Music: 旅愁



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		第185回例会 弘法大師の開いた聖地 −高野山へ−
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		■日 時 : 平成25年3月31日(日曜日)8:50集合
		■集 合 : 南海なんば駅 切符売り場前
		■アクセス: 以下

			<09:02出発 10:45到着 1時間43分 運賃:片道1,230円 距離:64.6km 乗り換え:2回 >
			難波 09:02〜09:53 橋本 14駅  南海高野線急行
			橋本 09:56〜10:35 極楽橋 9駅 南海高野線
			極楽橋 10:40〜10:45 高野山 1駅 南海高野山ケーブル
			(*)尚、特急に乗っても13分の違いで、運賃が 760円あがりますので、急行にしました。また今回
			   は結構見所がありますので、遅れると帰って来れなくなりますので時間厳守でお願いします。
		■持 参 : 弁当、替着、防寒着、雨具他
		■概 要 : 弘法大師、食うかい?

		高野山山上は低山に囲まれた盆地で、山上である。この地が、空海によっていつ発見されたのかは定かでは無
		い。当時、山岳地に修行の道場を開くことは大峰山、立山、日光、比叡山などですでに行われていたが、空海
		が即身成仏を説き実践する密教修行の道場として選んだ高野山は、多くの面で空海の理念に適った場所だった
		と推測できる。京都との距離、奈良との隔絶性、修験者の聖地として発展しつつあった熊野との位置関係、そ
		の他、地形・気候など山岳修行にふさわしい環境。高野山開創にかかわる話として以下のようなものがある。

		密教の奥義を究めた空海が唐の国を発つ時、「我に伽藍建立の地を示し給え」と念じて三鈷(仏具)を天に向
		かって投げると、天に吸い込まれるように飛んでいった。やがて修行道場の場所を求めて各地を巡錫(じゅん
		しゃく)し今の奈良・五条あたりに来たとき、白と黒の二匹の犬を連れ不思議な姿の狩人に出会い、「さらに
		南の紀伊の国によい場所があります。」と導かれる。二匹の犬に案内され丹生明神(にうみょうじん)の社の
		所まで来ると、今度は明神が現れ「菩薩がこの山に来られたのは大きな幸せこの高野山を永久に献上いたしま
		す。」と告げる。
		その山を登ってみると山上に広大な平地が広がり、その中の一本の松の木枝に、自身が唐の国から投げた三鈷
		が日の光に輝いていた。
		この場所こそが空海の求める密教修行の地だったのである。空海は伽藍建立の際、狩人の姿で現れた「狩場明
		神(高野明神)」と「丹生明神」の二柱の神を祀る祠を真っ先に建て、今の「御社」がそれにあたる。 
 
		もうひとつは空海が 816年高野山開創の許可を得るために出された上奏文に次のような内容が遺されている。
		「若き日に聖地を求めて巡錫していたとき、吉野より南に1日、更に西に2日にして「平原の幽地」をみつけた。
		その名を「高野」という。そこは紀伊の国で奈良五条の南の方角にあり、四面に峰を持ち人が足を踏み入れる
		ことも少ない。」(要約)とある。 
		この上奏文では若き日に霊地を訪ねて行脚した頃から、高野山の特殊な地形に何かを感じ取り何度も訪ねて、
		ここを修行の道場とする計画を胸に描いていた事がうかがえる。
 
		勅許を得た空海は、さっそく弟子達をともない山を切り開き伽藍造営・諸堂僧坊の建立に着手し、一山を「金
		剛峯寺」と名づけた。
		832 年、京都の東寺と高雄山寺を弟子に託した空海は高野山に帰り「万灯・万華会」の大法要を修行する。そ
		の願文に「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と、一切の人々生きるものすべてが仏と
		なりもう涅槃を求めなくなったときに自分の願いも終わるのだ、との大誓願をたてる。そして835年に入定し、
		今も人々を救済し平和な世界を願う金剛定に入られている。
		高野山・金剛峯寺は朝廷をはじめ貴族、武士、庶民とあらゆる階層の人々の信仰を集めそれは宗派をこえあら
		ゆる人々の心のよりどころとして発展してきた。今も弘法大師を慕い、たくさんの人々がたずねる聖地である。

