2012年秋・第180回例会 北海道・道南の旅

キウス周堤墓
2012.10.8(月)













	千歳空港に到着して、コマツさんと合流。カウンターでレンタカーの手続きをして、マイクロバスでレンタカーの営業所まで運んで貰う。
	そこから再び空港へ引き返して、東京から来る河原さんを待つ。待っている間に、空港の「朝市食堂」という店で海鮮丼の朝食をとる。
	全員揃った所で記念撮影。本日の最初の遺跡訪問地「キウス周堤墓」へいく。千歳市の遺跡で、空港から車で20分程の所にあった。









キウス周堤墓





	市街地から国道337号線を長沼町に向かって8km、道東自動車道の千歳東インターチェンジを越すとすぐに、道路の両側にせまる林が見え
	てくる。これが目印である。空港・市街地からみて道路沿い右側に説明板が設置されている。駐車場はその手前、市街地よりの右側にある。
	道路は結構交通量が多い。




	キウス周堤墓群	出展:ウィキペディア

	キウス周堤墓群(キウスしゅうていぼぐん)は、北海道千歳市にある史跡。1979年に国指定の史跡となった。史跡内には、縄文時代後期
	(およそ3000年前)に作られたとされる、複数の墓が点在する。墓はそれぞれ「 - 号」と割り振られており、全8基の墓が存在する。
	縄文時代に作られた墓としては、日本最大[1]。
	名称は墓の周りを堤が囲っていることから名付けられたもの。現在地表面で見られる各々の墓は、円状に土を掘ったのち、掘った土をそ
	の周囲に盛って作られた。史跡で見つかっているものには盛土遺構や建築物の跡も見られる。出土したものには土器や木製品などがあり、
	江別市に位置する北海道立埋蔵文化財センターで保存、見学することが可能である。
 
	学説史
	 1901年(明治34)に河野広道により発見され、「チャシ」[2]として報告された。
	 1919年(大正8)鳥居龍蔵はツングース族の植民地の砦跡と考えた。
	 1937年(昭和12)原田二郎は、土層断面などの観察からチャシ説に疑問を唱えた。
	 1948・49年(昭和23・24)河野広道は斜里町朱円遺跡で土堤を確認し環状土籬(籬は垣根の意)と呼称する。
	 1964年(昭和39)大場利夫・石川徹は千歳市のキウス1・2号を発掘。
	 1977年(昭和52)木村英明は恵庭市柏木B遺跡や千歳新空港建設予定地内の発掘で共同墓地としての性格を明らかにした。それ以来、周
		堤墓や竪穴墓の呼称が用いられている[3]。 チャシ・・・北海道ほぼ全域にある、擦文からアイヌ時代にかけての砦(筑前記)

	データ
	 史跡面積 - 43856.75m2
	 史跡指定日 - 1979年5月23日
	 最大墓 - 直径75m、高さ5m、深さ(墓穴)2m
	 所在地 - 北海道千歳市中央410-2他
	 管理 - 千歳市役所教育委員会埋蔵文化財センター
 
	脚注
	 1. 北海道新聞、観光地情報、キウス周堤墓群
	 2. アイヌ語で砦の意
	 3. 田中琢・佐原真編集代表『日本考古学事典』三省堂 2003年2月 執筆分担は小林達雄
 
