Music: oh! carol



和歌の浦 散策 歴史倶楽部 第167回例会 6月26日


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	第167回例会 紀州三昧・和歌の浦を歩く  
	和歌山の名所・遺跡・旧蹟を時間の許す限り見て回ろう!という企画です。
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	前回のみゆき会で次回例会は和歌山方面となりました。古参の会員の方は行ってても新しい会員の方は和歌山方面は初めてという人が
	多いので、今回は、目一杯廻れるだけ廻ろうと河内さんに頼み込んで、車で廻る事にしました。
	大阪方面から和歌山へ行く場合JRとバス代込みで、往復ゆうに3,000円は越えますので、なら、6人集まればレンタカー代金が
	出ます。定員の8人参加者があればガソリン代も捻出できます。
	8月の熊本予行演習だと、河内さんも心よく運転を引き受けてくれましたので、皆様是非御参加を!但し車が8人乗りですので参加希
	望は先着順で受け付けます。

	<日時> 6月26日(日) 7時50分<集合> 地下鉄御堂筋線「千里中央駅」よみうり文化センター前(いつもの場所です。)
	<コース> 千里 − 大谷古墳 − 和歌山市 − 和歌浦 − 千里(日帰りです。)
	<費用>
		レンタカー:15,800円 +ガソリン代 (8人参加者で@3,000円)
		ニッサン・エルグランデ(高級仕様車8人乗り)河内誂え。(ニッサンレンタカーの後輩に頼んで、特別仕様にしてあります。
		20歳女性アシスタント付き・・嘘)
	<反省会> 千里中央で、車を返した後、いつものように行います。
	<見学>  下の見学地を予定していますが、時間と疲労度によりはしょります。太字は必須の見学地(必ず行く)です。
		  尚、昼食は和歌山のどこかで食べます。

	・大谷古墳
	・岩橋千塚古墳群
	・紀伊風土記の丘
	・和歌山市立博物館  
	・和歌山城	言わずと知れた、紀州御三家「吉宗」のお城。  
	・和歌山県立博物館 筑前も初めてなので楽しみです。
	・塩竈神社  
	・養翠園 養翠園(ようすいえん)は、和歌山県和歌山市にある池泉回遊式の日本庭園。公家の三条公修(三条実美の祖父)が命名し
	 た。国の名勝に指定されている。紀州藩第10代藩主徳川治寶によって、文政元年(1818年)から文政9年(1826年)にかけて造営さ
	 れた西浜御殿内の広大な大名庭園である。元々は、紀州藩士山本理左衛門の下屋敷であったと伝わっている。総面積は33,000平方メ
	 ートル。平成7年(1995年)のNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」のロケ地である。
	・紀三井寺 紀三井寺(きみいでら)は、和歌山県和歌山市紀三井寺にある仏教寺院。正式名は紀三井山金剛宝寺護国院。西国三十三
	 箇所第2番札所。  
	・玉津島神社
	・ほか 時間があれば廻りたいと思いますが、おそらく時間ないでしょう。  (黒字部分は、結局廻れなかった所です。)





地図は、各自印刷してご持参下さい。




和歌山地方にも過去何度か例会で訪れましたが、その時の解説は、特に誤りが無い限りこのページにそのまま転載しています。






	今回は、次回例会「肥後・吉野ヶ里の旅」の前哨戦として、河内さん運転による「日帰りレンタカー例会」となった。広範囲にわた
	る散策の場合、また電車ではどうしても廻りきれない地域などでは、自動車はほんとに有効である。河内さんにはいつも運転を担当
	してもらい、感謝、感謝です。


大谷古墳

	<大谷古墳>

	九州・関東との結び付きを想定させる出土品。馬面冑。金製鈴。2000.12.17 の歴史倶楽部第43回例会の模様はここです。





頂上部からは下へ降りれるように石段が作ってあって、ぐるりと古墳の廻りを1周できるようになっている。




	大谷古墳は南に下る尾根先端の半独立丘陵上に築かれた前方後円墳で、前方部は南西を向いている。第2次調査によって、全長67
	m、後円部直径30m、前方部端幅48m、後円部の高さ6〜8m、前方部の高さ6〜8mであることが確認された。後円部は正円
	ではなく、やや主軸方向に長い。前方部の開きはやや均整を欠き、北西隅部がやや突出している。前方部前面の裾は直線ではなく、
	主軸上でやや張り出した、いわゆる剣先状を呈している。後円部には中段を意識した傾斜の緩い部分が帯状に巡っているが、前方部
	ではそういう形跡はない。




