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歴史倶楽部例会 第158回例会
大仏師・渡邊勢山さんの工房を訪ねる

仏さまと遊ぶ一日
2010.10.24(日)滋賀県大津市・長浜市




	158回例会 渡邊勢山さんの工房を訪ねる
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	日時 : 平成22年10月24日(日) 
	集合 : AM10:00 JR湖西線「近江舞子駅」集合		
	持参物: 今回お弁当は不要です。途中で食べます。雨具、その他。
	以下、勢山さんからのメール

	こんばんは	筑前さんの計画を基本に、細部詰めて見ました。以下、時間と流れ、内容です。
	 9:45   近江舞子着   バスにてお迎え
	10:00   勢山社着    下記資料
 	11:00   見学終了    バスに乗車 移動
 	12:00   己高庵到着   地元の世話人橋本氏を囲んで昼食。文化財を護る地域の活動や鶏足寺に関わる歴史等を
					住民の立場からお話して頂きます。
					※ 己高庵での食事は座敷での会席料理に成りました。一人二千円(飲み物別)です。
	13:30   鶏足寺大日堂・薬師堂見学  
					勢山社による仏像搬出作業を見学し、その後文化財収蔵庫の己高閣・世代閣を見学
 	16:00   雨森芳州記念館  見学  (時間によって変更あり)
 


	
	湖西線・近江舞子駅に集合して、勢山さんの運転するバスで工房「勢山社」へ。4年前は、まだ廻りが別荘地として開発中の
	所も多かったが、その時に比べて随分整地されていた。4年前、「国分寺友の会」のコマツさん、久保田さんご夫妻も工房を
	訪問され、我々夫婦もついでに見学させていただいたのだった。その時の様子を知見たい方は、以下をクリックして下さい。





	
	Wifeと、私の友人橋爪君も加わって、総勢12人での見学会。数年前から企画しながら、なかなかタイミングが会わずやっと本
	日実現した、勢山工房訪問の例会。さすがに今回は久々の大人数。皆さん、ご自身が「仏さま」になる日が近づいてきて、相
	当興味が湧いてきたもののようだ。ハハハ、冗談ですよ。皆様、いつまでもしつこく世に憚ってくださいね。

	
	工房へ入るなり、いきなり凄い大きさの仏様が目に入って来た。いままでこんな大きさの、しかも製作途中の仏様など見た事
	がないので驚いた。前回話には聞いていたが、寄木造りでこんなに大きなものも彫れるんだという実感が湧いた。
	この仏様は、岐阜県安祥院の「丈六阿弥陀如来像」で、佛の本様とされる一丈六尺の像である。ほぼ粗彫りが終了した段階で、
	これから仕上げへ入るもののようだ。綺麗になるのを待って、静かに鎮座されている。

	仏像の基本サイズとされる「丈六(じょうろく)」とは、立像の身の丈一丈(じょう)六尺(しゃくを言い、約4.8m。坐像は約
	半分の八尺(約2.4m)の大きさをもち「半丈六(はんじょうろく)仏像」と呼ばれる。




	阿弥陀如来	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、大乗仏教の如来の一つである。梵名は「アミターバ」{Amitaabha]、あるいは「アミター
	ユス」 [amitaayus]といい、それを「阿弥陀」と音写する。西方にある極楽という仏国土を持つ(極楽浄土)。阿弥陀仏・弥
	陀仏ともいう。
	また、梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢
	訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。無明の現世をあまねく照らす光
	の仏とされる。

	像形
	造形化された時は、装身具を着けない質素な服装の如来形で、定印・説法印・施無畏印・与願印を組み合わせた九品来迎印を
	結ぶ姿で表されることが多い。阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩(特に聖観音)・勢至菩薩を配する。
	密教においては、五仏(五智如来)の一如来として尊崇される。

	浄土三部経
	[観無量寿経]については、サンスクリット原典が2010年現在発見されていない。中央アジアで作成されたと考えられる。しか
	し、浄土教諸派では、その内容が仏陀の説く教え「仏教」であり、道教・儒教・バラモン教などの影響を強くうけた「偽経」
	と見做さない。

	『佛説無量寿経』 
	一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名告リ修行をし、、衆生救済のための五劫思惟し、浄
	土への往生の手立てを見出し、衆生救済のための「四十八願」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏と
	なった報身仏と説かれる。また、現在も仏国土である「極楽」で説法をしていると説かれている。特に浄土教諸宗においては、
	「四十八願」のうち「第十八願」を重要視する。

