Music: 花


石宝殿古墳



資料館を出て打上の府営住宅の中を抜けて高良神社へ向かう。懐かしい京阪バスが走っている。樟葉に居るときよく乗った。


		寝屋川市では、歴史探訪のコーナーには必ずこの「鉢担ぎ姫」の案内があって地図も付いているので非常に便利である。
		「鉢担ぎ姫」のお話は「日本昔話」などでよく知っているし、子どもが小さい頃にはよく読んでいたが、ここ寝屋川の話
		だとは知らなかった。



		団地の中のコンクリに「フクロウ」迷い鳥の張り紙があった。

		「フクロウではなぁ」「ちょっと見つからんのとちゃうか」「飛んでいったらもう戻らんで」
		「犬なら戻るかもしれんがなぁ」「せやけど、フクロウ飼うてる人なんかおるんやねぇ」



地図では「行き止まり」の先へ行くようになっているので、桜満開の中をおかまいなしに進んでゆくと、



やがて



「鉢担ぎ姫」があった。高良神社と石の宝殿古墳は近い。





坂道を登り切ったところにも「鉢担ぎ姫」がいて、



その右手に「高良神社」の鳥居が見えている。




	高良(こうら)神社(打上神社)

	祭神 : 武内宿禰   
	配祀 : 八大竜王、八幡大神
	摂社 : 住吉社、稲荷社、神明社
	由緒 : 不詳。旧讃良郡に属し、江戸時代には交野郡に属していた。 

	寝屋川市大字打上(旧河内国交野郡打上村)に鎮座する。自然林に覆われた生駒山麓にあり、ここが寝屋川市で一番の高地だという。
	神社を降りたところに展望台があり、確かに眺めはいい。眼下の都会の喧噪からは考えられないような静寂さに充ちた神社である。
	神域の山中には国の史跡石宝殿古墳がある。


鳥居は1722年(享保7年)、石標は1940年(昭和15年)の建立。

	当社の創起は不詳であるが、この地の人々が定住した太古からの産土神を祀ったものと考えられる。石宝殿古墳の被葬者を祀ったの
	かもしれない。江戸時代まで高良神社と呼ばれていて、明治になって「打上神社」と改名したらしいが、地元では高良神社のまま呼
	ばれており、打上神社という表記はどこにもない。
	主祭神は武内宿禰だが、これも明治初年の社名変更時の変更と思われ、それ以前は「高良大明神」と呼ばれていたようだ。高良大明
	神(高良玉垂命)を祀る神社は、福岡県久留米市の高良大社や、京都府八幡市の石清水八幡宮の摂社など全国各地に見られるが、高
	良神は記紀などの文献に登場しない神名であるため、ここの高良大明神は武内宿禰が同一人物であるとする説もあるが、明治になっ
	て武内宿禰と結びつけるためにそう言われた可能性が濃い。




	高良という名の由来には二つの説がある。

	一つは高麗(こうらい)からきているとの説で、この地方には渡来人にまつわる事象が多くあり、石の宝殿古墳の被葬者も渡来人系
	譜の人々で打上神社もそれに関連ありとするもの。
	もう1つは、川原の地主神を祀るカワラ神社が起源で、「川原社」が転じて「高良社」となったというもので、八幡市にある石清水
	八幡宮の摂社「高良神社」はもとは「川原社」と呼ばれていたという。八幡神と武内宿禰の信仰が全国に広まるにつれ、地主の川原
	神もこれらの神と結びついたというもので、この打上神社も「川原」説もあるようだ。



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	寝屋川市は、秦氏一族に因む地名や伝秦河勝の墓などの伝承地が点在しており、『日本書紀欽明紀』には「河内国更荒郡の宇野邑の
	新羅人の先祖」とか、『姓氏録』に「宇努連、新羅皇子金庭興の後」など、後期の渡来系氏族の色が濃い地域である。「宇佐神宮」
	のコーナーでも書いたが、「八幡」と言う名前も渡来人と関わりが深い。「八」とは「多い」の意味を含み、八幡とは多くの秦(幡)
	を意味するという見解もある。古く、江戸時代の打上村を囲む隣村の村々には八幡宮(神社)が多く祀られていた。