	南側くびれ部では東西16m、南北7mのテラス状の平坦地が検出された。この平坦地は岩盤の整形によるもので、埴輪列などは検出され
	なかったが、造りだし的な性格を持つものと思われる。全体に明瞭な墳丘盛り土は確認できず、石棺の位置などから見て墳頂部(特
	に後円部)には若干の盛り土があったが、本来、大部分が岩盤の整形によってつくられたものと考えられる。円筒埴輪列は、第一次
	調査の際に後円部裾部に円弧状に検出された。このほか南側くびれ部からも多量の円筒埴輪片が出土した。原位置を保つものは確認
	されなかったが、基底部の破片もあり、南側くびれ部にも円筒埴輪列があったと考えられる。	(以下略)  
	【和歌山市立博物館「大谷古墳とその遺物」平成12年12月13日発行】より転載。




	大谷古墳が有名になったのは何と言ってもその豪華な副葬品の数々だろう。我が国でもここからしか出土していない馬冑(うまかぶ
	と:馬にかぶせる兜:その後埼玉の将軍山古墳からも出土して日本で2例目となった。)、馬具・武具に加えて、大陸・半島からの
	影響を強く受けている装飾品の数々。12月始めに福岡八女市の「岩戸山古墳」に行った時、資料館で大谷古墳から出土した耳垂飾り
	(イアリング)とそっくり同じものを見た。同じ民族のグループが、八女と和歌山に別れて渡来したのではないかと思った。















【和歌山市立博物館「大谷古墳とその遺物」平成12年12月13日発行】



馬具・武具










	馬冑は中国大陸・朝鮮半島においても出土例が非常に少ない馬具の一つである。製作が非常に難しい事と、その為に所有者
	が限られる事などが推測されている。現在までに実物の馬冑が出土したところは、韓国の場合加耶を中心とした嶺南地方だ
	けである。東北アジアに実物として存在する15点のうち12点がここにある。早くから騎乗文化が栄えていたと思われる高句
	麗においては、壁画の戦闘図に描かれているので、おそらく常習の用具として用いられていたと推測できるが、未だ出土し
	ていない。騎乗文化の源流地とされる中国東北地方においても、現在のところ「朝陽十二台郷磚廠88M1号墳」出土の馬冑1
	点の出土が報告されているのみである。日本では、大谷古墳と埼玉将軍山古墳の2例があり、これで合計15点となる。
	(1998年に、慶尚南道金海市の杜谷古墳群から1点出土し計16点となった。)

	大韓民国釜慶大学博物館学芸研究士の李尚律(イ・サンニュル)氏は、韓国考古学が専門で、特に三韓時代から三国時代の
	馬具の研究、ならびに同時代の韓国・中国・日本の比較研究をしているが、氏の研究によると、馬冑はA類形とB類形に分
	けられ、A類が加耶系、B類が新羅系とすれば、大谷古墳の馬冑はB類に分類できるそうである。A類は加耶で独自に考案
	され、B類は新羅系ではあるが源流は高句麗にあるのではないかとする。A類は金官加耶勢力の衰退とともに姿を消し、や
	がて新羅の台頭にともなってB類全盛時代を迎えるのだそうだ。だとすれば、大谷古墳、将軍山古墳の馬冑は、新羅系の渡
	来人が日本にもたらしたものと言うことになるのだろうか?


 





 

この他にも、直刀、短刀、鏃、石突きなどが出土しているがいずれも鉄製品でボロボロなので写真は割愛する。



装飾品

 




	上左のイアリング。岩戸山古墳資料館にそっくり同じものがある。その類似性に驚いてしまう。
	大谷古墳から西へ行ったところにある「車駕之古趾(しゃかのこし)古墳」からは、これも日本で此処だけの金の勾玉が出
	土している。(和歌山博物館を参照)



「かばん」! 驚きだ。グッチもルイヴィトンもまっ青。当時超一流の品物だったに違いない。




	これらの副葬品を見ていると、一体どのような一族が、どこから来て、どこでこれらの装飾品を入手したのかと、頭を悩ま
	さずにはいられない。前項で見たように、もし新羅から渡ってきた渡来人の携行品だとすれば、この地に勢力を広げやがて
	「紀州」の名の元になった「紀」氏は、新羅系という事になる。








