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歴史倶楽部 第164回例会 3月27日
秦氏ゆかりの京都右京区・太秦周辺の散策


	
	渡来人「秦氏」ゆかりの地を歩く
	<日時> 3月27日(日曜)<集合> JR「京都駅」AM9:00 京都駅北側(京都タワー側:いつもの集合場所です。)
	<アクセス>
	  ・大阪組	大阪  08:30〜08:59 京都 JR東海道本線新快速 
	  ・奈良組  奈良 08:13〜09:00 京都 JRみやこ路快速

	  ・改札後  京都 09:17〜09:28 花園 JR山陰本線・亀岡行 190円
	(*)大阪組も奈良組も、直接花園まで行くよりも、一端京都で降りた方が運賃は安くなります。京都で降りたら京都−花園間の
	   キップ(190円)は、買っておいて下さい。
	<コース>
	  ・JR花園駅−(徒歩10分)−妙心寺−(徒歩15分)−雙ケ岡(双ケ丘) − ここで昼食−(徒歩5分)−藤原璋子花園
	   西陵・五位山古墳・統子内親王花園東陵 −(徒歩15分)−木嶋神社 (通称:蚕ノ社(かいこのやしろ) −(徒歩10分)
	   −大酒神社−(徒歩5分)−広隆寺−(徒歩20分)−蛇塚古墳−(徒歩20分)−仲野親王陵古墳(片平大塚古墳) − 
	   解散	(*)解散後は、京福電鉄「帷子ノ辻駅」、JR嵯峨野線「太秦駅」まで1,2分です。
	<持参するもの>
	  ・弁当・お茶・防寒具・替上下着・雨具・手袋他 
	<解説>


私が大阪へ就職してきた頃(37年前)は、この花園駅は掘っ立て小屋のような建物だった。驚くような変貌振りだ。まいった。




	
	今回の例会は「太秦」(うずまさ)である。関西に住んでいる人ならすぐ「うずまさ」と呼べるが、地方に住んでいる人で、古代史
	に興味が無い人にはとてもすぐに「うずまさ」とは読めまい。巻末の解説を読んで貰えばすぐ判るが、太秦とは、「大いなる秦(シ
	ン或いはハタ)という意味を持つ(諸説あり)、古代豪族である。そのゆかりの地が、京都市右京区太秦周辺なのである。古代には、
	山背国葛野郡と称された。

	地方の人でも、太秦(うずまさ)と言えば「東映太秦映画村」として知っているかもしれない。かっては松竹、大映などの映画会社
	がこの辺りに拠点を構えて、太秦は「映画村」として有名だった。大河内伝次郎の屋敷も嵐山にあったし、嵐寛十郎プロダクション
	もこの地にあった。今でも東映は太秦で撮影を続けており、付近の喫茶店に入ると、時々岡っ八や町娘の格好のままでお茶を飲んで
	いる俳優達に会うことがある。仁和寺、竜安寺、等持院などもこの付近にあり、太秦の先が嵯峨野であり、嵐山渡月橋があり、さら
	に桂川を渡って足を伸ばせば、酒の神として、全国の総元締め的存在の「松尾大社」に至る。

	この太秦こそ、古代豪族「秦氏」の本拠地であった。広隆寺は秦氏の氏寺であり、松尾神社も氏神として秦氏が創建したとされてい
	る。一方、京都の南東、東山の一角に全国稲荷信仰の総本山(末社数約35,000−50,000社)である「伏見稲荷神社」も、
	古代、山背国紀伊郡深草郷と呼ばれていた所で、ここも秦氏の一族が氏神として創建し祀ったとされる。いずれも、平安京遷都以前
	から存在している。巻末の解説のように、秦「ハタ」とは朝鮮語でハダ、すなわち海のことで、秦氏とは「海を渡ってきた人々」を
	総称する呼び名と考える見方もあるし、また「秦の始皇帝の末裔」という通説をそのまま信じている人達もいるが、広隆寺の裏手に
	は、「秦の始皇帝」が祀神である「大酒神社」まであるので、それも無理からぬ所かもしれない。

