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歴史倶楽部 第142回例会 吉野から宮滝へ 2009.4.26 奈良県吉野町


	
	第142回例会 吉野から宮滝へ
	吉野の葉桜を見て、万葉の道を宮滝へ
	
	日時 : 4月26日(日)
	集合 : AM10:00 近鉄吉野線「吉野駅」集合
		<大阪から>
		大阪阿部野橋 08:40出発 09:55到着時間:1時間15分(乗車1時間15分)
		運賃:片道1,450円(乗車券950円 特別料金500円) 
		距離:64.9km 乗り換え:なし
		<奈良から>
		近鉄奈良線急行・京都行 08:19〜08:24 大和西大寺 08:28〜09:03 
		近鉄橿原線橿原神宮前 09:16〜09:55 近鉄吉野 1時間36分
		(乗車1時間19分) 運賃:片道1,330円(乗車券830円 特別料金500円)
	装備 : 弁当、水筒、防寒具、雨具、そのた
	散策路: 何とか以下の地図をプリントアウトして、当日ご持参下さい。

	











	
	高野さん、乾さんは禁煙車へ行ったので、私だけ喫煙車に乗ったが終点の吉野までっていたのは私だけだった。「発行証明書」な
	どがあるのは始めて知ったが、どうやら「領収書」という事のようだが、なぜ単に「領収書」ではいけないのだろうか。



	
	吉野駅前にて記念撮影。本日の例会は実は前日までに「中止」となっていたのである。前日まですごい雨で、これでは道路はぬか
	るんでとても歩けないだろうという意見を入れて中止にしたのだが、当日の空模様をみると何とか行けるのではないかと思い直し
	て有志を募った。錦織さん、高野さん、乾さんが賛同してくれたので本日の例会は有志で決行となったのである。


	
	また、本日は快適なハイキングだったので、その旨を後日掲示板に書いたら、リターンマッチをしたいという人もいて、本日参加
	していないメンバーで、連休後の5月7日に再決行となっていたのだが、あろうことか連休後半も雨が降り続いて、5月6、7、
	8日、関西は雨が降り止まず、結局一日中降っていたので、とうとう再決行も中止になってしまった。
	私は4,5、6日は東京に居て、6日にガラガラの中央道−名神と帰ってきたのだが、途中でパラパラしだして、「こりゃ明日は
	ヤバイぞ。」と密かに思っていたが案の定だった。何とついてない事よ。宮滝で温泉に入りたかった。



	●吉野山
	吉野山は奈良県の中央部・吉野郡吉野町に位置する山。国の史跡・名勝。吉野山の山頂とされる地点は、国土地理院発行の地勢図
	には示されておらず、各出版社が発行する地図によっては位置や標高がまちまちである。吉野山といえば吉野大峯ケーブル自動車
	吉野山駅付近の「下千本」と呼ばれる地域から南方向の吉野水分神社あたりの「上千本」呼ばれる地域一帯を指すのが一般的であ
	る。大峰信仰登山の根拠地であり、日本史上の転回点にもたびたび登場している。古くから花の名所として有名。この一帯は1936
	年吉野熊野国立公園に指定されている。さらに吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が2004年7月、「紀伊山地の
	霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録された。





吉野杉は、おかしいほどに真っ直ぐである。よくここまでと思うくらい、立派に枝打ちが行われている。



「温泉に入っていこうか」という声もあったが、「くったりして歩けないかも」と言うことで先を急ぐ。



遅咲きの八重桜が、ポツリ、ポツリと新緑の山肌に色合いを添えていた。



	
	●如意輪寺(にょいりんじ) 
	当山は、塔尾山 椿花院 如意輪寺といい、本尊は如意輪観世音菩薩である。
	創建は延喜年間(901〜922)、日蔵道賢上人の建立と伝えられ、後醍醐天皇の勅願寺とされた寺。南北朝以後 衰退の当山
	を慶安3年鉄牛上人の再興により浄土宗に改め現在に至っている。

