紫雲出山遺跡 香川県三豊市詫間町 -------------------------------------------------------------------- 紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡である。本遺跡は、 燧灘(ひうちなだ)に突出する岬上の先端にそびえる標高352メートルの紫雲出山山頂にあり、絶好の視野と眺望とに恵ま れている。
本遺跡の出土遺物の種類は、普通の集落跡における一通りのものがそろっており、その点では特殊性は認められない。従って、 紫雲出山遺跡は、防砦・見張台・烽台(のろしだい)というようなもののみによって成り立っている特殊な遺跡ではなく、軍 事的・防御的性格を帯びた集落遺跡と考えられる。また、畿内と密接な関係を保ちながら内海航路の監視の重要な拠点であっ た可能性も考えられる。
本遺跡は、弥生時代中期の初めごろから始まって、出土遺物の量から判断して、中期も終わりに近づくにつれて集落の規模が 拡大し、人口も増加したらしいが、中期をもって終わっている。政治・社会の変革は、もはや不便な山頂に居住することを必 要としなくなったのであろう。そして、本遺跡の東南約2キロメートルの低地に後身の船越集落が出来ている。
本遺跡から出土の石の矢尻や剣先が豊富な事実と矢尻の重さから、弥生時代に戦いがあったと佐原真は考えた。1947年 (昭和22年)4月、山頂での造園植樹中に土器が出土したのが遺跡発見の端緒となった。1955年(昭和30年)12月 小林行雄が調査することになった。 1957年(昭和32年)8月までに第3次調査が行われ、中期前半の土器・貝輪・鹿角製結合式釣針・獣魚骨を含む大型二 枚貝・サザエを主体とする貝塚が出土している。 また、1988年(昭和63年)8月、資料館建設に伴う発掘調査で、2.8mX3.2mの円形竪穴住居址一基、一辺2.5m 一間四方の高床倉庫一基が検出された。住居跡は朝鮮半島の松菊里との関係が注目される。
<出土石器> 本遺跡出土の石器の量は、優に畿内の大遺跡のそれに匹敵する。弥生時代前期の打製石鏃は斉一性を持ち、九州から伊勢湾沿 岸に至までの各地域で共通した形式であり、凹基無茎式と平基無茎式とが絶対多数を占めている。弥生時代中期の打製石器は、 凸基無茎式と凸基有茎式との二形式が多数を占めるようになった。前者の出現期は中期はじめに溯り、後者のそれは中期中葉 が上限である。そして、中期後半には先の二形式が打製石器の約九割を占めるようになった。本遺跡の出土の打製石鏃も凸基 式の有茎・無茎の二形式が大多数を占めるようになった。それは、畿内地方からの影響を考えられる。
同じ香川県でも、より畿内に近い東部において凸基式群の占める割合が大きい。石鏃の形式と長さ・重さとの関係は次の通り である。 凹・平基式群の長さ3センチメートル未満、重さ二グラム未満、凸基式群は長さ3センチメートル以上、重さ二グラム以上のも のがそれぞれ大多数を占めている。 この関係は、弥生時代前期の北九州から伊勢湾似いたる各地域の打製石鏃についても言えることであり、弥生時代中期の畿内 や中部瀬戸内地域の打製石鏃についても言えることである。本遺跡についても当てはまることである。 これらの石鏃の機能は、凹・平基式群の石鏃の基端は獲物を傷つけることに有効な働きをし、凸基式群の石鏃は、おそらく深 く突き刺さることを目的としたものである。
杉本さんは、この山の麓にある有名な高専を卒業した。ここへ登ってくるときその学校を見たが、どでかい敷地の学校だった。 何度かここにも登ったらしいが、晴れればすこぶる眺望のいい場所だと強調していた。雨で残念。
「紫雲出山遺跡館」という表記だったので期待して来たのだが、なんとそういう名前の喫茶店なのだった。パネルで遺跡の紹 介はしてあるが、展示品もわずかで、周囲に住居の復元がすこしあるだけの遺跡だった。しかしまぁ、ここで弥生時代に暮ら していた人々がいたのは事実で、また晴れれば海が見渡せてすこぶる眺望のいい場所にある遺跡だ。高地性集落というにはあ まりにも高い山の頂にあって、通常言う高地性集落とはちょっと意味合いが違うようである。 勿論、軍事的・防御的性格を帯びた集落ではあるのだろう。出土した夥しい石鏃や石器からもそれは推測できるが、一方で韓 国の松菊里遺跡との関係が取りざたされるように、定住的な遺跡であった性格も持っている。海上をゆく船の見張りをしなが ら、ここに生活した、いわば「砦」のような性格を持っていた遺跡なのではないだろうか。