	『佛説阿弥陀経』 
	「極楽」のありさまと、阿弥陀仏の徳が説かれる。東方・西方・南方・北方・下方・上方世界のガンジス河の砂の数ほどの諸
	仏から賞賛されていると説かれる。そして「極楽」に生まれる方法が説かれる。

	浄土真宗
	浄土真宗においては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。中心教義も阿弥陀如来の本願力にのみ帰依することとする。真宗におい
	ては、『観無量寿経』の「住立空中尊」という表現から、立像であるべきとされる。
	末法濁世の衆生は、煩悩具足の凡夫であり、自らの力(自力)では、いかなる善も完遂しえないとする。そのため「他力」に
	よってのみ救済されるとする。
	釈尊が「浄土三部経」によって説かれたことに由来し、善導は『観無量寿経疏』にて、法然は『選択本願念仏集』(『選択集』)
	にて注釈し、それらを受けた親鸞が『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)において引用・注釈する。この事は『歎異抄』
	の第二章に、端的に述べられている。

	チベット仏教
	チベット仏教では、無量寿仏と無量光仏は区別されている。日本の阿弥陀如来は、後者に近い。また、ゲルク派第二位のパン
	チェン・ラマは無量光仏の化身とされる。チベット死者の書によれば、(大日如来、阿?如来、宝生如来に続いて)死後の4
	日目に魂の救済に現れるとされる。

	ゾロアスター教との関係
	大乗仏教で登場した仏尊であり、その起源はゾロアスター教などのイラン系の信仰に由来するという説もある。それによると、
	光明の最高神アフラ・マズダーが無量光如来、無限時間の神ズルワーンが無量寿如来の原型とされる。 
	西方極楽浄土は、ゾロアスター教の起源であるイラン地方、もしくは肥沃で繁栄した古代バビロニア地方が背景になっている
	とする説もある。 

	キリスト教との関係
	西暦1世紀後半にはすでにインドに入っていたキリストの使徒トマスにより、東方キリスト教の影響を受けたとの説もある。 

	日本語への影響
	鎌倉時代以降、日本では浄土教の隆盛を受けて、阿弥陀如来に関連した単語や言い回しが登場するようになる。

	十八番(おはこ) 
	前述のとおり、浄土教において四十八願のうち第十八願を本願として重要視することから、もっとも得意なことを指す。(市
	川家の家の芸歌舞伎十八番の台本を箱入りで保存したことからともいう。) 

	あみだくじ 
	現代のものは平行線だがかつては放射線状であり、阿弥陀如来像の光背に似ていることから。 

	あみだ被り 
	帽子やヘルメットを後頭部にひっかけるように浅く被ること。上記と同じく見た目が光背に似ていることから。 

	他力本願 
	前述のとおり努力しないことや無責任であることを表現するのに使われるが、本来の意味を誤解・誤用した語である。 



勢山さんが、仏像製作のよもやま話を講習。皆さん、真剣に耳を傾けている。







ふむふむ、なるほど、へぇー、そうなんや。初めて聞く話に、皆さん実に神妙です。









	
	「大きな木を寄せてこれだけのものを作るのです。」という話に、みんな信じがたいような顔つき。「今はまだ縦に合わせた
	部分が見えますが、完成時には継ぎ目は全く判らなくなります。」という勢山さんの言葉に、その時を見たい気持ちになって
	くる。「張り合わせるには、何を使うんですか?」という誰かの質問に、「皆さんがよく知ってらっしゃるもので言えば、ボ
	ンドですね。」という勢山さんの言葉に、一同「へぇー、ボンドかー。」と意外な様子。
	勢山さんによれば、ボンドが一番樹木の細胞に染み渡って接着力が強いのだそうだ。昔は勿論ボンドなどは無いので、膠や漆
	あたりを使っていたもののようだが、「今では殆どボンドですね。」
	完成したときの木目の方向などを考えて接合するので、どの木をどう貼り合わせるかにも相当気をつかうそうである。さもあ
	りなん。



	
	上の小さな仏像は、この大きな仏様を造るための、言わば「立体設計図」である。この仏像も、小さな部分から出来ていて、
	その部分を拡大して大きなパーツを造り、そのパーツを組み合わせて更に大きな仏様を作る。
	右側にさらに小さい仏像がある。大きいものはこうやって、何段階にも分けて設計図を造りながら大きくしていくのだ、完成
	までに何年もかかるはずである。下は、足の部分をハズしたところ。内部も細かくパーツに分かれている。

