Music: 吹田男爵


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	−みんぱく−を訪ねて、吹田瓦窯を見学する
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	各位

	第188回例会は、以前のみゆき会で声が上がっていた国立民族学博物館(通称:みんぱく)へ行きましょう。万が一雨に降られて
	も大丈夫ですし、降られなければ気持ちのいい芝生の上で昼食を楽しめます。
	(みんぱく)は、民族学・文化人類学に関する調査・研究をおこなうとともに、その成果に基づいて、民族資料の収集・公開などの
	活動をおこない、これらを通して、世界の諸民族の社会と文化に関する情報を人々に提供し、諸民族についての認識と理解を深める
	ことを目的として、1974年(昭和49年)に創設され、1977年(昭和52年)11月に開館しています。

	本館展示は、オセアニア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、西アジア、南アジア、東南アジア、中央・北アジア、東アジアに大き
	く分けた地域展示と、音楽・言語などの展示があり、ビデオテークでは、世界の人びとの生活や技術などを記録したビデオ番組を見
	ることができます。また、年に数回、特定のテーマにそった特別展や企画展をおこなっています。 入場料は一般420円です。
	現在の企画展は、「アマゾンの生き物文化」日程:5月23日(木)〜8月13日(火)です。

	参加希望者は、6月30日(日曜日)AM10:00大阪モノレール「万博記念公園駅」に集合して下さい。お弁当、傘、その他は
	持参して下さい。今回はHPの「次回例会案内」はありません。出欠のお返事を宜しくお願いします。
	問い合せ先:国立民族学博物館    06-6876-2151  10:00〜17:00水曜休 






家から「万博公園前駅」まで歩いて3,40分ほど。昔は子供を連れてよく散歩に来た。


	
	今回は、大阪府吹田市の万博記念公園の中にある「国立民族学博物館」がメインの例会だ。先のみゆき会でここに行きたいという要
	望が出たそうなので設定した。もし当日雨でも余りぬれなくてすむようにと考えたのだが、幸い雨は降らず曇り空だったので、吹田
	市博物館とその周辺にある「吉志部瓦窯」の窯跡も見学して貰うことにした。私の自宅周辺である。
	民族学博物館には、一昨年「アイヌ展」を河内さんと二人で見に行ったので、私は間を置かず訪問した事になるが、何度訪れてもそ
	の度に新しい発見があって、遺跡めぐり、博物館めぐりは何度でも訪れるべきだなと実感する。


大阪モノレール「万博公園駅」に集合。本日は5名の参加者。最近、4,5名が定着したね。



これは堀江謙一氏が世界一周したヨット、マーメイドだったかな?「信天翁二世号」と書いてあるね。



大きな人工池の廻りをぐるっと廻って博物館へ。



私の着ているTシャツは、ハワイで実弾を撃ったときの的になったもの。実弾の穴があちこちに開いている。











クリックして貰えばどデカい地図になります。


		
		これは18世紀だか19世紀の自動演奏オルガン。18世紀ちゅうことはないか。入り口直ぐ受付の横に置いてある。
		今日は何か月一回の音楽演奏会の日とかで、入場料が無料だった。ラッキー。







オセアニア











	上左はオーストラリア現住の何とか言う犬。「ホンマにこんな模様がついとるんやろか?」「いや、模様塗っとるんでっしゃろ」
	「ほんまにこういう模様なんちゃう?」とワイワイ。上右はおなじみのブーメラン。子供の頃はよく造って遊んだけど、いっこも
	手元へ戻ってこなかった。


アメリカ大陸





上はアマゾン一帯の食に関する展示。農機具や食料となる植物。


	上の写真の長い筒は、チピチと言う竹製の絞り袋である。「さつまいも」に似たモンジョカという植物の根っこを水にさらし、卸
	板で細かく堕ろし、チピチの中に入れて水分を搾り取り固まらせる。モンジョカはそのままでは毒があって食べられ無いので、面
	倒くさい工程を経て食料にする。乾燥したものはこしあみで漉し、保存食「ファリーニャ」が出来上がる。「ファリーニャ」はア
	マゾン流域では一番大切な食べ物で、これでケーキやせんべいを造ったり、そのまま主食にもなる。たいていは週に一度、一家総
	出で一週間分の「ファリーニャ」を造りだめする。ま、早い話がでんぷん製造器ですな。
	(参考:月刊たくさんのふしぎ「アマゾン・アマゾン」今森光彦著:1991.1.1発行 福音館書店)



