2012年秋・第180回例会 北海道・道南の旅

史跡 手宮洞窟
2012.10.8(月)






	
	閉館ギリギリに飛び込んだ。ホントならもう閉めにかかっている時間だったのだが、途中から何度も電話を入れて、「後20分で行きます
	から」、「後10分で行きますから」と閉館をギリギリ延ばして貰った。というのも、昨日西本さんがここへ電話して「明日夕方行きます
	が、閉館ギリギリになるかもしれないので」とあらかじめ電話を入れておいたのである。その返事は「多少なら残業してお待ちしますから
	どうぞおいで下さい」との事だったので、安心して閉館時間までにと滑り込んだのである。

	しかし妙なことに、途中で入れた電話で「昨日電話でお願いした者ですが」というと、応対したオジサンは「いや、そんな事は知らない」
	と言い、西本さんが重ねて「いや、昨日女の子にそう頼みましたが」というと、オジサンは「ここには儂一人じゃが」と言うのだ。
	えぇーっ、じゃどこへ電話したんやろうと車内で時ならぬミステリーに喧々諤々。しかしやがて判明した。おそらく西本さんはフゴッペ洞
	窟に電話したのだ。翌朝フゴッペ洞窟へ寄って確信した。ここなら女の子2,3人は居そうだと思われる施設だった。

	フゴッペ洞窟の受付の女性の方、ごめんなさい。電話して行かなかった(間に合わなかった)のは我々です。申し訳ない。

























	
	手宮洞窟保存館	出典:小樽市総合博物館HP
 
	<手宮洞窟(くつ)の発見と保存>
 
	 手宮洞窟(くつ)は1866年(慶応2年)相模(さがみ)国(現在の神奈川県)小田原から、朝里地区のニシン番屋の建設に来ていた、
	石工の長兵衛によって発見されました。手宮洞窟周辺は、小樽軟石と呼ばれる凝灰岩(ぎょうかいがん)が露出しているところで、
	長兵衛は建築用の石を捜している途中で偶然洞くつ内の岩壁にさまざまな文様が刻まれていることを発見しました。
	 この彫刻はジョン・ミルン(J.Milne イギリス人:地震、地質学者)によって初めて学術的な観察と報告がなされました。また、
	開拓使(現在の北海道庁)、渡瀬荘三郎などによって次々と調査が行われました。
	 1921年(大正10年)には、その価値が認められ、国指定史跡となり、1949年(昭和24年)にはブロンズによる模刻と保存覆屋の整備
	を行いました。しかし、発見以来120年以上がたち、風化、剥落の進行を防止し、貴重な文化財である手宮洞窟を後世に伝えるために、
	昭和61年から保存修復事業を開始し、約10カ年の歳月を要し、平成7年に手宮洞窟陰刻面を保存する「手宮洞窟保存館」を完成させまし
	た。
 
	<手宮洞窟とその時代>
 
	▲角のある人
	 手宮洞窟に描かれている彫刻(陰刻(いんこく)画)がいつ誰によって刻まれたのか、それが何を表現したのか、かつてはいろいろ
	な説がありました。しかし、現在まで行われたさまざまな調査研究により、ある程度のことがわかるようになってきました。
	 この彫刻が刻まれた時代は、発掘調査により、今からおよそ1,600年前頃の続縄文(ぞくじょうもん)時代中頃〜後半の時代で、本
	州の弥生(やよい)時代の終わり頃から古墳時代の初めの時期にあたります。この頃の北海道は、豊かな自然を背景とし、縄文文化を
	さらに発展させた狩猟採集文化の時期で、その文化は新潟県からサハリンにまで及んでいました。 
	 同じ時代に刻まれた彫刻が、余市町のフゴッペ洞窟にあります。フゴッペ洞窟の彫刻は舟、魚、人などが描かれたものと考えられま
	すが、手宮洞窟のものと非常に良く似ているものがあります。
	 手宮洞窟の彫刻は、石斧などによって刻んだ後、磨いて仕上げたと推定されます。発掘調査では、彫刻を刻んだ岩や続縄文時代の土
	器と共に、刃の部分が傷んだ石斧も出土しています。
 