	古墳に登ると、眺望は素晴らしい。「紀ノ川平野」が眼下に見下ろせる。西には紀ノ川河口が見え、南側には有名な「岩橋千塚古墳
	群」(いわせせんづかこふんぐん)のある岩橋丘陵が見える。岩橋千塚古墳群は「紀」一族の奥津城(おくつき)として知られてい
	るが、この大谷古墳も、北側の尾根上にあった晒山(さらしやま)古墳群11基の内のひとつである。5世紀後半から6世紀後半の
	約100年に渡り、この古墳群は築造されているが、一番盛んなのは5世紀後半から6世紀前葉のようである。大谷古墳自体は5世
	紀の終わりの築造とされている。
	



	大谷古墳は、和歌山市の真ん中やや北寄りを、東から西に向かって流れる「紀ノ川」の北岸丘陵に位置している。鉄道の最寄り駅は、
	南海本線「紀ノ川」駅。「和歌山市」駅の一駅手前で、各停しか止まらないので、大阪から特急で来る場合、「みさき公園」駅で乗
	り換えるとよい。駅から東へ徒歩10〜15分ほど。古墳は非常にわかりにくい。住宅街の中を抜けていくので、「ほんとにこんな処に
	古墳があるんかいな?」と思ってしまう。それらしい丘が幾つかあるので目検討で歩いていくととんでもない処へ出てしまう。地元
	の人に聞きながら探した方がいいだろう。


和歌山市立博物館






	何と言う事! せっかく来たのに明日まで燻蒸(くんじょう)の為閉館である。登呂遺跡では、閉館になったその日に訪問して見れ
	なかったが、ここは明日まで閉館だ。ううう。

	乾さんは下のストラップを買いたがっていたが、門が閉まっていて中へ入ることも出きない。それに燻蒸ではヘタに近づくと危険で
	ある。燻蒸の説明をすると皆さんそそくさと博物館を後にした。







和歌山県立博物館





	和歌山県立博物館(わかやまけんりつはくぶつかん、Wakayama Prefectural Museum)は和歌山県和歌山市にある博物館。設立は昭和
	46年(1971年)、現在の施設は平成6年(1994年)に開館した。 建物は和歌山県立近代美術館に隣接している(両館は地下でつなが
	っており、空調システムや電気系統等共通とする一体の建築物である)。
	常設展示室では古代の人々の生活から高野山や熊野三山、熊野古道の資料、紀州徳川家旧蔵品など、和歌山の文化歴史に関する展示を
	行っている































 






	ここにはがっかりした。県立博物館だというから市立博物館よりさぞ立派だろうと期待してやってきたが、博物館としてよりも、
	他の用途に使われる事の方が多そうだ。建物は立派なんだがなぁ。乾さんはここでも例のストラップを欲しがっていたが、ここ
	には無かった。


	和歌山県立博物館の利用案内
	--------------------------------------------------------------------------------
	開館時間	: 午前9時30分〜午後5時 (入館は閉館の30分前まで)    
	常設展入館料 	: 一般 280円(220円) 大学生 170円(140円) ※( )内は20人以上の団体料金。 
	 ※小学生・中学生・高校生・高齢者(65歳以上)・障害者は無料。 ※和歌山県内の学校に通学する外国人留学生・就学生は無料。 
	 ※特別展の期間は別料金になります。  
	休館日		: 月曜日 年末年始 	
	臨時休館日	:(展示替え期間など) 
 	交通機関	: JR和歌山駅からバス;  西口・2番のりばから約10分、「県庁前」下車、徒歩約2分 
		 	  南海電鉄和歌山市駅からバス;  9番・10番のりばから約7分、「県庁前」下車、徒歩2分 
	駐車場		: 県庁前交差点に進入路があります。 一般車90台収容(高さ制限2.6m) 	有料
	(博物館利用の場合始めの1時間が200円、以後30分ごとに100円追加。博物館を利用しない場合ははじめの1時間が300円。) 
	 バスを駐車するスペースもあります。バスの駐車を予定されている場合は事前に博物館にご連絡下さい。 
	問い合わせ先	: 〒640-8137 和歌山市吹上1-4-14 和歌山県立博物館 TEL.073-436-8670(代表)  FAX.073-423-2467
	       団体でのご利用予約は、和歌山県電子申請システムからもお申し込み頂けます。→和歌山県電子申請システム
 


紀州東照宮





  
	紀州東照宮	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	所在地	 	和歌山県和歌山市和歌浦西2-1-20 
	主祭神	 	徳川家康公 徳川頼宣公 
	社格等	 	県社 
	創建	 	元和7年(1621年) 
	本殿の様式 	権現造 
	例祭 		5月(和歌祭) 

	楼門紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう)は、和歌山県和歌山市和歌浦に鎮座する神社。江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した
	東照大権現と紀州藩初代藩主徳川頼宣を神格化した南龍大神を祀る。



