Music: 一月一日

歴史倶楽部 第183回例会 冬の洛北をゆく 平野神社 2013年1月27日(日) 京都市北区







	平野神社

	平野神社はもともと大和にあったと言われる。平安京遷都の際に、朝廷の勧請により京都に遷座した神社で、古くから桜の神社として
	京にその名を轟かせている。ここ平野神社の桜は、平安時代中頃「花山天皇」により境内に数千本の桜を植えたのが起源で、現在でも
	400本の桜が植えられており、桜の時期はライトアップや花見客で賑う。

 




上に見えているのが本殿ではない。本殿はこの後ろの広場の奥にある。




	平野神社  出典:ウィキペディア

	所在地 : 京都府京都市北区平野宮本町1
	主祭神 : 今木神 久度神 古開神 比売神
	社格等 : 式内社(名神大) 二十二社(上七社) 旧官幣大社 別表神社
	創 建 : 延暦13年(794年)
	本殿様式: 比翼春日造(平野造) 本殿は重要文化財
 
	平野神社(ひらのじんじゃ)は、京都府京都市北区にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社
	で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「桜」。

	主祭神は以下の4柱。
	 第一殿:今木神 - 染織・手芸・衣の神。今木神の今木は今来のことで、渡来人を意味するとされる。
	 第二殿:久度神 - 竈・台所・食事の神
	 第三殿:古開神 - 斉火の神
	 第四殿:比売神 - 不詳。光仁天皇の妃高野新笠とする説もある
 
	延暦13年( 794年)、桓武天皇による平安京遷都にともない、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始
	まる。元々今木神は平城京の田村後宮に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていた。比売神は承和年間より祀
	られるようになったものである。
	『文徳天皇実録』によれば、仁寿元年( 851年)、今木神に従二位、久度神・古開神に従四位、比売神に正五位の神階が授けられ、そ
	の中で当社のことを「平野神宮」と記述している。その後も神階は昇って行き、貞観元年( 859年)には今木神に最高位の正一位の神
	階が授けられている。『延喜式神名帳』には「山城国葛野郡 平野祭神四社」と記載され、名神大社に列していた。
	(2005年まで鳥居の扁額には「平野大社」と銘記されていた)。
	また、祭神について「平野大神」「皇大御神」という称号も使用されていた。例大祭の平野祭には皇太子が奉幣する定めになっていた。
	また歴代天皇の行幸も円融天皇から後醍醐天皇までの17帝21回を記録するなど天皇家の崇敬も厚くそれに伴い、源氏、平氏、大江氏、
	菅原氏などの公家の氏神にもなった。中世には二十二社上七社の一社となった。
	神紋は桜で、今も桜の名所として名高い。平安時代の中ごろ花山天皇によって境内に数千本の桜が植えられたのが起源で、寛和元年
	(985年)4月10日に臨時勅祭が開かれ、平野桜祭りとして今に残る。
	応仁の乱をはじめたびたび社殿が焼失し、そのたびに再建を繰り返し、天文法華の乱によって、社殿および社領は完全に荒廃したとい
	われる。江戸時代の伝奏役は、代々、堂上平家の西洞院家が勤めた。1871年(明治4年)に官幣大社に列格した。
 



	平野神社・ 拝殿  出典:ウィキペディア

	東福門院による寄進。拝殿に飾られた三十六歌仙絵は、平松時量の寄進で、書は近衛基煕、絵は海北友雪のものである。 

	歴史倶楽部会員の皆様 :
	海北友雪という名前に聞き覚えはありませんか。1年前です。「幽界の京都」で建仁寺を訪ねたとき、ふすまに描いてあった「龍神」
	を描いたのが海北友雪でしたね。

	と、思ったら違っていました。あの時は観覧料が高いと言って中へは入らなかったのでした。その半年後、高校同窓会の皆さんを案内
	して同じコースを行ったときに見たのでした。おまけに海北友雪では無くてその親父の海北友松だし、龍神ではなくて「雲龍図」でし
	た。まったく当てにならないメモリーだこと。




