Music: 重いで!のサンフランシスコ



	
	第197回例会 香芝市二上山博物館とその周辺の探訪
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	二上山博物館は関西では珍しい旧石器時代の石器材料に関する展示博物館です。今回は二上山を望みながらその周辺の探訪
	を行います。

	日時 : 4月27日(日曜日) AM10時 近鉄下田駅集合
	持参 : 弁当 出納 防寒具 雨具
	コース: 近鉄下田駅 ーー鹿島神宮ーー狐井城山古墳ーー阿日寺ーー二上山博物館ーー顕宗天皇陵ーー武烈天皇陵ーー
		  平野塚穴山古墳 ーー志都美駅
		  (本当は交通の便があれば馬見丘陵公園付近もに行きたいのですが、見当たらないのであきらめています。)
	行程案内:(すべての案内文はHPよりの参照です。取り扱いは御自分の判断でお願いします。)


	今回小生(筑前)は、所属する故郷の関西における親睦団体の行事で、故郷の幹部(市長、商工会議所会頭等)との懇談の
	為帰郷したので、この例会には参加出来なかった。市長は中学、高校の後輩だし、商工会議所の二人の副会頭も高校時代の
	友人なので、二次会、三次会と故郷の歓楽街を放歌高吟して、最後は市長に実家までタクシーで送って貰った。

	この例会にも行きたかったが、しかし数年前に、二上山博物館、顕宗天皇陵、武烈天皇陵などは一人で巡った事があるので、
	今回は欠席させて貰う頃にした。従って、ここに掲示している写真は、主に西本さんと郭公さんの撮影によるものである。
	青字で写真の下に撮影場所等が入っているのが郭公さん提供で、残りが西本さん提供だ(と思う)。また上の案内も西本さ
	んにお願いした。
	そういう訳で、多少写真が前後したり、同じようなものが並んでいるかも知れないが辛抱してください。また、お二人から
	写真提供を受けながら、郭公さんがHPを便宜的に作ってくれたのでそれを良いことにほったらかして、HP制作が4ケ月
	も後になってしまって、誠に誠に申し訳ない。勘弁してケロ。(2014.9.1)
	
	
	香芝市 出典:ウィキペディア(かな?)
 
	
	香芝市の西方に聳え立つ二上山。向かって右側が雄岳。JR五位堂駅前より

	奈良盆地西端に位置し、市域は二上山の東麓の扇状地に広がる。大阪府に接し、大阪近郊の住宅地として発展。人口増加は
	著しく、増加率は全国3位(平成17年実施国勢調査速報値)。

	西部(関屋地区)
	大阪府境付近の関屋付近は、西名阪自動車道や近鉄大阪線、国道 165号が通る交通の要衝であると同時に、青葉台住宅地や
	祇園荘住宅地は県内屈指の高級住宅街である。二上駅周辺では香芝旭ヶ丘ニュータウンや高山台(香芝オークヒルズ)、晴
	実台などの住宅開発が盛んであり、香芝市の人口増加を牽引する要素の一つとなっている。金剛生駒紀泉国定公園の区域内
	でもあり、自然が豊かであることも特徴である。

	中部(下田、志都美地区)
	市役所や消防署が置かれるなど、市の中枢。古くからの市街地という顔を持つ反面、近年は志都美地区の西名阪自動車道香
	芝IC近辺や国道168号沿線で店舗の出店が相次いでいる。葛城市や大和高田市と接する南部は田園地帯が広がっているがJR
	五位堂駅の開業にも表れているように宅地化の波が押し寄せている。

	東部(五位堂、真美ヶ丘地区)
	1983年頃から開発が始まった真美ヶ丘ニュータウンは街作りが一段落し、成熟期を迎えていると言える。最寄り駅である近
	鉄五位堂駅へは、バス網が張り巡らされている。また、五位堂駅から大阪・鶴橋駅までの所要時間が25分以内(ラッシュ時
	には途中停車駅なしの快速急行が運転されている)というアクセスの良さから、ニュータウン内では数多くの住宅と中核商
	業施設エコール・マミが建設され、市の玄関口として飛躍的な発展を遂げている。



近鉄下田駅のホームだと思うが、ホームで待ち合わせしたのかな?参加してないと様子がわからんね。



この行列は一体何やろか? 
長蛇の列は駅長お薦めコースのハイキングの人たちだと郭公さんのHPに。



ウォーキングでもやっとるんかな。郭公さんは下におるけど。





どうやらこれが本日のオールキャストのようです。





杉本さんと友人の新会員「竹内」さん。本日が初めての例会参加です(かな?)。



ううむ、この行列はバス待ちやろね。どこへ行くんやろ?









	<鹿島神社の由来> 出典:ウィキペディア(かな?) 

