Music: Mr.lonely

桜井から飛鳥へ 2010.6.5 西南学院大学同窓会関西支部




西南学院大学関西支部 第三回歴史ウォーキング 


		
	第三回 歴史ウォーキング「大化改新」の息吹をかぐ。 −飛鳥から紀州へ続く磐余(いわれ)の道−
		
	日時 : 2010年6月5日(土曜)
	集合 : 10:00JR桜井駅南口集合
	行程 : 10:15 桜井駅−百済大寺−安部文殊院−安部寺跡(安部史蹟公園)− 磐余稚桜神社(12:00頃昼食)−山田寺跡
			−国立飛鳥資料館−(解散) (午後15:00頃に解散予定。全行程約6kmほど、平地を歩きます。)
	費用 : 300円(COPY代)。交通費各自負担。国立飛鳥資料館は入館料が必要。
	解説 : 今回は、「第一回山辺の道」と「第二回飛鳥」の間をつなぐルートです。


磐余の道




桜井駅を出て南へ歩く。大和川の支流である寺川を超えて、安倍文殊院の方向へ歩く。



文殊院の手前を右に折れて、安倍木材団地の中を通って、春日神社、百済廃寺(大池)方面へ。



春日神社の手前に「神武天皇聖跡磐余邑顕彰碑」(じんむてんのうせいせきいわれのむらけんしょうひ)が建っている。



	
	磐余彦尊がむかし厳瓮(いつへ)の供物を食べ出陣して西片を討った。このとき磯城の八十梟師(やそたける)がそこに兵を
	集めて磐余彦尊軍とよく戦ったが、ついに滅ぼされた。そこで名付けて磐余邑といったと言う。
	昭和17年文部省刊行の「神武天皇聖蹟調査報告」には、諸種の資料を検討して「磐余」は『旧十市郡内、旧安倍村大字池之
	内(ここ)および旧香久山村大字池尻付近と推定』とある。これを受けて建てられたのがこの顕彰碑であろう。



	
	古事記では、神武天皇は「神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)」と称され、日本書紀では「神日本磐余彦尊
	(かむやまといわれひこのみこと)」、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」、「若御毛沼命(わかみけぬの
	みこと)」、「狹野尊(さののみこと)」、「彦火火出見(ひこほほでみ)」などと称される。いずれも、「磐余(いわれ)」
	という名がついている。



春日神社


	
	春日神社のあるこの辺りは、神武天皇と長髓彦(ながすねひこ)が決戦した故地なのだと石碑に記されているが、長髓彦との決戦地
	は、生駒の日下の地(東大阪石切)である可能性の方が高いと思う。この神社の南側に大きな「吉備池」がある。記紀に言う磐余
	池ではなくて、近代になって作られた灌漑用の池である。最近の発掘調査で池の底から寺院跡が発見された。「吉備池廃寺」と名
	付けられたが、舒明天皇の時代に建立された百済大寺ではないかと推測されている。 





	
	用明天皇は磐余(いわれ)池の畔に新しい宮を造営した。宮の前にケヤキの大木が二本そびえていたので、磐余池辺双槻宮(いわ
	れいけのべのなみつきのみや)と呼ばれた。ところが、現在この宮跡の所在がはっきりしない。磐余池は磐余の里に造られた大池
	のことで、『日本書紀』履中天皇2年11月に「磐余池を作る」とある。



	
	磐余とは、現在の桜井市南西部の池之内、橋本、阿部から橿原市の東池尻町を含む同市南東部にかけての古地名である。だからこ
	れらの地域のどこかに灌漑用の池が造られたものと思われる。古代の天皇の都には、「磐余」をその名前に冠したものが多い。
	第17代履中天皇の磐余稚桜宮(わかざくらのみや)、第22代清寧天皇の磐余甕栗宮(みかぐりのみや)、第26代継体天皇の
	磐余玉穂宮(たまほのみや)などである。これらの宮は磐余池の畔に営まれた。用明天皇もまた磐余池に面して宮を営んだ。 





	
	伝承では、桜井市吉備にあるこの春日神社あたりに磐余池辺双槻宮あったとされている。しかし、確証がある訳ではない。春日神
	社の近くにため池がある。残念ながら磐余池ではなくて、吉備池と呼ばれている灌漑用の池である。最近の発掘調査で池の底から
	寺院跡が発見された。「吉備池廃寺」と名付けられたが、舒明天皇の時代に建立された百済大寺ではないかと推測されている。 









吉備池廃寺



	この一帯は古くから多くの瓦の破片が発見されていたが、寺院の跡地であるというはっきりした記録や伝承が無いことから、近在で寺
	の建築が行われた際に使用された瓦窯の有った場所ではないか、と考えられていた。しかしその後の何度かの調査で、どうやら古代寺
	院があった可能性が高まり、いつのころからか「吉備池廃寺跡」と呼ばれるようになった。今では、舒明天皇が639年に発願して建
	設が始まった「百済大寺」の可能性が高いと考えられている寺院跡だが、廻りには何もない。説明板一つ立っていない。史跡指定も受
	けていないようだし、現在は農業用のため池として使用されているようで、周囲には民家が立ち並ぶ。池の築堤上を徒歩で周回するこ
	とができ、そこの北西に、わずかに大津皇子と大伯皇女の歌碑が建っている。