	「立体設計図」の横にある大きなL字型のものは、実物(完成時)の仏様の腕である。





	
	「完成時にどうなるかやってみましょう。」という勢山さんの言葉で、お弟子さんがクレーンを操作する。全然音もせずクレ
	ーンが動き出して、仏様の首を持ち上げ胴体へ。





首を差し込んでしまうと後の作業がややこしいし、まだ金具も入っているので、とりあえず今日の所はここまで。





首もこんなに長く作って差し込むんだねぇ。ちゃんと完成した時も見たいなぁ。


	「仏様をどこに置くのかも考えて彫らねばなりません。上の方に置くのであれば、下から拝んだ時に手でお顔が見えなくなら
	ないように少し下に向けるとか。」「なるほどねぇ。」



	以下で解体されているのは、今日この後訪問する滋賀県長浜市木之本の鶏足寺にあった「半丈六大日如来像」である。修理中
	の仏様だ。平安期と目される割剥ぎ作りの像である。一木作りから寄せ木作りに移行する頃の貴重な資料だという。勢山さん
	は、これから3年掛けて鶏足寺の八尊像の修理を行う事になっており、第一陣の大日如来像が工房で解体されているのだ。
	午後から、この像が納まっていた鶏足寺大日堂に行き、第二陣の広目天・増長天の搬出作業が行なわれる。我々はそれも見学
	させて貰えるらしい。坐像は立像の半分の大きさをもつ半丈六像である。



	
	大日如来		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	大日如来(だいにちにょらい)、梵名 マハー・ヴァイローチャナ [mahaavairocana])は、密教において宇宙そのものと一体
	と考えられる汎神論的な如来(法身仏)の一尊。その光明が遍く照らすところから遍照、または大日という。

	大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)の教主であり、大日経の説く胎蔵曼荼羅中台八葉院九尊の主である。また金剛頂経の説
	く金剛界曼荼羅五智如来の中心。空海の開いた真言宗において、究極的には修行者自身と一体化すべきものとして最も重要な
	仏陀である。不動明王は、密教の根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであると見
	なされている。
	後期密教を大幅に取り入れたチベット仏教でも、大日如来は金剛界五仏(五智如来)の中心として尊崇される。チベット仏教
	では、宝飾品を身に纏わずに通常の如来の姿で表現されたり、あるいは多面仏として描かれることもある。
	像形は、宝冠をはじめ瓔珞などの豪華な装身具を身に着けた、菩薩のような姿の坐像として表現される。これは古代インドの
	王族の姿を模したものである。一般に如来は装身具を一切身に着けない薄衣の姿で表現されるが、大日如来は宇宙そのもの存
	在を装身具の如く身にまとった者として、特に王者の姿で表されるのである。印相は、金剛界大日如来は智拳印を、胎蔵界大
	日如来は法界定印を結ぶ。

	大日如来をインド神話のアスラ神族の王ヴィローチャナに求める学説がある。この名が華厳経の教主の毘盧遮那仏(ヴァイロ
	ーチャナ)と類似することから、毘盧遮那仏から発展した大日如来とも同一視するというものである。この説は、チャーンド
	ギヤ・ウパニシャッドの説話を根拠としているようだ。 また、インドの叙事詩『マハーバーラタ』においては、ヴィローチ
	ャナとは単に太陽神のことを指す場合があり、この時代になると特定のアスラ王の固有名詞意外の意味を持つようになってい
	た。マハーバーラタの太陽神ヴィローチャナと、アスラ王のヴィローチャナは基本的には別固体である。

	アフラ・マズダーとの関連性
	この説はデーヴァ=ダエーワと対立するアスラ=アフラ対立構造を根拠としている。また時に、アスラ王の一人であるヴィロ
	ーチャナ(ヴァイローチャナ)と関連付けることもある。その他では、智の属性、火を信奉することを根拠としている。ただ、
	古典的な説では、アフラ・マズダーの原型は、アスラの祖ともいえるヴァルナといわれる(属性的な繋がりは希薄であるが)、
	ゾロアスター教と密教の教義そのものは大きな隔たりがある。



