Music: Mr.lonely





歴史倶楽部 第165回例会 4月24日
法隆寺周辺の散策



	第165回例会 −夢殿春の公開に合わせて、斑鳩の里を歩く−
	
	日時 : 4月24日(日)
	集合 : JR法隆寺駅・9時35分
	持参 : 雨具、弁当、お茶など。
	乗車例: 天王寺 09:09-09:34 法隆寺 16番線 奈良行快速 450円
		 JR奈良 09:22-09:33 法隆寺 直通快速尼崎行 210円
		 バス  JR法隆寺 09:40―法隆寺門前 180円 8分  歩いても15分
	散策予定コース : 
	・法隆寺(拝観料 1000円 夢殿を含む)   夢違観音、百済観音、釈迦三尊像など。なお、法隆寺には、多くの伎芸面が所蔵
	 されています。これが見られるかどうかはわかりません。
	・夢殿(拝観料 200円 夢殿onlyの場合)  救世観音
	・中宮寺(拝観料 500円)半跏思惟像    北へ歩き、法輪寺を右へ。
	・山背大兄王墓 岡の原 富郷陵墓参考地   中宮寺から見回りにこられるそうですので、ほんまもんの山背大兄王の墓だと思
	 われますが、平群中央公園の西宮古墳を、その墓とする河上邦彦説もあるそうです。  引き返して、法隆寺から西へ400mくらい。
	・藤ノ木古墳	穴穂部皇子、宅部皇子説が有力ですが、かつての法隆寺管長は崇峻天皇説。

	反省会は法隆寺駅周辺にて。	
	
	前回のみゆき会には私は参加出来ませんでした。息子と娘が、定年退職と結婚記念日を祝って伊勢志摩旅行に招待してくれた為
	です。その模様はここに入れてあります。そこで、今月の例会は皆さんに決めてもらったのですが、郭公さん提案の「法隆寺・
	夢殿 春の公開」と、西本さん提案の「高槻・今城塚博物館」の2つの候補が出ましたが、夢殿は今の期間だけの公開なので、
	「法隆寺・夢殿」ときまりました。そういうわけで、今回のコーディネーターは郭公さんです。西本さん提案の高槻巡りは5月
	の例会と言うことになりました。	このHPで、郭公さんが写してくれた写真には「郭マーク」が付いてます。

	なお歴史倶楽部では、「第39会例会 2000.9.24」で、ほぼ同じようなコースでここを訪れたが、もう11年前なので、参加者も
	数人だったような気がする。その時の模様はここ。デジカメが古いので写真は相当粗い。HPはITの歴史も語っているね。  





JR大和路線「法隆寺駅」北側。私は40分も早く着いてしまったので、近所を一回りしてみることにした。



上下は、駅の階段の壁に掛かっていた法隆寺の説明





先へ行った私と、法隆寺の駐車場で待っている松田さんと、この写真を撮っている郭公さんを除く7人のサムライ。





上左写真の手前に小さな祠があるが、どうやら昔はここに神社が在ったもののようだ。今は祠と道しるべを残すのみ。





	
	法隆寺への参道は松並木になっており、参道を抜けたところに南大門(国宝)がある。境内は西院と東院に大きく分かれ、国宝
	・重要文化財の建築物だけでも55棟に及ぶ。全体は大垣(重要文化財)と呼ばれる築地塀に囲まれている。



	
	<聖徳宗>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	聖徳宗(しょうとくしゅう)は、日本の仏教宗派の一つであり、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺を総本山とする。小本山に法起寺・
	法輪寺、門跡寺院の中宮寺など末寺は、29ヵ寺。
	昭和25年(1950年)に、法相宗からの独立を果たす(宗教法人として認可されたのは、昭和27年(1952年))。聖徳太子を宗祖と
	する。所依の経典は、聖徳太子が撰したとされる「三経義疏」である。


