Music: 星に祈りを
2013.2.16(土曜日)
朝起きて、昨夜呑む前に決めたコースを今日は訪問する。新発田市方面である。新発田城は初めてだ。レジャー靴では歩けん
でという渡辺君に従って長靴を借りる。大阪に居るともう40年来長靴なんか履いたことが無いが、ここでは必需品なのだ。
「昨夜はおもろかったねぇ。」
「ホンマ、あの店であんなんなったの、儂初めてやわ。井上さんが来ると、もうアバンチュール一杯で楽しいわ。」
渡辺君宅を出て途中ファミレスで朝食を取り新発田市へ向かう。そんなに遠くない。一時間くらいだろうか。新発田市内で渡辺君が街
中をうろうろし出した。
「どこ行くん?城へ行くんとちゃうん。」というと、「どっかここらへんやったんやがなぁ。」と言う。「何が?」「堀部安兵衛の生
まれたとこ」「え、堀部安兵衛て、あの忠臣蔵の?」「そう」「あいつ赤穂藩士やから赤穂の生まれじゃないの?」「違うんよ、新発
田市の生まれなんよ。」「えぇーっ、そうなん。しらんかったわ」「そうやろ」と得意げだ。そういえば、何か幟が見えてきた。
堀部安兵衛(武庸) 出典:ウィキペディア(以下青字部分すべて)
堀部 武庸(ほりべ たけつね、寛文10年(1670年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七
士の1人。四十七士の中では一番の剣客で、大石良雄・良金父子に匹敵する人気を誇る。江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格だっ
た。通称の安兵衛(やすべえ/やすびょうえ)の名で有名。
越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。母は新発田藩士・溝口盛
政の六女。姉が3人おり、長女・ちよは夭折、次女・きんは、中蒲群牛崎村の豪農の長井弥五左衛門に嫁ぎ、三女は溝口家家臣・町田
新五左衛門に嫁いでいる。
母は、武庸を出産した直後の寛文10年(1670年)5月に死去したため、しばらくは母方の祖母のところへ送られて、祖母を母代わりに
して3歳まで育てられたが、祖母が死去したのち、再び父のところへ戻り、以降は男手ひとつで育てられる。
しかし、武庸が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となる。この弥次右衛門の浪人については諸説あるが、
櫓失火の責を負って藩を追われたという『世臣譜』にある説が有力。
浪人後、ほどなくして父・弥次右衛門が死去。孤児となった武庸は、はじめ母方の祖父・盛政に引き取られたが、盛政もその後2年ほ
どで死去したため、姉・きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られた。元禄元年(1688年)19歳になった武庸は、長井家の親戚・佐藤
新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内正春の道場に入門した。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免
許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定
するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現・新宿区納戸町)に一戸建ての自宅を持った。
ここがあの堀部安兵衛の生まれた所か。
そんななか、元禄7年2月11日(1694年3月6日) 、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣。武庸と親しく、甥叔父の義理を
結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、武庸は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(高田馬場の決闘)。
この決闘での武庸の活躍が「18人斬り」として江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣・堀部金丸が武庸との養子縁組を望
んだ。はじめ武庸は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、金丸の思い入れは強く、ついには主君の浅野長矩に「堀部の
家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。長矩も噂の剣客・中山安兵衛に少なからず興味があっ
たようで、閏5月26日(1694年7月18日) 、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した。