「この汚れたものが全部綺麗になるんですか?」「なりますよ。」



	
	「壊れた部分は木を継ぎ足したり、痛みのひどいものはそっくり新しいパ−ツに代える事もあります。」「寄木造りだからそ
	ういう事が出きるんやねぇ。」「そういう事ですね。」「しかし、仏様もたくさんのパーツで出来てるんやねぇ。」



以下は仏様本体以外の、台座や光背の部分。相当な数のパーツに分かれているのが判る。









ずらりと並んだパーツを見ると、「昔の仏師は凄いなぁ」と思ってしまう。よくぞまぁ、これだけ組み合わせて造れるもんだと感心する。





これはどこかのパーツに書いてあった「書き付け」である。何と書いてあるのかよく判らん。勢山さんの解説を聞き漏らした。





光背(上左)と、台座に埋め込む蓮の花(上右)。「この一つが蓮の花びらの一枚なんやねぇ。」「デカイなぁ。」



杉本さんが何か質問している。何を聞いてるのかしらん。



次に勢山さんが、檜の使える部分について解説。この大きさになるまで百年くらいかかるようだ。






	屋内に積んである材木は、数年(7,8年)を経てやっと材料として加工できる段階になったもの。勢山さんは、まだ木曽の
	山奥に生えているときに檜を見に行って買い付け、その木が伐採されて木曽川を下り(今はトラックかな?)、名古屋港に数
	年浮かべて油を抜かれ、製材されて工房へ運ばれてくる。この建物の裏にまた数年寝かせて今度は水分を抜き、それからやっ
	と屋内に並べられるのである。それは即材料として使用できる段階になっているが、それまで7,8年かかるのである。

	「材料の在庫だけでも、ン千万らしいですよ。」と私が言うと、「え−、ほな廃業するときはその木はどうなるん?」と河内
	さん。「さー、弟子に引き取らせますかねぇ。」





	
	2階へ上がって修理中の仏様たちを見学する。修理が終わって、もう完成間近のものも数体あった。

	東京八王子「観栖寺」の「千手観音像・毘沙門天像・地蔵菩薩像」の三尊が仕上げの真っ最中であった。「観栖寺」は、童謡
	「夕焼けこやけ」の舞台となった、八王子郊外の曹洞宗寺院である。
 
	ほかに栃木県「寶樹院太山寺」の「薬師如来・日光、月光像」の三尊佛。このお寺は、833年慈覚大師円仁により開山され
	た後、1584年皆川・北条の戦いにより伽藍は焼失。1652年徳川家光の側室四代将軍の御生母「お楽の方」(寶樹院殿)
	により再建された。
	薬師如来立像の修理に伴い、新たに脇侍の日光・月光菩薩の彫像が決まり、現在、薬師如来像の修理は完成し、脇侍が荒彫り
	の状態であった。

	さぁ、どれがどれでしょう。



	
	千手観音		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	千手観音(せんじゅかんのん)、梵名サハスラブジャ・アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラ
	 [sahasrabhuja arya avalokitezvara])は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。

	「サハスラブジャ」とは文字通り「千の手」の意味である。この名はヒンドゥー教のヴィシュヌ神やシヴァ神、女神ドゥルガー
	といった神々の異名でもあり、インドでヒンドゥー教の影響を受けて成立した観音菩薩の変化身(へんげしん)と考えられてい
	る。六観音の一尊でもある。
	三昧耶形は開蓮華(満開のハスの花。聖観音の初割蓮華と対をなす)、蓮華上宝珠。種子(種字)はキリーク(hriiH)。
	眷属として二十八部衆を従える。

	名称と「千手」のいわれ
	日本語では「十一面千手観音」、「千手千眼(せんげん)観音」「十一面千手千眼観音」、「千手千臂(せんぴ)観音)」など
	さまざまな呼び方がある。「千手千眼」の名は、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされることから来ている。千本の手は、
	どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。観音菩薩が千の手を得た謂われとして、
	伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』がある。この経の中に置かれた大悲心陀羅尼は現在でも中国や
	日本の天台宗、禅宗寺院で読誦されている。六観音の一尊としては、六道のうち餓鬼道を摂化するという。また地獄の苦悩を済
	度するともいい、一切衆生を済度するに、無礙の大用あることを表して諸願成就・産生平穏を司るという。

	千手観音の尊名は、前述の通りさまざまな呼び方がある。千手観音像の中には十一面ではなく二十七面につくる像もあり、必ず
	しも「十一面千手千眼観音」が正しいとは言いきれない。日本の文化財保護法による国宝、重要文化財の指定名称は「千手観音」
	に統一されている。