	
	<百済大寺>

	草創は聖徳太子建立の熊凝村の道場に遡る。実際の建立は、聖徳太子から後事を託された田村皇子、舒明天皇による。舒明天皇11年
	(639)に、百済川のほとりに、大宮と大寺を造営し、西の民は大宮を、東の民は大寺を造ったという。皇極天皇元年(642)7
	月27日、百済大寺の庭で、請雨のために仏菩薩四天王の像を飾って、大雲経を読む法会が行われた。この折に、蘇我蝦夷は、香炉を
	手にして法会に加わっている。この時には未た寺観が整っていなかったようだ。白雉元年(650)に、丈六像、脇侍、八部等の36
	像を表した大繍仏を作り始めたとあり、このころようやく諸堂に仏像を飾ることができるようになったのだろう。しかし、ようやく寺
	が完成した頃には、蝦夷・入鹿は既にこの世の入ではなくなっていた。周辺の堂塔が整備中であったはずの大化元年(645)、皇極
	天皇の目の前で、入鹿は暗殺されてしまったからである。



		
	百済大寺(くだらのおおでら)跡とみられる奈良県桜井市の吉備池廃寺で、飛鳥時代では最高層の高さ90m級と推定される、巨大な
	塔の基壇が出土し、奈良国立文化財研究所(奈文研)と同市教委は平成10年3月、「日本書紀に九重塔と記された百済大寺の塔跡と
	みられる」と発表した。もともと、この吉備池廃寺には大きな瓦が出土していたため、瓦を作る窯があるのではと調査したそうなのだ
	が、掘ってみれば、見てびっくりの結果に。


		
	「日本初の国立寺院「百済大寺」とする説が有力な奈良県桜井市の吉備池廃寺(7世紀中ごろ)で、南北幅約15bの寺の正門「南門」
	の遺構が見つかり、飛鳥時代の寺院として最大級だったことが13日までに、桜井市教委の調査で分かった。南門跡の位置関係から、
	別に見つかっていた柱穴列が、寺域を囲った大垣(塀)とみられることも判明。
	寺域は東西約230m、南北290m以上の可能性が強いという。吉備池廃寺はこれまで塔や中門、回廊など主要部分の遺構しか見つ
	からず、文献になり未完の寺とする見方もあったが、南門や大垣も完成し、国立寺院ならではの大規模な伽藍(がらん)だったと判明。
	同市教委は「百済大寺であることは、ほぼ確定的になった」としている。」
	(平成10年3月新聞記事:エンピツ書きの字がかすれて、どこの新聞かは不明。)
	

		
	吉備池廃寺、巨大回廊跡を発見 (平成10年3月25日) 最古の「法隆寺式」伽藍配置
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	高さ100m級と推定される塔の壇跡が見つかり、639年に舒明天皇が造営した「百済大寺」ではないかとされる吉備池廃寺(奈良
	県桜井市吉備)で、金堂や塔の周囲を囲む回廊の跡が見つかったと、奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部と同市教委が24
	日発表した。同廃寺は左右に並んだ金堂と塔を回廊が囲む「法隆寺式」伽藍配置の最古の例になるという。また回廊が一辺100m以
	上と規模が大きいことから、同廃寺が、巨大な寺とされる百済大寺とする説が一層強まったとされる。
	今回の調査で、塔基壇の中心部から約50m南で、幅約50cmの溝2本が東西に通っているのが見つかった。溝の間(幅約6m)に
	土をつき固めた跡があり、この跡が同廃寺の南側回廊跡の一部で、2本の溝は回廊わきに掘られた排水溝と判断。回廊と金堂跡の中心
	との距離から回廊の規模は法隆寺西院伽藍の1.8倍にあたる南北112m、東西も16mになると推定した。日本書紀で舒明天皇の
	築造とされる百済大寺は「未完成の可能性もある」という説があるが、同調査部の猪熊兼勝部長は「回廊まであるのに、寺全体が未完
	成だったとは考えにくい。塔や金堂、回廊の発掘成果から、百済大寺は吉備池廃寺で間違いない」と話している。
	(平成10年3月25日奈良新聞)



吉備池の北東から香久山方面を望む方向にみえたはずの「百済大寺の九重の塔」(上右)。
	
	奈文研などの発掘調査では、現在農業用ため池となっているこの池の水を完全に干上がらせ、通常水底になっている部分及び池の南側
	の築堤部分をかなり広い範囲に亘って発掘したことがわかる。この発掘調査の結果、吉備池廃寺の伽藍配置がほぼ確定し、各堂宇や塔
	の規模も確定的になった。当時の文献記録などと併せて、この寺がそれまで「幻の大寺」とされていた百済大寺とほぼ断定できる、と
	判断されたのである。
  


		
	幅約50cmの溝2本が東西に通っている。溝の間(幅約6m)、2本の溝は回廊わきに掘られた排水溝と見られている。平成12年
	12月4日から平成13年1月12日にかけて行われた発掘調査の結果、竪穴式住居や切通し・南北溝・柱列・掘立柱建物などが検出
	された。これらの遺構は時期別に4期に分類することができるそうだが、寺に関連する遺構には、切通しと南北溝、掘立柱建物がある。
	切通しは東	西方向に切られたもので、最も高い部分では約70cmの高さがあった。建物や南北溝などを構築する為に周囲を平
	らに造成したときの痕跡と考えている。建物は東側がすでに削られていたが、南北3間(6.9m)以上×東西2間(2.3m)以上の大きなもの
	で、廃寺の金堂や塔・僧坊・回廊などに方位を揃えており、南北溝や切通しも同様である。
	この調査により、吉備池廃寺北方の丘陵上には吉備池廃寺と関連を持つ、規模のしっかりとした遺構群が広く展開している事が明白と
	なった。【埋蔵文化財センター 発掘調査現場から(171) 広報「わかざくら」平成13年4月15日】 
		



