Music: エーデルワイス
歴史倶楽部・第179回例会



吉野から宮滝へ 奈良県吉野郡 2012.7.26


	
	第179回例会 	避暑を兼ねて吉野の山から宮滝へ
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	「第142回例会 吉野から宮滝へ」のリターン・マッチ

	今回は、雨で中止と連絡して、晴れたので急遽開催した「第142回例会」のリターンマッチです。前回と全く同じコースを歩きます。 
	吉野山の高地点を過ぎてゆきますので大変すずしいですが、多少山登りもあります。前回の参加者は、高野さん、乾さん、錦織さん、
	筑前です。

	集合日時 :7月29日(日)AM10:00 近鉄吉野線「吉野駅」集合

	<大阪から>
		近鉄吉野線特急 大阪阿部野橋 08:40出発 09:56吉野着 1時間16分 
		運賃:片道1,450円(乗車券950円 特別料金500円) 
		距離:64.9km 乗り換え:なし
		
	<奈良から>
		近鉄奈良線急行・京都行 08:13〜08:17 大和西大寺 08:21〜08:51 
		橿原線橿原神宮前 近鉄吉野線特急 08:57〜09:52 吉野着(乗車1時間29分) 
		運賃:片道1,330円(乗車券830円 特別料金500円)

	装備 : 弁当、水筒、防寒具、雨具、そのた
	解説 : 今回は前回と同じコースを歩きます。以下の頁に全コ−ス詳しく書いていますので事前にしっかり読んでおいてください。
		  「第142回例会 吉野から宮滝へ」
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	一般的に「吉野」とは、大海人皇子が壬申の乱を前に逃れて来て、持統天皇が在位中に31回も行幸した奈良県南部の吉野川流域の一帯
	をいう。今回も、吉野山から水走る喜佐谷へ下り、天武天皇を祭る桜木神社をへて、吉野川ほとりの離宮跡へと歩く。『万葉集』にも、
	吉野を詠んだ歌が数多く収録されている。ページ最後の、近鉄が発行している地図にも「吉野・宮滝万葉コース」と書かれ、万葉愛好家
	には定番のハイキングコースである、
	そびえ立つ吉野杉の樹林の間を縫って続く、かっての木場道(きんばみち)は細く、所々に小石が敷き詰められている。西暦671年の
	旧暦10月20日、みぞれ混じりの雨が降りしきる芋峠を越えて、大海人皇子たちは吉野に逃れてきた。また、足利尊氏に追われた後醍
	醐天皇も、降りしきる雨の中を吉野へ逃れてきてここに南朝をたてた。




	●吉野山(一部、前回例会より転載)

	吉野山は奈良県の中央部・吉野郡吉野町に位置する山。国の史跡・名勝。吉野山の山頂とされる地点は、国土地理院発行の地勢図には示
	されておらず、各出版社が発行する地図によっては位置や標高がまちまちである。吉野山といえば、吉野大峯ケーブル自動車吉野山駅付
	近の「下千本」と呼ばれる地域から南方向の、吉野水分神社あたりの「上千本」呼ばれる地域一帯を指すのが一般的である。
	大峰信仰登山の根拠地であり、日本史上の転回点にもたびたび登場している。古くから花の名所として有名。
	この一帯は1936年吉野熊野国立公園に指定されている。さらに吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が 2004年7月、「紀伊山
	地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録された。
	今でこそ「吉野」と言えば、桜の名所として全国に知られ、知名度は抜群に高い。春にはシロヤマザクラを中心に、3万本とも言われる
	桜が吉野山を埋めつくす。吉野の桜は標高に従って下千本から順次中、上、奥と咲いていく。しかし、吉野は桜だけではない。役行者を
	開祖とする修験道の寺・金峰山寺や南朝ゆかりの遺跡なども多い。さらに、吉野宮滝は、大海人皇子が天智天皇の譲位を断って吉野に逃
	れ、この地から壬申の乱を旗上げした場所である。天武天皇の後を継いだ持統天皇も、在位中になんと31回も吉野に行幸したことが記
	録されている。 
	吉野は芳野とも表記され、記紀や『万葉集』ではヨシノ、エシノと読まれ、吉(よ)い野を意味した。ところで、万葉歌には、「み吉野」
	と接頭辞「み」をつけて詠まれている歌が散見する。古代の人々は「み」という接頭辞で神が宿る神聖な霊的な空間を表した。つまり、
	山は人間の領域ではなく、神の領域だった。したがって、山の中に入ると霊的変身ができると考えられていた。しかし、どの山でもよい
	という訳ではない。神聖視されたのは、山の形が良く川が山裾を洗いながら湾曲して流れる地形に限られた。その意味では、吉野川が裾
	を巡りながら流れている秀峰吉野山は、まさに聖なる山であったのだろう。 



