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石光山(せっこうざん)古墳群

歴史倶楽部 第177回例会 5月27日






石光山(せっこうざん)古墳群



	
	葛城山麓から東にのびる小さな独立丘陵上(東西300m、南北150m)にある群集墳。かっては100基ほどの古墳が密集していた
	と言う。発掘調査の後、西半分が宅地造成され東半分が残存している。発掘調査は内52基が対象となった。10m〜15mの円墳が
	中心で方墳と20〜30mの前方後円墳も含まれる。古墳群形成の開始は5世紀代とされ、古墳群のピークが畿内の他の例より半世
	紀以上も早い6世紀前半で、木棺直葬を主体とするなど新沢千塚古墳群とともに、初期群集墳の典型例といわれる。
	葬送施設は5世紀後半から6世紀前半の木棺直葬が中心で、組合式木棺とともに割竹形木棺も多く使われている。他にも小竪穴
	式石室、箱型石室、円筒埴輪棺など多種多様である。
	横穴式石室(6世紀後半)も数基ある。全体としての築造年代は、5世紀後半〜7世紀前半で、出土遺物には、勾玉、管玉、金
	環などの装飾品、刀、鏃、斧、鎌などの鉄製品、轡、鐙、杏葉などの馬具、須恵器、埴輪等である。なお発掘調査は1972年、
	1974年と二度にわたり橿原考古学研究所が担当した。

	<特徴>

	@古墳群の形成時期が多くの群集墳より古く5世紀に遡る。
	A群中の数基の前方後円墳の被葬者を首長とした単一の氏族集団が構成した群集墳の可能性がある。
	B多くの群集墳に比べ武器、武具の量がやや少なく鉄製農工具の副葬が多い。以上のことから葛城地域の近隣のほかの古墳群
	(笛吹古墳群、山口千塚古墳群、寺口忍海古墳群など)とは性格が異なり渡来系氏族との結びつきが弱いとされている。

	−「古墳と古墳群の研究」(橿原考古学研究所)より−





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	副葬品にもこの古墳群の特徴が現れていて耳飾りや玉類などの装身具や武器や武具類もあるが、これらの僅少さに比較して、
	鉄製農工具類を副葬する割合か高い傾向が指摘されている。
	近鉄忍海(おしみ)駅の近くの小高い丘陵上にある古墳群で、すぐに見つけることが出来るが、木棺直葬墓が主なので小山が
	ポツポツあるだけで、眺望もきかないし見応えはあまりないので、遠景だけでパスするのも可。それでも横穴式石室が2〜3
	基、いずれも規模は小さいが斜面にあるので探索してみるのもよい。







★ 所在地 :御所市元町字横井 ★ アクセス:近鉄御所線忍海駅から南へ徒歩20分





	脇田神社を目指して歩いていると、軽トラをWVに改造した車が道ばたに置いてあった。「何じゃ、こりゃぁ」「ええんかい」
	などと言いつつ通り過ぎる。本格的な夏にはまだ遠いが、今日の日差しは暑かった。


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