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歴史倶楽部 第166回例会 6月5日
今城塚古代歴史館







	継体天皇陵といわれる今城塚古墳が遺跡公園として整備され、その隣に古墳からの出土品を展示したり、映像や模型で解説する
	展示室を備えた、「今城塚古代歴史館」が今年4月オープンした。今城塚古墳が継体天皇陵である可能性は高く、ほぼ決まりの
	ような状況だが、宮内庁は従来どおり茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵と比定しているので、こいう公園化が可能になって
	いる。
	歴史館の展示は石器や土器を除けばレプリカが多いけれども、古墳築造作業のジオラマなど結構迫力のあるものを作っている。
	しかも常設展は無料である。また公園も、古墳の周囲を埴輪で取り囲み、昔何度か訪れた時に比べれば、見違えるほど綺麗に整
	備されている。しかも古墳の上を自由に歩き回ることが出来るので、古代史ファンにはこの上ない憩いの場になるが、一番喜ん
	でいるのは近所の子供たちかも知れない。墳頂のヤブの中にいくつも秘密基地らしきものがあった。

	住所   : 〒569-1136 高槻市郡家新町48番8号
	TEL    : 072−682−0820
	FAX    : 072−682−0930
	開館時間 : 午前10時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
	休館日  : 月曜日(祝日は開館)・祝日の翌日・12月28日〜1月3日
		   ※月曜日が祝日の場合は火曜日、土曜日が祝日の場合は日曜日が休館です。
	観覧料  : 無料(ただし特別展は有料)
	駐車場	 : 無料(37台まで)、大型バス2台
	アクセス : JR摂津富田(京都・大阪から約20分)または阪急富田駅(河原町・梅田から約25分)下車
		   市営バス南平台経由奈佐原行き乗車。「福祉センター前」
		   (平成23年4月1日から「今城塚古墳前」に名称変更)下車。または、萩谷総合公園行き乗車。「氷室」下車。






































	安満宮山古墳	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	安満宮山古墳(あまみややまこふん)は大阪府高槻市安満御所の町にある高槻市の公園墓地内にある古墳時代初期の遺跡。墓地を
	拡張するために事前に行った発掘調査によって、下記の貴重な出土品があり、現在「青龍三年の丘」として復元整備され一般に公
	開されている。

	所在地  : 大阪府高槻市安満御所の町 
	埋葬者  : 不明 
	築造時期 : 古墳時代前期初頭 
	墳 形  : 長方形墳 
	規 模  : 全長約20m 
	埋葬部  : 構築墓抗(箱形木棺を盛土で積み上げた墓式。) 
	出土遺物 : 
		   青銅鏡5面(魏の年号「青龍三年(235年)」銘鏡・三角縁神獣鏡をふくむ) 
		   ガラス小玉1600個余り 
		   鉄製品(鉄刀・鉄斧) 
		   出土品は一括して国の重要文化財に指定されている。 
	備 考  : 出土品の中に青龍三年の銘鏡及び三角縁神獣鏡が出土したことから、それらの銅鏡が邪馬台国の女王卑弥呼が魏か
		   ら贈られた「銅鏡百枚」の一部とする説もある。 
	交 通  : JR西日本東海道本線高槻駅から高槻市営バス上成合行きで、磐手橋下車後公園墓地を登って徒歩30分。ただし、お
		   盆・彼岸には市営墓参バスが運転されるため、すぐ横までバスで行ける。












	葺石の調査	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』[葺石より抜粋]

	岡山県月の輪古墳。専門家・市民・学生らが一体となって発掘調査をおこなう「月の輪方式」で有名になった。戦前の発掘調査に
	おいては、葺石そのものを精査する作業は皆無に等しかった。葺石研究に科学的な検証作業が採り入れられ、また入念に図化作業
	がなされるようになったのは戦後の学術調査においてであった。
	1953年(昭和28年)、近藤義郎を中心に岡山県美咲町(当時飯岡村)の月の輪古墳の発掘調査がなされ、高さ10メートル、直径60
	メートルの規模を有する古墳全体の4分の3の外表面が調査された。1960年(昭和30年)刊行の報告書では、葺石分布の範囲、形・
	大きさ、岩石学的検討、葺き方の技術的検討などが報告され、構成する石は1個単位で丹念に図示されており、月の輪古墳で使用
	された石の数は総数約8万個と推定している。