		■見所とコース  省略


		【高野山・世界遺産きっぷ】

		弘法大師・空海が今から約1200年前に開山した高野山。総本山金剛峯寺や高野山のシンボル根本大塔、織田信
		長や豊臣家・徳川家をはじめ歴史上の人物の墓碑などが建ち並ぶ奥の院参道など見どころ充実。また、名物の
		ごま豆腐や精進料理に舌鼓を打つもよし!四季折々の花が思い出に彩りを添えます。
		少し足をのばして、雲の上の社・荒神社(立里荒神)に詣るのもおすすめです。さらに詳しい情報は「南海高野
		ほっと・ねっと」のホームページをご覧ください。

		<きっぷの内容>

		・電車割引往復乗車券 南海電鉄 発売駅⇔高野山駅 
		・高野山内バス2日フリー乗車券 南海りんかんバス
		【特典】拝観2割引サービス券 金剛峯寺、金堂、根本大塔、霊宝館
		【特典】お土産1割引サービス券 珠数屋四郎兵衛店、中本名玉堂、高野茶屋 和久

		ご利用期間 1年中(通年発売)
		有効期間  2日間
		発売額   発売額について詳しくはこちらをご覧ください。(PDF:80KB)
			(例)なんば駅から
			 ☆通常  大人:3,350円→2,780 円 これを買って下さい。
	 		 ☆こうや往路(片道)特急券付き 大人:4,110円→3,310 円(小児 1,660円)
	 		 ※こうや特急券は、往路片道のみです。

		発売場所 南海電鉄の主要駅
			 JTB、knt近畿日本ツーリスト、日本旅行の各主要支店でお買い求めください。
	 		 ※日本旅行は特急券付きは除く
	 		 発売場所について詳しくはこちらをご覧ください。

		<注意事項>
		自動改札機をご利用ください。
		発売開始日は乗車日の1ヶ月前です。
		払戻しは有効期間内で総括券を含む全券片が未使用の場合に限り、購入された発売場所でお取り扱いいたします。
		(払戻手数料500円)
		本券でご乗車できない区間では、別途普通運賃をお支払いください。また、座席指定列車をご利用の場合は、別
		途特急券をお買い求めください。乗車開始後、運行不能による払戻しはいたしません。

		

		たぶん全部歩けるとは思うのですが、足の弱い方、或いは痛くなった方、帰り道のために、上記の切符を買います。
		これだと、バス料金が含まれていて、各種寺院も割引になりますので、なんば駅で購入しておいて下さい。


		なお、参考までに「第6回例会 1998.3.28〜29 紀州・高野山紀行」と、奥の院にドンだけ侍達の墓があるかは、
		「歴史倶楽部 ANNEX」HPの「2003.7.5 高野山奥の院参道・武将達の墓」を、それぞれクリックして下さい。






		今回の例会は高野山である。私は高野山にはこれで3回目だ。一度は宿坊に止まったことがある。夕食の精進料理
		の見事さには感心した。見た目そっくりのステーキが、歯触りも味もステーキなので、一体どうやって作るのだろ
		うと驚嘆した。まだ二十代の終わり頃、高野山大学へ入り直して坊主になろうかと考えたこともある。色々調べて、
		死ぬような修行の割りには、大した人間には成りそうも無いような気がしてやめた。

		高野山は山頂一帯を切り開いて作った町である。比叡山と並び日本仏教における二大聖地であり、廻りを8つの峰
		に取り囲まれてさも蓮の花の台座のような町らしい。比叡山を開いたのは最澄だが、高野山は空海が開いた真言宗
		の総本山である。真言宗は空海によって平安時代、9世紀初頭に開かれた。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)、
		曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも呼ばれる。空海は中国・唐時代の長安に渡り、青龍寺
		で恵果から密教を学んだ。これが真言宗の基盤である。真言宗徒は、宗祖空海への敬慕が篤い。

		空海は、讃岐国屏風浦(現・香川県善通寺市)の出身で、我が歴史倶楽部の会員杉本さんと同郷である。空海はま
		た、仏教者であるとともに思想家、著述家、また「三筆」の一人に数えられる能書家として、後の日本文化にも多
		大な影響を与えた。彼は延暦 23年(804年)、遣唐使船に同乗して唐に渡り、唐で多くの仏典、仏具、仏画などを
		得、日本へ帰国した。弘仁7年(816年)には高野山(和歌山県伊都郡高野町)の地を得て、ここに金剛峯寺を開創、
		弘仁 14年(823年)には、平安京の官寺であった東寺を嵯峨天皇より下賜され、これら両寺を真言密教の根本道場
		とした。835年(承和2年)3月21日に、62歳で高野山で入定(にゅうじょう:生きたまま墓へ入る事)した。
		空海が入定してから86年後の延喜21年(921年)に、弘法大師の諡号が醍醐天皇より贈られた。