	<手宮洞窟の彫刻>
 
	 国内では、手宮洞窟のような彫刻は、現在のところ、フゴッペ洞窟にしか発見されていません。そのため、この彫刻をめぐっていろ
	いろな解釈がありました。かつてはこれを「文字」と考え、解読した人すらあらわれました。
 	 しかしフゴッペ洞窟の発見以来、アムール川(シベリア東側を流れる川)周辺に見られる、岩壁画と良く似た古代の彫刻であること
	がわかってきました。シベリアのサカチ・アリアン遺跡の岩絵とフゴッペ洞窟にはほとんど同じような舟の像が描かれていますし、手
	宮洞窟にある「角のある人」と似たものもあります。このような岩壁画は日本海を囲むロシア、中国、朝鮮半島などに見られ、手宮洞
	窟もこのような日本海を囲む大きな文化の流れを表すものだと考えられます。
	 手宮洞窟では「角のある人」の他、手に杖のようなものを持った人や四角い仮面のようなものをつけた人が描かれています。このほ
	か、角のある四足動物も描かれています。
	 このような角をもつ人はシベリアなどの北東アジア全域でかつて広く見られた、シャーマン(激しい踊りや祈りをして占いや収穫の
	お告げをする人)を表現したものではないか、という説が有力です。
 
	 手宮洞窟保存館はこのように4〜5世紀頃、北海道に暮らしていた続縄文文化の人々が、日本海をはさんだ北東アジアの人々と交流を
	していたことを示す大変貴重な遺跡です。古代人の心を知る上で第一級の遺跡といえるでしょう。
	 手宮洞窟保存館では、カプセルで保存された彫刻(陰刻画)を実際に目にすることができます。また世界各地の洞くつ壁画や、手宮
	洞窟の時代である続縄文文化の生活の様子を知ることができます。
 
	<ご案内>
 
	公開時間: 4月28日〜11月4日 午前9時30分〜午後5時
 	休 館日: 火曜日(祝日の場合開館、翌日以降の最も近い平日に振り替え)冬期休館(11月上旬〜翌年の4月下旬)
	入 館料: 一般 100円(80円) 高校生・市内にお住まいの70歳以上の方 50円(40円) 中学生以下 無料
		  ( )内は20人以上の団体料金です。
		 ※ 総合博物館の共通入館券・ 定期入館券(年間パスポート)をお持ちの方は、有効期限内に限り無料で入館できます。 
	交通機関: 中央バスJR小樽駅前より高島方面行き総合博物館下車 徒歩3分タクシーJR小樽駅より約15分
 

	小樽市手宮洞窟保存館	〒 047-0041  小樽市手宮1丁目3番4号 電話  0134-24-1092 
	問い合わせ先  小樽市総合博物館 〒 047-0041 北海道小樽市手宮1丁目3番6号 電話  0134-33-2523 



