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国東半島の旅 安国寺遺跡資料館 (国東市歴史体験学習館) 2009.5.16 大分県国東半島







	国東市国東町の田深川下流部の南岸に位置する“弥生のムラ安国寺集落遺跡公園”。ここは昭和24年から4年間の調査、昭和60年
	から4年間の調査、平成8年から6年間の調査が行われ、弥生時代の集落跡や集落を囲む溝状遺構・土器・石器・建物部材や木器・種
	実類等の出土がみられた。
	特に二重口縁の幅広い部分に特殊な櫛目模様を施す土器がみつかり、遺跡吊を付して「安国寺式土器」という吊で呼ぶことになった。
	平成4年には国指定史跡となり、平成10年に体験学習館ができ、平成13年3月に全体が完成したもの。今から約1800年前の弥
	生時代の居住体験や稲作体験、発掘体験、弥生時代の暮らしなど、さまざまな体験ができる体験型史跡公園である。

	■ 休館日:月曜日よ祝日の翌日、12/28〜1/3
	■ 開館時間:9:00 〜 17:00
	■ 入館料金:一般(高校生以上)200円、子供 100円







































◆ 国東半島とくれば、当然石仏の展示もある。








	国東半島	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	国東半島国東半島(くにさきはんとう)は、大分県の北東部に位置する半島である。大分県北東部に位置し、南側を別府湾、東側を伊予
	灘、北側を周防灘に囲まれている。半島の中央部よりやや北寄りの内陸部には両子山(標高721m)をはじめとする山々がそびえており、
	そこから丘陵地が海岸に向かって放射状に伸びる。海岸線は北部においては小さな入り江と岬が連続するリアス式海岸となっているが、
	全体的には円に近い形を描いている。日本の秘境100選に選定されている。また、半島北側の海上には姫島がある。

	奈良時代から平安時代にかけて、仏教(天台宗)に宇佐八幡の八幡信仰(神道)を取り入れた「六郷満山」と呼ばれる仏教文化が形成さ
	れ、山岳地域の険しい山道を歩く「峰入り《と呼ばれる難行が行われるようになった。「六郷」とは、来縄(くなわ、現・豊後高田市)
	・田染(たしぶ、豊後高田市)・伊美(いみ、国東市国見町)・国東(国東市国東町)・安岐(あき、国東市安岐町)・武蔵(むさし、
	国東市武蔵町)の6つの地域を指しているといわれる。現在でも内陸部を中心に多数の寺があり、観光吊所となっている。
	また、江戸時代のキリスト教徒で、日本人として初めてエルサレムを訪れたペトロ・カスイ・岐部の出身地でもある。

	かつて、大分交通国東線が杵築市の杵築駅から国東町(現・国東市)の国東駅までの間を結んでいたが、1966年に全廃された。JR九州日
	豊本線が、半島の付け根を国道10号とほぼ併走している。 半島の付け根に沿って国道10号が通り、海岸線に沿って国道213号が通ってい
	る。内陸部は県道が整備されている。山口県周南市(徳山港)と国東市国見(竹田津港)の間にフェリーが運航されている。大分市(大
	分港)と大分空港の間にホバークラフトによる航路がある。 
















	姫島の黒曜石は韓国南部でも発見されている。だとすれば、国東半島の縄文・弥生人は韓国にも行ったのだ。古くから朝鮮半島と交流が
	あったとすれば、これは宇佐神宮に祀られている神が、ホントは新羅の神ではないかと思っている私の意見を支えてくれるような気がす
	る。











西日本の縄文土器は、その装飾性に於いて東日本とは著しく異なる。





















◆ 安国寺式土器などの弥生式土器。























◆ この遺跡で発見された三又鍬は西日本で初めての出土だった。。



◆ 弥生時代の織機(高機:たかばた)に使われた紡錘車。











































































河姆渡(かぼと)遺跡と安国寺遺跡展














	以下青字部分の解説は、「邪馬台国大研究HP」の中の「博物館めぐり」、「福井県三方町/三方縄文館にて 中国・河姆渡遺跡展」
	に書いたものを転記した。河姆渡遺跡の影響を受けていない弥生遺跡などは日本には無いので、全国アチコチの博物館・資料館で
	「河姆渡遺跡展」が行われている。