  
	元和7年(1621年)に徳川家康の十男である紀州藩祖・徳川頼宣により南海道の総鎮護として創建され、関西の日光とも称される。
	本殿は伝・左甚五郎作の彫刻や狩野探幽作の襖絵がある。
	東照宮は、雑賀山に位置する。雑賀山は和歌浦湾の入り江を眼下に納め、右手には天橋立のような片男波の砂嘴が延び、左手には北
	岸をみるまさに「扇の要」の位置である。西には天満宮が、東には玉津嶋神社が位置する。 元和5年紀州初代藩主として入国した徳
	川頼宣(1602〜71)により、東照大権現を祀る東照社として建立された。頼宣の紀州入国とともに計画され、元和6年(1619)起工、
	元和7年(1620)に竣工・遷宮式が行われた。『紀伊続風土記』によれば、境内は方八町で、宮山周囲50町余りであった。現在は頼宣
	も合祀している。かつての別当寺は天曜寺。



  
	東照宮の例祭は、元和8年に趣向を凝らした絢爛豪華な風流(ふりゅう)の祭りとして創始されているが、江戸時代には、国中第一の
	大祭であった。諸国から多数の見物人がきたという。明治以降も和歌祭りと呼ばれて、大勢の観衆を集め、親しまれた。近年復興さ
	れている。



  
	鬱蒼とした木々に囲まれた東照宮参道は青石が敷き詰められ、両側は低い石垣で区切られる。鍵の手で折れ曲がると、急勾配の108段
	の石段にたどり着く。参道と石段の両側には、家臣団が寄進した石灯籠が並ぶ。 高台の南端には、楼門が南面し、その両脇に東西廻
	廊が建つ。高さ約2mの石垣により一段高くなった社地北側には、唐門と瑞垣(みずがき)、その奥には正面に拝殿・石の間・本殿を一
	つの建物にまとめた権現造りの社殿が建つ。かつては社殿の右に三重塔、左に薬師堂があった。 社殿の建築様式は伝統的な和様を用
	い、様々な彫り物で飾る。内外部共に黒漆、赤漆を塗り、複雑な組物や彫刻類には極彩色を施し、鍍金の飾金具を施す。代表的な江戸
	時代初期の建造物である。この豪華な社殿により、俗に紀州の日光と称される。拝殿・石の間・本殿、唐門、東西瑞垣、楼門、東西回
	廊が重要文化財(建造物)に指定されている。また社蔵の平安時代から江戸時代の刀剣13振、南蛮胴具足、小袖3領が重要文化財(美
	術工芸品)に指定されている。

















 
			重要文化財

			<建造物>
			本殿・石の間・拝殿 1棟 
			唐門 
			東西瑞垣 2棟 
			楼門 
			東西廻廊 2棟 





  
			重要文化財

			<美術工芸品>
			南蛮胴具足 
			紺地宝尽小紋小袖、藍地花菱唐草文散絞小袖、白地葵紋綾小袖 
			太刀 銘来国俊 
			太刀 銘信国 
			太刀 銘左近将監景依正応二十一月 日 附:絲巻太刀拵(いとまきたちごしらえ) 
			太刀 銘光忠 附:絲巻太刀拵 
			太刀 銘備前国(以下不明伝真長) 附:絲巻太刀拵 
			太刀 銘真長 附:絲巻太刀拵 
			太刀 銘守家 附:絲巻太刀拵 
			刀  銘元重 
			太刀 銘安綱 附:絲巻太刀拵 
			太刀 銘伯耆大原真守 附:絲巻太刀拵 
			太刀 銘国時 
			刀  銘信濃守藤原国広、国儔 
			刀  銘長曾根興里入道虎徹 








和歌浦(片男波公園)







  
	和歌浦	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	和歌浦(わかのうら)は和歌山県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称。住所表記での「和歌浦」は「わかうら」と読むた
	めに、地元住民は一帯を指して「わかうら」と呼ぶことが多い。狭義では玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を指すのに対し、広義
	ではそれらに加え、新和歌浦、雑賀山を隔てた漁業集落の田野、雑賀崎一帯を指す。名称は和歌の浦とも表記する。
	古くより景勝の地と知られ、『万葉集』にも詠まれた名所である。東部は著しく地形が変わったため往事の面影はさほど見られないが、
	西部の雑賀崎周辺は現在も瀬戸内海国立公園の特別地域に指定され、また国の名勝にも指定されて保護されている。

