Music: 夕焼け小焼け

紫雲山中山寺


	聖徳太子が開いたと伝えられ、安産信仰や西国三十三カ所24番札所として有名。もともとは奥の院付近の山中にあったのだが、戦乱
	により焼失し、現在の大門や本堂は豊臣秀頼によって再建されたものである。本尊の十一面観音立像(国・重要文化財)をはじめ多く
	の文化財がある。 



	
	真言宗中山寺派大本山。山号は紫雲山。西国三十三所第24番札所。本尊は十一面観世音菩薩であり、インドの勝鬘夫人(しょうまんぶ
	にん)の姿を写した三国伝来の尊像と伝えられる。左右の脇侍も十一面観世音菩薩で、本尊と脇侍をあわせて三十三面となり、西国観
	音を総摂すると共に法華経に説く観音の三十三権変化身を表象し、真の三十三所巡拝と同じ功徳がえられるという。普段は秘仏となっ
	ているが、毎月18日に開扉される。地元では「中山さん」と親しみを込めて呼ばれている。



本日の参加者一同。とても私が写したとは思えないほどしっくり収まってますねぇ。



広い境内だこと。綾瀬はるかは大阪城を見て「立派なお寺ですねぇ」と言ったとか。



堂々たる山門です。仁王様の側にでっかいわらじがあって、これは「わらじ信仰」に基づいているのだとか。



仁王様の前にもみんなが奉納した小さな草鞋(わらじ)が沢山ぶら下がっている。



山門は1646年の再建。大きなわらじの他にもたくさんのわらじが奉納されている。これは、西国巡礼を無事終えられるように、
わらじを奉納する習慣があったのだとか。錦織さん、杉本さんもいま四国巡礼をやってますが、わらじ奉納しましたか?



残っていた塗料等から、設置当時の仁王像に復元。当時は極彩色に彩られていた。勢山さんの仏像もみんな色鮮やかだもんね。





	
	寺伝では聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場。「極楽中心仲山寺」と称されていた。現在の本堂(慶長8年・1603年再建)
	や阿弥陀堂は豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建した。羅漢堂には約800体の羅漢像が並ぶ。安産祈願の霊場として皇室、源頼朝など武
	家、庶民より深く信仰を集めた。豊臣秀吉が祈願して豊臣秀頼を授かったとされる。また、幕末には中山一位局が明治天皇を出産する
	時に、安産祈願して無事出産したことから、日本唯一の明治天皇勅願所となり、安産の寺として知られる。





虚空菩薩像。綺麗である。此のお寺は設備もそうだが周囲も実に綺麗でゴミ一つ落ちていない。



上の石段の横にエレベーター・エスカレーターがある。こんな設備を持っているお寺は初めてだ。みんなエスカレータの方へゆく。











羅漢堂天井の大梵字。何と書いてあるのだろうか。上の観音像の両側に、下の五百羅漢が並んでいる。





	
	創  建  不明。聖徳太子が創建したと伝えられる。  
	由  緒  安産祈願の霊場として、信仰を集め、豊臣秀吉もここに祈願し、豊臣秀頼を授かったとされる。1603年、その秀頼は、
		 戦災により焼失していた、本堂、阿弥陀堂を、片桐且元に命じて再建させた。その建物が現在も残っている。また明治天皇
		 も、母である中山慶子(中山一位局)がこの寺に安産祈願し、出産したとされる。  

	毎月の戌(いぬ)の日は、安産祈祷会があり、安産を願い、また、鐘の緒(かねのお)(祈祷を受けた腹帯)の授与を求めて、日本各
	地から多くの参詣者が訪れる。








	閻魔堂

	本尊は閻魔天こと閻魔大王。密教における十二天の一人であった閻魔天が、中国道教の冥界思想により、変化したのが、閻魔大王で
	ある。毎年2月16日と8月16日が、閻魔天の縁日とされ、俗に「地獄の釜が開く日」といわれ、当山では、大根だき法会、施餓
	鬼法要、が行われる。 



	
	<文化財>
	重要文化財(国指定)
	木造十一面観音菩薩立像(本尊) - 平安時代前期
	木造薬師如来坐像 - 平安時代後期
	木造聖徳太子勝鬘経講讃坐像 
	附:経机、経巻、台座、礼盤(各木造) - 鎌倉時代〜室町時代
	木造大日如来坐像 - 平安時代後期

	<兵庫県指定重要有形文化財>
	大門本堂 - 慶長8年(1603年)豊臣秀頼の命で片桐且元が再建
	護摩堂 - 慶長8年再建
	大門 - 天保3年(1646年)徳川家光の再建
	木造十一面観音立像 2躯 - 鎌倉時代

	<兵庫県指定史跡>
	白鳥塚古墳

	<宝塚市指定文化財>
	木造薬師如来坐像
	木造愛染明王坐像
	鉄製吊燈籠
	銅製鰐口
	「豊国大明神」神号 - 豊臣秀頼筆
	町石
	星下り祭

	<所在地・アクセス>
	〒665-8588 兵庫県宝塚市中山寺2丁目11番1号 阪急宝塚線 中山駅 下車すぐ




	白鳥塚古墳

	中山寺の境内にある大きな横穴式石室を持った古墳である。大仲姫(仲哀天皇の先皇后)の墓とも伝えられているが、7世紀の初め
	頃に造られたこの地方の豪族の墓だと考えられる。石室内には家形石棺が残っている。兵庫県指定文化財。