	密教の曼荼羅では観音像は「蓮華部」に分類されている。千手観音を「蓮華王」とも称するのは観音の王であるとの意味で、蓮
	華王院(京都の三十三間堂の正式名称)の名はこれに由来する。

	像容
	坐像、立像ともにあり、実際に千本の手を表現した作例もあるが、十一面四十二臂とするものが一般的である(和歌山・道成寺
	本尊像は例外で、四十四臂に表わす)。四十二臂の意味については、胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25
	の世界を救うものであり、「25×40=1,000」であると説明されている。ここで言う「25の世界」とは、仏教で言う「三界二十
	五有(う)」のことで、天上界から地獄まで25の世界があるという考えである(欲界に十四有、色界に七有、無色界に四有があ
	るとされる)。俗に言う「有頂天」とは二十五の有の頂点にある天上界のことを指す。

	日本における信仰と造像例
	千手観音の造像例は、インドにはほとんど知られないが、中国では唐代の龍門石窟などに遺例がある。日本での千手観音信仰の
	開始は古く、空海が正純密教を伝える以前、奈良時代から造像が行われていた。東大寺には天平年間に千手堂が建てられたこと
	が知られ、同寺の今はない講堂にも千手観音像が安置されていた。日本における現存作例では、8世紀半ばの制作とされる葛井
	寺像が最古とされ、唐招提寺像も8世紀末〜9世紀初頭の作品である。和歌山・道成寺の秘仏北向本尊像の胎内からは大破した千
	手観音像が発見されているが、これは道成寺草創期の本尊と思われ、奈良時代に遡るものである。

	その他、千手観音をまつる著名寺院としては、清水寺、三十三間堂、西国札所の粉河寺などがある。京都・清水寺本尊(立像)
	は、33年に一度開扉の秘仏で、42本の手のうちの2本を頭上に挙げて組み合わせる独特の形をもち、「清水型」といわれている。
	同じ清水寺の奥之院本尊の秘仏千手観音像は珍しく27面をもつ坐像である。

	千手観音の持物
	千手観音の持物(じもつ)については、『千手千眼陀羅尼経』(詳しくは『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』)
	などの経典に説かれており、実際の彫像、画像などもおおむね経典にしたがって造形されている。




	毘沙門天		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	インド神話の財宝神クベーラを前身とする。 ヴァイシュラヴァナという称号は本来「ヴィシュラヴァス (vizravas) 神の息子」
	という意味で、彼の父親の名に由来するが、「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるため、多聞天(たもんてん)とも訳
	される。日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶの
	が通例である。

	その姿には様々な表現があるが(後述)、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。持物は宝塔が
	一般的。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。 例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、
	左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。ただし、東大寺戒壇堂の四天王像では右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像
	されている(奈良當麻寺でも同様に右手で宝塔を捧げ持っている)。
	インドにおいては財宝神とされ、戦闘的イメージは殆ど無かった。この頃の性格についてはクベーラの項を参照の事。中央アジ
	アを経て中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになった。そして帝釈天
	の配下として、仏の住む世界を支える須弥山の北方、水精?の天敬城に住み、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされ
	た4つの大陸のうち北倶盧洲(ほっくるしゅう)を守護するとされる。また、夜叉や羅刹といった鬼神を配下とする。
	また、密教においては十二天の一尊で北方を守護するとされる。また日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、特に勝負事に
	利益ありとして崇められる。

	毘沙門天の姿にははっきりした規定は無く、様々な表現がある。前述のとおり日本では武将風の姿で表され、宝塔を持つ姿が一
	般的。ほかに三叉戟を持つ造形例もあり、例えば京都・三室戸寺像などは宝塔を持たず片手を腰に当て片手に三叉戟を持つ姿で
	ある。
	また、中国の民間信仰に於いては緑色の顔で右手に傘、左手に銀のネズミを持った姿で表される。チベット仏教では金銀宝石を
	吐くマングースを持つ姿で表され、インドでの財宝神としての性格を残している。
	独尊、また中心尊としても多くの造形例がある。安置形態としては、毘沙門天を中尊とし、吉祥天(毘沙門天の妃または妹とさ
	れる)と善膩師童子(ぜんにしどうじ。毘沙門天の息子の一人とされる)を脇侍とする三尊形式の像(京都・鞍馬寺、高知・雪
	蹊寺など)、毘沙門天と吉祥天を一対で安置するもの(奈良・法隆寺金堂像など)、毘沙門天と不動明王を一対として安置する
	もの(高野山金剛峯寺像など)がある。
	また、天台宗系の寺院では、千手観音を中尊として両脇に毘沙門天・不動明王を安置することも多い(滋賀・明王院像、京都・
	峰定寺像など)。なお真言宗系寺院でもこの傾向はある。
	四天王の1体として北方(須弥壇上では向かって右奥)を護る多聞天像の作例も数多い。その姿は独尊の毘沙門天像と特に変わ
	るところはないが、左右いずれかの手に宝塔を捧げ持つ像が多い。 国宝指定品としては東大寺戒壇堂、京都・浄瑠璃寺、奈良
	・興福寺などの四天王像中の多聞天像がある。