	記紀には、蘇我氏や物部氏などとは違って、秦氏の活躍記事は僅かしかない。「新撰姓氏禄」では秦氏は蕃別氏族とされているので、
	即ち渡来人・帰化人であるのは間違いない。では、秦氏とは一体どんな氏族だったのであろうか。
	秦氏の中で一番の有名人(?)は「秦河(川)勝」であるが、彼の墓は大阪府寝屋川市川勝町にある。この付近には秦氏に関する古
	跡も多くあり、交差点や郵便局には「太秦」と言う名前が付いている。かっての河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)である。

	しかしながら、「太い秦」と書いて、どうしてこれを「うずまさ」などと呼ぶのか。書記では、絹製品を献上し、帝の前に「うずた
	かく」積み上げたから「うずまさ」という名前を賜ったという記事があるが、こじつけもいいところだ。書記お得意の地名譚に過ぎ
	ない。


	秦氏	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	秦氏(はたうじ)は、古代の氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族でもある。秦の始皇帝の末裔を称するが明確でない。

	<秦氏>
	本姓 		秦忌寸 
	家祖 		称・弓月君(称・秦の始皇帝後裔) 
	種別 		諸蕃 
	主な根拠地 	大和国	山背国葛野郡	山背国紀伊郡	河内国讃良郡	丹波国桑田郡	美濃国加茂郡など 
	著名な人物 	弓月君	秦河勝 
	支流、分家 	惟宗氏
			(地下家)	東儀家	小畑家	瀬尾家	 土山家  三上家  調子家	藤木家	松室家	平田家	石川家	
			(社家)	東家	南家	西大路家 大西家  羽倉家  荷田家	
			(武家)	川勝氏	
			天池氏 など

	<概要>
	日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し
	秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の
	遺民が住み着いたとの伝承がある)。また一説には五胡十六国時代に?族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島
	経由で日本にたどり着いたと言う説もある。ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機
	織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。
	その後、大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在
	の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都
	府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の統率者となった
	という。欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動した
	らしいとされる。
	秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分かっているが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。河内国太秦には弥生中期頃
	の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5,6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)して
	いる。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ[要出典]、現在の熱田神宮が広隆寺に記録が残る河内
	秦寺(廃寺)の跡だったとされる調査結果もある[要出典]。伝秦河勝墓はこの地にある。また、山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺
	があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大
	堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される。

	山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)
	の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂
	氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった。

	秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。彼は聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。またほぼ同時代に
	天寿国繍帳(中宮寺)の製作者として秦久麻の名が残る。

	『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」に「又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」と風俗が中国と同じ
	である秦王国なる土地(瀬戸内海沿岸付近?)が紹介されているが、これを秦氏と結び付ける考えもある。また佐伯好郎は1908年(明
	治41年)1月、『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)に収載の「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教(キリスト教のネスト
	リウス派)徒のユダヤ人であるとの説をとなえた。八色の姓では忌寸の姓を賜り、その後、忌寸のほか、公、宿禰などを称する家系が
	あった。
	平安遷都に際しては葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとする説もある。平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、
	秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家、南家などは松尾大社の社家に、西大路家、大西家などは伏見稲荷大社の
	社家となった。伏見稲荷大社の社家となった羽倉家、荷田家も秦氏の出自という説がある。また、高僧を含めて僧侶にも秦氏の出身者
	が多い。日本最古の戸籍で半布里戸籍にも記されている(富加町)。

	<秦氏が創建に関係した主な神社・寺院 神社>
	松尾大社	伏見稲荷大社	木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)	大避神社	広隆寺

	<脚注>
	日本書紀の記述は次のようなものである。応神天皇十四年、弓月君が百済から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の人民が帰
	化を求めています。しかし新羅人が拒んでいるので、みな加羅国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣
	わして、加羅国の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった。応神天皇十六年、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつく
	のすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が
	邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨ん
	だ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に帰ってきた。 

	<末裔といわれる氏族>
	惟宗氏 
	薩摩島津氏 ※ 惟宗氏からの派生氏族。島津氏自体は当初は藤原氏末裔、後に源氏末裔を自称。 
	宗氏    ※ 惟宗氏からの派生氏族。宗氏自体は桓武平氏末裔を自称。 
	長宗我部氏 
	川勝氏 
	東儀家 
	天池氏



























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