代である。生前、聖徳太子は山背大
兄ではなく田村皇子に、「熊凝(くまごり)村の道場を授けるので、立派な寺にするように。」と遺言したという記事が、奈良の大安寺
の資財帳に残っているそうである。日本書紀にも、舒明記に「639年百済川のほとりに百済宮を作り、九重の塔を建てた。」という記 事
や、「641年百済宮で崩御し、宮の北に殯宮(もがりのみや)を設けた。これを百済の大殯(おおもがり)という。」等の記述が見え る。
舒明天皇は、641年に百済宮で崩御し、滑谷間岡(なめはさまおか)に葬られたが、643年に大和朝倉の忍阪(おしざか)の押坂陵に改葬
された。なお、舒明天皇陵と並んで、鏡女王の墓、その上方に大伴皇女の墓がある。いずれも実態は明らかでないが、円墳と思われる。
舒明天皇の崩御後、山背大兄皇子に人望が集まると蘇我入鹿はこれを排除しようとする。幾度か攻撃を加え、皇子は一度は攻め手を退け
たものの、結局、皇極2年11月、家族と斑鳩の地で自害する。この時入鹿の父蝦夷は、息子の挙行を知って大いに心配したという。
すでに乙巳の変(大化改新)の来ることが予感出来ていたのかもしれない。
【鏡王女】(かかみおうじょ) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆
鏡王女(かがみのおおきみ、生年不詳 - 天武天皇12年7月5日(683年8月2日))は代表的な万葉歌人。興福寺縁起には鎌足の嫡室(正式
な夫人)とある。はじめ天智天皇の妃であったが後に藤原鎌足の正室となった。欽明天皇陵と大伴皇女墓と接しているが宮内庁管理の古墳
ではない。作家の川端康成や井上靖もこのあたりのたたずまいを楽しんだそうである。今日は我が倶楽部の井上靖さんも参加している。
『万葉集』では「鏡王女」・『日本書紀』では、「鏡姫王」と記されている。鏡女王とも呼ばれる。藤原不比等の生母とする説が有力で
ある。鏡王女の素性は額田王以上に謎に包まれており、額田王の姉という説があるが、『日本書紀』には二人が姉妹だという記述はなく、
確証はない。そのため、近年では二人の姉妹説を積極的に支持する研究者は見られなくなってきているようだ。しかし、額田王の父・鏡
王との血縁関係はなかったとしても、同じ「鏡」という名が付いている事から、同じく、鏡を作る氏族に養育された可能性はある。また、
鏡王女には舒明天皇の皇女だという説もある。最初、天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となる。鎌足の病気平癒を祈り、天智
天皇8年(669年)に山階寺(後の興福寺)を建立した。
『日本書紀』の天武天皇12年(683)7月の項に、己丑(4日)、天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊ひたまふ。庚寅(五日)に、鏡姫王薨
せぬ(「秋七月 丙戌朔己丑 天皇幸鏡?王之家 訊病 庚寅 鏡?王薨」)とあり、天武天皇が見舞いに来たが、その翌日の天武天皇12年7月
5日に亡くなった事がわかる。『万葉集』には四首の歌が収録されている。天智天皇・額田王・藤原鎌足との、歌の問答が残されている。
神奈備の石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる (「神奈備乃 伊波瀬乃社之 喚子鳥 痛莫鳴 吾戀益」)は、神奈備の石瀬の社
の呼子鳥よ、そんなに激しく鳴かないでおくれ。私の恋しい思いが募るばかりだから という意味である。この歌は、鏡王女が鎌足の死
後、彼を思って作った歌だという説がある。現在墓所に比定されているのは奈良県桜井市にある小墳丘で、舒明天皇陵の近所にあり、現
在は談山神社の管理となっている。
【大伴皇女の墓】(おおとものひめみこ)
欽明天皇と妃・蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ。蘇我稲目宿禰の女))の間に生まれた七男六女の第九子。
兄弟姉妹(1.大兄皇子(のちの用明天皇)、2.磐隈(いわくま)皇女、 3.アトリ皇子、4.豊御食炊屋姫 (後の推古天皇)、5.椀子(ま