吉野駅にて。弁当を持ってきていない郭公さんが「柿の葉寿司」を買いに行った。私もビールを買ったが市中の倍の値段だ。
例によって、掲示してある写真のモンキー・スタンプは郭公さん、阪神(タイガー)・スタンプは、靖さん提供によるものです。



ロープウェイを横目に見ながら如意輪寺をめざす。途中の田んぼの中に「吉野山」の石柱があった。





「吉野温泉元湯」を過ぎると程なく如意輪寺への参道である。山道に小石が敷き詰められている。










如意輪寺から上がってきてハイウェイを横切った所にバス停があって、そこから宮滝への道が続いている。





ほぉー、あすこまで行くんかい。



山道の木々の切れ目から蔵王寺が見えている。桜の季節には廻りが白とピンクに染まる。



ほどなく宮滝への分岐点がある。右へ曲がると如意輪寺を経てバス停へ通じている。水分神社へは左から下っていく。宮滝へは登り。





稚児松地蔵堂



	
	稚児松地蔵堂

	山道が視界のきかなくなった頃、「稚児松地蔵堂」に着く。ところどころ急な坂道のところが石畳になっているが、ほとんどは狭い自然
	歩道だ。結構急な坂で、如意輪寺から約1kmも歩いたと思う頃、右手に小さな祠が見えてくる。 





	
	「稚児松地蔵堂」の前には、石碑が一つ立っているだけで、この祠の縁起を記したものは何も見あたらない。前回も由来は分からなかっ
	たが、今回も説明板はないようだ。



「はぁー、はぁー」「ゼイ、ゼイ」日頃の無精(武将、夜の?)がたたって、橋本さんでなくともシンドい。



	
	ここから喜佐谷の集落を経て宮滝までは、約4kmの道のり。そのうちの半分は、谷を埋め尽くすばかりの吉野杉の林を縫って続く山道。
	この山道は、材木を運び出すために作られた、かっての「木場道(きんまみち)」の面影を残している。









	
	周囲の杉の美林を愛でたり、森の香りを胸一杯に吸い込みながら歩く。「左御園 右いせ宮滝」の道標が立っているところで、道は二手
	に分かれる。宮滝方面の山道はここからやっと下り坂になる。 



	
	ここからは吉野杉の林の中を、ただただ降ってゆく。辺りは鬱蒼とした杉の森に覆われ、木漏れ日が暖かいが結構涼しい。頼朝から逃げ
	る義経も、南朝方の武士達もここを通って行ったのだ。途中、小さなせせらぎや小川や滝があって、楽しい山道である。空気は澄み静寂
	に支配された空間である。





象の小川



	
	象の小川

	吉野山を水源に象山の麓を流れ吉野川に流れ落ちる川が、「象(きさ)の小川」、喜佐谷川である。昔は象谷と書いて「きさだに」と読
	んでいた。「象」と書いて「きさ」と読むのは万葉の時代からの伝統で、この頃は、象牙の模様からギザギザと曲がりくねった様子を
	「象」の文字であらわし「きさ」と読んでいたもののようだ。日本の地名の中でも珍しい地名の一つであろう。
	象の小川は、吉野山の主峰である青根ケ峯から発して、喜佐谷を流れ降りて、現在の桜木神社あたりまで、美しい渓谷を成していた。山
	道に沿って流れ、何カ所かで山道と交差する。交差地点には、今にも壊れそうな木の橋が架けられている。この象の小川に沿う山道は、
	吉野山と喜佐谷、宮滝を結ぶ道である。昔は、西吉野や天川、黒滝地方からの人達が伊勢参宮に往還した信仰の道だった。今は『万葉集』
	や古代史に心を寄せる人に親しまれ、「吉野宮滝万葉の道」と呼ばれている。 