これを聞いてさすがの武庸もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(8月27日)、金丸
の娘・ほりと結婚して、金丸の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に金丸が隠居し、武庸が家督相続。このとき、
武庸は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。しかし武庸は浅野家中では新参(外様の家
臣)に分類されている。堀部家は譜代の臣下であるはずなので「堀部家の養子」としてはおかしい分類である。やはり異例の養子入
りであるから武庸は金丸の堀部家とは事実上別家扱いだったことがわかる。
赤穂藩での武庸は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役となった。元禄11年(1698年)末には尾張藩主・徳川光友正室・千代姫(将軍
・徳川家光長女)が死去し、諸藩大名が弔問の使者を尾張藩へ送ったが、長矩からの弔問の使者には、この武庸が選ばれ、尾張名古
屋城へ赴いた。
しかし、元禄14年3月14日(1701年4月21日)、主君・長矩が江戸城松之大廊下で高家・吉良義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤
穂浅野家は改易と決まった。武庸は江戸詰の藩士・奥田重盛(武具奉行・馬廻150石)、高田郡兵衛(馬廻200石)とともに赤穂へ赴
き、国許の筆頭家老・大石良雄と面会。篭城さもなくば義央への仇討を主張したが、長矩からは浅野長広による浅野家再興を優先す
ることを諭されて、赤穂城明け渡しを見届けた後、武庸らは江戸に戻ることとなった。
しかしそれ以降も強硬に義央への敵討を主張。江戸急進派のリーダー格となり、京都山科に隠棲した良雄に対して江戸下向するよう
書状を送り続けた。8月19日(9月21日)付けの書状では「亡君が命をかけた相手を見逃しては武士道は立たない。たとえ大学様に100
万石が下されても兄君があのようなことになっていては(浅野大学も)人前に出られないだろう」とまで主張。
良雄は、武庸ら江戸急進派を鎮撫すべく、9月下旬に原元辰(300石足軽頭)、潮田高教(200石絵図奉行)、中村正辰(100石祐筆)
らを江戸へ派遣、続いて進藤俊式(400石足軽頭)と大高忠雄(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは全員武庸に論
破されて急進派に加わってしまう。このため、良雄自らが江戸へ下り、武庸たちを説得しなければならなかった。
元禄14年11月10日(1701年12月9日)、良雄と武庸は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談に及んだ。良雄は、一周忌
となる元禄15年3月14日(1702年4月10日)の決行を武庸に約束して京都へと戻っていった。
しかし帰京した良雄は主君・長矩の一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。再び良雄と面会するために武
庸は、元禄15年6月29日(1702年7月23日)に京都へ上った。事と次第によっては良雄を切り捨てるつもりだったともいう。実際、武
庸は大坂にもよって元辰を旗頭に仇討ちを決行しようと図っている。しかし7月18日(8月11日)、長広の浅野宗家への永預けが決ま
り、浅野家再興が絶望的となった。ここにきて良雄も覚悟を決めた。京都円山に武庸も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した。
武庸はこの決定を江戸の同志たちに伝えるべく、京都を出て、8月10日(9月1日)に江戸へ帰着し、12日(3日)には隅田川の舟上に
同志たちを集めて会議し、京での決定を伝えた。
そして元禄15年12月14日(1703年1月30日)、良雄・武庸ら赤穂浪士四十七士は本所松阪の義央の屋敷へ討ち入った。武庸は裏門から
突入し、大太刀を持って奮戦した。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は義央を討ち取り、その本懐を遂げた。
討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、武庸は良雄の嫡男・大石良金らとともに、伊予松山藩主・松平定直
の江戸屋敷(大石主税良金ら十士切腹の地 )へ預けられた。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹した。
