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歴史倶楽部 第183回例会
冬の洛北をゆく 建勲神社
2013年1月27日(日) 京都市北区
これはちょっと、あまりにもはっきり分かり過ぎるな。ま、こうやって挿入しているのですという例やね。
創建は新しく、明治8年(1875)。白木で造られた大鳥居をくぐると目の前に石段と赤い鳥居が見えるが、それは末社の義照稲荷(とし
てるいなり)神社への石段。本社へは、左に折れて旧社殿跡碑(当初は山腹のこの地に立てられた)の横から石段を登る。
しばらく登ると社務所、拝殿を望める拓けた境内地となり、砂利が敷かれた参道の奥に拝殿・本殿が見える。
建勲神社 出典:ウィキペディアに加筆
主祭神 : 贈太政大臣正一位 織田信長公
配 祀 : 従三位左近衛中将 織田信忠卿
社格等 : 別格官幣社・別表神社
創 建 : 明治3年(1870年)
建勲神社(たけいさおじんじゃ)は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社である。織田信長を主祭神とし、子の織田信忠を配祀する。
旧社格は別格官幣社。正しくは「たけいさおじんじゃ」と読むが、一般には「けんくんじんじゃ」と呼ばれ、「建勲(けんくん)さん」
と通称される。旧称健織田社(たけしおりたのやしろ)、建勲社(たけいさおしゃ)。
明治2年(1869年)11月8日、戦国時代を天下統一、朝儀復興などを進めた織田信長を賛えるための健織田社(たけしおりたのやしろ)
の創建が明治天皇により決定された。翌明治3年(1870年)10月17日、織田信長の子孫で天童藩知事・織田信敏の邸内(東京)と織田家
旧領地の山形県天童市に建勲社が造営された。明治8年(1875年)4月24日に別格官幣社に列格した。
現在地の船岡山は平安京の四神相応の玄武に位置し、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた地である。その船岡山に神社を移すこ
とになり、明治13年(1880年)9月、社殿が竣工して東京より遷座した。なお、この時は現在表参道を少し登ったところにある「大平和
敬神」の石碑が建っている場所に本殿があった。明治14年(1881年)に織田信忠が合祀された。明治43年(1910年)に社殿が現在の山
頂部分に移建された。
祭神・織田信長の業績にちなみ、国家安泰・難局突破・大願成就の神社とされる。高台にある境内からは特に大文字山・比叡山方面の
眺望が良い。
末社 義照稲荷社
建勲神社境内の北東(丑寅)の鬼門に位置しているのが末社 義照稲荷神社である。稲荷神社といえば伏見稲荷神社だが、伏見稲荷が
秦氏の守護神として古くからの信仰を集めている事は「秦氏の故地を訪ねて」の例会で検証した。この末社義照稲荷神社も、伏見稲荷
大社との関係が深い。末社義照稲荷神社は秦氏の守護神として、また西陣織などの織物文化の祖神として古くからの信仰を集めている
のだ。この船岡山一帯や伏見稲荷山一帯は、奈良時代より渡来人の秦一族が暮らし、各地に稲荷信仰を広めたと言われている。
正式名称 : 末社 義照稲荷神社(よしてるいなり)
祭 神 : 宇迦御霊大神(うかのみたまのおおかみ) 国床立大神(くにとこたちのおおかみ) 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
ウカノミタマ 出典:ウィキペディア(一部)
ウカノミタマは、日本神話に登場する神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかの
みたまのみこと)と表記する。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はな
いが、古くから女神とされてきた。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらの
かみ)として祀られた。
『古事記』では、スサノオの系譜において登場し、スサノオとカムオオイチヒメとの間に生まれ、大年神を兄としている。『日本書紀』
では本文には登場せず、神産みの第六の一書において、イザナギとイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。飢時、食
を要することから穀物の神が生じたと考えられている。『古事記』『日本書紀』ともに名前が出て来るだけで事績の記述はない。
国之常立神 出典:ウィキペディア(一部)
国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話に登場する神である。日本神話の根源神として一部神道・新宗教で重要視されてい
る。『古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊と表記されている。別名、国底立尊(くにのそこたちのみこと)。神名の
「クニノトコタチ」は、日本の国土の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説や、日本国が永久に立ち続けるの意とする説など、
諸説ある。
天地開闢の際に出現した神である。『日本書紀』本文では、国常立尊が最初に現れた神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれ
た神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている。
『古事記』においては神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別