	
	その昔、吉野巡りの旅人達が一息入れたという象(きさ)の小川の祠がある。本居宣長や葛飾北斎もここに来ている。祠の裏が、「高滝」
	と呼ばれた滝だ。この道の中では一番大きな滝で、説明板に、義経はここで馬を洗ったとある。馬もあの下り坂を降ってきたのか。まぁ、
	鵯越(ひよどりごえ)をするような義経だから、この下りなんぞは屁でも無かろう。
	本居宣長は、明和9年(1772)に旅の途中でこの地を訪れている。その菅笠日記には、「喜佐谷村を過ぎて山路にかかる。少し上がりて高
	滝といふ滝あり、よろしき程の滝なるを、ひと続きにはあらで次々に刻まれ落ちる様、またいと面白し・・」と記している。 

	宮滝にあったという吉野離宮も、貴族が遊んだという夢のわだも、この象の小川も、今は大自然の元に帰ってしまったかのように見える。
	今では、かって藤原−奈良時代にかけて、王族の別荘地として素晴らしい景観を誇っていた有様を偲ぶことは難しい。



	
	万葉集の巻3、神亀元年(724)頃、大伴旅人(おおとものたびと)が、聖武天皇の命を受けて詠んだ長歌と反歌。

	●み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴(たふと)あらし 川からし さやけくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 
	 万代(よろずよ)に 変らずあらむ 行幸(いでまし)の宮  	大伴旅人 (巻3-315)
	
	 み吉野の芳野の宮は山の格が貴くあるらしい。川の性質がさやかであるらしい。天地とともに長く久しく万代までも変わらずにある事
	 であろう、行幸の宮は。

	反歌

	●昔見し 象(きさ)の小川を 今見れば いよよ清(さや)けく なりにけるかも   大伴旅人(巻3−316)
	
	 昔に見た象の小川を、今見れば、清潔明亮の風光いよいよ新たになったことを感じる。 

	大伴旅人はこの歌を詠んだのち、大宰府の長官として赴任するため奈良を去っていった。大伴氏は、代々武門の家柄として朝廷で重きを
	なしてきたが、旅人は大陸の文芸や思想に明るい、いわば当時の都会的知識人だった。万葉集には約70首の歌が収録されているが、長
	歌はこの一首だけという。
	光明子を皇后に立てようとする藤原氏の野望にとっては、武門の棟梁である旅人は邪魔な存在だった。そこで、神亀5年( 727)ごろ旅人
	を太宰帥(だざいのそち、太宰府の長官)に任命して九州に追いやった。時に、旅人63歳だった。 旅人は天平2年(730)の冬、大納言
	となって帰京し、翌年7月、67歳で亡くなっている。

	大伴旅人は、太宰帥在任中も、酒や遊興などをテーマにした連作を試みている。巻第三331から335に5首の連作がある。望郷の思いを歌
	に託している。5首中2首は、吉野の宮滝の象の小川をモチーフにしたものだ。旅人は、象の小川を行って見るため、命を永らえること
	を願い、また昔そうであったように象の小川の淵が浅瀬にならず、昔のままであってくれ、とうたうのである。それほどまでに旅人の脳
	裏に刻まれた宮滝は、人を飽きさせない景勝地であったのだろう。

