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椿井大塚山古墳 2010.3.28 歴史倶楽部 第152回例会








	椿井大塚山古墳	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)は、京都府木津川市山城町に所在する古墳。築造期は3世紀末で、山城地方最大の前方後
	円墳である。破壊が進んでいて、本来の規模については未だよく分かっていない。後円部はJR奈良線によって分断されている。

	墳丘は全長約175メートル、後円部は直径約110メートル・高さ20メートルで丘陵を断ち切る形で作られた関係上形が少し歪になっており、 
	前方部は長さ約80メートル・高さ約10メートルと推定されている。前方部が撥(ばち)形に開き、濠が認められていない。水をたたえて
	いない古墳は畿内では稀である。古墳は山塊のなかに造営され、盛土も部分的におこなっている。墳丘の大部分は自然地形の高まり、つ
	まり、自然の山を利用しているので、一見、丘陵の一部のようである。このような造り方は、最古級の古墳に多いという。

	<埋葬施設>
	埋葬施設は、定型化した南北長6.9メートル、幅1メートル、高さ3メートルの竪穴式石室に板石・割石を積んで壁を立ち上げ、天井
	も板石を置き粘土で厚く覆っている。床には板石・礫・砂を敷き、その上に粘土を施し、長大なコウヤマキの割竹形木棺を安置している。
	石室内には朱が塗られ、粘土床には10キログラムを超える水銀朱がまかれていた。

	古墳時代初期の前方後円墳(出現期古墳)である。小林行雄は、三角縁神獣鏡を分類して7つの型式に大別した場合、この古墳の出土品
	では最古型式から4番目までの新しい鏡が含まれていたので、3世紀末の造営とした。しかし、近年では、この椿井大塚山古墳より若干さ
	かのぼり、3世紀中葉すぎに定型化した前方後円墳の出現がなされたとする見方が有力となっている。

	<副葬品>
	三角縁獣文帯四神四獣鏡複製(椿井大塚山古墳出土)1953年(昭和28)、国鉄奈良線の拡幅工事の際に竪穴式石室が偶然発見され、当時
	最多の三角縁神獣鏡32面が出土した。内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡と武具が出土した。36面以
	上というのは他の鏡の破片数点が出ているのと盗掘で行方不明になったものがあった可能性が出てきたためであった。多数の銅鏡を棺の
	中に入れる習俗が古墳時代前期には西日本や中部地方で急速に拡がった。それらの鏡が、短期間にほぼ同一場所・地域で製作されたと推
	定されている。また、日本最古の刀子も出土している。
	武器・武具では、鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領が、工具・農具では、鉄鎌3本、
	鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が、漁具では、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本が出
	土している。このほか、鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品がでている。

	<被葬者>
	当古墳は、淀川を遡り木津川の右岸にある。縄文時代からの漁具である銛、ヤス、釣針が揃っている。南西に船戸という地名がある。
	以上のことから当古墳の被葬者は船舶の管理者であり、津(港)の管掌者ではなかったかと推測されている。








	太平洋戦争が終結して8年が経た昭和28(1953)3月、木津川市(当時は高麗村)の椿井で鉄道の改良工事が行なわれていた。当時
	の国鉄奈良線(現在のJR奈良線)は、ちょうど椿井大塚山古墳を横断する個所で、雨の後などによく土砂崩れがおこり、鉄路を埋め
	る事故が起きていた。この工事は、鉄道斜面の傾斜を緩くして土砂崩れを防止するためのもので、古墳後円部を大きく削っていた。

	この時、古墳の石室が発見され、後に「卑弥呼の鏡」として注目を集めた三角縁神獣鏡が大量に出土したのである。
	連絡を受けた京都大学考古学教室から、樋口隆康氏ら若手の研究者が駆けつけ古墳の調査を行った。このとき梅原末治教授は岡山へ発
	掘調査に出張中だったが、このことが後に大きな問題へと発展していく。