	・ 星田村 八幡宮(現星田神社に合祀) 
	・ 寝屋村 八幡宮(現寝屋神社) 
	・ 秦 村 八幡宮(現八幡神社) 
	・ 燈油村 八幡宮(現国守神社) 
	・ 岡山村 八幡宮(現況不明) 

	石清水八幡宮そのものは宇佐神宮からの勧請であるし、鎌倉以降に「八幡様」が全国展開して行ったのは前述「宇佐神宮」に書いた
	ので繰り返さないが、これらの八幡宮が元々此の地に根ざしている可能性もある。



	本殿の主祭神は武内宿禰(高良大明神)である。拝殿からは江戸中期の宝暦年間(1751〜64年)の棟札が見つかっており、
	拝殿両脇の灯篭は江戸初期の寛文2年(1662年)、狛犬には江戸後期の文化3年(1806年)の銘がある。 



	高良神社のある打上地区は標高の高い生駒山の麓にあり、高良神社の境内とも思える森に横口式石槨が露出した石宝殿古墳がある。
	寝屋川市に住んでいた渡来人と思われる秦氏、高宮氏などが領地を一望できる高台に葬られた可能性もある。此の古墳は七世紀頃の
	ものとされるが、玄室は高さ幅とも1mもなく火葬風習後の墓ではないかという意見があり、我が国で初めて火葬を行ったとされる
	持統天皇陵と時期的に一致し、古墳台石が八角形である事を考えると、飛鳥の天皇陵との関連性も捨てがたい。『河内国名所図絵』
	には、金銅の壺内に白骨が収められていたという記事がある。



打上神社の石柱は奉納柱の陰に埋もれて見る影も無い。






この説明板の後ろを上ってゆくと、



一、二分で古墳が見えてくる。昔来た時は暗い森の中だったような気がしたが、随分刈り込まれていて明るくなっていた。




	石宝殿古墳 寝屋川市HP

	寝屋川市東端の打上にある北河内唯一の古墳時代終末期に属する古墳です。古墳は生駒山地から派生する丘陵の南斜面に築かれて
	いて、現状は巨大な横口式石槨が露出しています。横口式石槨は2石を組み合わせたもので、上面を平坦に加工した底石(下石)の
	上に、直径3メートル 、高さ1.5メートルで埋葬部分をくり抜いた蓋石を重ねています。こうした形式の古墳は非常に少なく、貴
	重な存在で、昭和48年5月10日付けで国から史跡に指定されています。 同じような構造の横口式石槨をもつ古墳は、奈良県斑鳩町
	御坊山3号墳、明日香村鬼の爼(まないた) ・雪隠(せっちん)しかなく、きわめて特異な形状のものです。

	住所 寝屋川市打上元町1875-1
	交通 JR学研都市線『東寝屋川』駅より徒歩15分



石宝殿(いしのほうでん)古墳

	石宝殿(いしのほうでん)は、人工的な巨石が残る遺跡などに付けられた名称で、兵庫県と大阪府に合わせて5ヵ所もある。
	寝屋川市では高良神社裏山にある古墳である。露出した石室から石宝殿古墳と呼ばれ、国の史跡に指定されている。北河内唯一の
	古墳時代終末期に属する古墳で、古墳は生駒山地から派生する丘陵の南斜面に築かれていて、現状は巨大な横口式石槨が露出して
	いる。
	横口式石槨は2石を組み合わせたもので、上面を平坦に加工した底石(下石)の上に、直径3メートル、高さ1.5メートルで埋葬
	部分をくり抜いた蓋石を重ねている。こうした形式の古墳は非常に少なく、貴重な存在で、昭和48年 5月10日付けで国から史跡に
	指定されている。




	同じような構造の横口式石槨をもつ古墳は、奈良県斑鳩町御坊山3号墳、明日香村鬼の爼(まないた) ・雪隠(せっちん)しかなく、
	きわめて特異な形状のものである。発掘調査時に石槨の周辺から須恵器の小片が出土しており、この土器や石槨の構造などから7
	世紀中頃に築造されたと考えられる。
	古墳の背後には3個の巨石が一列に並んでいるが、昭和63年(1988)に行われた発掘調査では、この列石の西側に続く石が埋ま
	っていることが確認された。この石と列石との設置角度は135度で、この石を古墳の外側のラインとすると、古墳の平面角が八
	角形となる可能性があると言う。古墳時代末期、晩期の八角形古墳となると、飛鳥の古墳群との関連が頭に浮かぶ。天武・持統陵
	や、最近斉明天皇の墓では無いかと騒がれた牽牛子塚古墳等は八角形の形状を持っている。



