Music: 北上夜曲2



四条畷市立歴史民俗資料館


私はここへ来るのは三度目である。前回来た時にはボランティアのおばさん達が一杯いたが。




	東高野街道  出典:ウィキペディア

	東高野街道(ひがしこうやかいどう)とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。数ある高野街道のうち、
	いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街道 (大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内
	長野市)で西高野街道と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。
	いつ頃に形成されたかは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自然発生的に形成され
	た道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言われている。淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖
	(深野池)周辺の湿地帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越えると石川の左岸に沿
	って通った。 平安時代には駅が設置され、京と河内国府を結ぶ官道としても重要であったとされる。
	その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうよう
	になった。
	現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田林泉佐野線と国道 170号(旧道)各道の大
	半に相当または平行する。




	●四条畷市立歴史民俗資料館 

	正面に大きな四条畷市内の遺跡分布図が掲げてある。展示室への廊下の端に「雁屋遺跡」から発掘された弥生人の全身骨格が
	置かれている。
	四条畷市専光寺跡で田原城主のキリシタン墓碑が出土した。出土地は田原城主一族の菩提寺「千光寺」としてよく知られてい
	る。調査中の平成14年2月14日、この寺跡の土塀の内側に当たる場所から「天正九年(1581)辛巳 礼幡(レイマン)八
	月七日」の銘がきざまれたキリシタン墓碑が出土した。(現在のところ、日本最古のキリシタン墓碑である。)
	フロイス日本史にレイマンの記述を発見したことから、洗礼名の《礼幡》はレイマンと読むことが判明した。同書には、「天
	正3年(1575)。信長が京の相国寺慈照院に宿泊したとき、池田丹後之守、三ケマンショ、結城ジョアン、田原レイマンなど、
	主だったキリシタン武将が挨拶に出向いた。」とある。キリシタン墓碑が発掘調査で発見されるのも稀なことだが、フロイス
	日本史記載名と一致するのはごく珍しい。田原城主の《礼幡》が亡くなった年はキリスト教の全盛期で、菩提寺の千光寺に手
	厚く葬られていたが、禁教令によって人の目をはばかり、元の位置から移動され、土塀の端の地中に埋められた。



この展示は新聞等で取り上げられ入場者が増えたそうなので、展示期間を延長したそうだ。その延長期間の最終日に訪問した。



二階も工事中で、一階も明日から一ヶ月間の工事に入るそうだ。「皆さん良い時に来ましたねぇ」と学芸員(?)のおじさん。



そのおじさんが展示について説明してくれるというので話を伺うことにする。











四条畷市内に立っている石碑のたぐいは、殆どがこの「畷古代文化保存研究会」の手になるものである。



古代の河内湖の沿岸がライトで示される。











みんなが説明を受けている間に、私は耳だけ説明に傾けながら展示室を撮影しまくった。































クリックで大画面。

















上右の馬の埴輪は、2体とも東京の板橋へ貸し出し中だった。



この後訪問する忍岡古墳の写真もある。





















舟の中にはよく見ないと判らないが子馬が乗っている。成馬は場所を取るので、子馬を運んできたのでは無いかという説に基づく。







発掘された馬の歯や顎が展示してあって、「牧」の存在を証明している。









































上は相当昔に、角川書店の社長だった角川春樹の発案で製造され、朝鮮から九州へ渡った「野生号」である。













上の埴輪は最初子犬か子豚ではないかと言う事だったそうだが、よく見ると足先に蹄があるので小馬という事になったらしい。










	魏志倭人伝には、弥生時代後期(3世紀頃)の倭においては「その地には、牛・馬・虎・豹・鶴無し」と書かれているし、私も古墳
	時代までは日本に馬はいなかったのではないか、いたとしても南方系の野生馬が細々と棲息していたのだろうと思っている。
	しかし、石器時代の遺物中に馬の歯や骨が混在していて、すでに当時日本にも馬が棲んでいたことが確認されているし、現在まで
	に縄文・弥生期の遺跡から40例を超える小型馬と中形馬の骨や歯が発見されている。
	従って、この時期の日本国に馬が棲息していたことは明らかであるが、果たして縄文人や弥生人が、これらの馬とどのようにかか
	わっていたかは十分解明されていない。
	南方種と考えられている小型馬は、日本在来種の木曽馬・都井馬・トカラ馬・与那国馬・北海道和種などの祖先といわれているよ
	うだ。日本在来種のこの馬は、ごく最近まで離島や木曽地方などの山間部に純粋種が存在していたが、今では絶滅しかかっている。

	日本で馬の利用が明らかになるのは古墳時代中期(5世紀)以後である。大和政権は朝鮮半島への侵攻を契機にして、騎用の大型
	馬を導入した。馬の飼養には朝鮮半島から繁殖などの技術をもつ高麗人などの集団が渡来し、各地に移り住んで牧の業務に従事し
	ていたものと考えられる。その証拠は、古墳の副葬品として馬具が見られること、埴輪やその他から、この頃に乗馬文化が導入さ
	れ軍事的利用されるようになったと考えられ、その具体例のような表現が文献にも見られる事、そしてこの四條畷などから発見さ
	れる古代馬の骨や馬の飼育に使われたとみられる土器類等々である。やがて馬の育成は日本列島の各地へ広まり、特に東国におい
	て分布が拡大する。ヤマト王権では推古朝の頃には馬を管理する官職が存在しており、畿内の有力豪族により馬産が行われていた。
	地方においても在地首長による乗用馬の生産が行われ、律令制下には中央への貢馬が行われるようになった。















これが「雁屋遺跡」から発掘された弥生人の全身骨格である。









今は「古墳時代」展示だからか、人骨のケースには覆いが掛けてある。おじさんが外して見せてくれた。





明日から閉館のタイミングでよくぞまぁ。しかし登呂遺跡では、昨日まで開館していた資料館に行ったもんなぁ。



 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/195回例会・四條畷の歴史探訪