	●河姆渡文化 かぼとぶんか

	浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の東部地区に分布している。河姆渡遺跡には
	四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上
	の両層よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の上整形で,低温で焼かれた夾炭黒陶が最
	も多く,混ぜられた?物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第
	1層に至るほど漸減し,第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優となる。第4層の土器の主なものに,釜・罐
	(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特
	徴とする見解がある。
	第3層出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,東アジアに特徴的な穀物を蒸して
	食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。
	遺跡層が地下水面下にあったため,多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,組み合
	わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。第4層には骨器が非常に多く,石器は少ないが,第1層に至るほど,石器が漸増
	して骨器が漸減し,河姆渡文化では骨器の比重が大きかったことが知られる。
	骨器には鏃・針・管状針・梭形器・笛などあるが,大型哺乳動物(水牛■)の肩胛骨を加工した多くの耜が注目をあびた。石器は小
	型のあらい磨製で,斧・手斧・のみ・紡錘などがある。第4層の住居址に,多くの稲の穀粒・茎葉の堆積が発見された。栽培稲のセ
	ン(注1)は、亜種晩稲型水稲と鑑定され,紀元前約 5000年のもので,現在のところ,東アジアにおける水稲の最古の実物標本とい
	われている。
	また,とち・ひし・桃の実,ヘちま・はとむぎや,なつめの一種なども出土している。家畜には犬と豚がおり,水牛もいたようであ
	る。土器面に豚,または豚と稲穂の刻まれたものがあり,小型の陶豚もある。ほかに,多種類の獣・鳥・魚などの骨も出土している。
	当時の河姆渡地域では,すでに骨耜・木耜などによる稲作農耕が行われ,家畜を飼育し,狩猟・漁労や採集もかなりの比重を,占め,
	種々の生産・生活の器具を作り,紡織も行われていたのである。住居は大きな材木で構築された高床式で,柱をくりぬいてはりや板
	をはめこむなど,やや高い技術が用いられている。
	素朴な芸術品も多く,木彫の魚,骨彫の匙・こうがい,陶製の魚・人頭像,象牙彫の鳥などのほか,玉製の管・珠・ケツ・コウの装
	飾具がある。また朱紅色の漆器の木碗もあり,生漆と鑑定され,中国で最古のものといわれる。出土した50余種属の動物の生態およ
	び■物遺存と花粉分析が明らかにした?生の状態から推測すると,当時この一帯は,現在よりも温暖多湿で,現在の広東・広西等の
	地区に近く,山麓に接した大小の湖沼が散在する草原灌木地帯であったようである。河姆渡文化の年代は,ほぼ紀元前5000年ごろに
	あたるといわれ,揚子江下流域における最古の新石器文化であり,黄河中流域や山東地域の文化と並んで,中国の早期新石期文化の
	一つの中心である。 
	【中国社会科学院考古研究所編著『新中国的考古発現和研究』1984,文物出版社】




















	上海の南に河姆渡(かぼと)という遺跡がある。1973年から78年までの文化大革命のさ中に、ここからB.C.5千年の地層
	から栽培稲の稲束が発見されて、世界中は騒然となった。世界4大文明と称される中国の「黄河文明」と時を同じくして、長江(揚
	子江)流域にも古代文明が存在していた事実が明らかになったのである。発見された稲束は、10cm〜80cmに及ぶ厚みを持っ
	た稲籾(もみ)とわら束だった。
	この膨大な量から、これらの稲は外部からの転入ではなくここで栽培されていたものであることが明らかであった。この発見は、文
	明の発祥のみならず、稲の発祥についても、これまで言われていた学説を覆した。これまでの稲の発祥に関する学説は、日本の?物
	学者である渡部忠世氏が唱えた「インド・アッサム地方*中国・雲南省が稲の起源」というものがほぼ定説だった。
	中国の考古学者達はこれに異論を唱えていた。考古学的な証拠がない、雲南省の稲遺跡は紀元前3000年くらいで、稲はもっと古
	くから栽培されていたはずだと。そして河姆渡遺跡の発見である。今から7000年前に稲があったのだ。
	さらに、これらの稲は野生種ではなく、日本の縄文時代におそらくは焼き畑で栽培されていたと思われている熱帯ジャポニカと同じ
	ものであることを、同じく日本の植物学者が証明した。このホームページでは頻繁に吊前が登場する、静岡大学農学部助教授、佐藤
	洋一郎氏である。しかも佐藤氏は渡部博士の弟子である。弟子がDNA分析という最新技術を用いて、師の説を訂正したのだ。
	「DNAが語る稲作文明」(日本放送出版協会)