	楠木正行(まさつら:正成の長男)が大阪四条畷(しじょうなわて)の戦い(足利尊氏軍との戦)に、出陣前、鏃(やじり)で記
	した辞世の歌が堂の扉に残っている。境内には正行一行の髪を埋めた鬢塚(もとどりづか)もある。
	また宝物殿に安置されている蔵王権現像(重文)は鎌倉時代中期、1226(嘉禄2)年の作。桧の寄木造り、極彩色の像で、役行者が山
	上ヶ岳で感得した蔵王権現の忿努(ふんど)の姿をみごとに表現している。

	本堂の背後には足利尊氏により京を追われ、吉野の地で死去した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)、世泰親王墓が
	あり、通常、御陵の正面は南側を向いているのだが、ここでは京都へ帰りたくて果たせなかった後醍醐天皇の志を偲んで、京都方
	面に向けて北向きとなっている。



	
	私は吉野は四度目である。そういえば前回例会で吉野山を一周したときも雨だった。あの時は結構降って、秋山さんはロングスカ
	ートで雨の中を歩き回っていたなぁ。まだ平さんも河原さんもいたし、帰りに「ヤタガラス」という吉野の地酒を買って帰った。



	
	如意輪寺	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	如意輪寺は、奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。山号は塔尾山(とうのおさん)。本尊は如意輪観音。本堂の背後には
	足利尊氏により京を追われ、吉野の地で死去した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)、世泰親王墓がある。
	平安時代の延喜年間(901年〜922年)に日蔵上人により開かれたと伝わる。南北朝時代には後醍醐天皇の勅願所とされた。慶安3年
	(1650年)、鉄牛上人という僧によって再興され、浄土宗に改宗した。
	正平2年12月(1346年)、楠木正成の長男・楠木正行が四条畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに当寺にある後醍醐天皇陵
	に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠んだという。正行は当寺本堂の扉に鏃(やじり)
	で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わる。
	芭蕉は、ここに立ち寄った折、「御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草」などの句を残している。

	金峯山寺、吉水神社などがある吉野山からは谷ひとつ挟んで離れた山の中腹に位置する。山門を入ると正面に寄棟造檜皮葺きの如
	意輪堂(本堂)があり、左方に庫裏、宝物殿、一段高いところに多宝塔がある。
	
	<文化財>
	・厨子入木造蔵王権現立像(重要文化財) 
	 蔵王権現像は嘉禄2年(1226年)仏師源慶の作。吉野曼荼羅を表した厨子も絵画資料として貴重なもの。厨子は像より1世紀ほど
	 後の延元元年(1336年)の作。像と厨子とは宝物殿内に別個に安置されている。 
	・紙本著色吉野曼荼羅(奈良県指定文化財) 
	・木造阿弥陀如来立像 - 平安時代前期、9世紀頃にさかのぼる作品である。 
	・楠木正行辞世の扉 
	 楠木正行が四条畷の戦いに出陣する時に、「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」と本堂の扉に辞世の歌
	 を刻んだ、その扉とされている。 
	以上の文化財は寺内の宝物殿にて公開されている。



南北朝の話はこのHPの中でもアチコチに書いたので省略するが、「よくもまぁ、こんな山奥で60年間も」と、来る度に感慨にふける。






ここの「役の行者」像は、「怒髪、天を突く」というのが彼のイメージの中で、おそらく一番優しい顔をしているのではないだろうか。




正行一行の髪を埋めた鬢塚(もとどりづか)。「髷(まげ)づか」と我々は読んだが、鬢(もとどり)だったのだ。










この山門が「奧千本」あたりから下ってきた所にある裏門である。前回例会の時はここへ降りてきた。



	
	楠木正成もそうだが、息子の正行も、戦いにゆく前に「今回で死ぬ」という事がわかっているのである。軍人というのはいつの世
	もそれが心構えなのかもしれないが、死地に赴く者の姿というのはいつの時代になっても涙を誘う。特攻隊の手記などというのは
	涙無しには読めない。それは彼等が、命を捨ててまで守るべきものがあると信じていたからであり、自分の死を越えても存在する
	何かを守ろうとするから美しいのである。その志が涙を誘うのである。教師に文句をいう親や、自分の事ばかり考えている現代人
	達は、はたしてこのままでいいのだろうか。「精神教育」は確かにややもすれば「反動教育」と紙一重の危険性を孕んでいるが、
	今のままの教育では、日本人からやがて「人間性」が消滅してしまうような気がして仕方がない。