  
	<片男波公園>

	片男波公園は、万葉集にも多くの風光美が詠まれている和歌公園内の片男波地区に位置している。この地区は、和歌浦湾に注ぐ和歌川
	の河口部に沿うようにできた延長千数百メートルにも及ぶ狭長の砂州半島である。
	この万葉の景勝地に、歴史的景観を踏まえ、周囲との調和を図りながら、昭和天皇陛下御在位60年記念健康運動公園として、子供から
	高齢者まで誰もが手軽にスポーツ・レクレエーション、文化活動などが楽しめる公園整備がなされた。

	万葉集に収められている 4,516首の歌の中には、紀伊国(きのくに)和歌山で詠まれた 107首の歌が含まれ、その中には和歌浦の地で
	詠まれた13首の歌も含まれている。この万葉集に収められている、山部赤人が詠んだ

	   『若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る』

	という歌にでてくる「潟を無み」が「片男波」の地名として今に伝わったと言われている。今では、ランナーズ誌の全国ランニング百
	撰にも選ばれている「和歌浦ベイマラソン with ジャズ」のコースにもなり、全国から数多くのマラソンランナーもこの地を訪れてい
	る。
	ちなみに、大相撲の片男浪部屋がこの和歌浦と関係あるのかは、NET で調べる限りどうしてもわからなかったが、この部屋の力士は代
	々しこ名に「玉」を付けるのが習わしで、「玉乃島」「玉の海」「玉の富士」「玉嵐」などの力士がいることを考えると、「玉津島神
	社」とも関係があるのかもしれない。



 
	和歌浦	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	<名称の由来>

	和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が『万葉集』巻六の919番歌に、

	若浦爾 鹽滿來者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡	(若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る)

	と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。また、『続日本紀』によれば、一帯は
	「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載さ
	れている。和歌浦には明光商店街があるが、これは続日本紀の明光浦の呼称にちなんでいるものである。

	平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地と
	して知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたの
	この頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる。



 
	和歌浦	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	<歴史>

	・奈良・平安時代
	当時、和歌浦で最も著名な景勝は玉津島である。当時の玉津島は海上に浮かぶ小島であった。そして、潮の干満で陸と続いたり離れ
	たりする景観を呈していたという。その神聖さから丹生より稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられ
	た。また、玉津島の西側に発達した砂嘴は、片男波も今よりずっと内側に入り込んでいたものと推測されており、赤人の句のとおり、
	葦などの水生植物が生い茂る湿地帯であった。
	この和歌浦は都に近いことも相俟って多くの文人、貴族らに愛されてきたが、とりわけ聖武天皇はこの和歌浦を気に入り、何度も行
	幸している。また、この風致を維持するために、守戸と呼ばれる監視役を配置させた。
	また、平安の頃には康保年間に、神霊の勧請を受けて天満宮が建設された。これは菅原道真左遷の際に、風避けの際に和歌浦に立ち
	寄ったことが縁となっている。

	・江戸時代
	江戸幕府が開府されると、和歌山は御三家である紀州徳川家の城下町として賑わうこととなった。その際に建てられたのが紀州東照
	宮である。初代紀州藩主の徳川頼宣は祭神に実父である東照大権現(徳川家康)を勧請し、正式に東照宮から遷宮を行ったものであ
	る。その例祭、和歌祭は今日に至るまで和歌浦を代表する祭礼として脈々と伝わっている。
	また、和歌浦のシンボルにもなっている不老橋は、第13代藩主徳川慶福の治世に第10代藩主徳川治寶の命によって、東照宮御旅所の
	移築に際して建造された石造の橋梁であり、肥後出身の石工が建造に関わっている。また、このころ建てられたものとして、望海用
	の櫓として親しまれる観海閣(第2室戸台風で流出、現在はコンクリート製の復元)などがある。

	・近代以降(最盛期)
	1951年に発行された「和歌浦」観光地百選切手以後は和歌浦は玉津島神社、東照宮、天満宮の遷座する聖地として庶民に親しまれて
	いた。また、1909年には和歌山水力電気の路面電車(のちの南海電鉄和歌山軌道線)が和歌浦まで開通し、観光客増加に一役買って
	いる。1910年にはエレベーターが開設され、翌年には夏目漱石が乗っている。その様子は小説『行人』に描かれている。そして1950
	年に、毎日新聞による「新日本観光地百選」の海岸の部にて1位を獲得すると、その美しさが全国的に知られるようになり、加えて
	縁結び信仰が強かった玉津島神社の存在意義も相俟って、全国随一の新婚旅行スポットとなり、観光客は一段と増加した。さらにそ
	の後は瀬戸内海国立公園への編入も決定したことで、年間宿泊者350万人を数える一大観光地に成長した。
	この頃に新和歌浦や雑賀崎も開発され、一帯のホテル、旅館数は40以上を数え、連日のように賑わいを見せていた。高津子山(たか
	づしやま)にはソメイヨシノが植樹され、春先になる絢爛と花を咲かせることから、「西の嵐山」などと称された。ほかに、新和歌
	浦ロープウェイ(和歌の浦温泉 萬波[1]前の高津子山に存在した)の敷設や和歌浦遊覧船の周航開始など、次々に観光開発が進行し、
	うらぶれた漁村であった一帯は大きな変化を遂げることになった。