	遺跡からは、野生種「ルフィポゴン《も見つかった。栽培の元になった野生稲である。これで、ここが稲の栽培源流地であることが
	ほぼ確定したと言える。現在野生種はこの地方には生育していないが、水牛や象の骨が発掘されているので当時はもっと気温が高く、
	上海の北あたりまで野生種は生えていたと考えられる。河姆渡遺跡発掘の後、長江流域で次々に遺跡が発掘され、今の所一番古い遺
	跡は14000年前の「仙人洞遺跡」とされるが、これは栽培稲の測定はされていないので、今の所学会定説としては「稲は、長江
	流域でほぼ10000年前くらいに栽培が開始された。」と言うことで合意をみているようである。細かい年代測定については諸説
	あるが、栽培稲がインドではなく、長江中下流域で生まれたという説には反対意見はないようだ。

	これらの遺跡の発見は、古代、米を基盤とした文明がこの流域にあったに違いないという推測を生み、予想通りその後から、B.C.
	4500*B.C.2000にかけて、城壁のある都市が長江流域一帯に建設されていたことが判明した。
	下流の良渚(リョウジョ)文化は、黄河文明の「夏・殷・周」に最高の社会的身分制度を表わす「鼎(てい)、豆(とう)、壺(こ)」
	という青銅器三点セットを伝えたことも分かってきた。まだ文字の発見はないが、(発見は)時間の問題という学者もいる。

	日本への稲のルートについても、朝鮮半島経由というのがこれまでの主流だったが、日本最古と言われる岡山県朝寝鼻遺跡のプラン
	トオパールは、水田稲とも陸稲とも区別が付かない「河姆渡」型の稲であり、起点と終点が同じと言うことになれば、必ずしも朝鮮
	を経由していない稲がある可能性も俄然高まったといえる。またかって柳田国男が唱えた、いわゆる第三のルートといわれる「南か
	らの海上の道《についても、このルートを通ってきた稲が熱帯ジャポニカであることが佐藤助教授の分析で明らかになっている。
	つまり稲は、3つのルートの全てから日本列島にもたらされたことになるのだ。それにしても、静岡大学の佐藤先生は国際的に活躍
	している。全く「泣く子も黙るDNA」である。




	これまで黄河文明は中国古代文明の代吊詞とされてきた。中国北部では、狩猟、採集生活をいとなんでいた旧石器時代の遺跡が山西
	省丁村(ていそん)などで発掘されている。旧石器時代の人々は水辺でキャンプ生活をし、石器を使用していた。
	のちには?物栽培や家畜飼育もはじまる。1970年代には前6000〜前5000年にさかのぼる磁山文化や裴李崗文化という新
	石器時代早期の遺跡が黄河中流域でみつかった。だが近年の中国考古学の成果は、黄河流域以外の地域にも存在した多様な地方文化
	の実態を明らかにし、中国文明の起源を一元的にみなしてきた旧来の解釈はすでに過去のものとなっている。

	中国の稲作の起源は諸説あるが、前7000年頃の長江中流域の彭頭山(ほうとうざん)遺跡から籾痕(もみこん)のある土器、同じ
	く長江中流域の遺跡から前6000年前の栽培稲1万2000粒、さらに長江下流域の河姆渡(かぼと)遺跡で大量の稲籾が発見さ
	れ、三星堆遺跡からはさらに大規模な農業王国とでも呼べる痕跡が報告され、農耕に基盤をおく長江文明の存在が明らかになった。
	日本文化とふかい関りをもった江南の文化遺跡の各時代はつぎのように整理される。