		
	二上山、耳成山、畝傍山がここから綺麗に見える。地元の伝承にはここが「磐余池(いわれいけ)」であるというのもある様だが、現
	在、磐余池はもう少し南側の地であったように比定されており、この伝承は誤りである可能性が強い。「百済大寺」がこの場所にあっ
	たことがほぼ確実になれば、ここに当時池があった可能性はほとんど無くなる。大津皇子が謀反の嫌疑をかけられて捕らえられてから
	処刑されるまでの間に、磐余池の畔で鴨を見ながら辞世の歌を詠む余裕など与えられたのかどうかかなり疑わしいという意見もあるし、
	そもそも、日本書紀にある大津皇子謀叛発覚から処刑そしてその後の関係者の処分などの記述には不自然なところもあり、この歌自体
	も「悲劇の皇子」の伝説に基づく後世の造作である、という可能性もまた否定できない。



		
	<大津皇子> おおつのみこ  生没年 663(天智称制2)〜686(天武15) 

	斉明天皇の新羅遠征の際、九州に随行した大田皇女の腹に生まれる。長女の子として天智の寵愛を受けたが、程なく母を失う。これに
	伴い父大海人の正妃の地位は兄草壁皇子の母菟野皇女に移った。『懐風藻』によれば大津は身体容貌ともに優れ、幼少時は学問を好み、
	博識で詩文を得意としたが、長ずるに及び武を好み剣に秀でたという。天智崩後、672(天武1)年に壬申の乱が勃発した時は兄高
	市と共に近江にいた。大津はわずか10歳であったが、父の派遣した使者に伴われ、伊勢に逃れた父のもとへ駆けつけた。父帝の即位
	の後、天武8年5月の六皇子の盟約に草壁・高市・河嶋・志貴ら諸皇子と参加、互いに協力して逆らうこと無き誓いを交わした。翌年
	兄草壁が立太子するが、度量広大、時の人々に人気絶大であったという大津は父からの信頼も厚かったらしく、天武12年、21歳に
	なると初めて朝政を委ねられた。天武14年の冠位四十八階制定の際には、草壁の浄広壱に次ぎ、浄大弐に叙せられた。
	翌年8月、草壁・高市と共に封400戸を加えられた。「懐風藻」によれば、これより先、新羅僧の行心に会った際、その骨相人臣の
	ものにあらず、臣下の地位に留まれば非業の死を遂げるであろうと予言され、ひそかに謀反の計画を練り始めたという。

	天武15年(686)9.9、父帝が崩じ、翌月2日、謀反が発覚したとして一味30余人と共に捕えられた。『懐風藻』によれば謀反
	を密告したのは莫逆の友川嶋皇子であったという。連座者の中には伊吉連博徳、大舎人中臣臣麻呂・巨勢多益須(のち式部卿)、新羅
	沙門行心などの名が見える。翌3日、訳語田の家で死を賜う(24歳)。 妃の山辺皇女が殉死した。
	伊勢の題詞には大津皇子の屍を葛城二上山に移葬した旨見える。同月29日には連座者の処遇が決定しているが、帳内1名を除き無罪
	とされ、新羅僧行心は飛騨国に移配するという軽い処分で済んでいる。このことから、大津の謀反は事実無根ではないにせよ、皇后ら
	草壁皇子擁立派による謀略の匂いが強いとされている。

	死に臨んでは磐余池で詠んだ歌が伝わるが、皇子に仮託した後世の作とする説もある。『日本書紀』に「詩賦の興ること、大津より始
	まる」とあり、『懐風藻』には「臨終一絶」など4篇の詩を残す。但し臨終の詩は、その原典が『浄名玄論略述』という天平19年以前
	成立の書に引用されており(小島憲之)、即ち模倣作か後世の偽作であることが明らかである。万葉には他に愛人の石川郎女を巡る歌、
	黄葉の歌が見える。	(ウィキペディア (Wikipedia))
		



安倍文殊院






	
	<安部文殊院>

	安部文殊院: 大化元年(西紀645)、大化改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の
	氏寺として建立したのが「安倍山崇敬寺文殊院」(安倍寺)。永禄6年(1563)全山を焼く兵火にあい、現在の本堂は寛文5年
	(1665)に再建されたもので、人母屋造本瓦茸七間四面の建物で前に礼堂(能楽舞台)を従えている。奈良説に従えば、ここが平
	安時代に活躍した希代の天才陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)の生まれ故郷ということになる。この寺は知恵を授けることで有名
	で、毎年受験生が数多く合格祈願に訪れるそうであるが、近年は、年寄りの味方「ぼけ封じの霊場」として、ぼけたくない初老の人た
	ちの参詣が増えているそうである。



		
	<安部文殊院概略記>

	孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立したのが
	「安倍山崇敬寺文殊院」(安倍寺)である。しかし一般的には古来より、日本三文殊の第一霊場(京都府・天の橋立切戸の文殊、山形
	県・奥州亀岡の文殊)「大和安倍の文殊さん」として名高い。
	大化元年(645)倉梯麻呂が創建した安倍寺(崇敬寺)は、現在の寺の南西300mの地に法隆寺式伽藍配置による大寺院として栄
	えていた。(東大寺要録末寺章)(現在「安倍寺」跡は国指定の史跡公園として保存されている。)
	鎌倉時代現地に移転後も、大和十五大寺の一として栄え嘉吉元年、この興福寺官務牒疏には当時なお二十八坊の存在が記されており、
	寺運はなかなか隆盛であったが、永禄6年(1563)2月松永弾正の為に兵火に会い一山ほとんど鳥有に帰する災を受け、その後寛
	文5年(1665)4月に到って本堂(文殊堂)と礼堂を再建されたのである。現在の本堂は即ちこれで、人母屋造本瓦茸七間四面の
	建物で前に礼堂(能楽舞台)を従えている。
	本堂の右に釈迦堂、左に大師堂、本坊、庫裡が並ぴ庭園を隔てて方丈客殿につらなっている。千三百余年の星霜を経ているが常に一般
	道俗の信仰をあつめ、由緒も深く寺勢も盛んであった事ば寺伝の由来記に載せるところであり、日本最大の文殊菩薩を本尊とする安倍
	文殊こそ俚謡そのままのある五台山として、仏徒の巡拝すべき道場である。【安部文殊院HPより】
		


