祖谷山は、源平合戦で壇ノ浦に散った平家残党が落ちのび住みついたところ。祖谷川沿いの杣道を辿り、剣山に迫る奧祖谷山辺り にまで入山し、臥薪嘗胆の日々を過ごした平家の人々。祖谷川沿いの斜面に、平家屋敷がぽつりぽつりと残る。 深い峡谷にかずら橋が架かっている。かつて十数橋を数えた祖谷のかずら橋も、代替道路の整備によって大半は姿を消した。木地 師や里人が通ったであろうかずら橋が、当時のまま幾橋か残っている。 ほんとなら、今夜の宿は上記のように、徳島県剣山の麓、祖谷山にある「かずら橋」の側に予約していたのであるが、観音寺のあ たりから遅れる旨の電話をいれると、大雨で道路が寸断されていて宿まで道が無いと言う。35組の本日の予約客の内、現在7組 が到着していて、あとの予約客には宿泊を断っていると言う。電話をしたのが午後6時前。祖谷川付近はすこぶる交通の便が悪い とは聞いていたが、まさか大雨で道路が通行止めになるほどだとは思わなかった。さぁ、困った。 「キャンセルされても困りまっせ。儂ら大阪から来とるんでっせ」「どないかしてや」「訴えるで!」とか言ってみても、宿へ行 く道が無いのでは仕方がない。観音寺付近で2,3それらしき所をあたるが、よさそうなところは無い。琴平に行けば「琴弾荘」 という旅館があって、そこなら泊まれるかも知れないと言うので、大急ぎでその旅館を目指し、祖谷川の旅館にも電話して、「琴 弾荘」へ電話して予約を取ってくれと頼む。 30分ほどで到着した「琴平荘」で訳を話すと、ちょうど祖谷川の旅館からも電話が入ったらしく、快く止めてくれて一安心、や れやれ、助かった。宿が無かったら、おっさん7人で車中泊という情けないことになっていた可能性もある。それにしても、残り の予約客達はどうしたのだろうか。ちゃんとどこか代替の宿にと泊まれたのだろうか。宿側からキャンセルされた体験は初めてだ った。
琴弾荘も琴弾公園内にあり、その公園の公衆トイレにもきっちり「寛永通宝」の銭形が。観光案内を見ると、琴弾公園について、 瀬戸内海国立公園にも含まれる名勝琴弾公園。園内に砂絵「寛永通宝」があり、白砂青松の有明浜と松の美しい琴弾山々頂からの 展望が見所となっています。園内にある琴弾八幡宮や神恵院・観音寺等も合わせると約48haの広さを持ち、名所旧跡が点在してい ます。琴柱池周辺には、桜やツツジ、フジ、サザンカの花が季節を彩ります。 とある。明治30年(1897年)に県立公園として、琴弾山とその西の有明浜一帯が開園した。白砂青松の有明浜と銭形砂絵、 琴弾山山頂の「象が鼻展望台」から望む瀬戸内海と海岸線、伊吹島の夕日などの景観が主な見所になっている。園内には、琴弾八 幡宮、四国霊場・第68番・神恵院と第69番・観音寺、世界のコイン館や郷土資料館のほか、多くの史跡が点在している。琴柱池 周辺は、桜やツツジ、フジなどの名所として知られ、琴弾公園一帯は国の名勝にも指定されている。
寛永通宝の巨大な砂絵は、寛永10(1633)年に藩主生駒高俊歓迎のために造られた。銭形を見ると「健康長寿、お金に不自由しな くなる」という言い伝えがあるそうだが、見れなかった我々は・・・・?
銭形砂絵「寛永通宝」 有明浜の海岸に、東西122m、南北90m、周囲345mの巨大な砂絵がある。これは、有明浜の白砂に「寛永通宝」をかたどった巨大 な砂絵である。TV時代劇の映像にも使われた観音寺市のシンボル的存在。寛永10年(1633年)、藩主・生駒高俊の領内巡視を歓 迎・もてなしをするため領民が一夜でつくったと伝わっている。ビューポイントは琴弾山山頂。きれいな円形の銭形を眼下にとら え、夜は幻想的なライトアップの光に浮かび上がる。また、銭形を見た人は「健康で長生きし、しかもお金に不自由しなくなる」 との言い伝えもある。くっそー。 海岸に立って下から見ても、殆ど「寛永通宝」とは判らんね。
生ビールをたった2本しか呑んでないが、これは夕食に一人1本のビールをサービスで付けてくれたからである。その代わり焼酎 のボトルを2本も空けている。食事は旨かったし、メニューも普通の旅館並にあって、肉も食えて、「祖や谷の「山菜御膳」より も絶対こっちのほうが良かったで」「キャンセルされて良かったんちゃう」という声もあがっていた。温泉もまぁまぁで、いきな り飛び込んだにしてはいい宿にめぐりあえた。今回のメンバーは、みんな良い行いの人達ばかりと見える。 琴弾公園内には、観音寺市郷土資料館もあったが、朝早く出発したので今回は見ず。1階に市内の遺跡から出土した考古資料や道 標、太鼓台の資料などを展示している。2階には貝や化石のコレクションなどがあったらしいが残念だ。