上をクリックすれば大画面になります。



































	
	以下は、前回(2000年11月2日)私がここを訪れたときにHPに記述したものである。12年前であるが、内容は全く変更の必要がない。 

	
	小樽市の手宮洞窟は、今からおよそ130年以上前、まだ北海道が「蝦夷地」(えぞち)と呼ばれていた頃の慶応2年(1866)に、神奈
	川県小田原市から朝里地区のニシン番屋建設のため出稼ぎに来ていた石工の長兵衛という人物が発見した。長兵衛は倉庫などを建てるた
	めの石を切り出している時、偶然この洞窟を見つけ、洞窟の壁にさまざまな彫刻が刻まれていることを地元の人々に伝えた。
	その後、この彫刻はさまざまな人々によって広く世の中に知られるようになる。明治11年(1881)に榎本武揚が学会に紹介したという説
	もあるが、小樽市の資料によると、「明治8年(1878)頃、開拓使(今の北海道庁)やジョン・ミルン(英国人:地震・地質学者)によ
	って彫刻壁画(以下壁画)の模写が発表されると、考古学界、人類学界の著名な学者達がこの地を訪れ、壁画の持つ意味について研究が
	行われるようになった」となっている。実際、ミルンによって始めて学術的な観察と発表が行われたようである。
	その後手宮洞窟は前面の岩が削り取られ、また洞窟の上に鉄道が敷設されたりしたため、当初の姿を徐々に失っていった。明治の中頃に
	は雨よけの庇がかけられたり保存事業も行われ、大正10(1921)年には国指定の史跡になった。昭和24年(1949)にはブロンズによ
	る模刻と保存覆屋の整備が行われた。発見以来120年以上経ち、風化、剥落の進行を防止し、貴重な文化財である手宮洞窟を後世に伝
	えるために、昭和61年から保存修理事業が開始され、約10年の歳月を要し平成7年に手宮洞窟陰刻面を全面保存する「手宮洞窟保存
	館」が完成した。
	当時の調査の結果、ある程度のことが判明した。壁画が描かれたのは今から1600年前頃の、日本の編年で言えば弥生時代末期から古
	墳時代にあたる「続縄文時代」とされた。その頃の北海道は豊かな自然の恵みを背景とし、縄文文化をさらに発展・継続させた狩りや漁、
	木の実の採集等を中心とした文化で、その文化圏は東北北部(新潟県あたり)から広くサハリンにまで及んでいた。この手宮洞窟の壁画
	と類似のものは、隣接する余市町のフゴッペ洞窟にあるだけで、他に日本国内では見受けられない。しかし、遠くアムール川流域や中国
	最東部、朝鮮半島北部などの日本海沿海側に数カ所見られる為に、これらの文化圏を共有していた民族の手になるものだろうと考えられ
	ている。シベリアのサカチ・アリアン遺跡の壁画にも手宮、フゴッペと同じような舟や角を持った人物の絵が描かれており、当時日本海
	を囲む大きな文化の流れがあったものと推測できる。なおフゴッペ洞窟の壁画も、手宮洞窟と同じ時期に彫刻されたものである事が確認
	されている。
	この壁画の持つ意味については、当初様々な説が発表された。最初、これは「文字」だという意見が強く、しばらくその解読を巡っての
	議論が続いたようである。俄学者がさまざまに「解読」して発表したりしたようだ。この手宮洞窟から発見された、酒を注ぐ容器らしい
	「後北式土器」(こうほくしきどき)と、北海道に分布する同類の土器には類似した記号があり、これがアイヌのエカシシロシ(祖印)
	に発展したという説もあった。
	話は変わるが、一昔前にはやった歌謡曲に、鶴岡正義と東京ロマンチカが歌った「小樽の女よ」という歌がある。一時私の上司が小樽商
	科大学卒だったので、カラオケでさんざんこの歌を聴かされてすっかり覚えてしまったが、この歌の歌詞の中に「偲べばなつかし〜、古
	代の文字よ」と言う箇所がある。これは、まさにこの「手宮洞窟」の壁画を文字とする意見が強かった時代の余韻で作詞されたものだ。
	しかしその後の調査で、これは文字ではなく人物や舟や動物を描いた古代の彫刻と言うことに落ち着いた。

	ここに描かれた動物・人物像等は非常にユニークで、人物像の殆どは角を持っており、その角もウサギのように折れ曲がったものや、手
	に光線銃を持った宇宙人の様に見えるものもある(昔の解説では杖を持った、となっている)。写実的に描いた像もあり、抽象画のよう
	な模様もありさまざまであるが、学会の主要な意見としては、かって北東アジアに多くいたシャーマンを描いたものだろうという事のよ
	うだ。これにより「北部環日本海沿岸地方の精神文化」がかいま見える、と解説書にあるが、私には「ウサギのダンス」のようにも見え
	る。手宮洞窟の彫刻は、石斧などによって刻んだ後に磨いて仕上げたものと推定されている。発掘調査では、彫刻を刻んだ岩や続縄文時
	代の土器などとともに、刃の部分が傷んだ石斧も出土した。
	現在の洞窟は建物で覆われ、彫刻絵画は硬質ガラス越しに眺められる様になっているが、照明は薄暗く資料にあるほどハッキリとは見る
	ことができない。掲示されている模写図と見比べて、これがここで、あぁこれがそうか、と分かる程度である。見学は無料。





おじさんに無理を言って済みませんでしたと謝って資料館を後にする。



やれやれ、大阪の奴は変な奴ばっかりじゃのぉ、と言う顔をして引き上げるおじさん。ホントに無理を言いました。しかも間違えて。







夕闇迫る保存館。上と下の写真は右側へ続きです。





保存館の側に「小樽市総合博物館」と看板があったが、もう暗くて確認出来なかった。





ホテルで教えて貰った「魚の旨い店・魚真(うおまさ)」。来るわ来るは海鮮魚介類の山。「もう魚は当分イラン」と言うほど満腹になった。



飢えを満たせば酒も入って自然と笑いがこぼれる。



	
	部屋は公民館の二階のような、畳敷きのだだっ広い部屋だったが、魚は新鮮で旨かった。しかも結構安かった。「えぇーっ、そんなんで
	ええの」」とみんなびっくり。さすがは小樽。







ホテル オーセント小樽。私のWifeは「あ、昔泊まったことある」と言っていた。








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