	<法相宗>	出典: 同

	法相宗(ほっそうしゅう)は、中国創始の仏教の宗派の一つ。唐代、638年(貞観 19年)中インドから玄奘が帰国して、ウァスバ
	ンドゥ(世親、vasubandhu)の『唯識三十頌』をダルマパーラ(護法、dharmapaala )が注釈した唯識説を中心にまとめた『成唯
	識論』を訳出編集した。この論を中心に、『解深密経』などを所依の経論として、玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)
	が開いた宗派である。そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。
	この時代の仏教宗派とは後世の宗派とは異なり、学派的のものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。
	また、基と同じ玄奘の門人である圓測の系統も広義では法相宗と呼び、門人の道證の時代に隆盛を迎えたが以後に人を得ず開元年
	間には基の系統に吸収されてしまった。
	玄奘と基が唐の高宗の厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃
	く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、武周朝( 690年 - 705年)に法蔵の華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはし
	だいに衰え、安史の乱や会昌の廃仏によって致命的な打撃を受けた。その後、宋・元の頃に中国仏教史では、法相宗は姿を消した
	と考えられているが、詳細は不明である。




	法隆寺にはいままで何回か訪れたが、「聖徳宗」という独立した宗派だったのははじめて知った。

	 法隆寺の宗派は、法隆寺208世管主・聖徳宗第5代管長だった高田氏の著書によると、中世には「三経宗」や「太子宗」と呼
	ばれていたようである。それより以前は、「唯識衆(ゆいしきしゅう)」「三論衆(さんろんしゅう)」「律宗(りつしゅう)」
	といったいずれも学派的な名称で、宗派的な名前ではなかったようだ。特に鎌倉時代からは、聖徳太子が撰述した勝鬘経、維摩経、
	法華経の注釈書である「三経義疏」を信奉し、合せて「三論宗」「法相宗」「真言宗」「律宗」の四宗を内包していた。
	 明治五年、太政官布告により「真言宗」や「浄土宗」などの大宗派に統合されるよう政府から勧告され、「真言宗」の所轄となっ
	たが、法隆寺と興福寺はもともと二寺に共通する「法相宗」を掲げた。戦後は、太子宗、三経宗へ戻るために「聖徳宗」として独
	立し現在に至っている。
	
	駅へ戻るつもりで居たのだが、どうせみんなここへ来るのだから、その前に斑鳩町の観光案内施設である「iセンター」の写真を
	取っておこうと、ここで待つ事にした。ここにも今まで2,3度は来ているが、ろくろく写真は撮っていないのだ。

















	
	<法隆寺>

	推古15年(607)、聖徳太子と推古天皇により創建されたと伝わる。「日本書紀」には、天智9年(670)に伽藍を焼失した
	との記述があり、8世紀初頭に現伽藍が完成したと考えられる。兵火や天災にはあわず、太子信仰に守られたこともあって、世界最
	古の木造建築群として往時の姿を今に伝えている。

	この寺は法隆寺式伽藍配置と呼ばれる配置になっており、寺の中心である西院には、五重塔(国宝)と金堂(国宝)が並び、中門
	(国宝)と大講堂(国宝)をつないで回廊(国宝)が囲む。東に向かって東大門(国宝)を抜けたところに夢殿(国宝)のある東院
	が広がる。
	また、優れた仏教美術品を多数所蔵しており、その数は国宝だけで115点重要文化財では1955点にもなる。法隆寺地域の仏教
	建造物として、平成5年(1993)12月、世界遺産に日本で初めて登録された。 
 
	法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られている。その創建の由来は、「金堂」の東の間に安置さ
	れている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747)の縁起文によって知ることができる。
	それによれば、用明天皇が自らの病気平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願したが、その実現をみないままに崩御したという。
	そこで、推古天皇と聖徳太子が用明天皇の遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造ったのがこの法隆
	寺(斑鳩寺とも呼ばれている)であると伝えている。

	現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられている。広さ約18万7千平方メートルの
	境内には、飛鳥時代をはじめとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつらね、たくさんの宝物類が伝来している。