	戦後急増した、遺跡の破壊をともなう大規模開発にかかわる緊急発掘調査では、記録を保存するためにかえって徹底的な調査がお
	こなわれることとなった。このような調査の初期の成果としては、原口正三と西谷正による大阪府高槻市の弁天山C1号墳の調査が
	ある。1967年(昭和42年)刊行の弁天山古墳群の発掘調査報告書では、葺石の積み方、単位面積あたりの使用個数と重量測定、葺
	石の石材採取地と搬入ルートの探索などの検討がなされており、これについて青木敬は、そののち本報告書以上に葺石について検
	証作業を積み重ねて調査成果をあげた報告書はほとんど現れなかったと述べている。

	復元された次郎兵衛塚一号墳(岐阜県可児市)の葺石は河原石で葺かれていた。葺石の調査については、こんにち本格的な土木技
	術に関する知識が要求されるようになってきている。また、科学的な定性化・定量化の可能な調査記録の方法として、石塚久則は、

	古環境調査 
	土質調査 
	構造工学調査 
	材料調査 
	葺石の構造調査 
	石積の施工 

	を掲げている。










	郡家車塚古墳   出典: 「近畿地方の古墳めぐり」

	高槻市の郡家車塚古墳は高槻市岡本町に所在し、周辺には、阿武山古墳をはじめ、弁天山古墳群・今城塚古墳・前塚古墳・岡本山
	古墳群などがある。
	墳丘の規模は、墳丘全長が約85.6mの二段構築で、後円部の径約51.3m・高さ7.1m・前方部の最大幅38.1m・高さ4.4mを測る。
	三島古墳群の首長墓は、3世紀中頃の安満宮山古墳、3世紀後半の岡本山古墳、3世紀末の弁天山古墳、4世紀中頃の弁天山C1号古
	墳、4世紀末の郡家車塚古墳、5世紀前半から中頃の太田茶臼山古墳へと首長の墓が継承されている。

	墳丘の周囲には周濠があり、円筒埴輪・鰭付円筒埴輪・朝顔形埴輪・家形埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなさ
	れ、叉墳丘には葺石も施されていた。発掘調査が1994年に行われた結果、主体部は2つ確認された。

	後円部頂中央にある第1主体部の埋葬施設は、割竹形木棺で埋葬され、鉄槍などが出土した。後円部頂東寄りにある第2主体部の埋
	葬施設は、割竹形木棺が直葬され、倭製四獣鏡・硬玉製勾玉・碧玉製勾玉・碧玉製管玉・ガラス製玉・竪櫛などが出土した。

	この淀川北岸の摂津地域は同じ畿内に属する地域の中では、辺境の地とされていたが、親大和王権下の豪族が支配権を及ぼし、こ
	の古墳築造当時の古墳時代の前期にあたる4世紀末ごろにも勢力を堅持していたと推定される。
	本古墳辺りは、平野部から丘陵地に入るところで、以前は丘全体が雑木林に覆われていたが、最近は宅地開発されわずかに林が残
	っている。








	埴輪	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	埴輪(はにわ)とは、日本の古墳時代に特有の素焼の焼き物。古墳上に並べ立てられた。日本各地の古墳に分布している。埴輪は、
	3世紀後半から6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳とともに消滅した。基本的に中空である。造り方は粘土で紐を作り、それを
	積み上げていきながら形を整えた。時には、別に焼いたものを組み合わせたりしている。また、いろいろな埴輪の骨格を先に作っ
	ておき、それに粘土を貼り付けるなどした。型を用いて作ったものはない。
	中心的な埴輪には、表面にベンガラなどの赤色染料を塗布した。畿内では赤以外の色はほとんど用いられなかったが、関東地方で
	は、形象埴輪にいろいろな彩色が施されている。 埴輪は、古墳の憤丘や造り出しなどに立て並べられた。 埴輪は、大きく円筒埴
	輪と形象埴輪の2種類に区分される。さらに、形象埴輪を大きく分けると家形埴輪、器財埴輪、動物埴輪、人物埴輪の四種がある。 
	埴輪からは、古墳時代当時の衣服・髪型・武具・農具・建築様式などの復元が可能であり、貴重な史料でもある。

	埴輪の起源は、弥生時代後期後葉の吉備地方の首長の墓であると考えられている弥生墳丘墓(例えば、楯築墳丘墓)から出土する
	特殊器台・特殊壺(特殊器台型土器・特殊壺型土器とも呼称される)であるといわれている。

