Music: 青い山脈

角刺神社・忍海の里を歩く



歴史倶楽部 第177回例会 5月27日 奈良県葛城市



		億計・弘計王の姉、飯豊青皇女の角刺宮を偲ぶ、忍海の里

		場 所 : 奈良県葛城市
		日 時 : 2012年5月27日(日曜)
		集 合 : AM10:00 近鉄御所線「忍海駅」下車
		経 路 : 
		<大阪組> 
		JR大阪駅  08:56〜09:15  6駅  JR大和路快速 190円 − JR天王寺
		JR天王寺  09:16〜09:19     徒歩          − 近鉄阿部野橋
		阿部野橋   09:20〜09:49  2駅  近鉄南大阪線急行    − 尺土
		近鉄尺土    09:57〜10:02  2駅  近鉄御所線   610円 − 忍海 

		<奈良組>
		近鉄奈良   08:35〜08:40  2駅 近鉄奈良線快速急行   − 大和西大寺 
		大和西大寺  08:50〜09:19  7駅 近鉄橿原線急行     − 橿原神宮前  
		橿原神宮前 09:25〜09:36  5駅 近鉄南大阪線      − 尺土  
		尺土    09:42〜09:47  2駅 近鉄御所線   610円 − 忍海 

		持 参 : 弁当・水筒・替え着・雨具・その他
		行 程 : 近鉄「忍海(おしみ)駅」 − 葛城市歴史博物館 − 角刺(つのさし)神社 − 石光山
		  	(せっこうざん)古墳群  − 脇田神社 − 地光寺(じこうじ)跡 − 葛木坐火雷
		  	(かつらぎにいますほのいかずち)神社(笛吹神社) − 笛吹古墳 − 屋敷山古墳
		  	(屋敷山公園)− 飯豊天皇植口陵 − 葛木御県神社 − 柿本神社 − 近鉄「新庄駅」

		  

概 要 :  近鉄御所(ごせ)線の忍海駅西側に広がる一帯を忍海(おしみ)という。いまは駅名と一集落にその名を残すのみだ が、かっては旧北葛城郡新庄町の南半分と、御所市の北部を併せた辺りに「忍海郡」があり、古代から明治時代まで 存続していた。忍海駅西側に2,3分進むと「角刺神社」がある。ここには飯豊青(いいとよあおの)皇女(飯豊皇 女、忍海郎女(いらつめ))が、天皇の位を譲り合う弘計(おけ)王(23代顕宗天皇)と、億計(おけ)王(24 代仁賢天皇)の兄弟に変わって政務を取った「角刺宮(つのさしのみや)」があったという伝承が残る。渡来人系の 豪族とされる忍海氏の本貫地であった忍海の里に、飯豊青皇女を偲び、豪族達の奥津城(おくつき)・氏寺等を見学 する。 解 説 : <本編参照の事>


大阪から一諸だった三人組。







あ、4人組だったか。



勢揃いした本日のメイン・キャスト。これも一人を追加して合成していますが、さぁて誰でしょう?




	
	今回は忍海(おしみ)の里である。葛城市歴史博物館、飯豊天皇陵、角刺(つのさし)神社には個人的に行ったことがある
	が、その他の場所には初めてなので楽しみである。飯豊青(いいとよあおの)皇女は、飯豊皇女、忍海郎女(おしみのいら
	つめ)等とも書かれるが、その系譜において非常に興味をそそられる人物である。もしかしたら推古天皇以前に、我が国初
	の女性天皇だったかもしれないし、自らのSEXについて語った皇女など、全記紀中この人物だけであり、その点も興味を
	そそられる。

	掲示している写真のうち、隅に「モンキー・スタンプ」が押してある写真は郭公さん提供によるものです。謝謝。それでは、
	忍海の里をお楽しみください。


		袖の松(そでのまつ)旧跡
		角刺(つのさし)神社
		葛城市歴史博物館(かつらぎしれきしはくぶつかん)
		石光山(せっこうざん)古墳群
		脇田神社(わきたじんじゃ)
		地光寺跡・葛木坐火雷神社(じこうじあと・かつらぎにいますいかずちじんじゃ)
		屋敷山古墳(やしきやまこふん)
		博西神社(はかにしじんじゃ)
		葛木御県(かつらぎのみあがた)神社
		飯豊天皇陵(いいとよてんのうりょう)
		柿本神社(かきのもとじんじゃ)





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	参考資料
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	<葛城の群集墓と横穴式石室>  地域の歴史的概観(橿原考古学研究所・遺跡巡り資料より)

	表題は葛城という広い地域としているが、今回はなかでも古墳が集中して分布している、旧忍海郡とその周辺の主な
	群集墳を中心に見学する。
	忍海郡という郡制を示す名称としての初見は『続日本紀』大宝元年の記事に「大倭国忍海郡の人三田首五瀬を対馬島
	に遣わして・・」があり、平城宮から出土している「忍海郡」と記された和銅6年の木簡の史料もある。
	『古事記』清寧天皇3年には官名として「葛城忍海之高木角刺官」と見え、また『日本書紀』神功記には葛城襲津彦
	か葛城の忍海など四邑に住む漢人の祖先を連れ帰ったとする記事がある。
	このように忍海の地はもともと葛城に含まれていたが、先の『続日本紀』記事などから大宝律令施行以前に、葛城国
	が葛上郡と葛下郡に分割されるか、後にさらに分離成立したと考えることができる。