	我が命も 常にあらぬか 昔見し 象(さき)の小川を 行きて見むため         <万葉集331 大伴旅人>

	私の命は永遠であってくれないものだろうか。かつて見た吉野離宮の象の小川を再び訪ねて見たいから

	我が行きは 久(ひさ)にはあらじ 夢(いめ)のわだ 瀬にはならずて 渕にありこそ  <万葉集335 大伴旅人> 
 


	
	見渡す限りの「杉の美林」だが、これでも最近はめっきり手入れが届かなくなっているそうだ。吉野ですらそうならこの国の林業は一体ど
	うなるのだろうか。林業だけではない。農業も漁業も、日本の一次産業は将来どうなるのか。
	東大や京大を出た官僚達では、一次産業に対する施策はとうてい実施できないのではなかろうか。農水省に就職した官僚は、5年間ほど
	望む第一次産業に従事させたらどうだろうか。他の省庁もそうである。日本の官僚制度は一度根底から見直す必要がありはしないか。
	幼稚園から大学、大学院と、税金で勉強して官僚になった連中は、一生を税金で暮らすのである。それならもっと国民にとって一番いい
	施策を考え出して貰いたいものだ。その為にこそ我々は税金で彼等を養っているのだから。今のままでは大塩平八郎ではないが、一揆を
	起こしたくなってくる。
	などと考えていると、私はもっと先の吉野川の岩盤を長めながら昼食にしたかったのだが、もう12時を過ぎていて、待ちきれない皆さ
	んが「もうここでええやん」「飯食おうで、飯!」と叫ぶものだから、とうとう折れてしまった。もっと先の方が気持ちいいんだがなぁ。







	
	高滝から少し下流の「万葉の象の小川」の案内板が掲げてあるあたりで、象の小川は青根ケ峰の方から流れ出てくる喜佐谷川と合流する。
	小川に沿って下ってきた山道も終わり、舗装された車道に出る。喜佐谷の集落はここから1キロほど道に沿って続いている。梅雨空の下
	では物音一つしない静かな山村である。 







	
	象の小川が合流して、喜佐谷川となった川を眺めながら喜佐谷の集落を過ぎてゆく。この道は万葉の道と名付けられ、現在のルートとは
	少し異なるが、奈良時代前後に吉野山へ登る道としてはじめて開かれたのがこの道だといわれている。このあたりは青根ケ峯の山裾であ
	る。ここからの山道を登ると吉野水分神社の辺りに着くと標識が有り、細い道が田圃のあぜ道の横を山へ伸びている。 



桜木神社

	
	日浦橋で喜佐川を渡り、川を右手にしばらく歩いて行くと、右手前方に森が見えてくる。大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名(す
	くなひこな)、および天武天皇を合祀している桜木神社である。この神社の横を流れる喜佐川には屋形橋がかかっている。橋の上から見
	る小川の流れは、万葉の時代の面影をそのまま今に伝えている。 



桜木神社側近くを流れる喜佐谷川で水遊びに興じる地元の小学生たち。



桜木神社前と屋形橋へ降りる階段



	
	天武天皇が近江から吉野へ隠遁した時、近江から派遣された刺客に襲われたが、桜の木陰に隠れて難を免れたという伝説から、天武天皇
	も祭神にしている。拝殿の右側の一段と低い広場にゆったりとした休憩所がある。この神社の間近を流れる象の小川には屋形橋がかかり、
	この附近から見る小川の流れは万葉の時代を髣髴とさせる美しいものである。



喜佐谷の集落に鎮座する桜木神社
	屋形橋を渡って境内に入ると、正面の石段の上に鳥居が立ち、その奥に拝殿がある。桜木神社は疱瘡の神さま、医薬の神さまとして信仰
	されてきた古社で、濃い緑と朱塗りの社殿のコントラストが鮮やかだ。大海人皇子が近江から吉野へ隠遁した時、近江から派遣された刺
	客に襲われたが、桜の木陰に隠れて難を免れたという伝説から、この神社は桜木神社と呼ばれるようになり、天武天皇を祭神とした。