	寺伝によれば、第14代仲哀天皇皇后・大仲姫の陵墓であるとされているが、何故こんなところにと思ったら、中山寺奥の院には忍
	熊王と物部守屋が祀られているからですな。忍熊王の御陵は奥の院にあると言う伝承もあるので、中山寺のこの古墳はその母である
	大仲姫のものとなったのだろう。聖徳太子は大仲姫のお告げによりこの山を開いたとの事なので、その子で悲運の忍熊皇子の鎮魂供
	養の為、そして自分が滅ぼした物部守屋の祟りを祓う為にこの寺を建立したという事のようである。




	忍熊皇子	 出典:ウィキペデイアに加筆

	忍熊皇子(おしくまのみこ、? - 神功皇后元年(201年)3月)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。
	忍熊王、忍熊別皇子とも。仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の女・大中姫(おおなかつひめ、大中比売命)。?(かご)坂皇子の
	同母弟。神功皇后が産んだ応神天皇とは異母兄弟になる。

	『古事記』『日本書紀』によれば、新羅征討(三韓征伐)中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后が筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと、
	後の応神天皇)を出産したとの報に接した忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、兄の?坂皇子と共謀して、筑紫か
	ら凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。
	皇子は仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石(明石市)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)・五十狭茅宿禰(いさちの
	すくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を興させた。ところが、菟餓野(とがの、兵庫県神戸市灘区の都賀川流域か)で反乱
	の成否を占う狩を行った際、?坂皇子が猪に襲われて薨去し、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉に後退した。

	一方の神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。皇子軍は更に退いて菟道(うじ)に陣
	立てし、武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果て逢
	坂にて敗れた(『書紀』。『古事記』のこの戦闘場面に武内宿禰は登場せず、全て武振熊の功績とする)。逃げ場を失った皇子は、
	五十狭茅宿禰とともに瀬田川に投身した。その遺体は数日後に菟道河から発見されたという。

	仲哀天皇・神功皇后の実在性が疑われる中で、皇子もその例外ではない。この反乱は、後の草壁皇子・大津皇子の対立をベースとし
	て応神天皇即位の正当性を示すために創作されたとする説もある。



ウウーム、綺麗な中山寺でこれはイケませんなぁ。




	白鳥塚古墳(はくちょうづかこふん)は、兵庫県宝塚市の中山寺境内にある古墳。中山寺境内にある事から、「中山寺古墳」と呼ば
	れる事もある。巨石で築造された横穴式石室と家形石棺を持つ。長尾山系の山麓段丘、中山寺境内に立地する。変形し墳丘の形状は
	不明だが、最大径30メートル以上の大型円墳か方墳と考えられている。横穴式石室の玄室は長さ6メートル・幅2.5メートル・高さ3
	メートル、羨道部は長さ9.2メートル・幅2メートル・高さ2.4メートルで、ほぼ南向きに開口する。






	床には敷石を敷き、5枚以上の天井石を載せてある。玄室の中央奥寄りに、長さ190センチメートル・幅115センチメートル・高さ50セ
	ンチメートルの家形石棺を安置する。石棺はくりぬき式で、蓋には6個の縄掛突起がある。材質は凝灰岩で、播磨龍山の岩を用いたと
	推定される。家形石棺の形態から見ると、7世紀初頭の造営と考えられている。古くから名所となっており、副葬品等の有無は不明で
	ある。






	18世紀の摂津名所図会に「石の唐櫃(からと)」と記載されている。中山寺社伝で、仲哀天皇の先后である大中姫の墓と伝えられて
	いる。 また、大中姫の子、忍熊皇子もこの地に葬られ、異母弟である応神天皇が慰霊の使者を送ったところ、忍熊皇子の霊が「恨み
	を捨て、厄除神になる」と答えて古墳の羨道から白鳥が飛び出し、山中の石(中山寺奥之院の白鳥石)の中に消えた、とある。
	忍熊皇子は瀬田川で亡くなっていることと、忍熊皇子と家形石棺の年代に大きなずれがあることから、大中姫と忍熊皇子の霊を聖徳
	太子が中山寺に祀った伝承により大中姫の墓とされたと想像され、実態はこの地区に勢力を持っていた豪族の墳墓と考えられる。







多宝塔は2007年5月に再建されたのでメチャ綺麗。





その脇に壽老神が。ここは我々の守り神でありますぞ。よく拝んでおかねば。寿老神は、七福神の中では、長寿の象徴とされる。










	中山駅周辺の景色がよく見える。上の写真を右の方へ歩いてゆくと奥の院への入り口がある。
	中山という山が背後にあり、山麓にある中山寺奥之院にはかって厄神明王がまつられ、本堂脇にある湧水は大悲水と呼ばれていた。
	中山寺の境内からは18丁、徒歩1時間程度で参拝する事ができるが、2013.5現在、奥の院の施設は全て撤去され、工事現場の覆いに
	囲まれている。



邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 187回例会・宝塚歴史散策