		

		最澄が、比叡山に天台宗を開くのとほぼ同時期に高野山も開かれるが、正直この2つの教義は凡人には理解しがた
		い。天台宗は法華経学、密教、戒律、禅を兼修し、真言宗は即身成仏と密厳国土をその教義とする。中心とする本
		尊は、宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来である。一二度聞いただけではその教義の本質は理解できない。

		密かに私は、ホントに理解している奴が居るのだろうかと思っている。最澄・空海ですら、自分の言っている事の
		半分もおそらくは理解していなかったのでは無いか。
		こういう宗教が、当時文盲ばっかりだった百姓社会には浸透しなかったのは自明の理である。百姓たちは念仏を唱
		えて仏像を拝んでいれば極楽へ行けるという浄土宗や法華教にまず飛びついた。そして、空海が弘法大師となって
		全国を廻り、易しい説話集や念仏集が出回るようになって、真言宗にも帰依し出した。しかしそれは真言宗の奥義
		に惹かれて信仰しているのでは無く、弘法大師のありがたい功徳を信仰しているにすぎない。

		反して、当時字が読めた武士達の中で人間の精神性にも興味を持った者達は、なにやら崇高な教えを掲げ、訳の分
		からない字句を並べて極楽、人生を説く天台宗・真言宗に帰依した。難しい哲学的な教えは、自らをより高みへ押
		し上げ、人生の真理を教えてくれるものと錯覚した。その錯覚は今でも続いている。インテリは訳の分からない物、
		難しそうなものに惹かれ、それを尊びありがたがる。一時はやった社会主義なども私に言わせれば「社会主義教」
		である。人は人間だけの社会では生きていけないのである。



切符を入れてくれた袋には、土産物屋の割引券と、主要な観光スポットの割引券が印刷されている。








難波からの急行を河内長野で「高野山行き」に乗り換える。橋本で下車。橋本から極楽橋まで高野線に乗る。雨が降り出した。





極楽橋からは高野山ケーブルカーである。4,5分で高野山駅に到着。







山桜はまだ満開になっていなかった。シャバでは満開、散り始めている桜もあるのだが。






		<ケーブルカー「高野山駅」>

		国内屈指の急勾配をつり上げられてケーブルカーは終点「高野山駅」に到着。木造の駅舎は1階がコンコース、2階が
		待合室となっている。待合室からの展望は絶景で、天気の良い日は紀ノ川まで見えることがあるという。山上は大雨で
		は無かろうかと心配したが、到着と同時に雨は止んだ。私の人徳はなんと深いのだろう。


	
		高野山	出典:ウィキペディア

		高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年( 819年)
		頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在
		は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯
		寺(山号は高野山)をはじめ 117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。
		平成 16年(2004年)7月7日、高野山町石道と山内の6つの建造物が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』
		としてユネスコの世界文化遺産に登録された。
		地名としての「高野山」とは、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼
		ばれる峰々に囲まれた盆地状の平地の地域を指す(行政上の字名としての「高野山」もおおよそこれと同じ地域である)。
		8つの峰々に囲まれているその地形は『蓮の花が開いたような』と形容されており、仏教の聖地としては「八葉蓮台」
		という大変良い場所であるとされている。転軸山・楊柳山・摩尼山の三山を高野三山という。なお、高野山という名称
		の山は無い。


		南海高野線の終着駅極楽橋駅より、南海鋼索線(ケーブルカー)で高野山駅下車。山内へはさらに南海りんかんバスま
		たはタクシーで乗り継ぎ。バス専用道は女人堂に出る。ここまでバスに乗り、後は歩くことにした。


		
		女人堂

		女人禁制の時代は女性はここまでしか入れなかったとされている。高野山への7つの街道の入り口は「高野七口」とよ
		ばれ、それぞれに「女人堂」があった。
		霊山の戒律により女人禁制とされた女性達。それでも弘法大師への強い信仰心は多くの女性を高野山へと導き、祖廟を
		伏し拝み、真言を唱え、滅罪と即身成仏を祈るための籠堂(こもりどう)として女人堂は大きな役割を果たしてきた。
		明治5年に禁制は解かれたが明治半ば頃でも女性が参拝することには障害が多かったようである。