	
	境内には古墳時代後期の文殊院西古墳があり、完成度の高い切石で作られた横穴式石室の中には、願掛け不動があり、なんと石室の中
	へ入ってお参りすることができるが、この石組みはどうもうさんくさい。まるでインカの石組みのように、ピッタリと組み合わさった
	巨石が整然と並んだ古墳である。私も数多く古墳を見てきたが、こんな綺麗な石組みの古墳は見たことがない。どうみても後世の石組
	み方法で積んだとしか思えない。この寺の境内には、他にも巨石を積んだ閼伽井(あかい)古墳というのがある。
	またこの古墳には、安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の墓であるという伝承も残っている。この石組みを見て古墳時代とはちょっ
	と思えない。
	昔訪れた時、あまり気になったのでその後日、桜井市の埋蔵文化財センターへ電話して聞いてみた。応対してくれた当時の清水課長さ
	んは親切で、以下のようなことを教えてくれた。


		
	「あれは飛鳥時代の物で、多武峰の花崗岩を使った物としては終末期に当る時期の物です。あれ以降くらいから、(壬申の乱以降くら
	 い)奈良の古墳は二上山の凝灰岩が用いられるようになります。7世紀中頃という事で、大化の改新の6年後(651年)に亡くな
	 ったこの辺りの豪族「安倍倉梯麻呂」の墓と考えるのが一番妥当だろうと思っています。と言うのも、安部氏一族で一番出世したの
	 は倉梯麻呂ですし、なんと言っても左大臣ですからね。実権は中大兄皇子が握っていたとしても、今で言えば総理大臣クラスの人で
	 すから、臣下が立派な墓を造ろうとして、あのような墓になったのではないでしょうか。」
	「と言うことは、計って切ったようなあの石組みは本物の古墳と言うことですか?」
	「そうですね飛鳥時代のままですよ。」
	「えぇーっ、いや、私は全国いろんな古墳を見てきましたが、あんなインカの石組みのような古墳は初めてですが。」
	「そうですね。全国でも一番綺麗な石室かもしれませんね。」
	「えぇーっ、そうだったんですか。いや知りませんでした。ありがとうございました。」
	「いえいえ、近鉄明日香駅の前の古墳にもっと小降りで、表面を研磨したような古墳がありますけどね。花崗岩であれだけ大きいのは
	 あれくらいですね。」
	「いや、驚きました。」



		
	清水さんの話では、文殊院に残る室町時代の古文書ではもう古墳の入り口は開いていたそうで、少なくとも室町以後は今の格好だった
	らしい。さらに、それ以前は羨道がもっと長く池の所まで続いていたようだが、道が狭いので羨道をすこし削ったようで、その時の岩
	板が境内に放置してあるそうです、とも教えてくれた。それにしてもこの石組みの見事さはどうだろう。ここまでするとは。
	以前、清水さんが近所の石屋(石工)さんをつれてこの古墳に入ったそうである。その時石屋さんは、「こりゃ江戸時代ですかね。」
	といい、飛鳥時代だと聞くと、私と同じように「ヒェーツ」と驚いていたそうである。誰が見てもこりゃ驚く。







		
	<晴明堂について>
	晴明堂は、日本における占いの開祖として名高い平安時代の陰陽師。安倍晴明公を祭るお堂です。晴明公は当山出生の「天の原 ふり
	さけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも」の歌で有名な安倍仲麻呂公と同じく、当山出生のお一人です。この晴明堂が建立され
	た展望台の場所は、晴明公が天文観測を行ない吉凶を占った地として古来より伝承されています。当山には古来より晴明公の御遺徳を
	偲ぶ晴明堂がありましたが、幾星霜を経てその御堂も廃絶してしまいました。この度西暦二〇〇四年に晴明公壱千回忌を迎えるに当た
	り二百年ぶりに晴明堂の再建が成されました。晴明堂の正面には「如意宝珠」の玉石が据えられています。この「如意宝珠」とは仏教
	の経典において説かれている玉で、あらゆる願いを自在に叶えてくださるありがたい玉の事です。この玉石を当山に秘伝として伝来し
	てきた方位除災のまつり方を模刻した石版の上に安置し、御参拝の皆様に触れていただき、諸願の成就を祈念して頂きたいと念じてお
	ります。 【安部文殊院HPより】



	
	安倍晴明物語が有名になったのは、「和泉の国の信太(しのだ)の森の白狐」を母とする信太伝説が浄瑠璃として古くから上演されて
	いたためであろうと思われる。
	これによれば、和泉の阿倍野に住んでいた安倍保名(晴明の父)は安倍家の興隆を念じ信太明神に熱心に参詣していた。ある日参詣の
	折、狩猟に追われて保名の元へ逃げ込んできた白狐を救う。白狐を助け山門を出ると、そこで保名は絶世の美女、葛の葉(くずのは)
	と言う女性に出あう。一目惚れした保名はその美女を自宅に伴い結婚する。この女性こそ保名に助けられた白狐が変身した姿であった。
	そしてまもなく二人の間に男の子が生まれ童子丸と名づけられた。その後数年親子は仲睦まじく暮らすのであるが、ある秋の日、母親
	の葛の葉は庭の菊の香りの素晴らしさに酔いしれて、白狐の本性を童子丸の前にさらけ出してしまった。これを恥じた葛の葉は障子に、
	「恋しくば訪ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を書き残し家を去る。
	帰宅した保名は、障子に書き残された歌と童子丸の話から総てを悟り、翌朝、童子丸を伴い信太の森に出向き葛の葉を求めてさ迷い歩
	く。すると葛の葉が姿を現し保名に告げるのだった。一度白狐の姿を見せた限りは、最早人間界へは戻れない、その代わり可愛い我が
	子の童子丸に霊力を授けましょう、と告げたのであった。こうして霊力を得た童子丸はこの後数々の霊能力を発揮し、朝廷の陰陽博士
	にまで出世するという話である。