	京都大学考古学研究室による現地の確認が行われた時、すでに二つあった埋葬施設のうち一方は完全に破壊され、また一方も乱掘に近
	い状態で大量の副葬品が取り出された後だった。即刻、工事は中止され、翌日より調査が開始された。調査では、すでに取り出され、
	また、散逸していた副葬品の追及や、出土状況の聴取が行われ、さらに、埋葬施設や墳丘の測量調査も実施された。この調査は、椿井
	大塚山古墳での始めての本格的な考古学調査であり、第一次調査として位置付けられる。破壊を免れた理葬施設は、高野槙の幹を半裁
	して作られた割竹形木棺と呼ぶ円筒形の棺を入れた竪穴式石室で、主軸をほぼ南北にとり、長さ6.9m、幅1.1m前後、高さ約3m
	の規模をもつ。
	調査前にすでに破壊されていたもう一つの埋葬施設からは、40面近い中国鏡や、武器、武具、農工具、漁労具など貴重な副葬品が出
	土した。また、このとき行われた墳丘の測量調査の結果、始めてこの古墳が前方後円墳であることがわかった。




	京都大学考古学研究室のメンバーが椿井大塚山古墳に駆けつけたとき、工事の人達らによって埋葬施設は破壊され、副葬品も散逸して
	いた。三角縁神獣鏡などの銅鏡は砕かれた破片となっていた。比較的質の良い銅鏡数枚は持ち去られ、残った鏡はことごとく人夫によ
	って鶴嘴で砕かれ、バケツに入っていた。京都大学に持ち帰った破片をパズルのように組み合わせて行くと、どうしても組み合わせる
	ことの出来ない破片が何枚か出た。散逸していた副葬品の追及も行われ、数年後天王寺警察署から大阪市の古物商で椿井大塚山古墳出
	土の銅鏡が見つかった、との連絡が京都大学へ入り散逸した鏡の一部は返還された。しかしながら、当時の事情を知る人によると少な
	くともあと一枚以上の銅鏡が散逸していると証言している。




	<椿井大塚山古墳 規模 と構造>

	全長  : 175m		後円部径: 110m		前方部長: 80m		前方部幅: 76m		後円部高さ:20m
	前方部高さ:10m		後円部段築:4段	前方部段築:2段	主体部:竪穴式石室 長6.9m? 幅1.1m? 高3m
	副葬品:中国鏡30数枚	武具、農漁具など	築造時期:4c初め 




	<発掘調査報告書>

	昭和28年に行われた椿井大塚山古墳の発掘調査報告書は、京都大学に戻った樋口隆康氏が執筆し、昭和38年に書上げて梅原末治教
	授に提出した。梅原教授はこれに加筆し、自身の名前で京都府埋蔵文化財報告書の一冊として刊行しようとした。ところが、昭和28
	年3月、大塚山古墳の石室発見当時梅原教授が現地に不在であったことから、調査結果が無断で使用されたと、梅原氏を暗に批判する
	文章が雑誌に発表されるなどした結果、刊行は中止され、椿井大塚山古墳の貴重な発掘調査結果は長い間日の目を見ることがなかった。
	樋口隆康氏はこの事態に嫌気がさし、長く日本を離れシルクロードで遺跡の発掘調査にあたる。時は流れ、梅原末治教授が没し、樋口
	隆康氏が手もとに残したノートをもとに平成10年になって「昭和28年 椿井大塚山古墳発掘調査報告書」が山城町教育委員会から
	発行されることとなり、発掘調査報告書の問題は落着した。 


	「幻の報告書」34年ぶり発刊 樋口・京大名誉教授執筆  京都・椿井大塚山古墳(毎日新聞平成10年5月23日付け朝刊記事。)

	「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる三角縁神獣鏡が1953年に30数枚も出土し、国内で最も重要な古墳の一つである「椿井(つばい)大
	塚山古墳」(前方後円墳、京都府山城町)の発掘調査報告書が22日、同町から発刊された。この報告書は64年に一度、京都府が発
	刊したが、研究者間のトラブルから倉庫に眠ったままの「幻の報告書」になっていた。奈良・黒塚古墳で三角縁神獣鏡が大量出土し、
	椿井大塚山古墳が注目を集めているだけに、執筆した樋口隆康・京都大名誉教授(78)は、「長年の心残りが晴れた」と、ほっとし
	た表情を見せている。
	53年、国鉄(当時)奈良線の改良工事で鏡が出土、京都大学考古学研究室講師だった樋口さんらが発掘調査した。報告書は樋口さん
	が執筆、梅原末治教授(83年死去)が手を入れ、梅原末治著「椿井大塚山古墳 附元稲荷古墳」(京都府文化財調査報告第24冊)
	として発刊。しかし、梅原教授と確執があった当時の小林行雄講師(のち教授、89年死去)が「私の管理する文部省研究費が調査に
	使われたのに、それで得られた測量図が無断で使用された」と府教委に抗議。以来、一級資料にもかかわらず、引用はタブーとなって
	いた。B5判、92ページ。6300円で販売。問い合わせは真陽社	(075・351・6034)。	【山成 孝治】