中南米大陸辺りの民族衣装。















ついぞ日本では骸骨の人形などお目に掛からないが、世界ではえらく人骨はポピュラーな玩具である。



おなじみトーテムポ−ル。



上はインカの焼き物人形。インカ博物館などに行くとよくある。














ヨーロッパ





これはつい先日(2013.7)、TV番組で見た。ルーマニアでは有名なんだね。ドラキュラだけじゃないんだ。














アフリカ大陸


	
	栗本さんはアフリカのナイジェリアに二度駐在している。アフリカ一円に生地を売って廻っていたそうである。駐在員時代の話は、
	本が書けそうなくらいおもしろい。クーデターに遭遇して、フランス人のセールスマンと二人、離陸するプロペラ機に走り込んで
	飛び乗った話とか、王様の宮殿に招かれた話とか、よき時代の企業戦士そのままの人生だ。





















栗本さんが売っていたのはこういう民族衣装になる生地だ。感慨深そうである。




西アジア






	
	ここが今、アフリカを除けば世界で一番の紛争地域やね。宗教上の差別・区別で4千年も殺し合ってるんだもんなぁ。言うたら何
	やけどアホやね。いや、儂ゃ日本人で良かったよホンマ。


相手を撲滅・排除してしまわないと安穏が無いというのは、果たして神の望んだ事かね?



それとも、そう考えるのはただ「過激派」だけの解釈なのだろうか?



そこに武器商人と油が絡んで、問題はもう解決不可能な分野へ入り込んでしまったような感がある。


	
	日本人のように、「昨日の敵は今日の友」などという世界観はここには無いんだろうねぇ。冬は暖房の効いた家で、夏はクーラー
	のきいた部屋でのんびり「ゆく年来る年」や「高校野球」を見て、フランスのワインを呑みカスピ海のキャビアをほおばって、ゲ
	ラゲラ家族で笑っている生活なんか、この地域の人々にもいつか訪れるんかなぁ。
	子供が爆弾を抱えて警察署に飛び込むような事を指導している連中は、成熟した民主社会の一部階級から見れば、それも彼らにと
	っての単なるショーに過ぎないと理解しているんだろうか。それが判ればアホらしくてドンパチなんかやってられんと思うのだが。
	何千年にわたってムダな時間を費やしているような気がして仕方が無い。






音楽



ここは世界の音楽のコーナーである。主に楽器が展示してあるが、音楽は世界共通の癒やしのようだ。およそ楽器を持たない民族はいない。













特別展「アマゾンの生き物文化展」















ピラニアは唐揚げにすると身は淡泊で旨いらしく、現地ではよく食べられているそうな。






























	
	昔アマゾン川流域のマナウスには、アマゾン川に沿って通信網を張り巡らす工事で多くの日本企業が進出していた。勿論諸外国も
	沢山来ていて、マナウスはアマゾン川流域最大の都市だったのだが、現地には今でも「古河さん」とか「日立さん」という名前の
	混血児がたくさんいるそうだ。








南アジア

















































これが曼荼羅かい。なんか東アジアの鏡の文様に似てるね。方格規矩鏡(ほうかくくききょう)の文様は案外曼荼羅だったりして。











東南アジア





















こうなってくると、日本は確かに東アジアの一員だという気がする。





























東アジア
































	
	中国の四合院(フートン)

	フートンとは、主に中華人民共和国の首都北京市の、旧城内を中心に点在する細い路地の事である。胡同(フートン)という言葉は
	モンゴル語に由来する。モンゴル語で「集落」の意味だという(諸説ある。)。元の時代も首都は北京であったが(当時は大都と呼
	ばれていた)、「元」が滅んだとき元軍は北京を焼かずにそのままモンゴル高原へ逃げ去ったので、フートンは長い間(7−800
	年間)ほぼ当時のままに残っていた。
	集落は「〜胡同」と呼ばれ、北京庶民の代表的な居住形態だった。伝統的家屋建築である四合院(井戸を中心にして廻りに四棟、建
	物がその井戸を取り囲む。)が多くこの胡同に面し、古き良き北京の面影をしのばせる。井戸、すなわち水が生活の中心にあったの
	だ。四棟は一つの家族の時もあるし、まったくの他人同士もあった。しかし、年々老朽化し外観もみすぼらしくなってきたので、文
	化大革命後、中国政府により半ば強制的に、フートン居住者たちは移転させられ、転居していった。今「人民広場」と呼ばれている
	広大な広場も、かってはあそこにフートンがひしめいていたのである。オリンピックを控えて、多くのフートンがここ4,5年で急
	速に消滅した。今では観光用にわずかに残り、一般の人も住んでいるが、かなり老朽化している。