「あすこが宮滝やね」「はぁー、すぐですね」「こんな地図ではわからんのちゃう」「うぅーん、でもたぶんこの山越えたらすぐでっせ」



如意輪寺から上がってきてハイウェイを横切った所にバス停があって、そこから宮滝への道が続いている。







新緑の中から蔵王寺付近を眺める。桜の季節には廻りが白とピンクに染まる。逆光なので写りは余り良くないがすばらしい光景だった。



うぅーん、桜がキレイだったんだがなぁ (++;)。逆光はあかんね。

ほどなく、宮滝への分岐点がある。左へ曲がって上ると、上千本、吉野水分神社へ通じている。





	
	<稚児松(ちごまつ)地蔵>

	どういう訳でここを稚児松と呼ぶのかは分からない。時代もいつのものやら分からないが、おそらく地元では何かいわれがある
	のだろう。如意輪寺から吉野水分神社へ登っていく狭い自然歩道の途中に祠があって、そこに小さなお地蔵さんが祀られている。
	宮滝へは、ここからゆっくりとした下りになって喜佐谷の集落を目指す。





	
	ここからは吉野杉の林の中を、ただただ降ってゆく。辺りは鬱蒼とした杉の森に覆われ、木漏れ日が暖かい。これなら夏は相当
	涼しそうである。おそらくは、頼朝から逃げる義経も、南朝方の武士達もここを通って行ったに違いない。途中、小さなせせら
	ぎや小川や滝があって楽しい山道である。昨日の雨もまったく影響が無い。空気はあくまで澄み、静寂に支配された空間である。



	
	見渡す限りの「杉の美林」だが、これでも最近はめっきり手入れが届かなくなっているそうだ。吉野ですらそうならこの国の林業
	は一体どうなるのだろうか。林業だけではない。農業も漁業も、日本の一次産業は将来どうなるのか。
	東大や京大を出た官僚達では、一次産業に対する施策はとうてい実施できないのではなかろうか。農水省に就職した官僚は、5
	年間ほど望む第一次産業に従事させたらどうだろうか。他の省庁もそうである。日本の官僚制度は一度根底から見直す必要があ
	りはしないか。
	幼稚園から大学、大学院と、税金で勉強して官僚になった連中は、一生を税金で暮らすのである。それならもっと国民にとって
	一番いい施策を考え出して貰いたいものだ。その為にこそ我々は税金で彼等を養っているのだから。今のままでは大塩平八郎で
	はないが、一揆を起こしたくなってくる。





	
	<象の小川>

	4,50分ばかり林の中を降ると、その昔、吉野巡りの旅人達が一息入れたという象(きさ)の小川の祠へでる。なんと本居宣
	長や葛飾北斎もここに来ている。祠の裏が、「高滝」と呼ばれた滝だ。この道の中では一番大きな滝だった。説明板を読むと、
	義経はここで馬を洗ったとある。馬もあの下り坂を降ってきたのか。まぁ、鵯越(ひよどりごえ)をするような義経だから、こ
	の下りなんぞは屁でも無かろう。ここで一服する。











これが高滝。葛飾北斎が描くような滝には見えんが。ほどなく広場に出て山道は終わりである。舗装道路に出て、人家が見える。





	
	喜佐谷集落の「象の小川」。なかなか良い。象の小川は今も喜佐谷部落の貴重な水源だそうである。喜佐谷の集落はここから1
	kmほど道に沿って続く。家々の屋根には雪止めがあった。冬には相当雪が降るのだろう、鄙びた寒村だ。「たおやかな時の流れ」
	とでも形容できそうな、まるで時間を忘れたかのような山村である。懐かしいような寂しいような集落の中を「宮滝」へ向かう。