	3世紀中葉?後葉になると、前方後円墳(岡山市都月坂1号墳、桜井市箸墓古墳、兵庫県たつの市御津町権現山51号憤)から最古の
	円筒埴輪である都月型円筒埴輪が出土している[3]。この埴輪の分布は備中から近江までに及んでいる。 最古の埴輪である都月形
	円筒埴輪と最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とが、同じ墓からは出土せず、一方が出るともう一方は出な
	いことが知られていた。しかし、ただ一例、兵庫県たつの市御津町の前方後円墳権現山51号墳では後方部石槨から三角縁神獣鏡が
	5面、石槨そばで都月型円筒埴輪が発見されている。
	なお、前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられており、前方後円墳に宮山型の特殊器台・特殊壺が採用されてい
	ることは、吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている。吉備勢力の東遷説もある。

	『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てること
	を提案したとあり、これを埴輪の起源とする。しかし、考古学的に上記のような変遷過程が明らかとなっており、この説話は否定
	されている。
	古墳時代前期初頭(3世紀中葉?後葉)には、円筒形または壺形、少し遅れて器台の上の壺を乗せた形の朝顔形埴輪などの円筒埴
	輪が見られた。これら筒形埴輪は、地面に置くだけではなく、脚部を掘った穴に埋めるものへと変化した。前方後円墳の広がりと
	ともに全国に広がった。
	前期前葉(4世紀前葉)には、これらの埴輪とは別の系統に当たる家形埴輪のほか、蓋(きぬがさ)形埴輪や盾形埴輪をはじめとす
	る器財埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪が現れた。初現期の形象埴輪については、どのような構成でどの場所に建てられたか未だ不
	明な点が多い。その後、墳頂中央で家型埴輪の周りに盾形・蓋形などの器財埴輪で取り巻き、さらに円筒埴輪で取り巻くという豪
	華な配置の定式化が4世紀後半の早い段階で成立する。そこに用いられた円筒埴輪は胴部の左右に鰭を貼り付け鰭付き円筒埴輪であ
	る。
	さらに、古墳時代中期中葉(5世紀中ごろ)からは、巫女などの人物埴輪や馬や犬などの動物埴輪が登場した。またこの頃から、埴
	輪の配列の仕方に変化が現れた。それは、器財埴輪や家形埴輪が外側で方形を形作るように配列されるようになった。あるいは、
	方形列を省略することも行われている。さらに、靭形埴輪の鰭過度に飾り立てるようになったり、家型埴輪の屋根部分が不釣り合
	いに大型化したりするようになる。

	畿内では古墳時代後期(6世紀中ごろ)に前方後円墳が衰退するとともに、埴輪も次第に姿を消していったが、なおも前方後円墳を
	盛んに築造した関東地方においては埴輪も引き続き盛んに作られ続けた。なかでも、埼玉県鴻巣市の生出塚遺跡は当該期の東日本
	最大級の埴輪生産遺跡として知られる。
	元々、吉備地方に発生した特殊器台形土器・特殊壺形土器は、墳墓上で行われた葬送儀礼に用いられたものであるが、古墳に継承
	された円筒埴輪は、墳丘や重要な区画を囲い込むというその樹立方法からして、聖域を区画するという役割を有していたと考えら
	れる。
	家形埴輪については、死者の霊が生活するための依代(よりしろ)という説と死者が生前に居住していた居館を表したものという
	説がある。古墳の埋葬施設の真上やその周辺の墳丘上に置かれる例が多い。
	器財埴輪では、蓋が高貴な身分を表象するものであることから、蓋形埴輪も同様な役割と考えられているほか、盾や甲冑などの武
	具や武器形のものは、その防御や攻撃といった役割から、悪霊や災いの侵入を防ぐ役割を持っていると考えられている。
	人物埴輪や動物埴輪などは、行列や群像で並べられており、葬送儀礼を表現したとする説、生前の祭政の様子を再現したとする説
	などが唱えられている。このような埴輪の変遷は、古墳時代の祭祀観・死生観を反映しているとする見方もある。


















	今城塚古墳附 新池埴輪製作遺跡埴輪	出典: 国指定文化財等データベース

	名 称   : 今城塚古墳 附 新池埴輪製作遺跡(いましろづかこふんつけたりしんちはにわせいさくいせき)
	種 別   : 史跡 
	都道府県  : 大阪府 
	市区町村  : 高槻市郡家・上土室・郡家新町 
	管理団体  : 高槻市(昭33・3・31) 
	指定年月日 : 1958.02.18(昭和33.02.18) 
	指定基準  : 史1 
	特別指定年月日:  
	追加指定年月日: 平成18.01.26 
	解説文    :今城と称せられる平地にあり、西北方に面する壮大な前方後円墳で、主軸の長さ約200メートルを有する。
			周囲に堀がめぐらされ、中堤をへだてて更に一重の堀の跡が存し二重堀の存在を示している。前方部はやや損傷
			されているが、宏壮な墳丘は外周の堀の跡とともによく旧規をとどめており、学術上重要な地位をもつものであ
			る。 












