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歴史倶楽部 第183回例会 冬の洛北をゆく 小野篁・紫式部の墓 2013年1月27日(日) 京都市北区






鞍馬口通りを西へ西へ行くと「擁翠園」という屋敷があった。見所は庭のようだったが、一般人がホイホイと入れる所ではなさそうだ。






	さらに紫野、北大路通南、堀川通西の「島津製作所紫野工場」隣に、平安時代の紫式部と小野篁の墓がある。何故か、小野篁の墓の隣
	に紫式部の墓が仲良く並んで建っている。冥界の番人である小野篁、方や平安王朝文学、物語文学の傑作と云われる源氏物語の作者。
	なんか摩訶不思議な光景ではある。



島津製作所には、現役の営業マンだった頃通い倒したが、とうとう仕事は一つもくれなかった。憎っくき島津め。ははは。




	紫式部  出典: ウィキペディアより抜粋(一部)

	紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者と考えられている。中古三十六歌仙、
	女房三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。
	屈指の学者、詩人である藤原為時の娘。藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。夫の死後、召し出されて一条天皇の中宮・藤原
	彰子に仕えている間に、『源氏物語』を記した。




	小野篁(おののたかむら)は平安時代初期の公卿で文人、また学者でもあった人物。書家の小野道風の祖父に当たり、また小野小町
	との関係でも祖父に当ると云われる。小野篁については、1年前「幽界の京都を歩く」の例会で「六道珍皇寺」へ行った際にお目に
	かかった。閻魔大王に仕え、あの世とこの世を行き来していたと言われる、数奇な伝説を幾つも持った人物である(今昔物語)。
	俗称を野狂、野宰相などと呼ばれ、この墓も小野相公墓となっている。




	一方の紫式部はあまりにも有名な「源氏物語」の作者である。何故ここに二人の墓が並んでもうけられているのだろうか。小野篁は
	平安初期の人物だし、紫式部は生没年不詳ながらこれまた平安初期頃の人物と推測されている。同じ場所に葬られる理由が何かある
	のだろうか。幼友達とか、愛人関係とか。可能性がゼロとは言えない。誰もその時代に生きてた人は居ないんだし。言いたい放題。



紫式部顕彰碑、1989年、紫式部顕彰会により建立された。




	その後調べた所では、こういう事のようだ。

	南北朝時代の公家・学者・歌人であった四辻善成(よつつじ よしなり、1326-1402)による『源氏物語』の注釈書『河海抄(かかい
	しょう)』(1362年頃)という本に、「式部墓所は雲林院の塔頭の白亳(びゃくごう)院南にあり、小野篁墓の西なり」と書かれて
	いるのだそうだ。雲林院はここから少し西へ行ったところに現存しているし、いま墓のあるところは、かって雲林寺の境内に含まれ
	ていたという。これが「紫式部の墓」の根拠になっているようだ。上の碑文を書いた文学博士・角田文衛(1913−2008)は、その可
	能性について「信憑性が高い」としていたそうだが、当然異説もある。




	この墓の西に、紫式部が晩年を過したとされる雲林院が残っている。寺は『源氏物語』第10帖「賢木(さかき)」の巻にも登場する。
	紫式部は、主人公の光源氏が参籠した所として雲林院を登場させてはいるけれど、一説に、小野篁と紫式部の墓が建ち並ぶのは、紫
	式部が狂言綺語(きょうげんきご)、ふしだらな物語を描いた大罪人で、閻魔大王の前に引き出された紫式部を篁が取りなしたとの
	伝説もあるそうである。ほとんど作り話だが、しかしながら、そういう伝説があると言う事は、二人はやはり同時代に生きていたと
	言えるのかも知れない。だとすれば、愛人であったが故に閻魔大王にとりなしたとも考えられる、ってか。新説やろね。

	雲林院は応仁の乱で荒廃し、天正年間に「千本閻魔堂」に移され、今の千本閻魔堂に残る十重石塔は紫式部の供養塔と伝わっている。






	小野篁	出典: ウィキペディアより抜粋(一部)

	小野 篁(おの の たかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は、平安時代前期の公卿・文人。 参議・小野
	岑守の長男。官位は従三位・参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。
	『令義解』の編纂にも深く関与するなど明法道に明るく、政務能力に優れていた。また、漢詩文では白居易と対比されるなど、平安時
	代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』にその作品が伝わってい
	る。また和歌にも秀で、『古今和歌集』(8首)以下の勅撰和歌集に14首が入集している。家集として『野相公集』(5巻)があり、鎌
	倉時代までは伝わったというが、現在は散逸。
	書においても当時天下無双で、草隷の巧みさは王羲之父子に匹敵するとされ、後世に書を習うものは皆手本としたという。非常な母親
	孝行である一方、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたため、家は貧しかったという。危篤の際に子息らに対して、もし自分が
	死んでも決して他人に知らせずにすぐに葬儀を行うように、と命じたとされる。身長六尺二寸(約188p)の巨漢でもあった。



「参議小野公塋域碑」墓は紫式部の墓に隣接する。墓建立の経緯については不明だが、少なくとも室町時代には存在していたという。




	「紫式部の墓」というのは、我々が例会で行ったどっかにもあったように思うが、どこだったのか思い出せない。調べると他にも幾つ
	かあるようだが、この場所が一番信憑性が高いと記している文献もある。ま、いまとなっては真相は分からないが、私は小野篁と並ん
	で葬られているという事の方が興味深い。
	


大徳寺向いのそばやさんで昼食にする。うどん、ソバ、定食とみんなバラバラに頼んだが、京都の例に漏れず大阪より少し高かった。





大徳寺は今日のコースには入ってないし、境内も広そうなので横を通って行くだけにする。







 
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