女人堂の真向かいには大きな大日如来像(だと思う)が鎮座している。ここからが高野山・金剛峯寺の境内である。



観光バスが何台も「高野山めぐり」の観光客・信徒を乗せて運んで来る。



ここから金剛峯寺までは2kmくらいあり、その間に寺と門前町がひしめいている。





高野(こうの)さんが来てたら、「高野さん、高野山に登るの図」だったね。











ここの職員さんは親切だった。笠を持たないという錦織さんに、折りたたみ傘をくれて「別に返さなくていい」と言う。みんなで驚いた。



		
		高野山の東照宮・徳川家霊台

		三代将軍家光によって建立された二棟の堂からなる江戸時代初期の貴重な史跡。向かって右が初代将軍家康、左が二代
		将軍秀忠の霊社となり、内陣は漆や金箔の施された絢爛な造りとなっている。1961年の高野山開創1150年記念事業の際
		に修復された。[建立:1643年 重要文化財]拝観料200円









































徳川家霊台の向いになにやら法華経の施設があって、法華経の信者(?)である河内さんが見に行く。











上も何か寺院の施設かなと思ったら、な、なんと交番であった。





壮麗な寺院、門前町を抜けてゆく。雨がパラパラしたりあがったり。私の人徳も浅かったか。









		
		金剛峯寺	出典:ウィキペディア
	
		高野山真言宗の総本山で座主の住寺(世界遺産)。金剛峯寺は元は高野山全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは
		明治2年(1869年)に2つの寺院が合併したもの。もと青巖寺(剃髪寺)と呼ばれた寺院は文禄2年(1593年)、豊臣秀
		吉の建立、文久3年(1863年)再建。
		歴代天皇の位牌や高野山真言宗管長の位牌をまつっている。大主殿、別殿、新別殿と分かれており、別殿では観光客に
		湯茶の施しがある。
		襖に柳鷺図のある柳の間は豊臣秀次の自刃の間。屋根の上に置かれた防火用の水桶は、かつては高野山全域で見られた
		が今も置かれているのはここのみ。また、金剛峯寺境内にある「蟠龍庭」(2,340m2)は日本最大の石庭。

		真言宗高野山派の総本山にあたり、すべての宗務をつかさどるところ。5万坪近くの広大な境内に、東西30間南北35間
		の大きな主殿、座主居間、奥殿、別殿、書院など多くの建造物と国内最大級の石庭「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」があ
		る。境内では歴史に名を残す絵師の筆による豪華な襖絵で飾られた部屋や、豪壮な台所のほか、秀次切腹の間など拝観
		できる。高野山・世界遺産きっぷにて拝観割引有 。拝観料:中学生以上500円。









上をクリックしてください。どワイドな写真になります。





		
		豊臣秀次はここで秀吉から切腹させられた。上右の籠は秀次を高野山へ乗せてきた籠だと言うが、たぶんに眉唾もんで
		ある。秀次切腹は、秀頼が出来たため秀次が邪魔になった秀吉が、無理矢理腹を切らせたというのが通説だが、秀次も
		秀吉に殺されるという恐怖からか、めちゃくちゃな所業を繰り返しているのである。妊婦の腹を割いたり、やたら町人
		を斬り殺したりという事を京都の町で繰り返した。秀吉は再三諭すのだが、秀吉を信用しない秀次は聞く耳を持たない。
		激怒した秀吉は、秀次ばかりか妻子・郎党48人を三条河原で斬首の刑にした。秀次の幼い子供三人は一本の槍で串刺
		しにされ、見物していた京都の民衆も泣いていたと記録が残っている。



串刺しにならなくて良かったですねぇ。ドラキュラ(ドラクエ公)も領民を串刺しにして「串刺し公」というあだ名を付けられた。













		
		壇上伽藍(壇場伽藍)	出典:ウィキペディア

		弘法大師・空海が曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、高野山の二大聖地の一つである(ほかの
		一つは奥の院)。金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。ほかに大塔、御影堂、不
		動堂などが境内に立ち並び、不動堂は世界遺産に登録されている。また、弘法大師伝説のひとつである飛行三鈷杵が
		かかっていたとされる「三鈷の松」や、高野四郎(俗称)と呼ばれる大鐘楼も伽藍に存する。

		壇上伽藍と称する聖地にはさまざまな御堂や塔が立ち並び、仏像や曼陀羅が参拝者を迎え、宿坊ではゆったりと湯に
		つかり精進料理を味わって、参拝者は季節の仏都を味わうことが出来るが、この仏都のはずれに空海が没した「弘法
		大師御廟」がある。