	古墳の前に建てられている石標。石表の高さ約80cm、幅約30cmで、「天岩戸大日如来」と刻まれている。この碑は1691年
	(元禄4年)明光寺の承誉上人による建立で、明光寺の山号は「天照山」とあるように、石宝殿古墳は天岩戸であるとの伝承から
	建てられたとのこと。



石宝殿古墳正面。石扉を取り付けていたと思われる溝が掘られている。

	「石宝殿」の規模と構造

	 (1)四つの巨石で構成
	 古墳は、墓室をくりぬいた蓋石(主体部)と、それを受ける底石、羨道をつくる二個の側石、この四個の巨石で構成されている。
	 前方後円墳のような外形の壮大さはないが、簡素な内にも終末期古墳の時代背景が凝集されたかに見える。
	(2)巨石をくりぬいた墓室
	 蓋石には、内法で長さ約1.8b、幅約0.9b、高さ約0.7bの長方体をくりぬいて、墓室としている。横口式古墳である。
	 蓋石は、余り高くないが、六畳の部屋に入りきれない外形の大きさは圧巻。明日香村のものは、蓋石(雪隠)と底石(俎)がバラバ
	 ラになっているが、ここの石宝殿は完形である。
	(3)扉と羨道を設ける
	 鬼の雪隠・俎古墳と同様、横口には、扉石をはめ込む切込みがあるが、この石宝殿には、更に入口の片側上下にくぽみを付けて
	 ある。これはおそらく片開きのドアー式扉の取付用と考えられる。あたかも金庫の扉を想像させる.但し、扉石は現存しない。
	 また、石室の前面両側に内側を平にした二個の巨石を衝立のように立て羨道部を構成している(鬼の雪隠俎古墳には、この側石
	 は見当たらない)
	(4)簡素ながら精巧な古墳
	 遠くから見ると、底石が見えないのと外部表面に殆ど加工がされていないので、自然の巨石三個が寄り添って、ヒッソリと置か
	 れているように見える。しかし、蓋石と底石、それに二個の立石、この四つの巨石を相互にピッタリとかみ合わせて組立てる加
	 工、更に扉石の細工等その絶妙な技術水準の高さに驚かされる。


	石室。墓室の前の羨道部分の石は長さ約2m、幅約1.4m。平板な石板の上にドーム状の石材を被せた造り。明日香村の鬼の俎
	(まないた)、鬼の雪隠の完成形といわれている。石室幅0.9m、高さ0.68m、奥行き2.3m。



石宝殿古墳側面。石槨を横から見たところ。左側の石材は、左右一対の一枚岩でできた羨道。



	7世紀中頃の築造と考えられ、北河内で唯一の終末期古墳で、国指定史跡となっている。古墳の盛土は流失し、石槨が露出してお
	り、花崗岩の底石は長さ約3m、幅1.5mあり、蓋石を受けるための加工が施されている。蓋石は約3m、幅3.3m、高さ
	1.5mの巨大な花崗岩をくり抜いて墓室としており、墓室の入口には扉石がはめ込まれていた跡が見られ、その前に2個の大石
	で羨道を作っている。
	1801年(享和元年)刊行の『河内名所図会』にはこの石宝殿に関わる話として「近年此側にて、金銅の壺、大サ壱尺余の物を
	掘出す。‥‥云々」とあり、この古墳の被埋葬者の骨壷か否かは不明だが、金銅壺が1774年(安永3年)に掘出され、明光寺
	の隣の極楽寺の境内に深く埋め戻したという。

	[参考資料]『現地案内板』 文化庁、大阪府教育委員会、寝屋川市教育委員会
           『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社






高良神社を降りてきて、左手の展望台へ上る。成る程、北河内から梅田〜天王寺までよく見える。ハルカスも見えていた。





 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/196回例会・寝屋川市の古代を歩く