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歴史倶楽部・第174回例会



神戸・福原京跡を訪ねて 神戸市 2012.3.3



	第174回例会 平清盛が作った福原京と大輪田泊を訪ねる
	平家最後の都・福原京、神戸港の基礎・大輪田泊(兵庫津)の跡
	
	日 時 : 2012年3月3日(日曜)
	集 合 : JR東海道線「兵庫駅」南口(海側) 集合 AM10:00
	持 参 : 弁当・水筒・替え着・雨具・その他、防寒具
	行 程 : 
		兵庫駅> 柳原惣門跡> 柳原蛭子神社> 柳原天神社> 能福寺>	兵庫津の道> 真光寺> 御崎八幡神社> 
		薬仙寺> 清盛塚から	新川運河へ> 兵庫城跡> 神戸市営地下鉄「中央市場前駅」> 神戸> 神戸市立博物館
	概 要 : (各コーナーへ)

	地図は、各自印刷してご持参下さい。


	






	今回の例会はだいぶ予定と狂ってしまった。時間が余ると予想したので、和田岬にある勝海舟が設計したという「和田岬砲台跡」を
	見に行ったのだが、現在改修中だそうで三菱重工業(株)の中へは入れなかった。「平成25年に砲台の改修が終了するのでまた来て
	ください。」という三菱の守衛さんに、「それまで生きてへんわい!」と捨て台詞を残して和田岬を後にした。
	それから長田の「鉄人28号」を見に行ったので、肝心の「新川運河」を見れなかった。筑前は一度前に行っているが、みなさんに
	あの運河を見ていただけなかったのは残念だった。しかし「鉄人28号」を見たし、復興なった長田の町も見れたので良しとしよう。
	「神戸事件」の発生地が「三宮神社」だったのもわかったし、平清盛はまぁどうでもいいとして、震災から見事に立ち直った神戸の
	町を確認できたのでそれなりに有意義な例会だったと言えよう。しかし長田の町のある商店で、「何か買うてくれんと支援したこと
	になりまへんで!」と言っていた商店主の言葉は、商魂たくましいともとれるが、妙に頭に残った。






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	大輪田泊	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	大輪田泊(おおわだのとまり)は兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛
	による修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期
	にかけて日宋貿易で栄えた。

	<立地>
	大輪田泊は、和田岬の東側にいだかれて天然の良港をなし、奈良時代から瀬戸内海を航行する際の要津であった。和田岬は、六甲山地
	から現在の大阪湾に流下する湊川・苅藻川・妙法寺川によって運ばれた土砂が、さらに潮汐によって集積して形成された砂嘴であった。

	<沿革> 摂播五泊 
	摂播五泊を建置したといわれる僧行基大輪田泊は、延喜14年( 914年)の三善清行の『意見封事』に、奈良時代に大僧正行基が築いた
	として記される五泊のひとつである。五泊は東より、

	河尻泊(兵庫県尼崎市神崎町)
	大輪田泊(兵庫県神戸市兵庫区)
	魚住泊(兵庫県明石市魚住町)
	韓泊(兵庫県姫路市的形町、のちの飾磨津)
	室生泊(兵庫県たつの市御津町室津)

	いずれも摂津から播磨にかけて所在するため、「摂播五泊」とも称される。

	なお、「大輪田」の地名は津泊の意におこるとも理解されており、上記河尻泊の所在した摂津国・神崎川の河口にも「大和田」の地名
	があるのをはじめ日本列島各地に同様の地名がのこり、そうしたなかで単に「大輪田」といえば概ね務古水門のことをさすのは、この
	地が古くから最重要港湾として認められていたことを示しているとも考えられる。


	<造大輪田船瀬使>
	平安時代には、『日本後紀』の弘仁3年(812年)6月条に大輪田泊修築のことが記されるのをはじめ、造大輪田船瀬使がおかれ、防風
	と防波を兼ねて石の堤(石椋)を築くなど、たえず修築がおこなわれ、その経費を充当するため勝載料もしくは船瀬庄田稲を徴収して
	いたことのあったことが各種の文献資料で確認されている。とくに、泊の西方向には和田岬があって西風の波浪には安全であったが、
	南東方向は海にひらけており南東風のため諸船がしばしば難破した。そこで国費で船瀬(船だまり)をつくって修理が加えられたが、
	律令国家の衰えとともに修築はおこなわれなくなり、放置されるようになった。