私が宿泊したのは「中央案内所 宿坊組合」と書かれた上の「普賢院」か「普門院」だったような気がするが定かでは無い。











まるっきり咲いていない。女房子供を棄てて逃げたけど、西行の花はとうとう咲かなかったもんね。



















金剛三昧院 多宝塔(国宝)
		<根本大塔>

		奥の院とともに高野山二大聖地のひとつ壇上伽藍。弘法大師が高野山上に伽藍建立の手を入れた最初の地で、根本
		大塔と金堂を中心に時代を経て大伽藍を形造った。落雷など度重なる火災でそのほとんどは再建されたものだが、
		広大な白土の浄土に、時々の技術の粋を結集して建立された19もの諸堂は、それぞれに深い大師の思いが込められ
		ている。壇上伽藍では若き修行僧達の整然と駆ける下駄の響きに出会えるかもしれない。根本大塔・金堂拝観は
		「高野山・世界遺産きっぷ」にて拝観割引有。

















上の写真を写しているのは、下のわたくしです。









上をクリックして頂くと、どデカイ写真になります。

































駐車場の近くに程良いベンチがあったので、そこで昼食を取っていると凄い霧が出た。一時は隣の錦織さんの顔も見えない程だった。





御陵までは相当ありそうだったので参拝は止めにした。



もしかしたら泊まったのはここだったかなぁという気もする。真智子ちゃんに聞けばわかるかもしれない。





これは凄い!まるでお城のような寺院である。





		
		<苅萱道心と石童丸の悲話伝説・苅萱堂>

		「哀れなるかよ石堂丸は 父をたずねて高野に登る…」琵琶歌や説教節などで全国に広まった苅萱道心と石童丸親子
		の悲しいお話。生涯父子であることを名乗ることなく仏道に励んだ二人の修行の地に建てられたのが苅萱堂。堂内を
		一巡すると親子の物語が絵と文で解き明かされる。







ずらりっと苅萱道心と石童丸親子の絵物語が並んでいた。全部写真に撮ったがHPではとても公開出来そうに無いので一部だけ。

















こんなものもありました。



		
		奥の院	出典:ウィキペディア

		弘法大師の御廟と灯籠堂がある(世界遺産)。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び、その総数は正確
		には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。戦国大名の6割以上の墓所がある。奥の院の入り口
		は一の橋と中の橋の2箇所があるが、正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約 2kmの道のりとなっ
		ている。その途上には「弥勒石」などの七不思議と呼ばれる場所がある。
		一の橋から御廟まで約2kmの参道には何百年も経た老杉がそびえる。木々の間には武将から庶民まで20万基を超す
		墓碑が並び、高野信仰の厚さをうかがわせる。






奥の院への入り口「一の橋」。橋を渡るとすぐに墓標の林立が始まる。
		奥の院である。奥の院は壇上伽藍と並ぶ高野山の聖地で、承和2年(835)に入定した弘法大師の御廟の前には、灯
		篭堂(拝殿)があり、数知れぬ灯篭がゆらめいている。そして、そこへ至る2kmにおよぶうっそうとした杉木立の
		参道が、「奥の院参道」であり、参道の両側には秀吉以来の武将達、著名人、企業家達の墓標がひしめいているので
		ある。
		奥の院は、地表と川と橋の三重構成になっており、橋を渡ってからは死後の世界で、その下を流れる川を「三途の川」
		に見立てているのだという。皇室・貴族関係をはじめ、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)などの宗派をこえた各宗
		派の開祖、文人、庶民にいたるまであらゆる階層の人々が供養塔を建立している。各種団体も、戦死者・戦没者の供
		養塔を建て、高麗陣敵味方供養碑(秀吉朝鮮出兵時のもの)、空挺落下傘部隊供養碑、日本・朝鮮・漢・満州・蒙古
		・5民族の墓、ああ同期の桜供養塔、独立工兵第15聯隊の墓、英霊塔、大平洋戦争の犠牲者を祀る英霊殿などが並
		んでいる。動物の供養塔もあり、白蟻の墓、フグ供養塔、犬や猫や蚊や虫などの「交通事故精霊の碑」などというも
		のまであるのだ。全山が、あらゆるものの供養塔で埋め尽くされている。