	鹿島神社は、近鉄下田駅の北方約100メートル、国道165号線と168号線が交差する下田交差点の東側に所在する。
	大正8(1919)年4月の『鹿嶋神社誌』によると、
	「明治六(1873)年村社二列シ同四十(1907)年九月二十四日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル二百二十五戸ノ氏
	神ニシテ下田一村ノ崇敬神社タリ」
	とみえる。終戦後、全国の神社と共にこれらが廃止され、境内地も没収された。氏子衆は神社の維持・管理を行う鹿島神社
	拝殿鹿島講を結成したが、昭和27年頃、境内地は神社に無償払い下げを受け、宗教法人として自立した。役目を終えた鹿
	講は昭和36年12月に解散している。








	境内の建物造替について、『大和下田村史』は「拝殿は嘉永七(1854)年五月に再建され、宝蔵は慶応二(1866)
	年八月に建設され、祝詞舎、渡殿、祭器庫などは明治十(1877)年三月に建設」とみえる。現本殿は一間社春日造で、
	檜皮葺、大正年間の改築になる。また、拝殿、絵馬殿、山車殿は昭和58年に改築、社務所は平成2年に新築された。






	祭神は「武甕槌命」で、勧請伝承は、建仁元(1201)年の『鹿嶋大明神縁起写』や文安元(1444)年の『座衆経営
	録』等に詳しいが、要約すれば、承安2(1172)年3月、源義朝の家臣であった鎌田小次(二)郎政光が常陸国(現茨
	城県)鹿島本宮の御分霊を勧請したのが始まりとされる。








	その後の政光は、現香芝市鎌田に住し、その子孫も代々鎌田に住み、鹿島神社に奉仕してきた。当麻寺の北墓にある平安時
	代末期の五輪塔(○国重文)は、政光の墓とも鎌田氏祖先の供養塔ともいわれている。また、鎌田家の分家宅には、天正2
	(1574)年銘の天正枡(○市指定)が残されている。このことは、中世、万歳氏の支配下であった鎌田村の年貢を万歳
	氏が興福寺へ納入するため、鎌田氏が百姓分の徴収を委託されていた可能性が考えられる。






	小泉俊夫氏は天正枡「中世でも早い時期(鎌倉時代?)に土着し、その後、在地の地侍として台頭し、鎌田村の名主とし五
	輪塔(当麻北墓) て地域の指導的な立場を世襲するようになったと思われる。」とされている。




	御神霊を頭屋宅に奉迎すること、神饌に古様式が残ること、神主役の一老が読み上げる祭文の存在等、往時に比して大幅に
	規模は縮小されているが、中世に成立した宮結鎮座渡御行事座の祭礼をよく留めており、この地域に連綿と受け継がれてき
	たことが重要である。




	鹿島神社

	鹿島神社(かしまじんじゃ、旧字体: 鹿嶋神社)は、「鹿島」を社名に持ち武甕槌神(タケミカヅチ)を祭神とする神社。
	東北地方・関東地方を中心として全国に約600社あり、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮を総本社とする。多くは鹿島神宮から勧請し
	て創建され、神宮と同じ武甕槌神を祀っている。武甕槌神は、香取神宮(千葉県香取市)の経津主神とともに中臣氏・藤原
	氏の氏神とされたことから朝廷・中央貴族の信仰を受け、武神であることから武家の崇敬も受けた(鹿島信仰)。









	
	狐井城山古墳 出典:ウィキペディア(かな?) 
 
	周濠は、今日なお満々と水をたたえている。全長140m、後円部径90m、前方部幅110mの前方後円墳。濠は18mの幅がある。
	築造は6世紀後半頃とされている。地理的位置から古代葛城氏に関する者の墓と云われ、中世に岡部氏が城砦に使っていた為、
	城山と名がついている。


	
	所在地; 香芝市狐井中山
	交 通; 近鉄 近鉄下田駅より 徒歩20分
	駐車場; 無し 
	入場料; 外観のみ見学可 
	問合せ; 0745-76-2001(香芝市教育委員会) 




	
	長持ち形の蓋石が2点と家形の石棺材と刳抜き式石棺の蓋が見つかっている。4点の石棺材とも、高砂市宝殿付近の竜山石で
	造られている。刳抜き式石棺は、長さ2.7m、幅1.4mの巨石で、内側は浅い舟底形、外側は丸い蒲鉾形に仕上げ、上下に筒
	形の縄掛け突起をつけている。舟形石棺と長持ち石棺の中間の形。刳抜き式と家形の石棺材は、下田小学校の校庭で保管。
	長持ち形石棺材は、古墳の南700mの阿弥陀橋の東詰にある。
















	
	二上山博物館 出典:香芝市HP(かな?) 
 