	
	<平清盛の大修築と福原遷都>
	鳥羽院の信任の厚かった平忠盛は、後院領荘園(天皇の隠居所の所領)であった肥前国神埼荘の知行を通じて日宋貿易を開始し、舶来
	品を院に進呈して近臣としてみとめられるようになった。その際、対外交渉を統括する大宰府が、これを越権行為として批判したが、
	忠盛は院宣によりこれを抑えた。
	忠盛の子、平清盛は安芸守、播磨守、大宰大弐を歴任し、平治元年(1159年)の平治の乱ののちに平氏政権を成立させた。清盛は勢力
	基盤であった伊勢で産出する銀などを輸出し、安芸の音戸瀬戸を開削するなど瀬戸内航路を確保し、さらに大宰府の対外交渉権の接収
	をおこなった。
	応保2年(1162年)、清盛は福原のある摂津八部(やたべ)荘を手に入れた。このとき、あるいはそれに先だって大輪田泊もかれの管
	轄下に入ったものとみられる。大輪田泊の重要性を深くみとめた清盛は、上述したように、従来、南東風による風浪が港湾施設を破壊
	することが多かったため、湊の前面に人工島を築いて安全な碇泊地を設けようと、私費を投じて修築工事に着手した。最初の工事は応
	保2年2月、清盛権中納言のときに開始されたが、同年8月に大風があり、工事はそのため水泡に帰した。
	翌長寛元年(1163年)3月に工事を再開したが、難工事であったため、その際さまざまな伝説が生じている。もう少しで工事完成とい
	うそのときに日が暮れそうになったため、清盛が沈む太陽を招き返した、あるいは、人柱を沈めてから工事をしようという意見をしり
	ぞけて、諸人に一切経の経文を書かせた石を沈めて基礎を築いた、そのため、この人工島を「経が島」と称したなどである。
	仁安3年(1168年)、清盛は出家して「浄海」と名乗ったのち摂津福原に別荘(福原山荘)をかまえ、常時ここに住んで周辺一帯を経
	営した。これは、大輪田泊を利用して外国貿易をおこなうのに便利な地を選んだものと思われる。嘉応2年(1170年)、大輪田泊には
	じめて宋の船が停泊した。後白河法皇は清盛の招きで福原の清盛別荘をしばしば訪れ、宋人に引見している。
	
	承安2年(1172年)、中国明州(寧波)の地方官より、後白河法皇と清盛に国書と贈り物がとどいた。翌承安3年(1173年)、清盛は
	答礼使を派遣し、また、後白河院からは大輪田泊までの商船通航許可を得て宋の商船に瀬戸内海を航行させ、また、後白河院が宋の使
	者に答物を贈ったことによって、宋とのあいだに正式に国交が開かれて日宋貿易が拡大した。清盛らが大量に輸入した宋銭は、一時は
	物価騰貴を起こし、貨幣経済の発展をうながすなど中世の日本経済に大きな影響をあたえた。承安4年(1174年)、推定面積37ヘクタ
	ールの人工島経が島が竣工し、翌1175年には修築工事を終えた。経が島の工事責任者は、平氏水軍の中核をなす阿波国の豪族田口成良
	であった。清盛はまた、治承3年(1179年)に『太平御覧』を購入して人に書写させ、写本は手元において、印刷本(摺本)は女婿に
	あたる高倉天皇に献上するなど、新知識の導入にも努めた。清盛はこの年の11月、軍事クーデターをおこし、後白河法皇を幽閉、反対
	派を一掃した。
	治承4年(1180年)2月に譲位して上皇となった高倉の最初の社参が、その年の3月から4月上旬にかけて、従来の慣例[10]を破って安芸
	の厳島神社でおこなわれた。また、この年の春には大輪田泊のあらたな改修が計画された。それまでの改修が平家の私財によったのに
	対し、今回の計画は国家権力をあげてのものとなった。
	この年の6月、平清盛の主導により、まだ3歳の新帝安徳天皇、父高倉上皇、祖父後白河法皇の福原行幸がおこなわれ、行宮もその地に
	置かれた。清盛は福原に隣接する大輪田の地に「和田京」の造営を計画し、国々の功力による大輪田泊の永久的修築をも企図した。整
	備なった大輪田泊をそのうちに取り込む「和田京」造営計画は地形的制約もあって計画のみに終わったが、清盛は、大輪田泊を見下ろ
	す山麓に福原京を築いて遷都を強行した。高倉上皇や平家一門の反対もあったが、それを押し切っての遷都であり、約半年後の京都還
	都まで、清盛の福原別邸が天皇の内裏となり、「本皇居」と称された。これについては、清盛は延暦寺・園城寺・興福寺など寺社勢力
	の干渉を避けるためとも、また、宋との貿易拡大によって海洋国家、西国国家の樹立を目指していたとも指摘される。