南大門で待っていた松田さんを加えて、全員で「世界へ発信!」記念撮影。これは誰を追加したかすぐ判りますね。黙っていれば判らないかも。



入場料は千円です。いい値段だこと、「坊主丸儲け」やね。



上左は中門。南大門も中門も国宝である。上右は、正岡S子規の有名な「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句碑。



普段はこの界隈はあまり観光客も来ないのだが、今日は中高の修学旅行生で一杯だった。











スルメのような播(ばん)。中門のまわり、あちこちに立っていた。



中門の両脇に立つ、阿吽(あうん)の「金剛力士像」。塑像。重要文化財。







	
	昔、法隆寺は再建か非再建かの論争があった。結果、現在の建物は710年前後に再建されたとされるので、築後1300年が
	経ったことになる。今のところ、世界最古の木造建築である。
	五重塔は、塔の先端までの高さは32.56mであるが、この塔には真ん中に、一本の太い柱(心柱)が、土台から塔の先端に
	突き出ている相輪まで貫いている。いままで、五重塔は地震や台風で倒れたことがない。塔の真ん中の一本の心柱は、塔の構造
	には直接関わってはおらず、心柱は一番上の相輪をさえているに過ぎないそうである。倒壊した例はないというが、何故倒壊し
	ないのかについては、専門家にもまだ完全には判っていないようである。
	どのようにして、誰がこの塔を建てたのだろうか。技術者は、当時の百済帰化人ではないかと思われるが、こんな塔は朝鮮にも
	中国にもない、日本独自の塔なのである。誰が工法を考えだしたのか、謎はつきない。
	

	いつか見たTVで、同じく西岡棟梁が「千年たったヒノキでも、表面を削ると新しいヒノキと同じ手触りと香りがした」という
	ことを言っていた。西岡棟梁によると、法隆寺の心柱は樹齢2千年以上、直径2.5mのヒノキの巨木を四つ割りにして使って
	いるそうだ。法隆寺に使われている木材のすべてはヒノキである。樹齢2千年の木が、さらに千三百年を経て、今でも香るのだ。



ガイドさんから、境内の見学順を聴く。案内してくれるのかと思ったら、道順を教えてくれるだけだった。





播(ばん)があちこち立っている。上野国立博物館の「法隆寺宝物館」に行った時、一階のエントランスにこれが垂れ下がっていた。







下の龍は元禄の大修理の時に付けられたもの。だとしたら上の猿(?)もそうかな。











聖霊院。この中に有名な「国宝聖徳太子像」が安置されている。聖徳太子の像があるのは法隆寺ではここだけ。詳細は最後尾の「仏様たち」参照。







ここから先が法隆寺東院伽藍。ここに聖徳太子の「斑鳩宮」があった。この中にある八角円堂の建物が「夢殿」である。



	
	<絵殿及び舎利殿>(重要文化財)

	鎌倉時代の建立。絵殿には、摂津国(現在の大阪府)の絵師である秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだ)が延久元年(1069年)
	に描いた「聖徳太子絵伝」の障子絵(国宝)が飾られていた。太子の生涯を描いた最古の作品であるが、明治11年(1878年)、当
	時の皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっている。





	
	<法隆寺 夢殿> (ゆめどの) 

	法隆寺東院伽藍の中心をなす八角円堂の建物。739年(天平11年)ころに創建され、1230年(寛喜2年)に大修理が加えら
	れた。聖徳太子の住まいであった「斑鳩の宮」の跡に、行信僧都(ぎょうしんそうず)が、太子の遺徳を偲び建てたのが上宮王院、
	その中心が夢殿である。
	内部には、本尊の国宝救世観音像(聖徳太子等身の像と伝えられている)とともに、行信僧都と、平安時代初めに東院を修理した道
	詮律師(どうせんりっし)の座像があり、いずれも国宝に指定されている。 
	聖徳太子が住んだという「斑鳩の宮」にも、夢殿と呼ばれる建物があったと伝えられ、太子はその建物の中で思索にふけり、東方か
	ら来た金人(仏)のお告げを聞いたという。 