	
	史実に残る安倍晴明とはいかなる人物であったのか。晴明は少年時代に当時陰陽道の第一人者であった加茂忠行に弟子入りをしている。
	彼は少年時代から超能力を備えた秀才であったようで、師匠の忠行はその能力を見込み陰陽道の極意を忠行の息子の加茂保憲と共に総
	てを伝授したといわれている。「今昔物語」によれば「此ノ道ヲ教フル事瓶ノ水ヲウツスガ如シ」とある。つまり瓶の中の水を他の容
	器に移すように、一滴も洩れることのない程に教えたとある。若き日の晴明が、歴史的に存在が確実視されている陰陽道の師は、この
	加茂忠行とその息子である加茂保憲の父子である。加茂忠行は当時肩を並べる者無き人物で、公私にわたり尊い者として取りたてられ
	た、とあり、また加茂保憲も当時の記録によれば「当朝は、保憲をもって陰陽の規模となす」とあり、二人ともいかに当時の陰陽道の
	第一人者であったかが窺える。
	晴明はこうした親子二代にわたる陰陽道の第一人者である師から伝授を受け、加えて天才的才能が加わった事で、陰陽師としての実力
	が開花したと言えるだろう。こうして安倍晴明は平安時代における陰陽師としてその第一人者の地位を得、朝廷においても彼の陰陽の
	判断無くしては、天皇や高官の政治的決断がままならぬほどに大きな影響を与えたとされているのである。











安倍寺跡




	
	<安部寺跡(安部史跡公園)>安倍木材団地1丁目86  昭和45年3月11日指定

	安部文殊院の前身。現在の安部文殊院の南西300メートルの地に法隆寺式伽藍配置による大寺院として栄えていた。「仲麻呂屋敷」
	と呼ばれる方形の土壇があり、この土壇が方15mの塔跡で、東方の土壇は、金堂跡と思われる。なお、北方の土壇は、未調査である
	が講堂であろう。おそらく、法隆寺式伽藍配置をもつこの寺は、孝徳天皇勅願あるいは阿倍倉橋麻呂の創建との所伝をもち、安倍寺の
	出土瓦からも異議はなさそうである。現在、国指定の史跡公園として保存されている。
	このコーナーの写真5枚は、いずれも以前に行った時の写真である。今回訪れた時、木々や草花が大いに茂っていたので、「あれ、こ
	んなに木が生えていたかな?」とちょっと迷ったが、この写真を見ると、前回訪れた時は冬で、葉っぱが全て落ちていたのだ。今回は
	至る所が木陰だったので、ここで昼食にした。



	
	ここが「仲麻呂屋敷」と呼ばれる方形の土壇である。この土壇が方15mの塔跡で、東方の土壇は、金堂跡と思われる。なお、北方の
	土壇は、未調査であるが講堂だろうとされている。おそらく、法隆寺式伽藍配置をもつこの寺は、孝徳天皇勅願あるいは阿倍倉橋麻呂
	の創建との所伝をもっており、それは安倍寺の出土瓦からもほぼ異議はなさそうである。
	現在「安倍の文殊」として知られている文殊院は、この遺跡の東北300mのところにある。安倍寺は、阿倍倉橋麻呂によって建立さ
	れた、飛鳥時代の寺院というが、平安末期には衰退し、鎌倉時代には火災に遭い、その後、現在の文殊院に移った。この文殊院建立用
	の瓦を焼いたのが、この安倍寺講堂推定地の西にある安倍寺瓦窯とみられる。鎌倉時代の平窯式とよばれる窯が五基残存し、桜井市教
	育委員会によって保存されている。

 

		
	旧阿部地区二階堂の仲麿屋敷と称する方形の土壇周辺で、安倍寺跡といわれていた。昭和42年度の発掘で、中門、塔、金堂跡が判明し
	た。北に講堂跡が推定され、法隆寺様式の伽藍配置とわかる。出土品としては唐草文の瓦や弥生式土器・土師器・須恵器・鉄器等があ
	った。他に中世の灯明皿や、金堂跡南側から磚仏の破片も出土した。
	大化の改新時の左大臣阿倍倉梯麻呂の建立との伝えで、今後の調査に期待も大きい。現在公園として保存。
	(桜井の文化財 桜井市教育委員会、栢木)	



稚桜神社





	由緒: 稚桜神社縁起	 『日本書紀』履中天皇の条。

	元年春二月一日、皇太子は磐余の稚桜宮に即位した。二年十一月、磐余の池をつくった。三年冬十一月六日、天皇は両股船を磐余の
	市磯池(いちしのいけ)にうかベた。妃とそれぞれの船に分乗して遊ばれた。膳臣の余磯(あれし)が酒を奉った。そのとき、桜の
	花びらが盃に散ってきた。天皇は怪んで、物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)を召して、詔して「この花は咲くべきでな
	いときに散ってきた。どこの花だろうか。お前探してこい」と命じた。
	良真胆運はひとり花を尋ねて、掖上の室山で、花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで、宮の名とした。磐余若桜宮
	というのはこれがそのもとである。この日、長真胆達の本姓を改めて、稚桜部造とし、膳臣余磯を名づけて稚桜部臣とした。