享年34。主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。法名は刃雲輝剣信士。堀部家の名跡は親族の堀部言真が継ぎ、堀部家は熊
本藩士として存続する。
堀部氏
堀部氏は滋賀県に栄えた近江源氏である。近江源氏嫡流の佐々木家から、鎌倉時代初期に馬淵家が分かれた。馬淵家は近江守護代を
務めるなどした佐々木家一門中の有力豪族であったが、この馬淵家から堀部家はさらに分かれた(潜伏中武庸も馬淵姓を名乗ったと
もいう)。
その他
討ち入りから70年後の安永3年(1774年)、武庸の妻を名乗る妙海尼という老女が泉岳寺に庵を結んで、赤穂浪士の昔語りを始めて、
江戸で評判になった。しかし、武庸の妻・ほりは享保5年(1720年)に45歳で死去しており、この老女は偽物である。その墓碑は泉岳
寺の浪士たちの墓のかたわらに残っている。
武庸は赤穂義士研究の重要資料である『堀部武庸日記』を残した人物でもある。武庸が討ち入りに関する重要書類をまとめて編集し
てあったもので、討ち入り直前に堀内道場同門の親友である儒学者・細井広沢に編纂を委ね、今日に伝えている(岩波書店『近世武
家思想』に収録)。
高田馬場の決闘での剣豪としての活躍や、養父・金丸との微笑ましい関係があったりするせいか、四十七士のなかでも特に人気が高
い。近年では武庸を主人公にした『忠臣蔵』のドラマなども制作されている。養父・金丸とは血統上の関係は一切ないが、2人の仕草
や物腰は大変よく似ていたという(『堀内伝右衛門覚書』より)。
そうやったんか。始め中山で堀部に養子に行ったのは知っていたが、まさか新潟の新発田生まれだったとは。
新発田城
新発田城は雪の中であった。
新発田城 出典:ウィキペディア(以下青字部分全て)
別名 菖蒲(あやめ)城・舟形城
城郭構造 平城
天守構造 御三階櫓複合式層塔型3重3階(1679年(延宝7年) 再・非現存)(木造復元・2004年(平成16年) 再)
築城主 新発田氏
築城年 不明
主な改修者 溝口秀勝
主な城主 溝口氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 櫓・長屋・門、石垣、土塁、堀
指定文化財 国の重要文化財(表門、二の丸隅櫓)
再建造物 三階櫓、辰巳櫓
新発田城(しばたじょう)は、現在の新潟県新発田市(越後国蒲原郡)にある城郭。別名、菖蒲城(あやめじょう)。新発田藩の
藩庁が置かれていた。新潟県内では唯一、江戸時代当時の城郭建築が現存する城跡である。
新発田城 続き
近くを流れる新発田川の流れを利用した平城であった。石垣には石同士の接合部分を隙間なく加工して積み上げる工法である切り
込みハギが用いられている。櫓の壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、海鼠壁(なまこかべ)が用いられていた。その他の塀
や一部の櫓門には、下見板が張られていた。
天守はなく、本丸の北西隅に3重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいた。三階櫓は新発田城における実質的な天守であった。1654年
(承応3年)に創建されたものは、1668年(寛文8年)の火災により焼失し、現在復元されている姿のものは1679年(延宝7年)に
再建されたものである。明治初期に撮影された写真によれば、続櫓(付櫓)を伴った複合式層塔型3重3階で、1重目の西面と南面
に切妻破風を持った石落としを兼ねる出張りがあり、3重目屋根の棟は丁字型に造られ、棟上には3匹の鯱が載せられている。1874
年(明治7年)に破却された。
新発田城 続き
<近代以前>
最初に城が築かれた時期は不明だが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考え
られている。代々新発田氏の居城となっていたが、1581年(天正9年)、新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こした(新発田
重家の乱)。1587年(天正15年)、景勝により新発田城は落城。新発田氏は滅亡した。
その後上杉氏の会津転封に伴い、1597年(慶長2年)、溝口秀勝が6万石の所領を得て新発田に入封。新発田藩領内を治めるための
拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行っていった。城が完全な形となったのは1654年(承応3年)頃、3代
宣直の時代といわれる。その後1668年(寛文8年)、1719年(享保4年)に火災によって城内建築に大きな被害を受けるが、その度
に再建されている。