	・1970年代から1990年代にかけて(衰退期)
	しかし、過剰気味になった観光開発は、後の和歌浦に大きな陰を落とすことになる。1965年ごろになると、新婚旅行の人気スポット
	は、宮崎など九州地方に西漸して、その影響を受けた和歌浦は宿泊客の減少が著しくなり、宿泊施設数はピークの半分に減少した。
	さらに、1971年には交通の足であった南海電鉄和歌山軌道線が廃止された。そこで新たに、従来の長期宿泊客向けの景勝地より、レ
	ジャーを中心とした近隣型の観光地への整備を始め、天然の砂嘴であった片男波は人工海岸に変えられるなどして、地形的に大きな
	変貌を遂げた。これにより、阪神地方などから海水浴客を確保することには成功したが、従来の景勝地としての情趣が奪われ、陳腐
	化が進み、魅力に欠けるものとなってしまった。
	さらに、国内温泉ブームが衰退に拍車をかけた。和歌山県での宿泊客は温泉情緒を求めて白浜や勝浦などに出向いてしまい、それに
	より温泉資源のない和歌浦は一般客にも団体客にも敬遠され、大幅に宿泊客が減少した。そこに追い打ちをかけるように、1971年に
	は旅館火災で16人もの死者を出してしまう事故(寿司由楼火災)が発生、著名な大型ホテルや著名旅館が経営に行き詰まって倒産す
	るなど、暗い話題ばかりが和歌浦を包み込んでしまった。バブル期を迎えても、すでに観光地としての魅力を奪われていた和歌浦は
	開発、投資の対象にもならず、そのまま放置されていたほどである。さらにその間に長い間観光に貢献してきた和歌浦遊覧船も周航
	を廃止している。また、片男波や浜の宮の海水浴場も整備資金を捻出できなかったため、老朽化した施設が敬遠され、海水浴客が減
	少していた。それでも一部のホテルや旅館が廃業を免れたのは、地元住民にも気軽に利用してもらえるよう、会議やコンベンション
	用、あるいは部活動の合宿などにおける利用を呼びかけ、少しでも宿泊客を確保しようとした地道な営業活動の成果ともいえる。





塩竃神社




	塩竈神社 (和歌山市)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	塩竈神社(しおがまじんじゃ)は、和歌山県和歌山市和歌浦に鎮座する神社。大正6年(1917年)、塩竈神社は玉津島神社の祓所から
	神社になった。海産物、安産の神として信仰されてきた神社で、神体の塩槌翁尊は輿の窟という岩穴に鎮座する。

	結晶片岩でできた鏡山の南面に位置する。岩肌は曝れた木理のような観を呈することから伽羅岩と呼ばれ、岩と松の組み合わさった
	風景が玉津島の原風景を今に伝える。祠は、海風により自然に形成された洞窟である。祠の中には小さな拝殿が造られている。元は
	玉津島神社の抜所で、輿ノ窟(こしのいわや)と呼ばれていた。輿ノ窟(こしのいわや)と呼ばれていた理由は、かつて浜降り神事
	の際に神輿が奉置される場所であったからである。浜降りとは、毎年9月16日に高野山の地主神である天野丹生都比売神社の神輿が、
	紀ノ川沿いをはるばる玉津嶋神社まで渡御し、翌日に日前宮へと御行してゆく神事をいい、神輿が玉津嶋神社で一晩奉置されるとこ
	ろが興ノ窟であった。
	浜降り神事はその起源を古代にまで遡ることができると考えられるが、鎌倉時代に一時中断された時期があり、文保2年(1318)に
	再開されたことが記録に残されている。その後戦国期に途絶え、近世には天野社の鳥居外から玉津嶋神社を遥拝するなどの神事にな
	っている。ただ、この窟に対する信仰は、浜降り神事に限られたものではなく、江戸時代後期には、「しおかま」の名で信仰の対象
	になっていた。
	江戸時代の和歌山では「一に権現(紀州東照宮)、二に玉津島、三に下り松、四に塩竃よ」と歌われ、塩田の塩を焼く釜からこの名
	が付けられたという。また、古くから安産の守神として祀られてきたことが考えられる。現在も安産の守護として、人々に親しまれ
	ている。
	神社近くの小高い丘には、干潟を望むかのように山部赤人の有名な歌碑が建っている。