 	聖徳太子(しょうとくたいし) 574〜622

	飛鳥時代の政治家、皇太子。用明天皇を父、欽明天皇の皇女穴穂部間人皇女を母とする。推古元(593)年、皇太子として叔母推
	古天皇の摂政となり、29年の間その地位を務めた。太子は摂政として天皇の政治を補佐し、蘇我氏と共同で政治・外交・文化等を
	行った。冠位十二階、憲法十七条の制定をし、官民の心得を示し、律令制の基礎固めを行った。遣隋使として小野妹子を派遣し、隋
	との国交を開き、大陸文化を採り入れ文化の向上に力を入れた。これが飛鳥文化と呼ばれている。また仏教の振興につとめ、四天王
	寺、法隆寺等を建立した。子には、山背大兄王をはじめとする八男六女がいる。大王を頂点とする集権国家体制の成立に力を入れた
	が、その政治思想は大化改新で実を結ぶことになる。死後、様々な伝説が生み出されている。

	○聖徳太子創建7か寺(法隆寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起寺・葛木寺)
	○聖徳太子像を安置している寺(元興寺・橘寺・達磨寺・法隆寺 他) 
 


	
	明治維新以後の廃仏毀釈により民衆による破壊にさらされ、さらに幕政時代のような政府による庇護がなくなった全国の仏教寺院は、
	財政面で困窮の淵にあった。また多くの寺院は堂塔が老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。
	文明開化の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇
	を棄却するか売却するかの選択を迫られた。

	法隆寺は、1878年(明治11年)貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜された。この皇室の援助で7世紀以来の伽藍や堂宇
	が維持されることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移されたのち、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆
	寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還され
	た4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、
	これら約320件近くの宝物は、現在東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている。(有名な『聖徳太子及び二王子像』や『法華
	義疏』などは現在も皇室が所有する御物である)





	
	中宮寺	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	山号 	法興山 
	宗派 	聖徳宗 
	本尊 	(伝)如意輪観音 
	創建年	7世紀前半、一説に推古天皇15年(607年) 
	開基 	(伝)聖徳太子 
	札所等 	聖徳太子霊跡15番 中部尼寺巡り15番 神仏霊場巡拝の道 第27番 
	文化財 	木造菩薩半跏像・天寿国繍帳残闕(国宝) 紙製文殊菩薩立像・紙本墨書瑜伽師地論(重要文化財) 
 
	中宮寺(ちゅうぐうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に隣接する、聖徳太子ゆかりの寺院である。宗派は聖徳宗に属す。山号を
	法興山と称し、本尊は如意輪観音、開基(創立者)は聖徳太子または間人皇后とされている。

	中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は400メートルほど東にあった。現在地に移転したのは中宮寺が門跡寺院と
	なった16世紀末頃のことと推定される。旧寺地の発掘調査の結果から、法隆寺と同じ頃、7世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳
	しい事情は不明である。天平19年(747年)の『法隆寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』には、「聖徳太子建立七寺」の一とされるが、
	確証はない。中宮寺独自の創立縁起は伝わらず、『日本書紀』にも中宮寺創建に関する記載はない。

	平安時代の『聖徳太子伝暦』は、中宮寺は聖徳太子が母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、間人皇后)の宮殿を寺
	としたと伝え、後には間人皇后自身が発願者であるという伝承も生まれる。鎌倉時代の顕真が著した『聖徳太子伝私記』の裏書には、
	「葦垣宮、岡本宮、鵤宮(いかるがのみや)の3つの宮の中にあった宮なので中宮といい、それを寺にした時に中宮寺と号した」と
	の説が記載されている。
	中宮寺は平安時代以降衰微し、鎌倉時代には中興の祖とされる信如によって復興が図られた。信如は文永11年(1274年)、法隆寺の
	蔵から聖徳太子ゆかりの「天寿国繍帳」を再発見したことで知られる。
	江戸時代初期の慶長7年(1602年)、慈覚院宮を初代門跡に迎え、以後門跡尼寺として今日に至っている(門跡寺院とは、代々皇族、
	貴族などが住持する格式の高い寺のこと)。