案内板の雪を手で少し払ったが、固くて手も冷たいので途中で諦めた。
新発田城 続き
<近現代>
1873年(明治6年)に明治政府より発布された廃城令により、表門・二の丸隅櫓と石垣のみを残し、城内の建物は三階櫓など大半が
却され、明治政府に接収された城跡には陸軍の歩兵第16連隊が置かれた。
長年に渡って城郭の復元を住民等に望まれ、近年より、明治初頭に撮影された古写真などを資料として考証・設計された在来の伝
統 的手法による復元の計画が進められ、2004年(平成16年)に三階櫓と辰巳櫓が復元され、辰巳櫓のみ、同年7月から一般公
開されている。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(31番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城
スタンプラリーが開始された。
雪景色のお城というのもオツなもんやなぁ。しかしこの中へ入れんとは。ココは市民の城では無くて、今でも明治政府の持ちもんなんやね。
新発田城 続き
<現地情報>
城郭跡の大部分は日本軍解体まで陸軍が置かれていた事も有り、現在も陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている。その関
係により、城内の建築のうち観覧できるものは、二の丸隅櫓・本丸表門・辰巳櫓である。自衛隊の敷地に入り込んだ所に位置する三
階櫓の内部は公開されていない。表門と二の丸隅櫓は国の重要文化財に指定されている。
新発田城周辺は新発田城址公園として整備されており、憩いの場となっている。また城郭跡には、初代藩主・溝口秀勝の銅像と、溝
口秀勝の曾孫にあたるといわれる堀部武庸の銅像が建っている。
下屋敷であった清水園(清水谷御殿)は国の名勝、同園内にある足軽長屋は国の重要文化財に指定されている。溝口家の茶寮であっ
た五十公野御茶屋は国の名勝、新潟県の文化財に指定されている。
これはイカん。私は自衛隊の存在は認めるし、憲法改正してむしろもっと拡充すべきだという意見の持ち主だが、自衛隊が文化財の
中に駐屯するのはいただけない。近辺に土地を探して移すべきである。全国的にもこういう例はままあるが、歴史的な建造物はそれ
が歴史的であるが故に、政府やその機関の持ち物であってはいけない。広く市民のものにすべきである。
新発田城 続き
<所在地> 新潟県新発田市大手町6
<交通アクセス> JR羽越本線「新発田」駅から徒歩約20分
<通称>
現在も城郭跡地の大部分が陸上自衛隊の新発田駐屯地となっているため、三階櫓に行けないなど、新発田城の観光地化の支障となっ
ている。しかしその反面、ここを訪れる観光客の中では、城と重なる駐屯地の光景を見て、「戦国自衛隊のようである」と感想を漏
らす人々が非常に多い。かつては浮船城、狐の尾引き城、あやめ城と呼ばれていた新発田城であるが、近年では戦国自衛隊の城とい
う愛称で呼ばれることが増えてきている。
「戦国自衛隊」などは遊びである。自衛隊駐屯地と言うだけで、戦火の下ではそこは攻撃対象になる。攻撃されれば歴史的な建造物
が全て灰燼に帰してしまう。絶対駐屯地はよそへ移すべきだ。
三階櫓
堀に沿ってぐるっと城の周りを一周してみる。人の歩かない広場では結構雪は深く、長靴ギリギリまで積もっている。
辰巳櫓
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新発田城辰巳櫓 と 二の丸隅櫓
「自衛隊、財務省との協定て何や」「そもそもなんで財務省なん?」「さぁ、わからんねぇ」「財務省から新発田市が金、貰とんの
やろか」「そんなとこやろね」「金でお城を売ったわけやな」「ま、そんなとこやね」
本丸表門
「そもそも重要文化財に自衛隊が駐屯する言う発想があかしい。」「文化庁は文句言わんのかねぇ。」「金出せ言われるからやろな」
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ここに堀部安兵衛の銅像が建っていた。後のウィキの解説では「初代藩主溝口秀勝の曾孫にあたるといわれる堀部武庸」となっている
が、始めのウィキの解説とは大いに矛盾しているような気がする。裏の解説では秀勝の曾孫となっている。
渡辺君。新潟生まれだが、福島の会津若松で育っている。その後また新潟に越したらしい。
へぇーっ、こんなもんやってるんや。下はトイレ。これも江戸時代風に作ってある。
二の丸隅櫓
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邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部Annex/ 新潟アゲイン