喜佐谷の集落は吉野杉に囲まれている。



喜佐川を右手に暫く歩くと、右手前方に森が見えてくる。これが「桜木神社」だ。屋根付きの小さな橋を渡って境内に入る。









この神社の向かいの山が「象山」である。さすれば「象=喜佐=きさ」というのがこの地の語源かもしれない。









桜木神社の鳥居と拝殿。拝殿前は小さな広場である。
	<桜木神社>

	天武天皇が近江から吉野へ隠遁した時、近江から派遣された刺客に襲われたが、桜の木陰に隠れて難を免れたという伝説から、
	天武天皇を祭神にしている。拝殿の右側の一段と低い広場にゆったりとした休憩所がある。



桜木神社本殿の御神木の杉の木。「見上げるばかり」の高さである。いったい何年でここまでになるのだろうか。



	
	神社境内には屋根の付いた休憩所があるのだが、先に降っていた団体が占拠していたので我々は川原で昼食にする。喜佐川は
	岩を掘り窪めた渓流で、水清く、飲めそうである。実際飲めるのだろう。イワナやヤマメも棲んでいそうだ。





宮滝へ入る直前に、義経がうたたねをした橋の跡がある。ホンマかいなと思うが、地元では何百年も伝承されてきたのだろう。



	
	象の小川が吉野川に流れ込むところに「宮滝」がある。奇岩の間を流れ下る川は、万葉の古歌にもよく詠まれている。ここは古代
	の吉野離宮の在った所で、持統天皇は31回もここに行幸している。おそらくは、天武と過ごした吉野隠棲時代を懐かしんでか、
	あるいはこの雄大な景色に見せられてか、よくもまぁ31回も。



	
	吉野離宮(宮滝遺跡)があった宮滝。川底から白い大きな岩が盛り上がる。水流は岩の間を流れているが、昔はもっと水量が多くて、
	水が渦巻き、あちらこちらで滝になって流れ落ちていた。柴橋を渡って、川の向こう岸から下へ降りられるようになっているそうだ。



「柴橋」



	
	「柴橋」の上から川面にキラキラ輝く日の光を眺めながら、しばし絶景を楽しむ。現在は上流にダムがあって水量が少ないが、
	分水嶺である大台ケ原で大雨が降ると、橋げたが洗われるほどの「あらぶる川」になると言う。



	
	柴橋を渡ると左側に小学校がある。中荘小学校である。校門の横に宮滝遺跡についての説明板がある。縄文・弥生時代の遺跡が発
	掘されているいわゆる宮滝遺跡は、この小学校とその裏手一帯である。吉野川に沿った大地の上に古代人が住んでいた。太古から
	住みやすい環境にあったのだろう。またここは古代の吉野離宮も在った所で、数々の出土品がこの小学校にも保管、展示されてい
	ると言うのを後で知った。残念無念。しかし土曜日なので頼んでも誰もいなかったかもしれない。



	
	●宮滝遺跡(みやたきいせき)
	宮宮滝遺跡は、奈良県吉野郡吉野町宮滝に所在する、いくつかの異なった年代の遺構の存在するいわゆる複合遺跡である。宮滝の
	集落の旧道と吉野川の間の河岸段丘に広がるのが史跡宮滝遺跡。この遺跡は戦前末永雅雄氏によって発掘調査がおこなわれ、戦後
	国の史跡に指定された。現在吉野町が遺跡の公有化をすすめ、遺跡公園の計画を進めている。
	1930年(昭和5)から断続的に発掘が行われた。 縄文時代の後期〜晩期と、弥生時代の中期に、吉野地方きっての大遺跡として注
	目に値する遺跡である。多くの掘立柱の建物遺構と礎石を持つ建物遺構(9世紀のものも含む)、さらに敷石や溝の遺構、それと
	土抗から多数の土器が出土している。この遺跡は近畿のほぼ中心点にある。東への国道を行くと伊勢湾へ、西への国道を行くと紀
	伊水道に達する。南への国道を下ると紀伊山地を越して熊野灘に達する。宮滝から道を北方向にとると飛鳥や奈良にいたる。



