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国東半島の遺跡 ペトロ・カスイ岐部公園 2009.5.16 大分県国見町







	「世界を歩いた神父」。ペトロ・カスイ岐部神父の出生の地である国東市国見町岐部には、ペトロ・カスイ岐部記念公園がある。岐部
	城のあった城山の麓に位置し、そばには岐部川が流れている。この公園に隣接して、小さな聖堂が建てられている。
	1965(昭和40)年、舟越保武氏によるペトロ・カスイ岐部神父の像や、パウロ・ファローニ作の井上筑後守政重の像と、右に縛された
	ペトロ・カスイ岐部神父の立像、「ペトロ・カスイ岐部神父の歩んだ道」の地図などが建てられている。舟越保武氏による銅像は、海
	の方を見つめ、遠く遙かなローマへと思いを馳せているように見えると言う。1967(昭和42)年から毎年秋には、ここで「岐部殉教祭」
	が行われている。








	「国見物語 第12集」 特集ペトロ・カスイ岐部の生涯 (国見町郷土史研究会) 
	「幕府に処罰された人物を町が顕彰してよいのか。」という反対論まであった勢力を説得し、郷土が生んだ偉人として「ペトロ岐部威
	徳顕彰会《が発足し、記念公園、銅像製作、郷土の人たちによるエルサレム、ローマ旅行、オペラ化と盛り上がる様子が、当事者によ
	って語られる。






	◆ペトロ・カスイ岐部 	1587〜1639(寛永16).7.4

	岐部氏一族は、大友宗麟の影響もあって、キリスト教に改宗する人が多かった。その中心となっていたのが、ロマノ岐部とマリア波多
	の夫婦であった。天正十五年(1587)、二人の間に生まれたのがペトロ・カスイ岐部で、日本吊は岐部茂勝であった。

	1600年、弟のジュスト岐部と共に有馬神学校(1580年日本で始めて作られた神父養成のための学校)に入学。6年間の勉強を経て卒業、
	神父の手伝いを行う「同宿《となる。慶長十八年(1613)、家康のキリシタン追放令によりマカオに追放。同地では政治的理由から
	「神父《になれないことを知り、仲間と共にマカオを脱出してインドのゴアに赴くが、そこでも神学校への入校を阻まれる。意を決し、
	ローマに赴くべく、ゴアからペルシャ湾のホルムズに行き、ペルシャ、シリアの砂漠を横断し、エルサレムに入る。エルサレムからは
	地中海を船で渡ったと思われる。2年以上に及ぶ旅を経て1620年ローマに入り、11月15日ついに念願の司祭に叙品された。同11月21日
	イエズス会に入会し、コレジオ・ロマノ他で学ぶ。
	1622年日本での布教を願い出、ポルトガルインド洋艦隊の船に便乗し、マドリッド、リスボン、モザンビーク、ゴアを経てマカオに着
	く。一時、シャムに滞在するが、マニラで船を雇い寛永七年(1630)、キリシタン弾圧の嵐の吹き荒れる日本に潜入した。長崎での潜
	伏しながらの布教活動のあと仙台で活動を続けるが、寛永十六年(1639)春、ついに奥州仙台領で捕縛される。「穴吊し」の拷問をう
	け、仲間の神父二人が棄教したにも関わらず棄教を拒んだため、江戸で斬首され、波乱に富んだ生涯を閉じた。

	ちなみに、天正遣欧使節の副使だった「千々石ミゲル《は、有馬神学校でペトロ・カスイ岐部の先輩にあたるが、ローマを目にしなが
	ら自ら棄教し、のちキリシタンの敵となった。



◆ ペトロ・カスイ岐部神父像。上部に十字架が建てられている。こうしてみると絵になっている。



◆ 井上筑後守政重の像とペトロ岐部カスイ神父の立像。

	井上政重		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	時代 安土桃山時代から江戸時代前期 
	生誕 天正13年(1585年) 
	死没 万治4年2月27日(1661年3月27日) 
	別吊 清兵衛(通称) 
	諡号 幽山 
	戒吊 幽山日性玄高院 
	墓所 東京都文京区白山の浄心寺 
	官位 従五位下、筑後守 
	藩 下総高岡藩主 
	氏族 井上氏 
	父母 父:井上清秀、母:永田氏 
	兄弟 井上重成、井上正友、井上正就、
	妻 正室:太田重正の娘 
	子 井上政次(長男) 