	日本書紀に磐余の地に営んだと伝承されている、磐余稚桜宮(神功皇后・履中天皇)延喜式神名帳に、城上郡に若桜神社がみえてい
	るので、磐余稚桜宮と関係があるものと思われる。しかし現在若桜神社は桜井市の谷と池之内の二か所にあり、どちらも小字は「稚
	桜」となっている。現在、谷の若桜神社に、稚桜部朝臣を祭神として祀っており、近くに「桜の井」という井戸が伝承されている。
	これが桜井の地名のおこりの一つともなっている。




	夫の仲哀が崩じたあと神功皇后は、身重の体でありながら海を押し渡って新羅を討ち平らげ、帰国してから誉田別尊(ほむたわけの
	みこと)(応神)を生んだ。神功皇后は、その誉田別皇子を擁して、重臣の武内宿禰(たけしうちのすくね)らとともに大和に凱旋
	する。だがその大和入りはすんなりとは運ばなかった。仲哀の遺児であり、誉田別にとって異母兄にあたる香坂(かごさか)、忍熊
	(おしくま)の二王が抵抗したのである。この二人を討って大和に入った皇后は、稚桜宮において六十九年間摂政をつづけて百歳で
	崩じた。



	そして誉田別が即位して応神天皇となったと伝えられる。応神天皇は飛鳥へ、その子仁徳天皇は難波へ都を遷すが、つぎの履中天皇
	は曽祖母神功皇后の宮であるこの稚桜宮をふたたび都とするのである。




	日本書紀によると、「神功皇后三年春正月磐余に都したまう。これを稚桜宮という。また履中天皇元年春二月壬午(みずのえうま)
	のついたちに皇太子(履中天皇)磐余に都つくり十一月に磐余の池をつくりたまう。」とある。桜井の名のゆかりであり、桜が舞
	いちって天皇の盃に入ったという市磯(いちし)の池での宴遊もこのころのことだ。
	市磯の池については稚桜宮の内裏の前といい、現神社東側の水田がその跡にあたる。ちなみに『古語拾遺』ではさきの神功皇后の
	世を磐余稚桜朝と称し、あとの履中天皇の世を後の磐余稚桜朝としるしている。(桜井風土記より)


	<磐余玉穂宮跡>
	磐余稚桜宮跡(いわれのわかざくらのみやあと)である稚桜神社から約300メートル西南、池の内の村はずれに土地の人々が
	「おやしき」と呼んでいる小高い丘がある。東側半分は畑地で西の半分は櫟林(くぬぎばやし)だ。そして北側の傾斜地は孟宗薮
	となっている。つまり橘街道へ出るまでのいわゆる「磐余の池跡」の西南に当たる台地だ。ここが継体天皇磐余玉穂宮跡だという。






山田寺跡




	
	<山田寺跡>    特別史跡 大正10年3月3日・昭和27年3月29日指定 

	磐余道の南限に大化改新時の右大臣蘇我倉山田石川麻呂建立の大寺があった。中門塔・金堂・講堂と南から北への直線式伽藍配置
	の建築様式だった。現地は水田の為礎石は殆どなくなる。昭和51年から毎年奈良国立文化財研究所によって発掘、昭和58年まで8
	回に及び、皇極二年(643)建立と判明。東廻廊連子窓の発見で法隆寺より古い寺院とわかる。廻廊の礎石や講堂跡出土の銅板
	五尊像・その東側出土の宝蔵跡などの発掘で、豪荘な大寺であったと推定された。また、平成8年度の第9・10次調査で、南廻
	廊連子窓が発見され、すべてがうきぼりとなり、史跡公園として整備された。

 

	

	山田寺跡は、現行の行政区域では桜井市に所属するが、歴史地理的には明らかに飛鳥の地にある。創建に関しては、「上宮聖徳法
	王帝説」にはこの浄土寺は山田寺のことであるとされている。大化改新で、蘇我入鹿を目前にして上奏文を読み上げる役割を果た
	した蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)。読み上げる声が震えていたので、いぶかった入鹿が怪しみ、すわ、
	と中大兄皇子が斬りかかったというのが通俗説である。
	その石川麻呂が、蘇我倉山田家の繁栄を願って創建したのがこの山田寺と言われる。名前からも分かるように、入鹿とは従兄弟ど
	うしだった。大化改新(645)で重要な役割をはたした石川麻呂は、新政府で右大臣となる。大化5年(649)3月に左大臣
	阿部内摩呂大臣(あべのうちまろのおほおみ)が死亡。その1週間後、右大臣石川麻呂は謀反の疑いを受け、妻子ほか8人ととも
	に建設中の山田寺仏殿において自殺した。

 

	
	後に疑いは晴れ、工事は再開されたが、完成したのは着工以来実に45年の月日がたってからだった。天武7年(678)鋳造の、
	講堂に祀られていた丈六薬師仏は、その後文治3年(1187)3月9日、興福寺の僧兵によって寺が焼き払われ、この時丈六薬師仏
	も強奪された。現在同寺の宝物館に収納されている仏頭がその時の丈六薬師仏だといわれている。 
	杉や桜の境内林に入ると、右手に間口5mほどのお堂が立っている。今の山田寺では唯一の仏殿・観音堂である。林の左奥には庫
	裏がたたずみ、玄関に「大化山山田寺」の木札が掛かっている。古い説明板の字がカスれている。観音堂の前に山寺跡の石柱が一
	本建っている。この小さな森の背後が、「史蹟山田寺跡」である。
 
















		
	<東面回廊> 〜山田寺・回廊跡の説明板より〜

	山田寺では、塔と金堂のある中心区画の四方を回廊で囲んでいました。東面回廊の発掘調査では、建物全体が屋根瓦もろとも西向
	きに倒れた状態で見つかりました。蓮弁(れんべん)を彫刻した礎石や基壇の縁石(ふちいし)がほぼ完全な形で残っており、東
	面回廊は南北23間86.9m、基壇幅6.4mの規模であることがわかりました。また、柱や連子窓(れんじまど)など多くの
	建築部材や表面に白土を塗った壁土が残っており、古代の建築技術を知る貴重な資料となりました。北から13・14・15間目
	の部材はとくによく残っていたことから、保存処理をほどこしたうえ元の形に組み上げ、飛鳥資料館で展示しています。