	
	<縄文時代>
	縄文時代後期の土器で宮滝式土器と呼ばれる土器群がある。その呼称は、戦前の発掘成果によって末永雅雄が提唱したものである。
	この土器の分布の要になっているのが宮滝遺跡である。
	この土器の特色は、文様をつけるのに巻貝を多用していることである。巻貝の腹部を押しつけただけのものや押しつけたまま少し
	回転させて文様を付ける「扇状圧痕文」などがある。土器の表面につけた凹線も棒状、ヘラ状の道具を使用しているのではなく、
	やはり巻貝が使われている。 この巻き貝は海産のヘナタリで、それが宮滝系の土器に文様をつける道具として使われているとい
	うことは、山地と海との関係をたどる上で重要な資料である。宮滝系土器のように貝殻で文様をつけた土器は、貝は二枚貝である
	が、他にも縄文時代後期の土器で南九州の市来(いちき)式土器がある。この土器は薩南諸島ににも点々と及んでいる。

	<弥生時代>
	弥生時代には10基の竪穴住居と1棟の長方形の掘立柱建物、7基の方形周溝遺構などが発掘されている。この遺構から、弥生前
	期の土器が少数と弥生中期の土器が多数が出土している。前期や中期には、弥生時代の基本的な道具であるはずの磨製の石包丁、
	つまり稲の収穫具が見つかっていない。さらに縄文時代に使われていた打製石グワ(石斧)がなお弥生時中期にも多数伴って出土
	している。この点だけから言えば、少し進歩したはずの弥生人の生活も前の時代の縄文人の生活も余り差がなかったと推定できる。

	<飛鳥時代>
	吉野宮の所在については、吉野郡吉野町宮滝の宮滝遺跡であることはほぼ確定している。





<万葉歌碑> 見れど飽かぬ 吉野(よしの)の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく またかへり見む(巻1−37)

この歌は、持統天皇の行幸のいずれかの折に従駕し、詔に応じて柿本朝臣人麻呂が奉った歌である。



	
	醤油屋さん、土産物屋さんの側になにやら建物があって、中にはオートバイに乗った「雷神」像が安置されていた。吉野杉を使っ
	た「寄せ木彫刻」のようである。






	
	国道に出てバス停を通り過ぎて暫く行くと左手に宮滝醤油があり、その向かいが広場になっていて土産物を商う小さな店がある。
	広場の角を右へ曲がって、道なりに右へ坂道を上ってゆくと、左側の丘の上に吉野歴史資料館がある。
	この広場から資料館へ上ってゆく道の辺りに、持統天皇が31回立ち寄ったとされる吉野離宮があったとされている。周辺は発掘
	調査されていて、その復元模型が資料館に展示されている。この資料館は最近吉野町が建てたもので、玄関から吉野川の方を眺め
	ると、正面に象山(きさやま)、その向こうに青根ケ峰が見えて、眺望抜群である。






資料館から戻ってきて高野さんが醤油屋へ入るという。






	高野さんは、大の大豆好き(シャレかいな)だという。「豆腐とオカラがあったら何にもいりませんねん。」と言う程、味噌・醤
	油製品にも入れあげているそうだ。今日も「冷や奴」に合う醤油を一生懸命選んでいた。


バスで大和上市まで出て、例の如く「橿原神宮駅」構内の「きらく」で反省会。今回はトサカに来そうな程、注文が遅かった。



皆様お疲れ様でした。しかし、行けなかった人たちには申し訳無いですなぁ。ま、またリターンマッチしましょう。















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