中央・北アジア
































	
	この後日本・アイヌ文化なども見学したのだが、時間が押していたので駆け足で廻った。その為写真が無いので、もっとみたい方は
	以下をクリックしていただきたい。(こっちのほうが写真が綺麗で解説も多い。なるべく写真もカブら無いように写したつもり。)

	2011年12月4日河内さんとアイヌ展を見学に。


吹田市博物館

万博公園で、芝生の上のウッドデッキで昼食を取り、徒歩3,40分で私の自宅マンションを抜けて、吹田市博物館へ。









博物館前の広場の端に、九州から飛んできたという火山灰の堆積した地層がむき出しになっている。







100万年前! な、なんと。アカホヤなんかより遙か昔やね。なんで100万年前とわかるんやろ。











吹田は、律令国家になってからの都造りに用いた瓦類を焼いた窯跡が多く残っているが、博物館にはその窯跡が二つ復元してある。





 

 

 

 



垂水遺跡




	紀元前4世紀に始まる弥生時代は、本格的な稲作農耕と金属器使用の時代として捉えられる。吹田では弥生時代の遺跡は、現在の所
	10ケ所が知られている。そのうち垂水神社の背後の丘陵上に位置する大規模な集落遺跡の垂水遺跡は、標高約55mにある「高地性集落」
	で、弥生中期・後期の土器が多数出土している。
	また銅鐸はムラでの祭祀に使われたと考えられ、近畿地方を中心に九州から東海に到る範囲に分布し、全国で400点以上出土している。
	山田銅鐸は、淀川流域の銅鐸製造拠点集落と見られる茨木市東奈良遺跡の西の谷を入った丘陵斜面から出土しており、その関係が注目
	されている。

 




	<山田銅鐸> 弥生時代中期の外縁鈕式に分類される四区袈裟襷紋銅鐸で、全長45.6cm。銅身は帯状の格子紋で飾られ、鰭(ひれ)
	には3対の耳が付いている。

 





新芦屋古墳


	新芦屋上所在の新芦屋古墳は、一辺が約20mの方墳と推定され、出土遺物から7世紀前半に構築されたと考えられる。この古墳は、通常
	見られる石室墳ではなく、全国的にも珍しい木室を主体部とした「木室墳」であり、そのなかでも、石棺をもつ唯一の古墳である。
	石棺は凝灰岩製の組み合わせ式家型石棺で、横口式と推定される。さらに、棺の埋納状態を見ると、側部に多数の須恵器と鉄地金銅張
	馬具を副葬したのち、棺を粘土で覆い、丸太を垂木状に置いた、特異なものである。



 










	鉄地金銅張馬具は、石棺を覆っていた粘土内から良好な状態で出土した。鞍金具・十文字楕円形鏡板付轡(くつわ)・三葉紋楕円形
	杏葉・六脚付雲珠・辻金具などがあり、鐙(あぶみ)以外の一式が揃っていた。









吉志部神社

 

 

 



吉志部瓦窯跡

 

大阪「難波宮」の瓦の多くは、この岸辺(吉志部)で灼かれて運ばれたものである事が判明している。



 

 











もっと詳細な「吉志部瓦窯跡」の様子を見る。


吉志部瓦窯跡(工房跡)



















七尾瓦窯跡




	七尾瓦窯跡は神亀3年(726年)に聖武天皇が着手した難波宮(後期)の造営に伴い、宮殿に使用する瓦を生産した窯である。高さ約
	2mの東西に伸びる丘陵の北斜面に窖窯6基、丘陵端の東斜面に平窯1基がある。昭和54年の発掘調査で7基の瓦窯跡群であることが
	判明した。検出瓦は難波官式の6303(軒丸瓦)・6664-B(軒平瓦)型式と、6664-A型式が2点あった。なお、重圏紋系軒瓦は出てこなかった。
	この瓦窯跡はわが国で初めて確認された難波宮造営瓦窯とみなされ、国の史跡に指定された。 
	窯跡は登窯と平窯の異なる種類の窯があり、さらに同じ登窯でも構造等に違いがあり、大量の瓦を必要とする宮殿造営に伴う瓦生産の状
	況が判明した。
























	七尾瓦窯跡MAP  

	1号瓦窯跡は民家の下で未調査とのこと。3号瓦窯跡の状況から、七尾瓦窯は難披宮の造営が終了すると速やかに廃窯されたとみられる。 
   


	
	軒丸瓦は難波宮6303型式と同笵で、内区が著しく突出し、細長い複弁となっていまる。中房はやや隆起し、蓮子が全体的に偏って不
	均等に配置されている。軒平瓦は左側にやや開き加減の花頭を中心飾りとし、その左右には3回反転する唐草紋を描いていており、七尾
	では6664A型式軒平瓦もわずかながら生産された。難波宮6664B型式軒平瓦と同笵である。七尾では6664A型式軒平瓦もわ
	ずかながら生産された。