	<玉津島神社>

	上写真の左隅に映っているのが玉津島神社(たまつしまじんじゃ、玉津嶋神社とも書く)である。和歌山県和歌山市和歌浦に鎮座する
	神社。稚日女尊、息長足姫尊、衣通姫尊の3柱に明光浦霊(あかのうらのみたま)を配祀する。古来玉津島明神と称され、和歌の神と
	して住吉明神、北野天満宮と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けることになる。社伝によれば、仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)
	が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるという。玉津島は古くは「玉出島」とも称
	されたが、大阪市西成区玉出には生根神社が鎮座しており、関係があるのか興味深い。




	塩竈神社(しおがまじんじゃ)は日本各地に鎮座する神社。約110社ほどあるとされる。「塩」を「鹽」に、「竈」は「竃」「釜」
	に作る社もある。


			塩竈神社	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

			<北海道・東北地方>
			鹽竈神社 - 宮城県塩竈市に鎮座する全国塩竈神社の総本社 
			塩釜神社 (仙台市青葉区) - 宮城県仙台市青葉区芋沢に鎮座 
			鹽竈神社 (仙台市宮城野区) - 宮城県仙台市宮城野区、仙台駅東口・初恋通り沿いに鎮座 
			塩釜神社 (美里町塩釜添) - 宮城県遠田郡美里町塩釜添に鎮座 
			塩釜神社 (美里町和多田沼) - 宮城県遠田郡美里町和多田沼上屋敷に鎮座 
			塩竈神社 (福島市) - 福島県福島市大笹生に鎮座 
			塩竃神社 (石川町) - 福島県石川郡石川町に鎮座

			<関東地方>
			塩竃神社 (北茨城市中郷町) - 茨城県北茨城市中郷町に鎮座 
			塩竃神社 (北茨城市磯原町) - 茨城県北茨城市磯原町に鎮座 
			塩竃神社 (日立市滑川本町) - 茨城県日立市滑川本町に鎮座 
			塩竃神社 (日立市日高町) - 茨城県日立市日高町に鎮座 
			塩竃神社 (矢板市) - 栃木県矢板市に鎮座 
			鹽竈神社 (港区) - 東京都港区新橋に鎮座 
			塩竈神社 (鎌倉市) - 神奈川県鎌倉市台に鎮座 
			塩釜神社 (富士吉田市) - 山梨県富士吉田市新倉に鎮座 

			<中部地方>
			塩竈神社 (佐渡市) - 新潟県佐渡市相川江戸沢町に鎮座 
			塩釜神社 (松本市) - 長野県松本市蟻ヶ崎に鎮座 
			塩釜神社 (焼津市) - 静岡県焼津市小浜に鎮座 
			塩竈神社 (名古屋市) - 愛知県名古屋市天白区に鎮座 
			塩釜神社 (豊橋市) - 愛知県豊橋市に鎮座 

			<近畿地方>
			塩竈神社 (和歌山市) - 和歌山県和歌山市和歌浦中に鎮座 

			<中国・四国地方>
			塩竈神社 (岡山市) - 岡山県岡山市南区に鎮座 
			鹽竈神社 (倉敷市) - 岡山県倉敷市に鎮座 
			塩竃神社 (阿南市) - 徳島県阿南市津乃峰町長浜に鎮座 
			塩竈神社 (東かがわ市) - 香川県東かがわ市引田に鎮座 
			塩釜神社 (坂出市) - 香川県坂出市王越町に鎮座 
			塩竃神社 (宇多津町) - 香川県綾歌郡宇多津町に鎮座 
			塩竈神社 (今治市) - 愛媛県今治市波止浜に鎮座 

			<九州・沖縄地方>
			塩釡神社 - 長崎県南松浦郡新上五島町西神ノ浦郷に鎮座 
			塩釜神社 (新上五島町) - 長崎県南松浦郡新上五島町榊ノ浦郷に鎮座 
			塩竃神社 (新上五島町船崎郷) - 長崎県南松浦郡新上五島町船崎郷に鎮座 
			塩竃神社 (新上五島町立串郷) - 長崎県南松浦郡新上五島町立串郷に鎮座