桜木神社の拝殿









	
	拝殿の右側の一段と低い広場にゆったりとした休憩所がある。ここで一休みする。万葉歌を鑑賞するには、歌が詠われた場所を実際に訪
	れて歌詞を味わうのが肝要というが、万葉に限らず遺跡巡り、旧跡巡りなどはすべからく同じである。現場に立ってみて、作者が歌に託
	した思い、古代人がここで生活していた様を想像できて、はじめて時を越えてその時代を体感できる。 



桜木神社本殿の御神木の杉の木。「見上げるばかり」の高さである。いったい何年でここまでになるのだろうか。



7−800年だった。義経よりも先に生まれている。義経もこの杉を見たのだ。



上右の句碑の意味が分かる人は、まぁまぁの歴史通ですな。









		
	宮滝へ入る直前に、義経がうたたねをした橋の跡がある。ホンマかいなと思うが、地元では何百年も伝承されてきたのだろう。文治元年
	(1185)、源義経が兄頼朝の追手を逃れ、再起を期して静御前や供の者たちと身を隠したのが吉野の山である。建武3年(1336)12月、後醍
	醐天皇は吉野に逃れて南朝を開いた。 







宮滝遺跡



家族ずれやカップルたちが水遊びに興じる「夢のわだ」

	
	桜木神社の境内を出て舗装道路を500mほど下ると吉野川に突き当たる。喜佐谷川(象の小川)が吉野川へ流れ落ちるところが、大伴
	旅人の歌にも詠われた「夢(いめ)のわだ」と呼ばれる深淵である。岩礁が露出し、甌穴をたくわえた石や奇岩が連続する景勝地。
	おだやかに流れ下ってきた吉野川が、この付近でその表情を一変させ、宮滝という名がぴったりと当てはまる景観を呈している。流れが
	U字形に大きく蛇行し、大岩盤の連なりが両岸からせりだして見事な峡谷を作っている。その右岸は標高188m前後の河岸段丘になってい
	て、そこに縄文時代から歴史時代まで続く遺跡が埋もれていた。「吉野宮」や「吉野離宮」など、歴代天皇の行幸先としても有名な宮跡
	もその河岸段丘の上に築かれていた。川の右岸に行宮が営まれ、持統天皇は、30回余も宮滝行を繰り返し、そのたび宮滝の景観に癒さ
	れたことだろう。



	
	宮滝には滝はない。宮滝の滝は「たぎつ」の意味である。宮滝の由来は「激つ宮処」だといわれている。柴橋の中ほどから下流を向くと、
	今も変わらぬ「たぎつ瀬」の様子が見える。夢のわだは万葉集にもよく詠まれ、その美しさは多くの万葉人の憧れだった。



	
	上右が「柴橋」。

	吉野川左岸の道端に展望所が設けられていて、そこから吉野川を一望できる。ほんとはここで昼食にしたかったのだが。展望所の正面に
	は、松の生い茂る岩山がある。「中岩の松」という。『吉野拾遺』はこの岩山に関する面白い逸話を伝えている。吉野山に南朝があった
	とき、まだ幼かった寛成親王(後の長慶天皇:南朝)が狩りに来て、吉野川の水面に映える松の美しさを愛でられ、「この松を天皇(後
	村上天皇:南朝)に奉ろう。岩ごと皇居へ持ち帰れ」と供の者にむづかられたという。(結局持ち帰ってはいないのだが。)
	たびたびの洪水にも耐えて、「中岩の松」は今も往事の美しさを見せている。

	「中岩の松」の向こうに中荘小学校の建物が見える。かっての吉野宮や吉野離宮は、おそらくその校庭あたりに建っていたのであろう。
	右手の方向に「柴橋」が吉野川をまたいでいる。鉄橋なのに何故柴橋と呼ばれるているのか。かっての柴橋は、現在の場所より500m
	ほど上流の川幅がもっとも狭まったところに架けられていた。松の丸太を橋げたにして歩み板を張り、芝垣で欄干を作っていたため、柴
	橋と呼ばれた。今は鉄橋に架け替えられたが、かっての名称をそのまま踏襲している。 