	大輪田泊の永久的修築の計画は源頼朝・源義仲の挙兵にはじまる内乱とそれにつづく平氏の失権により中絶してしまったが、福原京に
	建てられた建造物群もまた治承・寿永の内乱のなかで源義仲によって全て焼き払われた。

	
	<鎌倉時代以降>
	平氏政権滅亡後の鎌倉時代には日宋間の正式な国交はなかったが、鎌倉幕府は民間貿易を認め、文治元年(1185年)に九州に設けられ
	た鎮西奉行は、博多を統治して幕府からの御用商船を宋へむけて派遣することとした。清盛による大輪田泊の修築工事も2度にわたっ
	ておこなわれたが、中絶を余儀なくされていた。
	建久7年(1196年)、東大寺の俊乗坊重源は、大輪田泊の修築事業の中絶とその後の泊の損壊状況を嘆き、山陽道・南海道・西海道の
	諸国および荘園からこの港を経て運ばれる運上米のうち1石あたり1升を徴収し、三道の一郡一荘それぞれから船1艘を課し、和泉・
	摂津・播磨・備前・備中・紀伊・伊勢・淡路・讃岐・阿波の計10か国の海岸に漂着して破損した船を没収、また、山城・河内・摂津・
	播磨・淡路の5か国の公田・荘園の竹木を伐採し、さらに摂津・播磨・淡路の民家から人夫を徴用して、河尻泊・魚住泊とともにこの
	泊を修築することを奏請した。重源のこの意見はみとめられて上記諸国には太政官符が下った。
	重源が修築事業に乗り出したのは、かれが大勧進として尽力していた東大寺復興事業にこれら港津を利用することが多かったためと思
	われる。その成果の詳細は不明であるが、鎌倉時代には国内第一の港として「兵庫津(ひょうごのつ)」「兵庫島」あるいは「兵庫経
	島(ひょうごきょうじま)」と呼ばれるようになり、当時の兵庫津のようすは絵巻物『法然上人絵伝』や『一遍聖絵』にも描かれてい
	る。
	日宋貿易は南宋代の終わりまで行われ、幕府の執権を代々つとめた北条氏も臨済宗を保護したため、宋の禅僧も数多く貿易船に便乗し
	て来日し、モンゴル帝国による南宋攻撃が本格化してからも往来は継続した。流通経済の発達で国内の水運がさかんになると、荘園か
	らの年貢減少に苦しむ大寺社ではその維持のために船から関銭を徴収することとした。南北朝時代の兵庫津には、東大寺領の北関と興
	福寺領の南関が設けられていた。
	室町時代にはいると、兵庫津は足利義満による日明貿易の拠点となり、遣明船の発着港としてにぎわったほか、朝鮮王国や琉球王国の
	船も来航して再び国際貿易港としての地位を得た。江戸時代には西廻り航路における国内航路の要津として栄えた。安政5年(1858年)
	の日米修好通商条約においては、新潟、長崎、神奈川(横浜)とともに開港場に指定されている。


	
	大輪田泊を修築した平清盛 



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	このHPをUPした後ある人からmailが来て、上の「平清盛像」は神戸のどこにあるのかと質問された。ウィキペディア(Wikipedia)
	は所在地を書いていないので、ずいぶん探されたようだが、実はこの像は神戸には無い。京都市下京区の「若一(にゃくいち)神社」
	にある。平清盛が六波羅在住の頃、承安年中、此の地に別邸を造営して住み「西八条御所」と称していた。(2012.4.25 追記)
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	大輪田泊	 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 続き


	 北宋銭 
 

	