	上に記載された塩竈神社のリストはごく一部である。私の郷里福岡県でも、海岸を車で廻れば幾つかの塩竈神社に出会う。名前は
	塩竈神社ではないかもしれないが、塩土老翁神(シオツチオジノカミ)を祀っている神社は110どころではきかないだろう。
	淡路島などは、その海岸線に点在している。




				塩土老翁神(シオツチオジノカミ)

				別称:塩椎神、塩筒老翁神、事勝国勝長狭神 
				性別:♂ 
				系譜:海幸彦、山幸彦の物語と神武東征神話に登場する神 
				神格:海の神、呪術・予言の神、塩の神 
				神社:塩釜神社、塩釜社、潮津神社


	一般には「塩土老翁神」(塩槌翁尊)は塩作りの神様として知られており、古事記・日本書紀にも登場する。また、山幸彦が兄の釣り
	針を無くして困っているときに助けてくれた老人でもあり、山幸彦の父で天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ニニギニミコト)を笠狭ノ岬で見
	つけては、木花開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)と出会うように導いた事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)、その人でもある。
	瓊々杵尊が高天原から光臨したときに目的とする土地を教えたり、また神武天皇に「東に美(よき)国あり、・・・」と大和朝廷の勢
	力拡大を暗示したなどの説話ももっている。





	塩土老翁神は、古老の姿をした海の物知りの神であり、宮城県塩釜市の「塩竈(しおがま)神社」(市の名前にまでなっている。)、塩津
	神社(滋賀県伊香郡西浅井町)を始め、全国の塩竈神社に祀られててる、航海の安全、漁業、製塩、安産の神様である。東北地方では主
	として開拓の神、近畿・瀬戸内から西日本一帯では製塩の神として奉斎される。
	「シオツチ」は「潮路」「潮つ霊」、「潮筒」の転訛と言われ、住吉神社の3筒之男神(上、中、底)とも関係がある。塩釜市の「鹽
	竈神社縁起」では、「塩土老翁、始降此浦、焼塩以教民、故称塩竈浦、御釜干今在候、別宮社人掌之」とあり(この浦に降った塩土老
	翁神は、人々に漁業や竃を使った煮塩の製造法を教え、その竃は今もここに残っている。」と伝えている。




	塩土老翁神は、老翁という物事を知り抜いた長老という位置づけである。名前の塩土は、海潮の霊のことで海の神であり、別称の塩筒
	は海路の神を意味している。この神が登場する神話として有名なのは、海幸・山幸神話である。山幸彦に会った塩土老翁神は、よい潮
	路に乗る方法を伝え海神の宮に行かせる。つまり、航海の道案内をしているわけで、いわば船の水先案内人といえる役割でもある。
	そして、「日本書紀」の神武東征の話のなかにも、「(天皇は)塩土老翁から東方に美き(よき)国ありと教えられて45歳にして東征
	を始めた」とある。



	
	錦織さんが驚いているこの大岩は鉱物ではない。元々は樹木だった。倒木が長い間に化石化したものだ。有機物が無機物になるって考
	えて見ればめちゃ不思議じゃない?



	
	古来から、船が安全に航海するためには、潮の流れや天候の変化などを正確に知ることが欠かせない。古来、航海関係者はそうした海
	上での情報を司る海の神に安全を祈った。そうした信仰の対象になったのが、航海を守護する情報の神である塩土老翁神であった。
	また、塩土老翁神は、製塩の技術を伝えた神さまとしても有名である。そもそもこの神は、海を生業の場とする人々が必要とするあら
	ゆる知識を備えており、そのひとつが製塩だった。塩は生物にとっては生命を維持していく上で、生理的に欠くことのできないもので、
	古代から各地で製造されている。縄文から古墳時代に至る海岸べりの遺跡では、通常の土器に混じって製塩土器が多数発見される。
	日本では塩は、廻りを取り囲む海水から作られてきた。その生産地の人々は、塩作りの神として海の神を祀った。そうした神は、昔か
	ら日本の各地にいたはずで、そのなかから有力な神として発展し、生き残ってきたのが塩土老翁神だということなのだろう。
	この和歌浦にも、古代から塩を作っていた人々がいたのである。







	<紀伊風土記の丘・岩橋千塚古墳群>
	1999.7.10(土)の第22回例会のもようはここです。2007.4.29(日) 歴史倶楽部第121回例会 の模様はここです。




	これは紀伊風土記の丘になっていた「山モモ」の実です。錦織さんに教わって食べてみたら甘酸っぱい味でした。皆さんお疲れ様で
	した。次回、168回例会はいよいよ、肥後・吉野ヶ里の旅です。楽しみですね。


邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 167回例会・和歌の浦