	
	七尾瓦窯跡 ななおかわらがまあと 史跡 / 近畿 大阪府吹田市吉志部北

	名称: 七尾瓦窯跡 
	ふりがな: ななおかわらがまあと 
	種別: 史跡 
	種別2:  
	都道府県: 大阪府 
	市区町村: 吹田市吉志部北 
	管理団体:  
	指定年月日: 1980.03.24(昭和55.03.24) 
	指定基準: 史6 
	特別指定年月日:  
	追加指定年月日:  
	解説文: 
	七尾瓦窯跡は、吹田市の中央東部に位置する。この地は平安宮に屋瓦を供給した吉志部瓦窯跡の北東200メートルの所にあり、吉志部
	瓦窯跡群の所在する丘陵延長線上の残丘先端にあたる。現地は標高17メートルで、比高差約2メートルの残丘となっており、瓦窯は南
	西から北東へのびる丘陵の北西斜面に並列して構築されている。昭和54年7月の発掘調査によって、7基の瓦窯跡の存在が確認された。
	このうち、北西斜面に残る主軸を東西方向にとる6基はすべて[[登窯]のぼりがま]であり、丘陵東端部東斜面に築かれた南北方向主軸の
	1基は平窯である。
	調査時に完掘された瓦窯跡は3基であり、2基は登窯(2・3号窯)、1基は平窯(7号窯)である。2・3号窯はいずれもいわゆる有
	段有階登窯で、遺構の残存度も良好であり、特に3号窯は天井の一部を含めて窯体が完存しており、窯の構造の詳細を知ることができた。
	それによると、窯跡は全長5.4メートル、最大幅1.75メートルの規模で、7段の階段を有する焼成部・燃焼部とも良好に残存し、
	側壁には大型の日干し煉瓦が用いられていた。また、焼成部末端の段階部に、軒平瓦が窯詰の状態で検出されたのは稀な例であろう。
	なお、平窯の7号窯は大半が破壊されていた。
	屋瓦類は多量に検出されたが、軒丸瓦・軒平瓦の型式は線鋸歯文珠文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦(6303型式)と、珠文縁均整唐草文軒
	平瓦(6664B型式)各1種のみで、セットして使用されるものである。
	この組み合わせと同笵の瓦は、聖武朝難波宮の内裏及びその周辺部で数多く検出され、大安殿等内裏関係建物に葺かれていた可能性が強
	い。また、本瓦窯跡出土の丸瓦や平瓦と形状・胎土・焼成など全く同種のものが、難波宮出土のものに多く認められる。したがって、本
	瓦窯跡が聖武朝難波宮に屋瓦を供給していたことは確実であり、官窯としての性格を有していたと考えられる。本瓦窯跡は、聖武朝難波
	宮造営の屋瓦供給窯としてこれまでに知られている唯一の例であり、昭和54年10月、7基の窯跡を含めた丘陵一帯を指定するもので
	ある。 
	[国指定文化財等データベース]





	ホームの先の方へ行って何か見ている上村さん。「さすが、鉄ちゃんやなぁ、なにか調べてはるで。」「何見とるんやろ?」

	岸辺から、吹田で呑むか大阪まで行くかと言う事になったが、私はoosakahe行ったら戻れるかどうか自信が無かったので、JR吹田
	の地下街で呑む事にした。岸辺から一駅。





あまり芋らしく無い芋焼酎をカパカパ。私ももうビールは一杯でやめて後は芋焼酎にしておりますが、それでも3杯くらいまでです。



私は此の店で昼飯を食ったような気もしますが、夜は初めてでした。あまり高くもなかったですね。肴はまぁまぁ旨かったです。


	
	皆様お疲れ様でした。雨が降らなくて良かったですねぇ。万歩計では今日も又ようけ歩いたそうで申し訳ありまへん。
	私としてはそんなに歩いた積もりでは無かったのですが、おそらく歩き慣れてるからだったのでしょうね。「12kmは歩いたで。」
	「えーぇ、そんなには歩いてまへんやろ?」「いや歩いてる。」とけんけんがくがくでしたが、みんぱくを2時間以上歩きましたので、
	あそこで半分くらい歩いていたかもしれませんね。すみませんでした。しっかり呑んで、鋭気を養って回復してください。
	また次回も宜しくお願いします。



邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 188回例会・吹田・みんぱく