	サヌカイトは石器の原材料の石です。二上山の北麓から西麓にかけて、数万年前の後期旧石器時代から2千年前の弥生時代
	まで、サヌカイト製石器の原産地遺跡群が存在することは、奈良県立橿原考古学研究所の二上山総合調査(1956〜57
	年)、そして1974年に同志社大学旧石器文化談話会の継続的分布調査の成果『ふたがみ』が刊行されて以降、その重要
	性が一躍全国的に知られるようになりました。
	二上山が生み出した3つの石は、旧石器時代から現代まで、人びとの暮らしの中で深いかかわりをもってきました。二上山
	博物館はこの3つの石を中心に、二上山の歴史的風土と自然の特徴を親しみやすく、視覚にうったえた博物館です。































































































	杵築神社(良福寺)

	良福寺集落の高台にあり、観音堂の赤い屋根が目立つ。創建年代などは不明である。宝暦11年(1761)銘の石灯籠には牛頭
	(ごず)天王宮と刻まれている。狛犬には安政4年(1857)銘がある。

	祭 神;須佐之男命
	所在地; 香芝市良福寺777   
	交 通 ; 近鉄大阪線「近鉄下田」駅より 徒歩20分

	拝殿には多くの絵馬が飾られ、境内には、観音寺(浄土宗鎮西派)と呼ばれていた観音堂(本尊:十一面観音像)が建って
	いる。また、一夢さんと呼ばれる「一夢堂」も建つ。すぐ北に”ぽっくり寺”として知られる阿日寺がある。




	<奈良県の昔話> 奈良県HPより

	奈良県の北西、香芝市にある狐井(きつい)というところ。今回はその地名の由来についてのお話 ―。
	昔、この村は水に恵まれず、村人は鎮守のお宮さんに、「どうぞよい水をお与えください」と祈っていた。鎮守の森には狐
	の家族が住み、人なつっこい姿をよく見せた。村人は「ひょっとしたら、神様のお使いかもしれん」と、暑い日には、大切
	な水を少し子狐に与え、貴重な油揚げをそっと置いたりした。
	さて、その年はとりわけ、水不足が深刻であった。ある日、村人が「お宮さんの奥で、何やら水の音がする」と言った。
	大急ぎで皆が駆けつけてみると、なんと井戸からきれいな水がこんこんと湧きだしているではないか。村人は喜び、水を両
	手ですくい、押し頂いて飲んだ。
	井戸のそばに狐の親子がいて、母狐の前足は泥にまみれ、爪の間にはうっすらと血がにじんでいた。村人は口々にお礼を言
	い、狐の足をきれいな水で洗ってやった。狐が掘り当てたこの井戸は、どんな日照り続きにも、水が涸(か)れることはな
	かった。近くの村人にも快く井戸の水を汲ませた。それで、この村を「狐井」と呼ぶようになったそうな。
                *
	狐井に大樹が繁る杵築(きつき)神社があり、境内に「きつねの井戸」といわれる古井戸が今も残る。ところで、杵築神社
	の東隣に、恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)の創建と伝える福應寺(ふくおうじ)がある。ご本尊は恵心僧都真筆と
	される板絵(いたえ)「阿弥陀三尊来迎図」(あみだ さんぞんらいごうず)。このご本尊が毎年7月9日に開扉される。
	その福應寺から南へ約400メートルに、阿日寺(あにちじ)があり、寺蔵の梵鐘(ぼんしょう)に、恵心僧都誕生地との縁起
	が刻まれている。僧都は二上山麓の当麻(たいま)の生まれとの説もあるが、いずれにせよ、二上山に沈む夕日の美しい光
	景の中に阿弥陀如来の来迎を見、浄土信仰への思いを深めた。
	福應寺から西を望むと、正面に二上山雄岳(おだけ)がどっしりとした姿を見せる。田畑の向こうには民家。周囲は、きつ
	ねの井戸といい、恵心僧都の説話といい、なるほどと思わせる静かなたたずまいである。 



















	
	阿日寺

 	浄土宗阿日寺は、平安時代中期の天台宗の高僧・恵心僧都源信(942〜1017)のゆかりの寺として知られる。恵心僧都はこの
	寺で誕生したと伝え、そのため誕生院阿日寺と号している




	
	恵心僧都は、寛和元年(985)9月、母親の臨終に際してともに念仏をし、母の安楽往生を助けたといい、さらにその忌中には
	阿弥陀如来像を刻み、母の身代わりとしてよく仕えたという。以来この像は、下の世話をかけずに往生できるとして、阿日寺
	の本尊として祀られてきた。そのため阿日寺は、斑鳩の吉田寺と並ぶ「ぽっくり寺」として、全国から年配の参拝者が後を絶
	たない。親孝行の恵心僧都は、さらに父のために大日如来を彫ったといい、寺の名前はこの2像の名から「阿日寺」とつけら
	れた。毎年7月10日、恵心忌大法要の際には、この安楽往生の祈願も行われている。