	創建当時の中宮寺跡は現境内の東方約400メートル、斑鳩町法隆寺東二丁目にあり、国の史跡に指定されている。この地はかつての
	地名を大字法隆寺字旧殿(くどの)といい、伽藍跡とおぼしき土壇が残っていた。1963年(昭和38年)より石田茂作らによる発掘
	調査が行われ、金堂と塔の跡を検出。大阪の四天王寺と同様に、金堂を北、塔を南に並べる伽藍配置であったことがわかっている。
	ただし、講堂、回廊等の遺構は未検出である。この伽藍の特徴の一つは、金堂と塔の距離が近く、軒を接するように建っていたと
	推定される点である。塔の心礎は地中に深く埋める形式とする。これは四天王寺、飛鳥寺、法隆寺などの塔心礎と同様で、創建時
	代が古いことを示唆する。
	その後数次の発掘調査により、寺地を区画する築地の跡が検出され、境内地は東西約130メートル、南北約165メートルの規模であ
	ったことが判明した。東西の130メートルは高麗尺の1町にほぼ相当する。

	現境内は夢殿のある法隆寺東院のすぐ東に接する子院地を拝借している。本堂は高松宮妃の発願で1968年(昭和43年)に建立した
	和風の現代建築で、設計は吉田五十八(いそや)である。



中宮寺は、別名「山吹寺」ともいうように、山吹の花が真っ盛り



















中宮寺の国宝、弥勒菩薩像(半跏思惟像)と、その普通切手(1966.12.26発行)

	
	本尊。飛鳥時代の作。像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)。広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。寺伝では如意輪観音
	だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造
	菩薩半跏像」である。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台
	座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な
	木寄せを行っている。本像の文献上の初出は建治元年(1275年)、定円の『太子曼荼羅講式』で、同書に「本尊救世観音」とある
	のが本像にあたると考えられている。それ以前の伝来は不明である。現状は全身が黒ずんでいるが、足の裏などにわずかに残る痕跡
	から、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる。



天寿国繍帳残闕(てんじゅこくしゅうちょう ざんけつ)
	染織品は、陶磁器、金属製品などに比べて保存がむずかしい。本品は断片とはいえ、飛鳥時代の染織の遺品としてきわめて貴重な
	もの。現在、奈良国立博物館に寄託。1982年に製作されたレプリカが現在本堂に安置されている。聖徳太子の母、穴穂部間人皇女
	と聖徳太子の死去を悼んで王妃橘大女郎が多くの采女らとともに造った刺繍、曼荼羅である。もとは二帳。その銘は『上宮聖徳法
	王帝説』にある。



さぁこれは誰を追加したでしょう。これは難しいよ。作った私でも判らないほどです。





法隆寺を出て法輪寺方面へ歩く。どこかで昼飯にしなければ。



中宮寺の裏手に「中宮寺宮墓」というのがあった。特に誰の墓とか書いてはいないので、皇族人達の集合墓だろうね。





中宮寺宮墓の森をバックに法輪寺を目指して歩いていると、



素晴らしい「菜の花畑」があったので、みんなで記念撮影。橋本さんのご要望で法輪寺の五重塔を入れたが小さい。



下は郭公さんが、その下は橋爪君が写してくれた。上の写真で橋爪君が写しているのがその写真である。





まるっきりイエローマンやねぇ。「菜の花男」と言うべきか。



	
	菜の花畑の隣に「法輪寺ポケットパーク」という小さな東屋があって、そこで昼食にした。大きな桜の木があって花びらが卵焼きに
	降ってきた。デカイ木だった。上右の写真がその桜の木である。こんな大きい桜は見たことが無い。