		
		参道の左手に博多の「米一丸」の碑がある。後ろには、特攻隊の生き残り俳優「鶴田浩二」の墓


		【米一丸】の話。
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		駿河の国の木島長者と言われた貴福な人に子宝が授かり、米一丸と名付けられた。米一丸は才智抜群で十五歳の時に
		加冠、従四位、正直の名乗りを授かった。二十歳の時、絶世の美人と言われた八千代姫を娶い、結婚披露宴の為、父
		は八千代姫を連れ主筋にあたる京都の一条殿の館へ出掛けた。姫を一目見た一条殿は忽ち横恋慕し、米一丸を亡き者
		にして姫を側室にしようと企みをめぐらせた。
		一条殿は、博多に入質した太刀を取り返してきて欲しいと米一丸に命令した。しかしその太刀はとっくに人手に渡っ
		ており、挙句に一条殿の密命により米一丸は夜討にあい、この地(現福岡市東区米一丸)まで逃れて来たが、ここで
		自害した。一条殿はこれで米一丸の妻を自分の側室にできると思ったのだが、米一丸の自決を聞いた妻は、博多まで
		おもむき、米一丸の墓の前で自決したのだ。これを見た地元の人々は、供養塔を建てて、米一丸らの魂を鎮めたとい
		う話。
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		福岡市東区には今も「米一丸」というバス停があり、九大の正門、農門に近い場所に供養塔がある。旧唐津街道と呼
		ばれる道には通称「米一丸踏み切り」があり、九大生恐怖スポットの一つで、様々な幽霊話があった。これは、その
		米一丸を高野山にも祀って供養したものである。博多では、「米一丸踏み切り」の怪談話は有名。あまりにも幽霊の
		たたりが多いので、有志により高野山にも祀られたそうな。









もののけ姫が出そうな霧の杉林。
		
		一の橋口から東へ広がる一帯も広い意味で「奥の院」と呼ばれる。一の橋は泉鏡花の「高野聖」で有名な場所。御廟
		までの約2kmの石畳参道の両側には、大小、新旧、数十万基とも言われる石塔が立ち並び、高野山を訪れる多くの
		人々は、この参道を通って弘法大師御廟所へ参詣するのである。
		参道は杉と高野槙の見事な並木道で、推定樹齢800年の平安期から残っている樹もあれば、新しいものもある。
		風化して姿も判らなくなった地蔵菩薩や、元は何かもうわからなくなったような石塔もある。これらの石塔は、時代、
		階層を越えた人々の墓碑で、隙間無く建てられ静かに並んでいるが、メインの通りは圧倒的に武将達の墓である。
		それも秀吉以降の、戦国時代から江戸時代にかけての大名達の墓所が多い。ここには敵味方の区別なく祀られている
		が、これだけいれば「関ヶ原の合戦」をここで行えそうである。(全墓標の約40%が大名墓と言う)







昔例会で行った、川西の多田銀山を収めていた多田源氏の末裔。



家康の十三男(だったかな?)徳川頼宣の墓。









光秀が好きな錦織さんは、さっそく記念撮影。







結城(松平)秀康及び同母霊屋。慶長12年(1607)徳川家康が次男秀康のために建てた(重要文化財)。




		奥の院最大の墓石は徳川2代将軍秀忠の正室・お江(おごう)の方のもので、高さは3mに及ぶ。秀忠の兄、結城秀
		康霊廟や、上杉家霊廟、佐竹家霊廟は近世初頭の代表的な霊廟建築として国重要文化財に指定されている。ちなみに、
		密教の思想に基づいて建立が始められた五輪塔、多宝塔は高野山が発祥の地である。ここから全国に五輪塔、多宝塔
		の建立が広まって行った。


















		ここから先は撮影禁止となっている。よく意味分からんけど、奥が空海の御廟である。自分ちのHPには一杯写真
		を載せているくせに、人には写させない等という了見は、とても道を極めようとする坊主どもの所業とは思えんね。
		京都の花見小路に最後まで残っているのは坊主と医者だし、やつら「次回三人廻すからな」「おう頼むで」とか相
		談しとるのじゃなかろうか。
		燈篭堂は仏教寺院には珍しい拝殿の形を持ち、その最奥部に弘法大師廟が祀られている。燈篭堂正面右奥には石田
		三成が母のために建てた経蔵(国重要文化財)がある。


NET内から持って来た御廟の写真。写している奴が何人も居る。拡大したので写真は荒い。


		

		各地に残る「弘法大師」伝説は、実際に空海自身がとった足跡ではない。弘法大師に関する伝説は、北海道を除く
		日本各地に 5,000以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡をはるかに越えている。柳田国男は大子(オオゴ、神の
		長男を意味)伝説が大師伝説に転化したという説を提出しているが、ほかに中世、日本全国を勧進して廻った遊行
		僧である高野聖の存在もある。ただし、闇雲に多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、やはり空海
		の幅広い分野での活躍、そして空海への尊崇がその伝説形成の底辺にあると考えられる。