	前方部と後円部との間にJR奈良線が通っている。前方部には何百年も前から人が住んでいて、現在は古墳の保護活動をしているそうだ。
	大塚山古墳の上などに住んでいる10世帯、30数人の人たち、椿井大塚山古墳周辺の「隣組」の人々は、「椿井大塚山古墳を守る会」
	を結成して、現地説明会への協力、見学者への説明、草刈り、掃除、ベンチの設置などボランティアで活動しているという。
















	昭和28年3月に石室が発見されるまで、この古墳は貴人の墳墓とみられていた。山城町所蔵の「仏法最初高麗大寺図」には、この古
	墳と考えられる場所に「太政大臣(藤原)百川公墳」と書かれた高い大きな塚が描かれている。この絵図は幕末に椿井政隆という地元
	の歴史家によって描かれ、椿井大塚山古墳は藤原百川の墓とされている。また、明治17年(1884)、「椿井村村誌」の陵墓の項には
	次のように書かれていた。

	「古墳 本村東北方字大塚山山中二アリ。封土(盛り上げた土)高五間(約9・1M)、周囲一町(99・17アール)許(ばかり)。
	墳上、松及ヒ雑木ヲ生ス。伝へ云フ、藤原百川ノ墓ナリト・・」

	明治38年(1905)に岩井武俊という人物が、はじめてこの古墳を学界に紹介したときも「円墳」としている。その後、前方後円墳で
	あることが判明した。




	大きさは学者によりまちまちで確定できていなかったが(165mから185m程度と推測された。)このほど175mと確定したよ
	うである。京都府下の前期古墳としては最大規模である。前方後円墳としても、丹後半島のいくつかと並び、大型古墳に属する。築造
	は4世紀初めとされるが、私はそうは思わない。少なくとも4世紀半ばか後半、もしかしたら5世紀はじめではないかと考えている。
	昭和28年に後円部の埋葬施設から大量の副葬品が取りだされたが、特に、当時としては鏡の多さが群を抜いており、総数38面の鏡
	を出土し、その中の33面は三角縁神獣鏡であった。




	このため一躍これが卑弥呼の鏡として脚光を浴び、その妄想にとりつかれた京都大学の小林行雄は、弥生時代であることがはっきりし
	ている卑弥呼の時代と、古墳時代の古墳から出土した三角縁神獣鏡を結びつけるため、世にも不思議な「伝世鏡」なる考え方を思いつ
	いた。
	卑弥呼が魏からもらってきた100面の鏡は、後生大事に家宝として「伝世」され、100年後の古墳時代になって、古墳の副葬品と
	して埋葬されたというものである。これは、今日、数年前に山の辺の道にある「黒塚古墳」から34面の三角縁神獣鏡が出土するまで、
	ほぼ半世紀にわたって「日本一の三角縁神獣鏡出土地」とされていたくらいなので、当時の興奮を考えると、ムベなるかなという気も
	するが、アマチュアの歴史マニアならいざしらず、学者としてはこういう説を唱えるべきではなかった。




	もちろん小林の、三角縁神獣鏡の同笵鏡(同じ鋳型からい鋳出された鏡)の研究で、古墳間の分有関係に注目した大和の勢力と地方首
	長の関係を考察した研究などは、今でも大いに慧眼に値すると思うが、「伝世鏡」」はよくなかった。
	こういう考えは、考古学者の寄って立つ支点そのものを危うくする。鏡以外、まったく弥生時代の土器や遺物は出土せず、古墳時代に
	使われていた、あるいは被葬者が身の回りに置いていたと思われるものばかりしか、古墳には副葬されていないのに、鏡のみを100
	年以上経って埋葬したというのである。誰が考えてもおかしな理論で、どうして誰も異を唱えなかったのかが不思議である。奈良時代
	の墳墓を暴いて、なかから木簡がでたとする。これを見て、「いや、これは古墳時代に広く使われていたのだが、奈良時代になってみ
	んな古墳に副葬しだしたのだ」とでも言おうものなら、考古学そのものが成り立たない。古墳に副葬されているものは古墳時代のもの
	なのだ。縄文時代や弥生時代のものは一切副葬されてはいない。(若干例外もある。)これは考古学の原点である。