ろこ)皇子、6.大宅(おおやけ)皇女、7.石上部皇子、8.山背皇子、9.大伴皇女、10.桜井皇子、11.肩野皇女、12.橘本稚(たちばなの
もとのわか)皇子、13.舎人 (とねり)皇女)。
この人については、文献にもNET内にも殆ど情報がない。みるように、兄弟は用明天皇、推古天皇、山背皇子などである。エピソードの多
い兄弟達に埋もれて、静かに生きた万葉歌人なのだろうか。
上右側に見えているのが「天王山古墳」のようだが、今回はパスした。
「男坂傳稱地」碑
「粟原寺跡」へ登る集落の入り口にある。「男坂傳稱地」の碑が建っている。日本書紀の神武天皇即位前紀9月の条に「女(め)坂に女軍
(めノいくさ)を置き、男(お)坂に男軍(おノいくさ)を置く」と書かれた「男坂伝承地」である。なお、「女坂伝承地」は、もっと南
にあって、桜井市八井内と大宇陀町の境にある「大峠」に、やはり同じ様な「女坂傳稱地」の石碑が建っているが、登ったら「女坂」の方
が「男坂」よりもしんどいらしい。
秋色満点の里の秋を楽しむ皆さん。みんなでワイワイがやがやが楽しい。
井上靖さんが野イチゴでも見つけたかな。
【粟原寺跡】(おうばらでらあと) 国指定史跡 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆
粟原寺(おうばらでら)は、奈良県桜井市粟原にかつてあった寺。創立は7世紀末にさかのぼる。現在は廃寺となり建物などは残ってい
ないが、粟原集落南端の天満神社境内とその隣接地に、塔・金堂跡が残る。
大宇陀から女寄峠を越えて桜井に抜ける忍阪街道(現在の国道166号線)の中ほどの丘陵地に粟原の集落がある。集落の南の端に天満神
社があり、寺はその裏手に隣接した高台にあった。発掘調査が行われていないため、伽藍の規模や配置など詳しいことは不明である。
現在は塔跡に心礎や礎石などが確認できるほか、東側の一段低くなった場所にも礎石が並べられている。ただし東側の礎石は元からこの
場所にあったのではなく、塔跡の西側にある十三重石塔が建てられているあたりから運ばれたと見られている。石塔が建てられている場
所は通称「コンドー」と呼ばれていて礎石もいくつか確認でき、ここに金堂があったと考えられている。
談山神社が所蔵する『粟原寺三重塔伏鉢』(国宝)に刻まれた銘文によって、寺の由緒がはっきりとしている。この伏鉢は古代の金文な
重要な資料として国宝に指定されるとともに、寺跡も史跡に指定された。
銘文によると、仲臣朝臣大嶋が草壁皇子を忍び寺の設立を発願した。大嶋の死後、比賣朝臣額田によって甲牛年(持統天皇8年、694年)
に起工し金堂・丈六の釈迦像が造られ、22年後の和銅8年(715年)に三重塔が完成したと記されている。大嶋は文献でも名前が確認でき
る人物であるが、比賣朝臣額田に関してはいっさい不明であり、一部に万葉歌人の額田王ではないかとする説も出されている。
岡部伊都子や梅原猛らは、談山神社所蔵の「栗原寺三重塔伏鉢」(国宝)銘文に見える「比売朝臣額田」について、臣籍降下した額田王
の改名とする説を唱えている。史料がないので真相は不明だが、王族のはずの額田王が朝臣姓を賜っている点はやや不審である。もし、
この説が正しいとすると、額田王は当時藤原氏一族の有力者であった藤原大嶋と再婚し、80歳近くまで生きていたことになる。
「詩的確信」という説明板の文字が楽しい。情感溢れる説明である。
長野県清水寺の仏像(重文)や市内忍阪の石位寺の薬師三尊石仏(重文)などは、かつてこの粟原寺に存していたものと考えられている。
三重塔伏鉢(国宝・談山神社蔵)の銘文によると、仲臣朝臣大嶋が草壁皇子のために建立した寺で、比売朝臣額田が持続天皇8年(694)
から造営を始め、和銅8年(715)に完成したことがわかっている。
村のはずれの天神様で小休止。靖さんが堆肥を造るのに、落ち葉の下からなにやら雑菌を集めていた。
このあたりは昔多武峰村だったんだ。
桜井行きのバスを待つバス停から見た忍阪の光景。鄙びていいところですなぁ。
バスに乗って桜井へ。近鉄桜井駅から樫原神宮前駅構内のいつもの店へ。ここで反省会。皆さんお疲れ様でした。次回はいよいよ関東です。
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