		これは、修験僧たちの憧れとして、役行者が日本各地の霊山で開祖とされるのに似ている。信奉者、崇拝者たちが、
		空海、役優婆塞(えんのうばそく)の教え、教義を広めんが為に空海、優婆塞の足跡を辿って日本各地を廻り、弘
		法大師、役行者としての伝説を各地に残していったものと考えられる。

		弘法大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物など多岐にわたるが、特に
		弘法水に関する伝説は日本各地に残っている。弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水
		の伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといわれている。弘法水は、場所やそのいわれによって、「独鈷
		水」「御加持水」などと呼ばれている。

		私の故郷で歴史倶楽部会員大隈君の生まれ在所、福岡県朝倉市屋形原には一本の小川が流れているが、私はこの川
		の名前は「だいこん川」としか知らない。農婦が川で大根を洗っている所に弘法大師が差し掛かり、一本所望する
		が農婦は乞食坊主だと思って大根をあげなかった。たちまち川は干上がってしまい、以来この川を大根川と呼び、
		大根を洗うと枯れてしまうと言われている。しかしこの話は日本中にあり、「日本昔ものがたり」に載る程ポピュ
		ラーである。
		弘法大師が発見したとされる温泉もまた、日本各地に存在する。以下にそれを記す。

		あつみ温泉(山形)
		大塩温泉(福島)
		芦ノ牧温泉(福島)
		出湯温泉(新潟)
		瀬戸口温泉(新潟)
		清津峡温泉(新潟)
		関温泉(新潟)
		燕温泉(新潟)
		川場温泉(群馬)
		法師温泉(群馬)
		修善寺温泉(静岡)
		伊豆山温泉(静岡)
		湯村温泉(山梨)
		鹿塩温泉鹿塩温泉(長野)
		海の口温泉(長野)
		赤引温泉(愛知)
		龍神温泉(和歌山)
		関金温泉(鳥取)
		湯免温泉(山口)
		千羽温泉(徳島・四国八十八か所23番札所近く)
		清水温泉(徳島)
		東道後温泉(愛媛)
		まむし温泉(福岡)
		杖立温泉(熊本)
		熊の川温泉(佐賀)
		波佐見温泉(長崎)

		ただし上記には、後年、開湯伝説を作った際に名前が使われただけの温泉もある。高野聖のうちには、その離農的
		な性格から、いわゆる山師的なものもおり、それらが温泉を探り当てた際に宗祖たる空海の名を借用したともいわ
		れる。

		鎌倉から江戸時代の学者などにより、空海は本朝における男色の開祖とされることもある。徳川時代の川柳や笑話
		などにも、しばしば衆道を唐土から導入した人物として登場する。これはおそらく、最澄(伝教大師)の比叡山と
		空海(弘法大師)の高野山には女っ気が無いので、恐らく男色がはやっているに違いないと勘ぐった江戸の庶民が、
		弘法大師を男色の開祖と揶揄したもののようである。 

		「故郷を 弘法大師 けちをつけ」  

		これは空海が生涯独身だった事を揶揄し、一方親鸞は女房持ちだったので、

		「親鸞は 世をひろく見て あなかしこ」 とか 
		「親鸞は 表門から 堂々と」      とか
		「弘法は 裏からこっそり 今日も又」 

		などと、笑いの対象にしている。江戸時代、庶民の風刺の心というのは、おもしろおかしくすさまじい。また結構
		賢い川柳や都々逸なども見受けられ、ま、権力に逆らう庶民のささやかな憂さ晴らしだったとも言えるようだ。

		「朕はもう 崩御崩御 とのたまへり」


		奥の院は空海の御廟所、つまり墓である。一の橋、中の橋、御廟橋の三つの橋を経て奥の院へ向かう参道沿いが墓
		原であり、15万基の墓が集まる場所とされる。寺に墓があるのは普通だが、ここの墓数は異例である。規模や著
		名人の数となると他に類をみない。「日本総菩提所」といわれる。
		なぜここにこれだけの墓が集まっているのだろうか。空海への信仰で墓を作ったと思えない侍達、企業、著名人で
		一杯である。空海は、835年に入定して亡くなるが、その後次のような信仰が成立した。
 
		空海は生身のまま高野山に入定し、56億7000万年後の弥勒菩薩出世(この世に出現する)のときまで、空海
		自身が衆生(しゅうせい、生きとし生けるもの、人々)を救済し続ける。.