	海北友松  出典:ウィキペディア

	海北 友松(かいほう ゆうしょう、天文2年(1533年) - 慶長20年6月2日(1615年6月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期に
	かけての絵師。海北派の始祖。姓は源氏、友松は字。近江(現在の滋賀県)の湖北地区に生まれる。名ははじめ「友徳」。「紹益」と
	も言う。「如切斎」「有景斎」などと号した。子に同じく絵師の海北友雪。
	浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。天文4年に父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で修
	行。このときに狩野派を学んだらしい。師匠は狩野元信とも狩野永徳ともいわれているがはっきりしない。天正元年(1573年)に浅井
	氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画
	業に専念した。
	その画は宋元画、特に梁楷の影響を受け鋭く力のこもった描線と省略の多い画法(減筆法)によって独自の画境を開いた。作品は大画
	面の水墨画が多いが、金碧濃彩の屏風絵もある。八条宮智仁親王や亀井茲矩、もともと東福寺の退耕庵主だった安国寺恵瓊と親しかっ
	た。また、交流のあった斎藤利三(明智光秀の重臣)を謀反人でありながら手厚く葬り(磔にされていた利三の遺体を友松が槍を振っ
	て侵入して奪い取ったともいわれる)、後に息子の友雪は、利三の娘である春日局から褒賞を受けている。
	墓所は京都府左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)。友松夫妻の墓の横に斎藤利三の墓がある。




	海北友雪  出典:ウィキペディア

	海北 友雪(かいほう ゆうせつ、慶長3年(1598年) - 延宝5年9月3日(1677年9月29日)は江戸初期の絵師。海北友松の子とされるが、
	養子の可能性もある。名は道暉、友雪は号。
	友松の晩年66歳時の長子。若い頃から友松から画技の指導を受けていたらしく、その影響は終生友雪画の細部描写に見て取ることがで
	きる。18歳で父を失い海北友雪として画史に登場する以前は、絵屋の小谷忠左衛門として生計を立てた。その背景には友松が狩野派の
	ような強固な絵師集団を形成していなかった事が挙げられる。史料では絵屋として多種多様な絵を書いていたことが確認できるが、現
	在残っているこの時期の作品は絵馬が大半を占めている。
	絵屋忠左衛門に大きな転機がおとずれたのは、春日局の推挙で徳川家光に召し出され、その御用を仰せ付けられた事である。父友松は
	春日局の父斎藤利三が山崎の戦いで敗死すると、利三一家を厚く庇護したことがあった。召し出された時期は海北家に残る「由緒記」
	にも記されていないが、江戸に屋敷を与えられ、その頃から友雪を名乗る。初期には狩野派を学び、春日局開基で菩提寺の妙心寺麟祥
	院「雲竜図」「西湖図」などの襖絵にその強い影響が見られる。以後狩野探幽に従い、明暦・寛文・延宝期の内裏障壁画制作に狩野派
	外では例外的に毎回参加。後水尾上皇などの宮廷の御用もしばしば勤め、法橋にも叙せられた。
	80歳で死去。法名は覚翁友雪斎道暉居士。墓所は京都十念寺。友雪の長子は僧侶になっていたため、友竹が継いだ。




	平野神社・ 本殿  出典:ウィキペディア

	江戸時代、寛永年間西洞院時慶の造営。一間社春日造の社殿2つを左右に並べ、合の間で連結して2殿を一体とした独特の形式の社殿が
	2棟建つ。この建築形式は「比翼春日造」とも、社名より「平野造」とも呼ばれる。重要文化財に指定。





寒桜が盛りだった。どれ一つピントが合っていないのも情けないね。



桜祭神幸祭(平野桜祭り、4月10日)









上の石自体が巨大な鉄鉱石で、ひもの先に付いている磁石はピタッとくっついている。





上をクリックして貰えば大きな画面になります。





 
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/183回例会・冬の洛北をゆく