		河姆渡遺跡   約7千年前から5千5百年前
		馬家浜文化   約6千年前から5千年前
		良渚文化    約5千2百年前から4千2百年前
		馬橋文化    約4千年前から2千7百年前

	これは日本の文化区分にあてはめると、縄文時代の早期から弥生時代前期にあたる。河姆渡遺跡は、中国浙江省にある長江下流の新
	石器時代の遺跡で、1973〜78年の2度の調査で、黄河文明と同時期に長江文明とでも呼ぶ一大文明が、河南地方に存在してい
	たことが明らかとなった。今の所、中国最古級の新石器文化である。浙江省にあり、7000〜5000年前に稲作をおこなってお
	り、稲の籾が大量に出土した。
	動物の肩甲骨や木で作った鋤で土地を耕し、貝殻で作った刃物で稲の穂を摘んでいた。木で作った杵が見つかっているので、籾を臼
	に入れて脱穀していたようだ。米は甑を使って蒸して食べていた。飼っていたブタは食料であり信仰の対象でもあった。石斧で木を
	切り削って高床式の建物を低地に建てて住んでいたと考えられ、その形態は佐賀県菜畑遺跡の有様と酷似している。杭州市にある同
	省文物考古研究所によると、河姆渡遺跡では1970年代の発掘調査で、5千9百年から6千4百年前の層から赤漆塗りの椀、7千
	年前までの層から漆塗りとみられる筒が出土したほか、ウルシの花粉や漆が塗られたとみられる土器なども見つかっている。
	現在日本の漆工品で最も時代が古いとされているのは、福井県三方郡三方町の縄文前期遺跡である鳥浜貝塚からの出土品で、約6千
	年前の朱塗りの櫛だが、世界最古の漆工品は、約7千年前の河姆渡遺跡から出土した朱塗り椀という事になった。
	河姆渡の人々は、狩猟採集とともに稲作を行っていた。その暮らしの中で、どのように漆を発見したのかそれはいまだに謎だが、固
	まった漆には強い接着力があるから、初めは接着剤として用いたのかもしれない。現に河姆渡遺跡から、漆で接合したとみられる農
	耕具が見つかっている。


















	1万2千年前の栽培稲が出土 中国湖南省・長江中流域で

	中国の長江(揚子江)中流域の玉蟾岩(ユイチャンイエン)遺跡(湖南省道県)から出土した米粒が、1万2000年前の栽培稲だ
	ったことが明らかになった。国営新華社通信が28日伝えた。これまで稲作の起源は、長江中流域の別の遺跡から見つかった約80
	00年前の栽培稲が最古とされていた。最近、長江下流の浙江省の遺跡からは約1万年前の栽培稲のもみ殻が見つかったが、今回の
	発見で、稲作の起源はさらにさかのぼる可能性も出てきた。
	湖南省考古研究所と北京大学考古文博学院、米ハーバード大などの合同グループが玉蟾岩遺跡を調査した。同研究所や新華社の報道
	によると、昨年11月、地面から1メートル余りの深さの地層から、炭化した米6粒と小さな陶片一つが出土した。米粒は陶片の下
	の地層から見つかった。
	1万2000年以前の旧石器から新石器時代に移行する時期のものとみられ、さらに年代をさかのぼる可能性もある。米粒の年代は
	米粒そのものではなく、地層の年代測定から推定したという。調査グループによると、米粒の大きさ、重さ、長さが野生稲と異なっ
	ており、野生稲から栽培稲への過渡期に当たるものとされる。
	同遺跡からはこれまでにも、旧石器時代から新石器時代への移行期の石器や棒器、動物の骨、種子などが大量に出土している。湖南
	省考古研究所の袁家栄・所長は朝日新聞に対し「これまで見つかった中では世界最古の栽培米で、長江中流域では、1万年前にすで
	に稲作が存在していた証拠だ《と話している。【朝日新聞 2005年01月29日(土) 】







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