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国東半島の遺跡 鬼塚古墳 2009.5.16 大分県国東市国見町





	「えぇ、こんなトコを入って行くん?」と言うような道を運ちゃんは「確かここですわ」とぐいぐい入って行く。中学生の頃一度来た
	ことがあると言うのだ。運ちゃんは昔、この下の中学校に通っていたと言うから、それなら確かだろうと思ったが、果たして引き返せ
	るのだろうかというような道には心配した。左隅に立っているのが運ちゃん。



◆ 古墳の下はズーツと斜面で、そこに果樹園らしきものがあったがまるで見たことない樹木だった。
 それもそのはず、銀杏を取るためのイチョウ畑だった。イチョウを栽培しているなんて始めて見た。




	鬼塚古墳 (大分県国東市)		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	鬼塚古墳(おにづかこふん)は、大分県国東市国見町大字伊美字中にある古墳。1957年11月28日に国の史跡に指定されている。竹田津
	港を望む丘陵にあり、11基の古墳からなる西山古墳群のひとつである。東西方向の径が10メートル、南北方向の径が13メートルの円墳
	で、6世紀頃の築造と推定されている。
	斜面に半地下に埋め込まれた横穴式石室を有し、玄室の内壁に装飾が施されている。奥壁には鳥、舟、舟上の人物、左壁には多数の鳥
	の群れ、右壁には向かい合う2羽の鳥が、それぞれ線刻で描かれている。漁をする人物の絵が描かれていることから、被葬者は、海に
	関連が深いこの地方の権力者ではないかと考えられている。ただし、後世の追刻が多数あり、彫りが浅いこともあって元々の描線を判
	別するのは困難な状態である。
	墳丘は復元され、周囲は整備されている。古墳からの出土品は、国東市国見町岐部の「国見ふるさと展示館」で展示されている。












	【鬼塚古墳】

	鬼塚古墳は、国東半島の先端、竹田津<たけたづ>湾を一望におさめる丘陵の傾斜地に営まれた十一基からなる西山古墳群中の一基で
	ある。径約六mの小円墳で、南面して横穴式石室が構築されている。現在はわずかに石室を覆う程度の封土をもつ。石室は安山岩の割
	石によって築かれ、羨道<せんどう>と玄室<げんしつ>とよりなり、羨道部は幅一.一mで、現在側石は埋まり天井石を失っている。
	玄室は高さ約二.二m、奥行三.二m、幅約一mの長方形を呈すもので、各壁は大形の腰石を配列し、上方にかけてわずかに迫りを持
	たせて自然石を平積にしている。
	奥壁の右腰石<こしいし>並びに左右の側壁の一部に線刻画が描かれているが、奥壁には数隻の舟と舟上の人物がみえ、その周囲には
	帆船や鳥獣、樹木などが、また右側壁には向い合う二羽の鳥が、左側壁には群れなす鳥が、それぞれ単調な線刻で描かれている。右側
	壁の向い合う二羽の鳥以外は、いずれも線刻に重複が多く、縦横に無数の線刻があり、描かれた線画を詳細に見ることはむずかしい。
	総体に描法は自在で素朴であるが、写実性があり、構図のうえでみるべきものがある。彩色壁画の持つ呪術的文様に比べて抒情的表現
	がみられ、画題の多い点においても、大分県内の古墳線刻壁画中の代表的なものである。
	(安藤 孝一)














	鳥・舟・木葉を描いた線刻装飾古墳

	〈所在地および立地〉
	東国東郡国見町大字中2428の1番地にある線刻画の装飾古墳 。国指定史跡。国東半島の先端にある 竹田津(たけたづ)港を望む標
	高110mほどのなだらかなオノ山の頂部に営まれた11基からなる 西山古墳群 のうちの1基である。古墳群からの眺望はよく、黒
	曜石で有吊な姫島はもちろん、晴れた日には遠く四国や山口県沿岸の山々まで見渡すことができるが、古墳自体が小形であるうえ、わ
	ずかな傾斜地に半ば埋め込むように築造しているため、逆に海上からの目印になることはない。西山古墳群のうち現在も位置が確認で
	きる古墳は8基で、鬼塚古墳は頂部を占める6基のグループに属す。わずかに南斜面側に位置するため竹田津港を眼下に見下ろす立地
	である。西山古墳群の考古学的調査は、鬼塚古墳以外行われていないので詳しいことは分からないが、鬼塚古墳とほぼ同じ構造をもつ
	6世紀後半前後の古墳とみられる。
	この種の群集墳は通常やや下位のクラスの古墳とみがちであるが、この地域に西山古墳群以外に古墳が存在しない事実から、やはりそ
	の時期の首長層の墳墓とみるべきである。

	〈墓前祭の情況を物語る出土品〉
	鬼塚古墳は、南面する丘陵緩斜面に石室を半地下式に埋め込むようにして造ったいわゆる山寄せ式の古墳で、南側に開口し、背後の斜
	面には扇形の削り込みが見られる。このため外形は意外と小規模で、南北の主軸方向にやや長くおよそ13.4m、東西10.2mほどの楕円
	(だえん)形をなす。外周の濠は傾斜地のため全周を巡らず、2.5〜3mの幅で馬蹄(ばてい)形に付く。
	石室は大形の安山岩(あんざんがん) 系石材を用いた「羽子板《状を呈する単室の横穴式石室 である。玄室(げんしつ)の規模は奥行き
	3.8m、幅は奥壁側で約2.3mある。
	袖石(そでいし)の間隔は約1.3mで 羨道(せんどう)部の幅にほぼ一致する。羨道部は石積みがしだいに傾斜しながら墳丘裾部まで達し、
	前庭部ないしは墓道的要素の部分と上可分であるが、全長約4.2mのうち天井石で覆われるのはマグサ石から約2.5mの間である。羨道
	部床面は袖石から1.8mのところまでは石室から続いてほぼ水平の石敷きが行われ、羨道はこの位置で閉塞される。
	鬼塚古墳が早くから開口していたらしいことは、内部で発見された12〜3世紀ごろの土器や、玄室に16世紀ごろ営まれた2基の土
	壙墓(どこうぼ) などによって分かるが、そのため古墳に伴う遺物はあまり多くはない。石室及び閉塞部までのところから刀片鉄鏃(て
	つぞく) 大刀金具 金環 ガラス玉 須恵器(すえき)坏 高坏(たかつき) などが出土した。一方、閉塞部とその外側の前庭部からはほぼ
	原状を保って 須恵器 類が発見された。平瓶が7点と多く、その外坏 高坏 蓋付壷 提瓶 土師器(はじき) 壷(つぼ)などがあり、鉄鏃
	も出土している。これらの遺物は、古墳閉塞に伴う祭と墓前 祭祀(さいし)の情況を物語る。

	〈線刻壁画〉
	鬼塚古墳を特徴づける線刻画は、玄室奥壁ならびに左右の壁の各1石にみられる。壁石の表面がやや風化して柔らかいため後世の追刻
	が多く、オリジナルの刻線を明確に判別するのは極めて難しいが、画題は樹木や木葉、鳥といった自然の景物と、舟やそれに乗った人
	物あるいは梁のようなものが稚拙なタッチで描かれており、 漁撈(ぎょろう)を中心とした日々の営みを表したものと考えられる。
	東九州の線刻装飾古墳には、鬼塚古墳のほかに玖珠町 鬼ヶ城古墳 福岡県穴ヶ葉山古墳などが知られているが、ともに鳥や木葉といっ
	た画題を描いている点で共通性がある。[真野 和夫]



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