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歴史倶楽部例会 第155回例会・東四国

岩清尾山古墳群 2010.06.26-27(土・日)







	岩清尾山古墳群(いわせおやまこふんぐん) 香川県高松市峰山町   
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	高松市街地の西端には石清尾山(いわせおやま)・稲荷山(いなりやま)・紫雲山(しうんざん)・浄願寺山(じょうがんじやま)
	からなる石清尾山塊がそびえ、そこでは200基以上の古墳が見つかっている。なかでも主要な12基は国の史跡に指定されている。
	石清尾山古墳群には、数多くの盛土墳とともに石を積み上げた「積石塚(つみいしづか)」が20基以上あり、積石塚は、双方中円
	墳・前方後円墳・方墳・ 円墳と、いろいろな形をしていて、特に双方中円墳は全国的にもあまり例がない。
	これらの積石塚は古墳時代前期(4〜5世紀初頭)に造られ、一方、盛土墳は約百年後の6世紀末〜7世紀初のものと考えられる。
	その規模の大きさ、特異な形や出土品により、石清尾山古墳群は県内を代表する貴重な文化財として古くから注目されている。




	高松市中心街の南西に位置する石清尾山の山頂部は、北にくぼむ摺鉢谷(すりばちだに)と呼ぶ浸食谷の周辺部が、標高200b前
	後のU字形の平坦な尾根(おね)となっており、この尾根上に北大塚、石船塚、小塚、姫塚などの前方後円墳と猫塚、鏡塚の双方中
	円墳、および鶴尾神社4号墳(前方後円墳)、石清尾山2号墳(円墳)などがある。この古墳群は「石清尾山古墳群」と総称される
	が、前期古墳のほとんどが積石塚古墳で、通常の盛り土で築造した古墳と違い、石を積み上げて造った古墳であり、全国的にも非常
	に珍しい古墳である。




	我が国では四国北部と信州地方(長野県)のみに見られる(全国の積石塚は約1500基ほど)そうだが、多くが、縦横穴式石室を
	持った、4世紀初頭〜5世紀初頭の古墳時代前期の築造と考えられ、その後、古墳時代後期になると、この古墳群でも横穴式石室を
	持った多数の盛土円墳が出現・分布するようになる。4世紀〜5世紀にかけての前方後円墳は8基あり、そのうちの石船塚古墳には
	刳抜式石棺が納められている。猫塚は、この古墳群中最大で、全長95b、高さ5bで出土品も豊富である。出土品の一部は、高松
	市歴史博物館にも展示されているが、多くは上野の東京博物館にある。




	【猫塚古墳】 古墳時代前期(4世紀前半) 
	石清尾山2号墳を抜け、道を大きく左に曲がって300mほどのところで、畑の脇に右へ入る小道がある。この小道をさらに300
	m歩いていくと、すぐ眼の前に高い積石塚がそびえている。これが、石清尾山古墳群の中で最大規模を誇る猫塚古墳である。




	石清尾山は,標高200m余りの小高い山である。地質学的には、花崗岩の上に,凝灰岩,そして最も上に安山岩がのっている地層
	らしく、山頂一帯に多い安山岩で古墳の墳丘を築いている。この山塊は、峰山と呼ばれる地域を中心に、東側の紫雲山、南側の浄願
	寺山の三地域にわけられ、これらの山は,約1千万年前の火山活動によってできたとされ、その後の長期にわたる隆起や浸食作用等
	により造山された。古墳への通り道の側に建つ家の石垣を構築している岩石も、よく見るとサヌカイトであり、この辺りに火山活動
	の影響があった事を表わしている。




	猫塚古墳は、全国でも非常に珍しい双方中円墳の積石塚で、全長約96m、高さは約5mを測る。この古墳は、明治43年(1910)
	年に、鉱山試掘を装った計画的な大盗掘に会い、中央が大きく変形してしまっている。中円部にいくつかの竪穴式石室があったと思
	われるが、この大盗掘のために、現在正確な数・位置は不明だという。が、伝聞では中央に1基の竪穴式石室を持ち、その周りに8
	基の小さな石室があったとされており、昭和6年(1931)年に行われた京都帝国大学の調査報告書にも、その伝聞が記述されている。
	しかし、竪穴式石室のわずかな窪みは残っていたそうで、現在は保存のために埋め戻されている。


