	
	柴橋の上から上流を見やると、巨大な岩の間を流れが蛇行しながら下ってくる。上流の方は水が渦巻き、あちらこちらで白い波を立てて
	いるが、両岸に迫る岸壁の間では深くよどんでいる。この付近は、古来から奇勝とされ、万葉歌にもたびたび詠まれている。だが、絶景
	であるがゆえに難所でもあった。人工的に切り開かれた岸壁は筏道である。そこには南無阿弥陀仏と刻まれた名号岩もあり、いかに多く
	の筏師が亡くなったり怪我をしたことか。また、岩原の所々に見られる大小の穴は、甌穴(おうけつ)といって、かっての激しい水流が
	開けたものだという。また、ここは岩飛びの名所としても知られ、水練の達者な里人が岩頭から水中に飛び込む技を旅人に見せたところ
	だ。今は若者たちが、自分たちの楽しみで飛び込みを繰り返している。吉野歴史資料館に行くと、その様子を描いた江戸時代の戯画レプ
	リカが飾ってある。 



	
	宮滝の集落の旧道と吉野川の間の河岸段丘に広がるのが史跡宮滝遺跡である。この遺跡は戦前末永雅雄によって発掘調査がおこなわれ、
	戦後国の史跡に指定された。現在吉野町が遺跡の公有化をすすめ、遺跡公園の計画を進めているそうだ。末永雅雄によって発掘された数
	々の遺物は吉野歴史資料館で展示されている。現在、中荘小学校の校庭の前に、遺跡の碑が建っている。

	天武天皇や持統天皇がしばしば訪れた吉野宮は、飛鳥時代に信仰をあつめていた青根ヶ峰(水分山)を真南に見るように意識して造営さ
	れていたという。奈良時代にはその吉野宮の西側に瓦葺きの吉野離宮が造営された。聖武天皇は何回か離宮を訪れ、宮滝の美しい自然を
	愛でる宴が催した。多くの大宮人たちが船遊びや鵜飼を楽しんだり、段丘の上を徘徊しながら、和歌の想を練っていた様子が目に浮かぶ。
	これらの宮や離宮を含む宮滝遺跡は、集落の旧道と吉野川の間の河岸段丘に広がる一帯に埋もれていた。



	
	吉野宮滝で旗揚げした大海人皇子(おおあまのみこ)

	671年の旧暦10月19日、頭髪を落として出家姿となった大海人皇子は、志賀大津京を辞すると、逃げるように吉野宮へ旅発った。
	皇子に従ったのは、后の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)と二人の皇子(草壁皇子、忍壁皇子)、それにわずかば
	かりの舎人と侍女たちにすぎなかった。
	彼らはその日の内に80kmの道を踏破して明日香に到着し、翌日には芋峠越えで吉野に入っている。いかに強行軍だったかが分かる。
	しかも、みぞれ混じりの雨が降りしきる雨中行軍だった。吉野に入った一行は、現在の宮滝付近にあったとされる吉野の行宮に落ち着い
	た。その年の12月3日、天智天皇が大津京で崩御し、息子の大友皇子(当時25歳)が近江朝廷を引き継いだ(明治時代になって、大
	友皇子には弘文天皇という名が追諡(ついし)される。)。 