法輪寺

	
	<法輪寺>(ほうりんじ) 奈良県生駒郡斑鳩町三井1570 

	推古30年(622)、父聖徳太子の病気平癒を願った山背大兄王によって建立されたと伝えられる。地名にちなんで三井寺とも呼
	ばれている。創建当時の建物は現存していない。
	戦後に行われた発掘調査から、法隆寺式伽藍配置をとり、七堂伽藍を完備していたこと、7世紀の創建だったことが分かった。法隆
	寺、法起寺とともに斑鳩三塔として、美しさを称讃された三重塔は、昭和19年(1944)の落雷によって焼失。昭和50年(19
	75)に昔ながらの工法を用いて復元された。講堂には、薬師如来坐像(重要文化財)や虚空蔵菩薩像(重要文化財)などの見応えの
	ある飛鳥仏が安置されている。





	
	法起寺とともに斑鳩三塔と呼ばれているのが、この法輪寺の三重塔である。創建については、2つの説があり、一説には622年に
	聖徳太子が自らの病気平癒を祈願し建立を発願、その子山背大兄皇子と孫の由義王が建立したという説で、もう1つは、670年
	(天智9年)の斑鳩寺の炎上後に百済の開法師・円明法師・下氷新物が合力して建立したという説である。

	創建当初の三重塔は、1944年(昭和19年)に落雷により焼失し、現在の塔は、作家幸田文氏らの尽力により、1975年(昭
	和50年)に再建されたものである。
	創建当初の法輪寺は、法隆寺西院伽藍と同じ伽藍配置で、約3分の2の規模であることが、発掘の結果明らかになった。平安時代の
	仏像、仏具が多数残っていることから、そのころが隆盛期であったことが推測される。1645年(正保2年)大風のために金堂を
	はじめ、諸堂が倒壊したが、元文年間(1736〜41年)に再興され、現在に至っている。



	
	境内には会津八一の歌碑がある。

	   「観音の しろきひたいに やうらくの かげうごかして かぜわたるみゆ」 

	※注 会津 八一(1881−1956) 
    歌人・美術史家・書家。新潟市の生まれ。早大英文科卒、早大教授。歌壇の外に立ち、万葉調・良寛調の歌集「南京新唱」「[鹿鳴
	集」などを刊行。「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」で学位を得た。法輪寺の塔は昭和の再建の塔であるため、世界文化遺
	産には登録されていない。講堂の本尊は、十一面観音立像で、高さが5m近い一木彫りの像である。 





	
	ここを出て法起寺までの間に、「伝」山背大兄皇子の墓がある。郭公さんは一度行ったことがあるそうで、葡萄畑の中を突っ切って
	登っていくのだった。作業中のおじさんに断って、葡萄畑(梨畑だったかな)を登り切るとすぐの所にあった。疲れたおじさん達は、
	登り口の所に座り込んで「儂ら、ここで待っとくわ」やて。残念やなぁ、来れば山背大兄皇子に会えたのに。











法起寺



	
	<法起寺>(ほうきじ)奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873 
 
	舒明10年(638)創建。聖徳太子ゆかりの岡本宮をその子、山背大兄王が寺にしたとされる。七堂伽藍の大寺院で金堂と塔の位
	置が法隆寺と逆になった法起寺式と呼ばれる配置をとっていた。創建当時の建物慶雲3年(706)完成の三重塔(国宝)(高さ約
	24m)のみであり、現存する三重塔の中ではわが国最古・最大のもの。現在の本堂、鐘桜、金堂などは江戸時代の再建。 



	
	法起寺は、太子の岡本宮を太子の遺言により、その子山背大兄皇子が寺に変えたもので、地名から岡本宮、池のそばにあったので池
	尻寺ともいわれる。三重塔は、706年に完成したとされ、高さ24mの塔は最古のもので、法隆寺伽藍と共に世界文化遺産に登録
	されている。創建当時のものは、三重塔だけで、三重塔としては、最古最大であり飛鳥時代の建築様式を伝えている。 