	薬師如来		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	薬師如来 (やくしにょらい)、梵名バイシャジヤ・グル [bhaiSajya-guru])は、大乗仏教における如来の一尊。薬師瑠璃光如
	来(やくしるりこうにょらい)、または大医王仏とも称する。

	薬師如来が説かれている代表的な経典は、永徽元年(650年)の玄奘訳「薬師瑠璃光如来本願功徳経(薬師経)」と、景竜元年
	(707年)の義浄訳の「薬師瑠璃光七佛本願功徳経(七仏薬師経)」であるが、そのほかに建武〜永昌年間(317〜322年)の帛
	尸梨密多羅訳、大明元年(457年)の慧簡訳、大業11年(615年)の達磨笈多訳が知られている。

	薬師本願功徳経では、薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主で、菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒し
	て寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったと説
	かれる。瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされている。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏として、如来には珍しく現世利益
	信仰を集める。

	密教との関係
	密教経典としては「薬師瑠璃光如来消災除難念誦儀軌」「薬師七仏供養儀軌如意王経」等がある。薬師経に説かれていることか
	ら、真言宗(東密)では顕教系の如来とされ、本来あまり重視されない。ただし、「覚禅抄(東密)」において胎蔵大日如来と
	同体と説かれている。雑密系の別尊曼荼羅では中尊となる事も多いが、純密の両界曼荼羅にはみられない。
	一方で伝統的に天皇家と結びつきが強かった天台宗(台密)では、薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主であることから、東の国の
	王たる天皇と結び付けられもした。「阿裟縛抄(台密)」で釈迦如来・大日如来と一体とされているが、顕教での妙法蓮華経に
	説かれる久遠実成の釈迦如来=密教の大日如来との解釈と、釈迦如来の衆生救済の姿という二つの見方による。

	東方の如来という事から五智如来の阿?如来とも同一視される。
	チベット仏教(蔵密)でもよく信仰されており、しばしばチベット僧により日本でも灌頂(かんちょう)が執り行われる。

	像容
	像容は、立像・坐像ともにあり、印相は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やっこ)を持つのが通例
	である。ただし、日本での造像例を見ると、奈良・薬師寺金堂像、奈良・唐招提寺金堂像のように、古代の像では薬壷を持たな
	いものも多い。これは、不空訳「薬師如来念誦儀軌」の伝来以降に薬壷を持つ像が造られるようになったと考えられている。
	単独像として祀られる場合と、日光菩薩・月光菩薩を脇侍とした薬師三尊像として安置される場合がある。また、眷属として十
	二神将像をともに安置することが多い。薬師如来の光背には、七体または六体、もしくは七体の同じ大きさの像容がある。
	これは七仏薬師といって薬師如来とその化身仏とされる。薬師如来の縁日は毎月8日である。これは、薬師如来の徳を講讃する
	「薬師講」に由来すると考えられている。国分寺のほとんどは、現在は薬師如来を本尊としている。



	日光菩薩・月光菩薩
	日光菩薩・月光菩薩は、『薬師経(薬師本願経)』に、薬師如来の浄土である東方瑠璃光世界の主要な菩薩であるとして言及さ
	れるが、薬師如来の脇侍として造像される以外に、日光菩薩・月光菩薩単独での信仰や造像はないと言ってよい。
	図像的には、日光・月光菩薩がそれぞれ日輪・月輪を持つ例が多いが、奈良・薬師寺金堂像のように、古い作例では持物のない
	場合もある。なお、日光・月光菩薩が薬師如来以外の像の脇侍になっている場合もある。和歌山・道成寺の本尊千手観音像の脇
	侍が日光・月光菩薩と呼ばれているのはその例である。