	
	寺宝として、鎌倉時代中期の作で「絹本著色聖衆来迎図(けんぽんちゃくしょくしょうじゅらいごうず)」(重文)があり、
	臨終を迎えた人のところに来迎した阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩が描かれている。また「木造大日如来坐像」(重文)は
	平安時代の一木造で、高さ94cm。両腕を張った端正な姿が印象的な像である。また本堂には恵心僧都の像が祀られる。欄間に
	刻まれた聖衆来迎の彫刻も実に精緻で、ここにも安楽往生の思想が反映されている。




















	
	顕宗天皇陵

	志都美神社の西、その社叢につながるように広がる大きな森が、第25代武烈天皇陵だ。正式名称は傍丘磐坏丘北陵(かたおか
	のいわつきのおかのきたのみささぎ)。
	江戸時代には平野3号墳がこれに比定されていたが、明治22年になって現在の陵墓に比定された。陵は自然の地形をそのまま
	生かしたもので、墳丘というより自然丘とみられている。

	武烈天皇は、仁賢天皇と春日大娘皇女の子。日本書紀には暴虐の限りを尽くした王として記されるが、古事記にはそういった
	記述はなく、その存在そのものについても謎が多い天皇である。一方、顕宗天皇陵は国道168号から1本西に入った住宅街の中
	にある陵墓。正式名称は傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)で、墳形は前方後円といわれる。
	江戸時代までは、平野塚穴山古墳が顕宗天皇陵に比定されていたが、明治22年に現在の陵が比定された。第23代顯宗天皇は市
	辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)と妃命の子で、父が雄略天皇に殺された後、兄とともに身分を隠して播磨国で労役に
	ついていたが、子どもに恵まれなかった清寧天皇にともに迎えられ、天皇の崩御後、兄から頼まれて即位したという伝承をも
	つ。身分のある人がその正体を明かして成功を収める物語の典型で、その実在は、武烈天皇とともに謎に包まれている。



	
	武烈天皇は、仁賢天皇と春日大娘皇女の子。日本書紀には暴虐の限りを尽くした王として記されるが、古事記にはそういった
	記述はなく、その存在そのものについても謎が多い天皇である。一方、顕宗天皇陵は国道168号から1本西に入った住宅街の中
	にある陵墓。正式名称は傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)で、墳形は前方後円といわれる。



	
	江戸時代までは、平野塚穴山古墳が顕宗天皇陵に比定されていたが、明治22年に現在の陵が比定された。第23代顯宗天皇は市
	辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)と妃命の子で、父が雄略天皇に殺された後、兄とともに身分を隠して播磨国で労役に
	ついていたが、子どもに恵まれなかった清寧天皇にともに迎えられ、天皇の崩御後、兄から頼まれて即位したという伝承をも
	つ。身分のある人がその正体を明かして成功を収める物語の典型で、その実在は、武烈天皇とともに謎に包まれている。





























武烈天皇は「残虐の帝王」としてしられている。小生はそれに若干疑義を挟むものであるが、詳細は天皇陵巡りを参照されたし。


























	
	平野塚穴山古墳(平野五号墳)

	茅渟王(ちぬおう・敏達天皇の孫)の墓と考えられている。一辺約21m・高さ約4mの方墳。昭和47年に行われた発掘調査で、
	南側に入口がある石槨の中から夾紵棺(きょうちょかん:漆を塗った布を重ねあわせて作ったお棺)片と金環1個などが出土。
	石槨は屯鶴峯付近の凝灰岩の切石を組み合わせて丁寧に作られ、漆喰も塗られていた。内部の規模は、長さ3.05m、幅1.5m、
	高さ1.76m、当時相当身分の高い貴人の墓と考えられる。昭和49年に国の史跡に指定された。築造には唐尺が使われているら
	しく、7世紀後半から末頃の築造と考えられている。この古墳は昔から開口していて、江戸時代の終わりごろまでは顕宗天皇
	の墓といわれていた。

	所在地; 香芝市平野1053(正楽寺)
	交 通; JR 志都美駅下車 徒歩15分
	駐車場; 無し
	入場料; 外観見学自由   
	問合せ; 0745-76-2001(香芝市教育委員会)

	東へ1kmほどの所に平野車塚古墳(平野1号墳)がある。







































 ピッタリ、3,030円とおし。





邪馬台国大研究/歴史倶楽部/197回例会・香芝市