	この地域は葛城川の支流である安位川や高田川の流域にあり、葛城山から東に延びる尾根や東麓を下刻して形成され
	た谷や、沖積地との境に拡がる扇状地がつくる複雑な地形を呈している。
	葛城市寺ロ遺跡では有茎尖頭器か出土していて、縄文時代の早い時期の足跡が知られる。また寺目忍海古墳群の調査
	にともなって、早期終末の羽状縄文を施文した繊維土器や中期終末から後期初頭の縄文土器が比較的纏まって出土し
	ているほか、後期後半から終末や晩期終末の土器もみられる。先の寺口遺跡からも後期の遺物が出土している。
	葛城市脇田遺跡では縄文晩期終末に集落が営まれたことか推測されるか、破片ながら早期に遡る土器も含まれている
	ほか、西に近接する押上池からは後期前半や橿原式文様をもった晩期前半の土器も採集されている。
	また南方の御所市小林遺跡でも後期の土器か出土している。
	脇田遺跡からは弥生時代の中期から後期の遺物が出土していて、主な遺構には中期の方形周溝墓、土坑、溝などかあ
	り、伊勢湾沿岸地域の特徴をもつ細顕壷も出土している。隣接する小林遺跡からも弥生中期の方形周溝墓かみつかっ
	ていて同一集落の可能性もある。忍海の地域からはやや南方になるが、御所市街地の南には弥生時代の拠点集落であ
	る鴨都波遺跡が所在する。
	これまでの度重なる発掘調査で葛城川の段丘上から20棟あまりの竪穴住居や高床式建物のほか、護岸水路、溝、土坑
	などか確認されている。

	ここからは古墳時代前期の竪穴住居や溝などの遺構も発見されているか、特筆できるのは前期古墳の御所市鴨都波1
	号墳か発見されたことで、一辺20mの規模の方墳は墳丘を失ってはいたが中央に粘土槨を設け、据えられた木棺の内
	外からは4面の三角縁神獣鏡はじめ硬玉製勾玉、碧玉製管玉、ガラス玉などの装身具、鉄剣、鉄刀、漆塗靭、楯、短
	甲、鉄鏃などの武器・武具類などが出土した。この地域の古墳では粘土槨内から獣帯鏡や筒形銅器などが出土した西
	浦古墳、古くに巴形銅器か出土したとの報告かある金鋳山古墳のほか、寺ロ忍海古墳群に隣接する火野谷山1号墳も
	前期に遡る可能性かあるが、当該期の古墳はきわめて希薄な地域である。
	中期に入り忍海地域では全長約 90mの火振山古墳と、後述する全長約145mの屋敷山古墳の2基の大型前方後円墳が
	造営されるほか、碧玉製の童子や船形埴輪か出土した寺ロ和田1号墳なども知られている。後期には宮内庁が飯豊陵
	としている北花内大塚古墳は6世紀初頭前後に造営され、6世紀中葉から後半になるとこの地域の首長墓とみられる
	ものには、横穴式石室を備えた前方後円墳である忍海地域の二塚古墳や当麻地域の平林古墳かあげられる。二塚古墳
	の南側に築かれた横穴式石室をもつ方墳団子山古墳は7世紀に入ってからの築造であろう。また屋敷山古墳の北側に
	位置している神明神社古墳は、切石を用いた横穴式石室を内包する終末期の古墳として知られる。

	こういった後期の首長墓か造営された5世紀後半以降6世紀から7世紀にかけて、大和盆地の東縁南半から南縁およ
	び西縁南半一帯には、多数の小古墳からなるいわゆる群集墳か隆盛する。
	なかでも忍海周辺には以前から知られている群集墳が集中していることに加えて、最近の発掘調査でその構造や特徴
	か捉えられてきている。 
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	<葛城山麓の巨大鍛冶工房址>  地域の歴史的概観(橿原考古学研究所・遺跡巡り資料より)

	葛城山麓の平野部には、南郷遺跡群や脇田遺跡など数多くの鉄器を生産した鍛冶工房の遺跡群が近年明らかになって
	きた。中でも古墳時代の中期から後期にわたって、大阪府柏原市の大県遺跡群、交野市の森遺跡群、葛城の脇田遺跡
	は畿内の拠点的鍛冶工房である。
	現代風にいうなら、それぞれの遺跡が一大コンビナートと言えるもの。これらの遺跡群を中心に畿内の経済、武力、
	政治が成り立っていたという見方もある。
	特に注目されるのが葛城山麓にある脇田遺跡や南郷遺跡群で、これらの鍛冶工房で鉄器の生産に関わっていた人々の
	墓が葛城山麓の群集墳であると推定されている。これらの群集墳は、副葬品として鍛冶道具や鉄滓などが見つかって
	おり、鉄器生産に携わった人々であることが明らかになっている。その中でも、寺口忍海古墳群は長期に営まれ、鍛
	冶道具一式をもった古墳もあり、朝鮮半島との強い結びつきがうかがえ、鉄器生産にたずさわる渡来系の人々を中心
	とした墓域と考えられる。
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