	
	昭和57年、山田寺「東面回廊」発掘のニュースが新聞のトップ記事として報じられた。山田寺は、幾多の悲劇を経て完成するも、
	平安時代には衰退し、大土石流等により地上からその姿を消していたが、1000年後の発掘により日の目をみることとなった。
	そして、平成9年4月、我が国で最古の回廊建造物が、山田寺の近く飛鳥資料館に再現された。
 




 

	
	金堂跡の基壇前には畳より少し大きい礼拝石が敷いてある。石川麻呂は、ここから開扉した金堂を仰ぎ、身の潔白を誓って死に臨
	んだのだろうか。
	発掘調査によって、塔と金堂が南北に一直線に並ぶ伽藍配置が明らかになり、さらに昭和57年暮れ、回廊の一部が倒れたままの
	完全な姿で発見され、エンタシスの柱や連子窓など創建時の姿をしのばせる貴重な資料として、一躍注目を浴びた。世界最古とい
	われる法隆寺よりも半世紀もさかのぼる木造建築物だった。発掘を進めていた奈良文化財研究所が、南北87mの東回廊跡の中ほ
	どを掘ったところ、倒壊した回廊の瓦が屋根に並んだ状態で現れた。瓦を取り除くと、回廊が倒れた当時の姿をほぼ保ったまま見
	つかり、特に原形のまま出土した連子(れんじ)窓は、学術的にも視覚的にも驚きの発見となった。
	研究所は部材を保存処理して回廊を一部復元し、約500m西の飛鳥資料館に展示している。建物の基壇が整備され、中央北寄り
	に金堂、その南に塔、さらに中門と続き、中門の両側から伸びた全長約330mの回廊が金堂や塔を囲んでいたことがわかる。
	講堂跡は回廊の北外側にあり、今は境内林に覆われている。寺域の北を通る峠道は飛鳥と磐余(いわれ)、磯城(しき)を結んだ
	古代の大幹線・阿倍山田道のコースである。沿道には奥山久米寺や安倍寺などの寺院が立っていた。その中で最も高い所にあった
	のが山田寺であろう。華麗な伽藍はひときわ目立ったに違いない。

 

	
	■濡れ衣を着せられ、自殺させられた石川麻呂

	大化5年(649)3月24日、事件は石川麻呂の弟、蘇我臣日向(そがのおみひむか)の密告にはじまる。日向は皇太子・中大
	兄皇子に、「僕(やつかれ)が異母兄・麻呂、皇太子の海浜に遊べませるを伺ひて、害はむとす。反(そむ)きまつらむこと、其
	れ久しからじ」(日本書紀 大化5年3月の条)と告げる。
	「 私の異母の兄である麻呂は、皇太子が海辺で遊んでいる時を狙って暗殺しようとしています。」 と密告したのである。皇太子
	はこの密告を信じ、天皇に伝えた。天皇は使いを麻呂大臣のもとへさしむけその虚実を問いただす。大臣は「問はせたまふ報(み
	かへりこと)は、僕面(やつかれまのあたり)天皇之所(みもと)に陳さむ」「問われている事は、天皇の御前で申しひらきをい
	たします。」と訴えるが、天皇は聴き入れず、軍を興こして大臣の宅を囲もうとする。
	大臣はちぬの道(現在の大阪府泉佐野市付近を通っている道)より逃げて大和の国に向かう。山田寺の造営にあたっていた大臣の
	長男興志(こし)は、父が逃げて来ることを聞いて今来(いまき:大和国高市郡の総称)の大槻の木の下で迎えて寺に入る。
	興志は「自ら打って出て、来る軍を迎え防ごう」と進言するが大臣は許さず。その夜、興志、試みに小墾田宮(をはりだのみや)
	を焼こうと兵を集めるも、大臣から「汝(いまし)身(み)愛(をし)むや」と言われる。大臣は山田寺にいる僧や長男の興志と
	数十人を集め、「夫れ人の臣たる者、安ぞ君に逆ふることを構へむ。何ぞ父に孝ふことを失はむ。凡そ、此の伽藍は、元より自身
	の故に造れるに非ず。天皇の奉為に誓ひて作れるなり。今我身刺【身刺(むざし):蘇我臣日向のあざな】に譖ぢられて、横に誅
	れむことを恐る。聊に望はくは、黄泉にも尚忠しきことを懐きて退らむ。寺に来所以は終の時を易らかしめむとなり」と述べて、
	仏殿の戸を開き、仰ぎて「願はくは我、生生世世に、君王を怨みじ。」と言い残し、石川麻呂は首をくくり自殺、妻子のほか8人
	が殉死した。讒言の翌日に、石川麻呂一族は滅びたのである。この事件の一月後、日本書紀、大化5年4月の条には、「夏4月の
	乙卯の朔甲午に、小紫巨勢徳陀古臣に、大紫を授けて左大臣とす。小紫大伴長徳連字は馬飼に、大紫を授けて、右大臣とす。」と
	ある。

	山田寺造営工事は当然中断されたが、程なく謀反は讒言であった事が発覚し、15年後に再開、天武天皇の時代に塔を、続いて講
	堂を建てた。造営の継続には石川麻呂の弟の蘇我連子や、孫娘の鵜野讃良(うののさらら:後の持統天皇)が深くかかわったとさ
	れる。寺観は平安遷都後も連子の子孫の石川氏などによって保たれていたが、やがて回廊が倒壊、12世紀後半には金堂や塔も焼
	失したようだ。今は特別史跡。その説明板に描いてある盛時の復元図を見ると、金堂と中門は法隆寺と同じような二重屋根の入り
	母屋造り、塔は五重、回廊は片側通路の単廊、講堂は平屋の入り母屋だ。伽藍全体に優美さが漂う。