	参考文献
	 田中琢・佐原真編集代表『日本考古学事典』三省堂 2003年2月 ISBN 4-385-15835-5















飛行機の大きさと比べると、遺跡の広さがわかる。約5万平方メートルの範囲が国の史跡に指定されている。



道路が見事に遺跡をぶった切っている。今だったらこの部分だけ上か下かを通すか、う回するんだろうが、当時はお構いなしやね。


周堤墓群地形図




	キウス周堤墓群	出展:文化庁(文化遺産オンラインより抜粋) 史跡 / 北海道 
 
	北海道
	千歳市中央
	指定年月日:19791023
	管理団体名:千歳市
	史跡名勝天然記念物
	--------------------------------------------------------------------------------
	 北海道の道央部・勇払平野から石狩平野にかけての低地帯の東寄り、馬追丘陵の西側にキウス周堤墓群がある。この遺跡は、大正13
	年に河野常吉が「キウスのチャシ」として学会に報じ、昭和5年には内務省が史跡に仮指定したことがある。昭和25年頃、その一部
	(第7号)で石柱が発見され、河野広道が調査し、石柱を伴う墓壙一を確認している。このころからこの種の遺跡は「環状石籬」と関連
	させて「環状土籬」と呼ばれるようになったが、この呼称は近年の研究成果により適切でないとされるに至っている。昭和39〜40年
	には、千歳市教育委員会による発掘調査が行われている。
	 この遺跡は、東側の丘陵から長都沼にそそぐ小河川の南岸に7基、北岸に1基、及びその西南方3キロメートルほどにわたる広い範囲
	に6基、合わせて14基の環状の周堤が存在していたもので、その内10基は顕著な景観をなして現認される。周堤は大小があるが、外
	径最大例75メートルから最小例18メートル、周堤幅数メートルから約20メートルに及び、高さは周堤内部から掘りとった土を積ん
	だものである。周堤は互いに接しているものもあり、また周堤の一部が低くなるものもある。このうち第一号「環状土籬」の内部に設定
	されたトレンチ発掘調査で土壙墓5が検出された。墓壙は長径1〜2メートルの長円形のもので、立石等や小穴を伴うものがあり、その
	一部からは遺体の一部の遺存が認められている。さらに土壙上には多数の土器片が認められた。これにより先述の第7号の成果と合わせ
	て、周堤内に多数の墓が営まれた集合墓の一種であることが明らかとなった。



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縄文時代の墓など、西日本では殆ど見つからないが北海道には残っている。しかも大きい。北海道はでっかいどう!ちと、古かったかな。




	単なる縄文時代の墳墓と考えていたので、この規模には驚いた。国内でも縄文時代最大規模の集団墓である。墓の周りにドーナツ状に盛
	り上げた土手は、最大で直径75メートルにもなる。9基あるうち、8基が国史跡に指定された(1979)。墓標とみられる石柱、土器な
	どが千歳市埋文センターにあるらしいが、残念な事に、この日は休館日だった。64〜65年に第1号、第2号周堤墓の一部を発掘調査
	したのみで、墓や埋葬品などの詳細は不明である。これまで、縄文時代には大規模な土木工事は出来ないと考えられてきたが、この遺跡
	は、縄文時代後期の墓制や社会の在り方を示す遺構として注目された。さもありなん。




	キウス周堤墓群は、1960年代に本格的調査が行われたが、考古学の世界ですぐには認知されなかった。大規模構造物を造れるのは弥
	生時代以降という“考古学の常識”に阻まれたためだという。だが、周辺で周堤墓が続々と見つかって研究が進むにつれ、縄文文化のイ
	メージを大きく変える遺構であることが明らかになっていった。周堤墓の形態の変遷や周囲の住居遺構などから、当時の社会の様子が浮
	かび上がる。周堤墓は単なる埋葬区画から、葬祭儀礼など祭儀場の性格を強めていったと思われるが、こうした大規模構造物を造るため
	には、地域にサケ漁などを主体とした共同作業を行う大きな組織的社会ができており、有能な指導者や社会の統治規範の存在、社会の階
	層化が始まっていた可能性もある。これは内地では、ほとんど弥生時代の概念なので、前述の考古学界ですぐには認知されなかったとい
	うのも無理からぬところかもしれない。
	



	キウス周堤墓の外辺にも墓があったという記述もあるし、一帯の遺跡からは竪穴住居跡、貯蔵穴跡、土偶なども発見されており、この辺
	り一帯が縄文人の里だったことは明らかだ。恵庭市など周辺の周堤墓との関係、北東北や道内各地に残る環状列石との関係など、北海道
	の縄文もなかなかおもしろく、まだまだ訪問しなければなるまい。
	


倒木と苔むした斜面でよく分からなかったが、周堤墓には出入り口が設けられているそうだ。





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