	
	中から出てきた橋本さんが、「井上さん、中に歓喜天いうのがありましたで。歓喜天やて、さぞかし御利益がありまんにゃろな。」
	と何かと勘違いして、嬉しそうにしている。「勃起寺に歓喜天!まんまやん。」「アホな!」「罰当たりめ、勃起ちゃいまんで法起」
	「しかも、「ほっき」やのうて、「ほうき」でっせ。」「それに歓喜天いうのはアヘアヘの歓喜とちゃいまんで、仏教で歓喜天いう
	たら、意味忘れたけど、崇高な意味でっせ」「あ、さよか」

	
	歓喜天	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	歓喜天(かんぎてん、Skt:Vinayaka、・・・Ganapati もしくは ナンデ―ケーシュバラ nandike-vara 歓喜-天)は、仏教の守護神
	である天部の一つ。
	また、聖天(しょうてん)、大聖歓喜天、大聖歓喜大自在天、大聖歓喜双身天王、象鼻天(ぞうびてん)、天尊(てんそん)。
	あるいはVinayaka、Ganapatiを音写して、毘那夜迦(びなやか)、我那鉢底(がなぱてい)ともいう。
	象頭人身の単身像と立像で抱擁している象頭人身の双身像の2つの姿の形像が多いが、稀に人頭人身の形像も見られる。多くは厨子な
	どに安置され、秘仏として扱われており一般の前に公開される事は少ない。

	ヒンドゥー教のヴィナーヤカ(Vinayaka、無上)、ヴィグネーシュワラ(Vigneshwara、障碍除去)、ガネーシャ(Ganesa、群集の長)、
	ガナパティ( Ganapati、群集の主)、またはナンディケシュヴァラ(Nandikesvara)に起源を持つ。ヒンズー教最高神の一人シヴァ
	神を父にパールヴァティー(・・・ P?rvat?)(烏摩 うま)を母に持ち、シヴァ軍団の総帥を務めたとされている。
	古代インドでは、もともとは障碍を司る神だったが、やがて障碍を除いて財福をもたらす神として広く信仰された。ヒンドゥー教から
	仏教に取り入られるに伴って、仏教に帰依して護法善神となったと解釈され、ヒマラヤ山脈のカイラス山(鶏羅山)で9千8百の諸眷属
	を率いて三千世界と仏法僧の三宝を守護するとされる。悪神が十一面観世音菩薩によって善神に改宗し、仏教を守護し財運と福運をも
	たらす天部の神とされ、日本各地の寺院で祀られている。

	
	しかし、歓喜天、昇天(聖天)、抱擁している秘仏、とくれば、俗世人は「勃起寺」と思うかも。






中宮時跡





法起寺から南へでて溜め池の横を通り、県道9号線に沿って田圃の中を南下すると、5,6分で中宮寺跡が左手にある。中宮寺は元々ここにあった。









下の方に、もっと読みやすく太字になった写真があります。無理してここで読む必要はありません。


















反省会

法隆寺前のバス・ターミナル横にあったファミレスで反省会。終了時間が早かったので、探しても多分飲み屋さんは開いてなかっただろう。









斑鳩の里に沈む夕陽。ここで解散。ここからバスでそれぞれの方向へ。皆さん、お疲れ様でした。西本さん、次回よろしく。



	
	この兄ちゃんの荷物の持ち方は何じゃ! まるで女じゃないか! 男なら堂々と、荷物は両手に提げてがに股で歩かんかい!
	全くなげかわしい。●玉、下げとんのかい! と言いたくなる。


法隆寺内では、仏様は勿論、新宝物殿の宝物も一切撮影禁止だったので、以下に主な仏様を特集しています。復習に役立てて下さい。





邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 164回例会・法隆寺周辺の散策