飛鳥資料館




「飛鳥時代」の範囲
	飛鳥時代という時代分けは、1900年前後に建築史・美術史で初めて用いられたもので、その提唱者は関野貞と岡倉天心であった。
	関野は、飛鳥時代を朝鮮の芸術が影響を与えた時代と規定し、推古朝から大化改新ごろまでとした。岡倉は、仏教伝来(552年説)
	から平城遷都(710年)まで、主として飛鳥地方に都があった時代を飛鳥時代としたが、「正確なる時代区分」としては、仏教伝来
	から天智天皇即位(667年)までに限定した。関野は唐の影響を受けた「寧楽時代」(白鳳・天平時代)に対して、また岡倉は
	「天平時代」に対して、それぞれ先行する時代を飛鳥時代と考えたのである。現在、日本史では、岡倉が広く用いたような意味で、
	推古朝ごろから平城遷都までをこの名で呼ぶことがある。しかし意味が確定しないこともあって、むしろ7世紀前半とか、天武朝
	とか、世紀や天皇の名前を使うことが多い。美術・建築・考古の分野では、現在においても、関野説のような意味でこの分け方を
	使っていることが多い。 

	飛鳥に住んでいた渡来人「東漢氏」(あずまのあやし)を掌握していた豪族蘇我氏が有力になると、飛鳥はにわかに政治・経済の
	中心地となっていった。新しく受け入れられた仏教文化は、この地にはじめて開花した。天皇の宮、豪族の館・邸宅、大寺院など
	が建ち並び、日本の古代国家は、飛鳥を中心に形作られて行く。

飛鳥の宮


	飛鳥地方には、古く4,5世紀に応神(おうじん)天皇や允恭(いんぎょう)天皇の宮があったと伝えられる。6世紀前半には顕宗・
	宣化天皇の宮がつくられた。しかし飛鳥に次々と宮が作られるようになったのは、推古天皇の豊浦ノ宮からである。宮は、初め天
	皇の住まいが主で、同時に政治の場を兼ねていた。天皇の代が代わるごとに移され、一代の間に2,3回移ることもあった。国家
	体制が整備されるに従って、中国の制度に習い天皇の住まいの他に多くの役所が宮の中に建てられるようになり、やがて宮の周囲
	を市街が取り囲み「京」と呼ばれるようになる。

いわゆる飛鳥時代の宮

NO
宮の名前
移った年
住んだ天皇
宮の場所
豊浦(とゆら)宮 592 推古 飛鳥
小墾田(おはりだ)宮 603 推古 飛鳥
飛鳥岡本宮 630 欽明 飛鳥
田中宮 636 欽明 飛鳥
厩坂(うまやさか)宮 640 欽明 飛鳥
百済(くだら)宮 640 欽明 飛鳥
飛鳥板蓋(いたぶき)宮 643 皇極 飛鳥
難波長柄豊崎(ながらとよさき)宮 645 孝徳 難波
飛鳥板蓋宮 655 斉明 飛鳥
10 飛鳥川原宮 655 斉明 飛鳥
11 後(のちの)飛鳥岡本宮 656 斉明 飛鳥
12 朝倉橘広庭宮 661 斉明 福岡県朝倉郡
13 近江大津宮 667 天智 近江
14 嶋宮 672 天武 飛鳥
15 飛鳥岡本宮 672 天武 飛鳥
16 飛鳥浄御原(きよみがはら)宮 672 天武 飛鳥
17 藤原宮 694 持統
持統
文武
元明
飛鳥
18 平城宮 710 元明 奈良

















	資料館では、「キトラ古墳壁画四神 特別公開」が行われていて、キトラ古墳壁画の実物四神が公開されていた。

	会 期  : 平成22年5月15日(土)〜6月13日(日)    *5月31日は休館日
	開館時間 : 9時〜18時(入館は17時半まで)      期間中土曜のみ21時まで開館
	入 館 料: 一般 500円(400円)  高校・大学生300円(200円)  中学生以下は無料  
	主 催  : 文化庁 ・ 奈良文化財研究所 飛鳥資料館










 

 

 



 





 

山田寺跡から出土した回廊の柱と窓枠を元に復元してある。これは圧巻だ。

















 

 




	館内の説明版はうまく写したつもりだったのに、マクロに弱いデジカメのせいでうまく写っていない。残念。まぁ、どうしても見たい
	方は、またぜひ一度資料館を訪ねてみて下さい。高い交通費を払っても絶対損はしませんぜ。





 







 









		参加された皆様 

		お疲れ様でした、暑かったですねぇ。 
		私はPetbottleを二本も呑んでしまいましたが、それでも帰宅して呑んだビールの 
		旨かったこと。これはこの暑さの賜でしょう。久々に自宅で呑むビールが旨かった 
		です。 

		これで古墳時代・飛鳥時代と主要な遺跡は巡りましたので(ほんとはもっとマイナー 
		な遺跡は沢山あるのですが)、次回からは中世・近世の遺跡・旧蹟もめぐりたいと思 
		っています。リクエストがあれば、是非メイル等でお知らせ下さい。 
		また、ハイキングと同じように、年二回開催して欲しいという声もありますが、一寸 
		まだそこまでの余裕がありませんので、当分は年一でご勘弁下さい。 
		現役を退けば、毎月でもいいのですが。 

		つたない説明のご案内で申し訳無かったです。これに懲りずにまた、御参加下さい。 
		ありがとうございました。 



邪馬台国大研究ホームページ / INOUES.NET /桜井から飛鳥へ −西南大学同窓会−