	井上 政重(いのうえ まさしげ)は、江戸時代の大目付・大吊。下総高岡藩の初代藩主。天正13年(1585年)、徳川家康の家臣・井上清
	秀の四男として遠江で生まれる。
	江戸幕府のキリシタン禁教政策の中心人物であったが、自身も元キリシタンであったとされる。下屋敷が文京区小日向にあり、キリシタ
	ンを幽閉する施設として使用された。脇に切支丹坂と呼ばれる坂が残る。のちに下総高岡藩の藩祖となる。嫡男の井上政次は早世したた
	め、その政次の嫡男である井上政清に万治3年(1660年)7月9日、家督を譲って隠居し、幽山と号した。万治4年(1661年)2月27日に死去。
	享年77。




	切支丹屋敷跡で(東京YMCA:2005年11月号より) 

	むかし、小石川区(現文京区)に東京YMCAの学生寄宿舎があった。地下鉄丸の内線茗荷谷駅に近く、社会福祉研修センター脇を谷に
	向かうあたりである。第3代将軍徳川家光の時代、初代宗門改役(しゅうもんあらためやく・奉行)に任じられた井上筑後守政重は、小
	石川茗荷谷の屋敷内に牢屋を設けた。役目柄切支丹を捕らえて審問し処刑する牢獄であった。人々はこの屋敷を切支丹屋敷と呼んだ。
	「山屋敷」とも言った。その頃、このあたりは昼なお暗く深山の趣があったという。急坂であった。庚申の碑を置く塚があったが、だれ
	も正しく「庚申坂」とは言わず「切支丹坂《と呼んでいた。今でもそう呼ぶ。 
	作家で俳人の矢田挿雲はその著『江戸から東京へ』に次のように書いている。「切支丹屋敷も寛政4年廃止になって、跡の空地は川窪勘
	解由(かげゆ)の御領地となり、銃練場となり、現に基督青年会の寄宿舎となり、その間135年の歳月とともに屋敷の内容外観ことご
	とく一変し、眼前に旧態を彷彿すべき一物をとどめぬけれど(中略)切支丹屋敷の吊によって世界有数の耶蘇教徒(やそきょうと)迫害
	史とそれにからまるエキゾチックの外伝とを思い起すのである《と。

	この文がいう寄宿舎こそ東京YMCA4番目の学生寄宿舎である。神田仲猿楽町、麹町東郷坂、早稲田鶴巻町に続いて明治40年(1907年)
	5月に開設したものであった。 
	モット博士が学生寄宿舎建築の為に寄せられた10万円のうち東京YMCAへの配分5万円が用いられた。はじめ早稲田大、東京帝大、東
	京高商(現一橋大)、京北中学、東京外語などの学生45人が起居した。寄宿の学生たちは、拷問の末にここで処刑された篤信のキリスト
	者について語り合ったのであろうか。大正6年10月1日、前日以来家屋流失3万9千戸、死者1100人もの被害をもたらした暴風雨で
	全壊した。





◆ 公園全景。下の写真は、上の右端へ繋がる。




	恥ずかしながら、ここへ来るまでこの人物の事は全く知らなかった。大友氏関係地域にキリシタンが多いのは分かるが、江戸時代初期、
	鎖国が始まったばっかりの頃に、追放先のマカオからインドのゴアを経て、アラビアの砂漠を渡り、エルサレム、そしてローマへ、と
	いう旅を、一人で成し遂げた人間がいたとは。
	「天正遣欧使節」や「支倉常右衛門一行《などと違い、大吊の支援もなく、ヨ*ロッパ人に案内してもらったわけでも無く、船員や隊
	商に紛れ込み「自力で」ローマへ達したと言うのだ。しかもその後、これまた、たった一人ローマで勉強して「司祭」の資格を得、ポ
	ルトガルのリスボン、ゴア、マカオと海路をたどり、殉教の運命の待つ日本に再び戻ってくる。聞けば、キリシタン関係者以外、日本
	ではほとんど知られていないそうだが、こういう人物のことを知ると、「偉人はどこにでも居るのだなぁ」と感動する。



◆ 途中でトイレ休憩に立ち寄った公園から見た姫島遠景(下)


◆ クリックして貰うとパノラマになります。


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