のない神)であり、姿を現さなかったと記される。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。
『日本書紀』では最初、『古事記』でも神代七代の最初に現れた神とされることから、始源神、根源神として神道理論家の間で重視さ
れてきた。伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主
神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。
国之常立神を重要視し、日本の歴史に大きな影響を与えたのが新宗教大本教である。
サルタヒコ 出典:ウィキペディア(一部)
サルタヒコは、日本神話に登場する神。『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場し(『日本書紀』は第一の一書)、『古
事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記する。
邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、
背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇受売命
(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎
えに来たのであった。
邇邇芸尊らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸尊は天宇受売神に、その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前を
つけて仕えるようにと言った(『日本書紀』では、猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている)。
そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。
猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村(現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ
死ぬ。この際、海に沈んでいる時に「底どく御魂」、猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂」、泡が水面で弾ける時に「あ
わさく御魂」という三柱の神様が生まれた。
『倭姫命世記』(神道五部書の一つ)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子
孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は宇治土公(うじ
のつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。
『日本書紀』には、天宇受売神は胸乳を露わにし裳帯(もひも)を臍の下に垂らしたとあるので、性的な所作をもって相対したことに
なる。神話には書かれていないが、二神が結婚したと民間では伝えられているのは、この記述によるものと考えられる。
「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰され
ていた太陽神であったとする説もある。
もともとはこの山腹に建勲神社の本殿があった。それを明治43年(1910年)に山頂へ移している。
建勲神社境内からは、比叡山や大文字山の眺望が望める。
「船岡山」は、京都に平安京を築く時、中国の陰陽五行、風水思想に基づき、龍が天空より舞い降りる地であり、溢れ出る玄武の小山
とし、「船岡山」を基準点としての真南の方角に「大極殿」を建築した。その正面中央から南へ伸びる方向を朱雀大路(現在の二条以
南の千本通り)とした。船岡山から南に眺める京都市全域が、ほぼ平安京の領域にあたる。
船岡山はまた、玄武(北方に配する四神の一つ)の意味もあったと考えられている。建勲神社境内には船岡妙見社として玄武神をまつ
る社がある。「義照稲荷神社」は五穀豊穣織物工芸の神様として西陣の人々に深く信仰されている。
桶狭間の合戦で織田信長が舞った「敦盛」の一節が石碑に彫られている。「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり
ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか」。この幸若舞曲の「敦盛」の一節は、平家物語から引用されたもの。
境内から見る拝殿。「信長公三十六臣」の画像が掲げられているというがあまりよく見えない。船岡山(標高45m)の山頂にある。
これも、いかにもという感じやね。腕が落ちたなぁ。
拝殿背後の本殿。左側には伏見の、右側には灘の日本酒メーカーからの寄進酒樽が置かれている。
京都の北方にある船岡山は、平安京の北の玄武を象徴する山である。玄武は中国渡来の思想「四神相応」の北の守護神で、亀と蛇の合体。
龍脈と呼ばれる気の流れの発進地とされ、丘陵が求められ、平安京ではこの船岡山がそれにあたる。
桓武天皇が平安京造営に当たり、この船岡山を基準にして、中央を貫く大通り「朱雀大路(現在の千本通とされる)」を真南に大内裏か
ら九条大路まで造った。船岡山に関しては、古来より多くの書に取り上げられているが、頂上からの東山三十六峰や京都市街の眺望は絶
景である。応仁の乱では西軍の陣が造られたことから、船岡山東南部一帯を西陣と呼ぶようになった。
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/183回例会・冬の洛北をゆく