Music: 星に祈りを




2013.2.16(土曜日) 



	ここは今回行きたかった遺跡である。日本海に面した地域での弥生遺跡。稲作に不便な丘の上に築かれた弥生のムラ。50以上の
	竪穴住居跡や土塁、土溝墓等が発見されている。西日本によく見られる高地性の弥生環濠集落である。西日本では稲作が急速に
	普及していった時代に、新潟の弥生人はどんな暮らしをしていたのだろうか。
	駐車場に車を入れて、「弥生の丘展示館」でまず資料を見る。遺跡は背後の丘の上にある。見終わって遺跡へ行こうとすると、
	渡辺君は、「儂ここで待ってるわ。」だと。遺跡の冬景色なんか、なかなか見れないのに。

へ行く。










	上左の丸いガラスのドームは植物園である。8年前新潟県立埋蔵文化財センターに来た時、その玄関から見えていた。すぐ裏だっ
	たんだね。真ん中の建物は美術館で、右端の小さな建物が古津八幡山遺跡の展示館である。












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	古津八幡山遺跡は、信濃川と阿賀野川に挟まれた丘陵上に立地する、弥生時代後期の大規模な高地性環濠集落である。環濠集落とは、
	周囲に濠をめぐらして、外敵などに備えた集落のことで、南北400メートル、東西150メートルの範囲から、環濠・竪穴住居・土坑・
	墓(方形周溝墓・土器棺墓・前方後方形周溝墓)が検出された。
	環濠は断続的に二重に配置され、深さは約2メートル。方形周溝墓は環濠の外側に位置し、主体部から鹿角装鉄剣(鹿の角の柄が付
	いた鉄剣)や、石鏃(やじり)が出土した。
	前方後方形周溝墓は内側の環濠に囲まれた丘陵頂部に位置し、出土した遺物は、北陸系・東北系・両者折衷の在地系の3系統にわた
	り、日本海や阿賀野川を介して北陸地方中西部・東北・会津地方とつながりがあったことが分かる。 
	古津八幡山遺跡は、弥生時代から古墳時代にかけての変遷や、ほかの地域との交流の実態などを知る上で重要な遺跡として評価され
	ており、平成17年7月14日に国指定史跡に告示された。新潟市の国指定の史跡としては、菖蒲塚古墳・旧新潟税関に次いで3件目だ
	そうである。





	この雪の深さで、よくこんなところにムラを構えたなという気がしないでも無い。住居の地面を見ても、湿気は相当な物だったので
	は無いかという気がするが、それとも何か湿気を防ぐ方法があったのだろうか。或は当時はそんなに雪深くなかったのだろうか。
	ここは小高い丘の上だけれども、多少の生活の不便さをがまんしてでも、外敵の脅威から逃れるためには低地では無く高地に集落を
	構える必要があったのか。





うぅーむ、ホントにこんな土塁があったのか。だとしたらムラへの関所だね、こりゃ。




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ここにも長い土塁が。環濠も掘られているし、そうとうに防御を意識したムラの造りですな。


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あの先に古墳があるのだが、長靴でももう進めないほどの雪だったので、残念だがここから引き返すことにした。


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前方後方形周溝墓



雪の弥生遺跡なんてほんとになかなか見れるもんじゃ無い。信州の「与之助尾根遺跡」へ行った時も雪の中だったなぁ。



	カラリと晴れて気持ちの良い遺跡だ。弥生人達はこの雪の中でどうやって生活していたのだろう。稲作が中心で無いとすれば、冬の
	生活は何を食べて過ごしていたのだろうか。大人達の心配をよそに、雪の中元気で遊ぶ子供達の声が聞こえてきそうである。

	なかなか去りがたかったが、下で渡辺君が待っているので仕方なく遺跡を後にした。





展示館からは離れた入り口の方へ出てしまった。県立埋文センターがすぐ側で、渡辺君はほっといてもう一度見に行けばよかったなぁ。












	いやぁしかし、新潟県はよく文化施設を整備している。大阪市の橋本市長のような、なかなか文化施設に理解の無い首長が多い中、
	よくやっていると思う。今苦しいからと言って、先祖伝来の家宝を切り売りするような生活をしていたら「千年の悔い」を残すと
	思う。「三百俵の米」のお国柄だねぇ、さすがだわ。


	ちょっと詳しいこの遺跡の内容を知りたい方は以下をクリックしてください。PDFです。少し重たいかも。

	古津八幡山遺跡・概要



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