		これは基本的には、空海自身が弥勒菩薩信仰(弥勒菩薩が出現しを衆生を救済する)を『三教指帰』や『性霊集』
		で主張していたことに帰因する。さらに、空海の死後86年が経た921(延喜21)年、信仰の成立を後押しす
		る「事件」が起こった。『続群書類従』の中に、『高野山奥院興廃記』という記事が掲載されていて、それによると
		次のようであった。

		真言宗の高野山座主(ざす)と京都にある東寺長者(ちょうじゃ)を兼ねていた僧の観賢が、朝廷に対して空海へ
		の弘法大師号の奉請に成功し、その報告に空海の「入定禅窟」(空海が入定し存在し続けているという洞窟)に赴
		いた。すると、観賢の目には、空海は「容儀顔色于今不変、儼然如古相貌」(顔かたちは今も変わらず、昔の風貌
		のまま)であったという。同行した観賢の弟子・淳祐は、空海の姿が自分の目には見えず嘆き悲しんでいると、観
		賢は淳祐の手を取って大師の膝に触れさせた。すると淳祐の手は彼が生きている間中、かぐわしい香りを放ったと
		いう。かように、新しい「伝説」が生まれていった。その後も、高野山で弘法大師空海と出会ったという話が幾つ
		も伝えられた。
		平安時代後期になって、浄土教信仰(阿弥陀仏が衆生を救済して西方阿弥陀浄土へ導く)が広まると、高野山へ参
		詣すると極楽に往生できるという信仰も加わり、高野山と空海に対する信仰が高まっていった。1023年に藤原
		道長が高野参詣したのをはじめ、多くの貴族が高野山へ登った。また、中世になると武士階級にも信仰が広がり、
		その厚い保護を受けるようになり、高野聖(弘法大師信仰を広げるために全国を遊行勧進した僧侶)の活躍もあっ
		て、庶民から有力者まで、幅広い階層の人々が高野山へ納髪・納骨する風習が定着していったのである。
		空海は835年3月21日、62歳の時生身のまま定入したという伝説があり、五穀を絶って即神仏となり、高野
		山で永遠に生き続けているのである。その大師のそばに眠りたいという願望が、奥の院を今日見られるような壮大
		な菩提所にしたと考えられる。

		弘法大師62才の時、自ら3月21日を入定の日と定めてこの場所で全ての人を救うための禅定(ぜんじょう)の行に
		入る。そして未来永劫、大師が我々を導き救済される大師信仰の最も重要な聖地であり高野山の中心地の一つ。

		即身仏となった弘法大師の御廟には、灯明、お香、読経が絶えることなく捧げられる。全世界1000万の信者達
		は、ここを聖壇としてあがめ、毎年100万人以上がこの高野山を訪れる。現代では、高野山の墓所を利用してい
		るのは大名達ではなく企業である。Panasonic、SONY、SHARP、日産、トヨタといった名だたる企業の社墓が新しい
		墓地園に建てられている。花菱アチャコや大河内傳次郎など、芸能人や有名人もここに墓がある。ロケット産業に
		強い明和工業(株)の墓は冒頭に写真を掲げたロケットそのものである。
		企業の墓は、トレードマークや社業を表した墓碑が多い。福助足袋は福助人形、飲料会社はコーラのビン、といっ
		た具合だ。日本写真家協会の墓は、写真業界に貢献した人々の顔写真が石に刻み込まれていた。一見写真を石に印
		刷したように見える。高野山は、時代が移り庇護者が変わっても、しぶとく生き残って行くに違いない

		尚ここに墓があるからと言って、空海を除けば、実際にここに納骨した例は少ない。徳川家の墓所は上野の寛永寺
		にあるし、あそこは戦後に大発掘調査が行われ秀忠の遺骨も発見されているので、ここに骨は無いのである。家康
		の骨はいずれかはっきりしないが、久能山か日光のいずれかの東照宮にある。他の大名達も同様で、たいていは地
		元の寺か、京都若しくは江戸の菩提寺に骨がある。高野山の墓は、何か骨に代わる依代(遺髪とか遺品等)を埋納
		して墓と見なしているのである。「しろありの墓」には実際にしろありが葬られたらしい。






























難波での反省会は最近この「赤垣屋」である。めちゃくちゃ安い。しこたま呑んで@2,000円くらいである。



河内さん、初めての高野山はいかがでしたか。皆さんお疲れさんでした。また次回例会まで、ごきげんよう。




酔って帰って来た桃山台の駅で、夜桜のためのライトアップがしつらえてあった。まるでクリスマスのような。










邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 185回例会・高野山