	翌672年5月 吉野の大海人皇子のもとへ、緊急事態を知らせる者がやってきた。近江の朝廷が天智天皇陵を造るという名目で美濃と
	尾張の農民を集めて、武器も持たせているというのだ。さらに、大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ、吉野への食料を運ぶ道
	を閉ざそうとする動きも伝わってきた。 
	自分の身に危険が迫っており,今こそ決断の時と考えた大海人皇子は、挙兵を決意した。6月24日、自分の私領地がある美濃への脱出
	を決行すべく、子の草壁皇子、忍壁皇子、鵜野讃良皇女や20人ほどの舎人、そして侍女たち10数人を連れて吉野宮を発った。事が急
	だったので、乗り物もなく徒歩で出発したという。 
	吉野脱出に先立って、舎人たちに命じて東国(現在の三重県東部・岐阜県・愛知県・長野県)の豪族たちを味方にするよう準備を進めた。
	一行は、翌日には伊賀を抜け、加太(かぶと)峠を越えて伊勢に入った。伊勢では、甲賀を越えて近江朝廷から脱出して来た高市皇子
	(たけちのみこ)と合流した。鈴鹿(すずか)道と不破(ふわ)道は都と東国を結ぶ交通の要所である。大海人皇子に味方した兵たちで
	この2か所を完全に確保し、不破関の近くに前線本部を置くと、その最高司令官に高市皇子を任命した。 
	6月26日には、大海人皇子は三重郡家(みえのこおり)と朝明郡(あさけのこおり)を経て桑名郡家(くわなのこおりのみやけ−桑名
	郡の役所)にたどり着き、翌日には前線本部のある不破(岐阜県不破郡関ヶ原)に到着した。そして、7月2日、大海人皇子は兵士達を
	大きく二手に分けて、出陣を命じた。後に壬申の乱と呼ばれる我が国の古代史最大の内乱が始まったのである。
 


	
	●宮滝遺跡(みやたきいせき)

	宮滝遺跡は、奈良県吉野郡吉野町宮滝に所在する。いくつかの、異なった年代の遺構の存在するいわゆる複合遺跡である。宮滝の集落の
	旧道と吉野川の間の河岸段丘に広がるのが史跡宮滝遺跡。この遺跡は戦前末永雅雄氏によって発掘調査がおこなわれ、戦後国の史跡に指
	定された。現在吉野町が遺跡の公有化をすすめ、遺跡公園の計画を進めている。
	1930年(昭和5)から断続的に発掘が行われた。 縄文時代の後期〜晩期と、弥生時代の中期に、吉野地方きっての大遺跡として注目に値
	する遺跡である。多くの掘立柱の建物遺構と礎石を持つ建物遺構(9世紀のものも含む)、さらに敷石や溝の遺構、それと土抗から多数
	の土器が出土している。この遺跡は近畿のほぼ中心点にある。東への国道を行くと伊勢湾へ、西への国道を行くと紀伊水道に達する。南
	への国道を下ると紀伊山地を越して熊野灘に達する。宮滝から道を北方向にとると飛鳥や奈良にいたる。

	<縄文時代>
	縄文時代後期の土器で宮滝式土器と呼ばれる土器群がある。その呼称は、戦前の発掘成果によって末永雅雄が提唱したものである。この
	土器の分布の要になっているのが宮滝遺跡である。この土器の特色は、文様をつけるのに巻貝を多用していることである。巻貝の腹部を
	押しつけただけのものや押しつけたまま少し回転させて文様を付ける「扇状圧痕文」などがある。土器の表面につけた凹線も棒状、ヘラ
	状の道具を使用しているのではなく、やはり巻貝が使われている。 この巻き貝は海産のヘナタリで、それが宮滝系の土器に文様をつけ
	る道具として使われているということは、山地と海との関係をたどる上で重要な資料である。宮滝系土器のように貝殻で文様をつけた土
	器は、貝は二枚貝であるが、他にも縄文時代後期の土器で南九州の市来(いちき)式土器がある。この土器は薩南諸島にも点々と及んで
	いる。

	<弥生時代>
	弥生時代には10基の竪穴住居と1棟の長方形の掘立柱建物、7基の方形周溝遺構などが発掘されている。この遺構から、弥生前期の土
	器が少数と弥生中期の土器が多数が出土している。前期や中期には、弥生時代の基本的な道具であるはずの磨製の石包丁、つまり稲の収
	穫具が見つかっていない。さらに縄文時代に使われていた打製石グワ(石斧)がなお弥生時中期にも多数伴って出土している。この点だ
	けから言えば、少し進歩したはずの弥生人の生活も前の時代の縄文人の生活も余り差がなかったと推定できる。