<人をつなぐ「運河」と「兵庫津の道」> 2003年6月、奈良時代の港であった「大輪田泊(おおわだのとまり)」の遺跡が発見された兵庫区の南部地域(北分校の南部)一帯 には、多くの史跡や文化財が点在している。古くから海陸の交通の要所として栄え、初代兵庫県庁もこの地に置かれた。また、この地域 は明治時代に完成した兵庫運河・新川運河があることでも有名である。さまざまな企業活動に利用されてきたこの日本最大級の運河も、 地域の誇る貴重な財産となっている。 大輪田泊の石椋
以下、神戸市HPより。 <兵庫運河の開削> 水面積が約34haと日本最大級の規模を誇る兵庫運河。奈良時代以来,兵庫のまちは「兵庫津」と呼ばれ港を中心に栄えてきましたが,和 田岬が船の難所で船の被害が大きかったことから,兵庫出在家町の豪商・神田兵右衛門によって兵庫運河の築造が計画されました。1874 (明治7)年に着工しましたが工事は難航し,1876(明治9)年に船舶の避難地として新川運河だけが完成しました。 その後,八尾善四郎などの尽力により,和田岬を迂回するバイパスとして1896(明治29)年に着工され,1899(明治32)年12月に兵庫運 河全体が完成しました。このように,幾多の苦難を乗り越えて,民間活力によりこの一大事業が成し遂げられたのです。開削から 100年 余りが経った兵庫運河は,それ自体が貴重な歴史資源でもあるのです。 <兵庫運河の現状> 兵庫運河は,3つの運河から成り立っており,兵庫・新川・苅藻という3つの運河の総称です。水面積は合計約34haと,日本最大級です。 しかし,大正から昭和初期の頃にかつてあった運河周辺の一大商工業地域としてのにぎわいと活力は現在なく,川崎重工業をはじめ27社 の企業(平成14年10月現在)が運河とその沿岸を利用するにとどまっています。 平成5年には,市民に親しまれる運河沿いの空間,散策道として「新川運河キャナルプロムナード」が神戸市により整備されました。 延長約350m,水上広場やベンチ,植栽などがあり,市民の憩いの場となっています。兵庫運河は,当初開削された時の目的から,大きく その機能転換を図ろうとしています。 <兵庫運河周辺の歴史> 一方で,兵庫運河が位置する兵庫区南部には,神戸市の中で最も古い,奈良時代以来の由緒ある歴史があります。平清盛の時代には,中 国・宋との貿易拠点として,現在の中之島あたりに位置する港の大修築工事が行われ,福原には一時都が置かれたこともあります。後に, 兵庫のまちは「兵庫津」と呼ばれ,海陸要衝の地として発展していきました。 室町時代には,中国・明との交易,江戸時代には,瀬戸内海有数の港町としてにぎわいをみせます。司馬遼太郎の歴史小説『菜の花の沖』 では,近世兵庫津繁栄の時代が生き生きと描かれています。 そして,江戸から明治への転換期,慶応3年(1968年1月)に兵庫港(神戸)が開港すると,明治元年には,最初の県庁がこの地に置かれま した。県名にも兵庫の名が採用され,伊藤博文が初代知事となりました。以来,明治22年4月の神戸市誕生をはさみ,市街地の急拡大と 今日の神戸港発展を支えてきたのです。 しかし,太平洋戦争では空襲で大きな被害を受け,また平成7年1月の阪神・淡路大震災を経て,市街地の家屋・施設とともに,多くの史 跡や文化財が被災しました。 <これからのまちづくり> 運河周辺の歴史的遺産を保存・復元し,後世に継承していこうと,兵庫区南部では住民の活動が活発に行われています。「兵庫津の道」 沿いなどの史跡を紹介する案内看板や説明板が地元の手で整備されています。関西電力神戸電力所柳原変電所の壁面には,地元小中学生 により兵庫津の歴史を表した壁画が描かれています。兵庫津には,地下鉄海岸線や神戸ウイングスタジアムなど新しいまちの施設も登場 しています。新しいものを取り入れる玄関口であった「みなと」兵庫津の歴史を活かして,新旧のものが融合し発展していくまちづくり を進めていきたいと思います。



	考えてみれば、昨年から大河ドラマの現場を見に行くようになったが、奇しくも昨年の「お江の里」を訪ねて近江へ行ったのも2月
	例会だった。ま、偶然ではあるがちょうど一年経ってまた大河ドラマの舞台を訪ねた事になる。しかし現在放映中の「平清盛」は人
	気がない。我が歴史倶楽部のみなさんもあまり見ていないし、雑誌なんかでもとりあげられていない。神戸の町だけは盛り上がって
	いるが、視聴率は低そうだし「龍馬」の時のように「松山ケンイチ」人気が高騰という話も聞かない。やっぱりキャスティングのミ
	スじゃないかねぇ。






	このHPをuploadした直後に、産経新聞に以下のような記事が載った。福原京のエリアはJR東海道線の北側にもあったのだ。有馬に
	もあるが、とても有馬までは行けない。「萱の御所跡」は北側にも候補地がある。知らなかった。こりゃもう一回行かねばならんかも。
	記事はクリックすれば拡大します。







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