	下の測量概略図を見ると前方後円墳であるのがよくわかるが、上の写真を見てもそうとはわからない。が、確かに積石塚の古墳であ
	る。こんな岩ごつごつの古墳山頂などは、見ようと思ってもなかなか見れない。














	石清尾山古墳群には、4世紀から7世紀にかけてつくられた200基余りの古墳があり、これらは、墳丘を土で築いた盛土墳と、平
	石を用いて築いた積石塚とに分けられる。中でも、積石塚は4〜5世紀にかけてつくられたもので全国的に珍しく、形も特異な双方
	中円墳をはじめ前方後円墳などと多様で、貴重な文化財として有名である。




	石清尾山では、古墳時代のはじめには既に前方後円墳が出現していたらしく、古墳築造においては先進的な地域だったと思われる。
	他の地方では見られない積石の古墳や、中円墳等に強い個性がうかがえ、積石塚古墳の出現理由として、石清尾山では石を得られや
	すかったためとする自生説と、積石塚が所在する朝鮮半島から伝来したとする渡来説がある。又、現在の北朝鮮、かっての高句麗に
	類似の古墳が多く見られるため、高句麗からの渡来人説も有力である。いずれにしても、かってこの地方に豪族がいたのは間違いな
	く、当時の石清尾山周辺の繁栄がうかがえる。




	5世紀の中頃になると、積石塚は縮小され形も円墳となって、明らかに石清尾山勢力の衰退がみられる。次第に、近畿圏の中央勢力
	によって押さえ込まれたのであろう。5世紀末頃になると、もはや積石塚古墳は築造されなくなる。その後、石清尾山に古墳がつく
	られるようになるのは、約100年後のことである。それは、盛土で横穴式石室をもつ古墳として出現する。




	この時期の古墳は、全国的に数多くつくられるが、古墳の規模、石室の構造、副葬品の内容等、どの地域でもあまり差異がみられな
	くなる。石清尾山の横穴式石室古墳でも同様で、積石塚古墳がつくられたころの面影はない。いずれにせよ、積石塚古墳によって代
	表される石清尾山古墳群は、極めて特色があるとともに、高松の文化の原点として、また、日本の歴史上貴重な古墳群といえよう。
	石清尾山古墳群のなかでも山頂一帯に所在する主要な11基の古墳は、昭和60年7月16日に国の史跡に指定された。




	【石船塚古墳】 古墳時代前期(4世紀後半) 
	小塚古墳から尾根伝いに北へ登っていくと高い古墳が見えてくる。石船塚古墳である。さらに北には「鏡塚古墳」、東側に「稲荷山
	姫塚古墳」のある稲荷山・紫雲山に通じる遊歩道がのびている。積石塚の前方後円墳で、全長約57m、高さは約5.5m。後円部
	は3段、前方部は2段に築かれている。






	後円部に刳抜式石棺1基と小竪穴式石室1基、前方部に竪穴式石室1基がある。石棺は後円部の中心にあり、現在身と蓋が地表に露
	出している。もともと身と蓋は重なっていたものである。棺身の一方には石枕が造り付けられているという。小竪穴式石室は石棺の
	南西4mのところで発見され,石室は板石を積み上げ,内部には朱が塗られている。後円部の小竪穴式石室から鏡1面が出土し、積
	み石の間からは土師器や円筒埴輪の破片が採集されている。




























	【石清尾山2号墳】 古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初)
	峰山公園の周りを巡る道路沿いにある。芝生の広場を左へ曲がりしばらくいくと、右側に10mほど入った民家の庭先に横穴式石室
	が開口している。こんな軒先にとびっくりする。民家の敷地内だ。円墳で盛土墳。直径約10m、高さは約2mほどである。内部は
	全長6.6mの横穴式石室で、床には敷石があり幾つかは今でも残っている。1300年もここに置いてあるのかと思うと、不思議
	な気がする。石室の壁には大きな一枚岩が使われ、天井石も巨石である。出土品は、須恵器、金環1個、ガラス小玉1個で、石室の
	形や出土遺物から考えて6世紀後半頃の築造と考えられてい
	る。 