	<飛鳥時代>
	吉野宮の所在については、吉野郡吉野町宮滝の宮滝遺跡であることはほぼ確定している。大海人皇子が近江朝廷の迫害を避けて隠れ住ん
	だのは吉野宮である。壬申の乱に勝利した後、天武天皇8年には諸皇子を引き連れてこの地にやってきて、吉野の盟約を成立させている。
	持統天皇はいずれの吉野行きにも夫に同行していた。さらに、夫の死後皇位を継ぐと、在位10年間になんと31回も訪れている。持統
	天皇の宮滝への傾倒ぶりが分かろうというものだ。                
	 持統天皇を宮滝に駆り立てたものは何か。単に山紫水明の豊かな自然の景勝地というだけではないだろう。おそらく当時もてはやされ
	た神仙思想に影響されたのではないか。神仙思想とは、いうまでもなく不老不死の神仙郷を東海の蓬莱山などに信じる、一種の神秘思想
	である。天武・持統朝には、吉野山が仙境と考えられていたようである。持統女帝には、仙境で仙草を食べ、不老長寿の効能を得たいと
	いう切実な願いがあったのではなかろうか。

















	
	国道に出てバス停を通り過ぎて暫く行くと左手に宮滝醤油があり、その向かいが広場になっていて土産物を商う小さな店がある。広場の
	角を右へ曲がって、道なりに右へ坂道を上ってゆくと、左側の丘の上に吉野歴史資料館がある。この広場から資料館へ上ってゆく道の辺
	りに、持統天皇が31回立ち寄ったとされる吉野離宮があったとされている。周辺は発掘調査されていて、その復元模型が資料館に展示
	されている。この資料館は吉野町が建てたもので、玄関から吉野川の方を眺めると、正面に象山(きさやま)、その向こうに青根ケ峰が
	見えて、眺望抜群である。



中荘小学校前の遺跡の碑から、宮滝の集落を通って10分ほどで吉野歴史資料館に着く。









資料館の隣にあった神社。由緒ありそうで荘厳な神社だったが、どこにも何神社なのか表記がなかった。



至る所にサルスベリの花が咲き誇っている。



	
	この写真はどういう具合になっているのかおわかりだろうか。私の後ろに写っているのがバス停である。バス停の方から、道の反対側に
	あったビルのガラスに写った私を撮っている。



	
	醤油屋さん、土産物屋さんの側になにやら建物があって、中にはオートバイに乗った「雷神」像が安置されていた。吉野杉を使った「寄
	せ木彫刻」だ。







	
	醤油屋さん。前回は高野さんがここで醤油と味噌を買っていた。なんで?と聞くと「いやぁ、私は冷や奴が大好きで、醤油もいろいろ試
	すんですわ、と言っていた。「私は豆腐とオカラがあったら、もうおかず要りまへんねん。」




	
	吉野川の南には、狭い喜佐谷を挟んで、東側に三船山(487m)、西側に象山(きさやま、400m)が向かい合っている。いずれも
	穏やかな形をした山である。雨が降りしきる中では、山肌に沿って立ち上る霧のために山頂付近が見えないのが残念だ。

	バス停でバスを待つ間に、パラパラの小雨が結構な降りとなった。傘を差しながら付近の写真を撮ってバス停に戻ると郭公さんがいない。
	また付近をうろうろしに行ったかなと思ったら、「バスが来る間に歩いて大和上市駅まで行く」と言って一人出発したという。「えぇー、
	この雨ん中を−? 大和上市て、相当掛かりますやろ?」「いやぁー、雨まだ降ってなかったし、なんかもうすぐ着きそうな勢いやった
	でぇ。」「アホな! 上市までまだ相当ありまっせ。30分くらいバスに乗るンちゃうかなぁ。」「大丈夫やろか?」

	やがてバスが来て残りのメンバーはバスに乗り込んだのだが、雨はますます激しくなってきて、車窓から郭公さんが歩いていないか心配
	して見ていたら、3つ目くらいのバス停から乗り込んだ乗客の中に郭公さんがいてみんなホッと一息。
	郭公さん曰く「いやぁー、この雨では。」

	大和上市から近鉄電車に乗り、例によって橿原神宮駅構内の「きはる」にて反省会。皆さんお疲れ様でした。



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