	高槻市土室あたりの古墳は、地域の古い呼び名から「三島古墳群」と呼ばれている。土室地区の丘陵地域から平野部にかけては、
	「塚原」地区と呼ばれ、5世紀の高槻を代表する古墳が集中して造られたところとして知られている。古墳群には、北から番山古
	墳、土保山古墳、石塚古墳、二子山古墳、高樋古墳などが分布していた。昭和22年に調査が行われた「土保山古墳」には、長持
	形木棺を納めた竪穴式石室が発見され、副葬品として弓や刀、盾、短甲など貴重な遺物が多数出土した。しかし現在は番山古墳と
	二子山古墳しか残っていない。高槻市内の名神高速道路は、丘陵地と淀川の沖積地の間を横断している。高速道路の開通で周辺は
	住宅地としても開発された結果、多くの遺跡もともなって消滅した。































上は排水溝を、溜まった水が流れていく様子のCG


















































	宮内庁が継体稜だと主張する太田茶臼山古墳に比べ、陵墓参考地にさえ指定されていない今城塚古墳はそのおかげで自由な調査と
	整備が進められている。ここから石棺の「破片」と認められるものが見つかっており、それは

	@阿蘇産ピンク石(馬門石)、A大和二上山白石、そして B兵庫播磨地方産石

	の三種類であったことも分かっている。この事から一部の研究家は「継体が本当に越前の出身であれば、名産の笏谷石を使うはず、
	だから継体の出自は別な所にある」と主張している。しかし「ほなどこやねん」と言っても、文献からは他に探りようがないのだ
	し、継体の頃から笏谷石が名産だったかどうかも判らない。







石棺材が「三種類」あったと言うことは、ここに「三人の棺」が一緒に葬られていたのだろうか。そうなると継体の他は誰になる?

























西本さんと私の前の石棺が、「千人で引く大王の棺」実験で引いた石棺の実物である。





阿蘇産ピンク石で出来ており、熊本から運んできた。この中に「継体天皇」が眠っている。







































日本最大の家型埴輪。




	新池ハニワ工場が大量のハニワ・須恵器を今城塚や三島の古墳群に供給していたとすれば、国内最大級のこの工房を運営するには
	当然大王級の豪族の存在が必要であろう。二つの巨大古墳とハニワ工場の「隣接」は決して偶然ではなく、渡来系かもしれない技
	術者集団を率いた氏族の存在と影響力なしには到底考えられない。















昼神車塚古墳については、以前「吹田市郷土研究会」の例会に参加したときのレポートがココにある。
















































	継体天皇の墓が太田茶臼山であろうが、今城塚であろうが、「古代の大王たちはそれぞれの出生地、或いは最も縁の深い場所に
	葬られるものだ」という常識には当てはまらない。20年を過ごしたのであるから、三島地方が縁の深い場所ではあるのだが、
	その候補地は樟葉でもいいし、綴喜でもいい。何故三島なのだろうか。「出生地」「ゆかりの地」或いは「終焉の地」以外の地
	に大王を葬る場合、どのような条件が優先されるのだろうか。

	@ 継体帝は大和以外の「国」から来た人であった。
	A 安閑・宣化の二人は継体の子であり、母も大和の人ではなかった。
	B 継体の跡を実質的に継いだのは大和国の女性が産んだ欽明だった。

	このような継体の陵墓を、摂津・三島地方に造営する意味合いは、

	@ 継体帝がこの地を愛し、自らここに葬られることを望んだ。
	A 大和勢力から、大和に葬ることを拒否された場合。
	B 帝の意を受けた寵臣が、帝の死後ここに陵墓を建築した。

	@の場合、生前から陵墓を造営していたとも考えられるし、A、Bの寵臣が陵墓を建築した場合でも、実際に陵墓を造る人々は、
	その土地に住む者から徴用しなければならないし、その人数も半端なものではないから、その土地を実際に支配している豪族が
	その任にあたるのは当然である。生前造営ならまだしも、死後も継体帝は三島に大きな勢力を保有していたことになるのだろう
	か。















邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 166回例会・高槻市・摂津富田