	盗掘の際に、中央の石室から鏡5面(中国製4面,日本製1面)、小銅剣20本前後、石釧1、筒形銅器3、銅鏃9、鉄斧1、鉄剣
	4、鉄刀1、鉄鑿1、鉄やりがんな1、鉄鏃4、土師器2、等々が見つかっている。多数の遺物のなかでも,内行花文精白鏡と呼ば
	れる鏡は,中国の前漢時代(西暦紀元前202〜紀元後8年)に作られた鏡で,北九州地方の弥生時代墳墓から多く出土するが、古
	墳からの出土はこの猫塚古墳だけである。この事からも、猫塚古墳は北九州の弥生時代人の習慣を受け継いだ人物の墓ではないかと
	とりざたされた。また小銅剣も、他に一例しか出土例のない珍しいもので、中央石室の周囲に多くの石室がみられたという伝聞など
	から、猫塚古墳が一般的な古墳と比べて特異な存在であるということを示している。







下は高松市歴史資料館にある展示品(勿論レプリカ)。本物は上野の国立博物館にある。下右は銅鏃。

 




	石清尾山古墳群中の「鶴尾神社4号墳(西春日町)」は、讃岐で最も古い古墳、もしくは古墳直前の墓として知られている。前方後
	円墳は、遅くとも3世紀末に、近畿地方、瀬戸内海沿岸、北九州地方で発生したと考えられており、それをもって古墳時代の始まり
	とする意見もある。鶴尾神社4号墳はそれよりも少し古く、前方後円墳の祖形となった墓ではないかという説がある。前方後円墳の
	起源を明らかにする遺跡ではないかとして注目された。

	猫塚古墳や鶴尾神社4号墳は築造が古く、4世紀前後には既に出現していたと考えられる。その後順次築かれ続け、5世紀頃には積
	石塚の築造が終焉している。後は盛り土の古墳となる。積石塚古墳は、百年余りの期間に集中して築かれたことになり、当時の讃岐
	平野には大きな勢力が存在していたのである。おそらくは、瀬戸内海を西から来た民族だったのだろう。その後、彼らはさらに東を
	めざし、近畿圏に盛り土の古墳を作り出すのではないか。

	石清尾山古墳群は、積石塚による前期の古墳群としては香川県下はもとより全国でも類例を見ない規模と内容を持っている。後世に
	は横穴式石室墳も数多く所在するが、積石塚古墳は、讃岐だけでなく同時期のものが徳島県にも見られる。また、長野県には6世紀
	〜7世紀頃の積石塚古墳が、極めて多く存在する。想像をたくましくすると、讃岐から東へ渡った連中が、既に近畿にいた別の渡来
	人集団との闘いに敗れて、近畿圏に根付けず信州へ渡ったとかいう可能性はないだろうか?

	石清尾山では、5世紀の終わり頃から積石塚古墳は造られなくなり、6世紀後半から7世紀の初頭になると横穴式石室墳が多く見ら
	れるようになる。石清尾山2号墳等、石清尾山の古墳の大部分はこの種の古墳で、浄願寺山頂には50基余りの横穴式石室墳が存在
	している。
	積石塚は、日本固有のものではない。朝鮮半島にあった古代国家「高句麗」の首都「扶余(現在,中華人民共和国東北地方集安県)」
	には多くの積石塚が存在している。また中央アジアにも存在しており、これらの地方では積石塚は特別珍しいものではなかったのか
	もしれない。積石塚は遊牧民の墓とする説もある。しかし石清尾山古墳群には、中央アジアはもちろん、朝鮮半島の直接的な影響は
	認められないという。しかし最近扶余周辺で、前方後円形の積石塚が発見されたという報道もあって、朝鮮半島の古墳と日本の古墳
	との関係は、いま改めて問題となっているのである。





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