	薬師三尊
	薬師三尊(やくしさんぞん) は、仏教における仏像安置形式の一つである。薬師如来を中尊とし、日光菩薩を左脇侍、月光菩
	薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。(この場合の「左」「右」は中尊から見た「左」「右」を指す。)
	月光菩薩は月の様な清涼をもって衆生の生死煩悩の焦熱から離れるという意味がある。奈良・薬師寺の金堂本尊像は、日本にお
	ける薬師三尊像の古例であるとともに、最高傑作の一つである。薬師寺像のように、中尊を坐像、脇侍を立像とするのが一般的
	だが、法隆寺大講堂像のように、中尊、脇侍ともに坐像とする場合もある。





	
	1階へ降りて作業場へ入ったらMさんが千手観音さまの仕上げをしていた。彼は昔、私と同じ会社にいたサラリーマンである。
	脱サラをして仏師の路に飛び込んだのだが、4年前に会ったときと顔つきが随分変わっていたので驚いた。前は、まだサラリ
	ーマンの毒気が抜けていない俗人の顔つきだったが、すっかり邪気が取れて、まるで棟方志功のような顔立ちになっている。



Mさんが、千手のパーツをはめ込んで、完成時の姿を見せてくれる。これはどこの仏様か聞くのを忘れた。



下の部分はもう完成しているので、汚れないようにビニールで覆ってある。



小さい部分を削るカンナのまた小さい事。刃だけ買って、カンナそのものは自分たちで作ることも多いそうだ。



しかし綺麗に仕上がるもんだなぁ。全てのパーツがうまいこと組み合わさって。



これも、同様に小さな「立体設計図」から大きくしていく。勿論Mさん一人で製作したものではなく、数人でパーツを分担する。



小さな「設計図」も、本体と全く同じように作るのである。いらなくなった「設計図」でもいいから欲しいねぇ。







全く見事なもんだ。素人の私などは「よく彫れるねぇ」とただただ感心するばかり。



最後の磨きは、私はてっきり「やすり」を用いるのだろうと思っていたが、全部カンナで削って磨くのだそうだ。驚いた。



Mさんももう一人前の仏師さんの顔になってるね。ガンバレ、ガンバレ、光背(いや、後輩か)。









入口の「陶器曼荼羅」も健在だった。勢山さんの自宅にも同じものがある。



見学中、写真を撮ってもらったり、色々とお世話を頂いた女性仏師の方。お名前は聞き忘れたが、大変お世話になりました。




	
	勢山さん、お忙しいところ一日ご案内頂いてありがとうございました。弟子のMさんの顔つきが変わっているのにはホントに驚き
	ました。「環境は顔を変える」といい、同じ兄弟でも日本へ帰ってきた人と、中国に取り残された人とでは、「中国孤児ご対面」
	の画像を見ると大きく異なっているのがわかります。Mさんも、おそらくは仏様達に囲まれて、いい人格へ変わっているのではな
	いでしょうか。歴史倶楽部の面々も、これを機に深い深い仏の慈悲を体得して貰いたいものですが、ハハハ。無理か。
	お忙しいでしょうが、また時間が許せば是非例会へも顔を出して下さい。ほんとにありがとうございました。     かしこ。



完成した「丈六佛」と、修理が終了した「湖北鶏足寺の二天部像」です。 2011.12.31



		筑前さん、

		佛像は以前見て頂いた、丈六佛です。これから漆を塗って金箔を押し、3月末に納入です。大幅に遅れてしまいました。
		(渡辺勢山 2012.1.12)





琵琶湖雪景色 投稿者:せいざん 投稿日:2012年 1月13日(金)02時05分46秒






		丈六佛 まもなく木地完成 	名前:せいざん    日付:1月17日(火) 9時12分 
   
		平成21年の10月に鑿入れ式を行った、丈六阿弥陀如来像の木地完成が近づいています。
		次の漆塗りの工程が待っているので、現在工房は大忙しです。
		たっぷり時間があるようでも、ひと削りずつの作業と変化に対して、変化で対応する彫刻の作業はとても時間がかかります。
		その変化が醍醐味・・・ともいえるので、仕方ないですね。 



三月は筑前さん達に以前見て戴いた丈六の阿弥陀如来像が完成しまして、その納入と開眼法要がありました。2012.04.07









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