	この古墳の被葬者は、大和勢力から三角縁神獣鏡を大量に下賜(かし)されるほど有力な豪族だった。おそらくはこの地域の首長で、
	大和の勢力がその覇権を拡大構築するにあたって、この地域で重要な役割を果たしたものと推測できる。
	南山城から木津川沿いにいけば、綴喜郡を経て京都の八幡市で淀川に合流する。この河川の流れの流域一帯を治めていた豪族が、初期
	大和王権とも結びついていたことはおおいに考えられることである。歴史時代になって、やがて息長氏として登場する氏族も、あるい
	はこの椿井大塚山古墳の被葬者の末裔かもしれない。ここから北へまっすぐに登って行けば山背(しろ)を経てやがて近江へいたる。
	息長氏は近江にも拠点を構えていたことがわかっている。







以下は、京都府立山城郷土資料館で見た椿井大塚山古墳関連資料。




















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	椿井大塚山古墳第4次発掘調査報告 
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	所在地 京都府相楽郡山城町大字椿井小字三階・大平 
	調査主体 山城町教育委員会 
	調査期間 平成8年1月8日〜3月15日 
	調査面積 160平方メートル 
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	1. はじめに 
	 椿井大塚山古墳は、全長180mをこす前方後円墳で、古墳時代前期の古墳としては全国でも有数の規模を持ちます。
	昭和28年(1953)、この古墳の後円部を南北に切断する現在のJR奈良線の法面改良工事が実施され、偶然に竪穴式石室
	が発見されました。石室内からは、40面近い中国鏡が出土し、しかも、そのうち三十数面もが「三角縁神獣鏡」だったの
	です。このことは、鏡の大量出土だけではなく、その鏡が邪馬台国の女王・卑弥呼の鏡と考えられるがゆえ、一躍、全国
	の注目を集めることとなりました。そして、椿井大塚山古墳は、古墳の出現と古墳時代の成立を考える上で、極めて重要
	な遺跡となったのです。
	 今回の発掘調査は、椿井大塚山古墳のよりよい活用と保全をめざし、今後4カ年計画で実施する同古墳の墳丘規模確認
	調査の第1年目にあたります。なお、この調査は、過去に実施された発掘調査から数えて第4次調査にあたり、「椿井大
	塚山古墳発掘調査委員会(会長 猪熊兼勝)の指導のもと、山城町教育委員会が国庫補助事業として実施しました。 
  
	2. 調査の概要 
	 椿井大塚山古墳は、木津川を望む東岸の尾根上に立地しており、自然地形としての尾根を利用して古墳の形を造る「丘
	尾切断型」古墳の典型とされています。今回の調査では、この尾根を切断した個所から古墳後円部の頂上付近にかけて合
	計3本のトレンチ(発掘溝)を設定し、その構造を探りました。
	 調査の結果、従来考えられていた墳端(古墳の端)よりもさらに外側で葺石の面を検出しており、今回の調査個所では
	合計3段の階段状の構造をもつことがわかったのです。しかも、その残り具合は良好で、築造当時の偉容を目の当たりに
	することができます。
	 葺石に使用されている石は、1段目では主に花崗岩(この付近での岩盤の石)の風化したものが用いられ、2弾目より
	上では花崗岩を割ったものや、近くの木津川で取れるような川原石などが使用されています。また、葺石の面の傾斜角度
	は、水平面に対して約 25°程度であり、傾斜面との間に幅約2.7mの平坦面(テラス)をもちます。そして、そこには小
	石が敷かれていたようです。
	 今回の発掘調査で出土した遺物には、二重口縁(口が二段に開く形)の壷や小型の壷があり、いずれも古墳時代初頭の
	様相をもつものであることから、この古墳の築造時期を考えるうえでの新たな資料を得ることができました。 
  
	3. まとめ 
	・椿井大塚山古墳の構築状況、たとえば、段築構造(階段状の構築構造)などがはじめて明らかになった。
	・椿井大塚山古墳の構築年代やその後の変遷を知るうえでの土器資料を、新たに得ることができた。
	 いずれにしろ、古墳時代初期の大型前方後円墳としての椿井大塚山古墳の全容解明に、確実な一歩を踏み出したことの
	意義は大きいものと考えます。
	 調査は、次年度以降も継続実施しますので、また、新たな発見が期待されます。椿井大塚山古墳をよりよく後生に伝え
	るため、皆様の御協力をお願いいたします。 
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