Music: 一月一日





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	第194回例会 関西歴史散歩・蘇我・物部史跡地を訪ねて
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	西暦587年、蘇我馬子と物部守屋は飛鳥の朝廷の覇権をめぐり争った時、八尾市の太子堂、跡部、木の本地区にかけての
	地域で合戦となり、三度の敗北を凌いで、馬子・太子側が勝利したことはよく知られています。
	今回はこの蘇我・物部ゆかりの史跡地を訪ねて歩きたいと思います。

	■日時: 1月26日(日曜日)
	■集合: JR八尾駅 AM10;:00
	■持参: 弁当、水筒、防寒具、その他
	■コース:
	 JR八尾駅渋川神社−跡部神社−大聖勝軍寺−物部守屋墳(墓)−鏑矢塚−弓代塚−樟本神社)(北木の本)−樟本神社
	 (南木の本(日羅寺))−樟本神社(木の本)−光蓮寺(稲城址)ー地下鉄八尾南駅(終了)
	■解説: 本文参照の事

	


	今回は、八尾の物部氏の本貫地を歩く。蘇我馬子・聖徳太子の一軍が攻めてきたという、物部守屋の拠点があった跡部・木
	の本(きのもと)である。聖徳太子はこの闘いで「我を勝たせよ」と神に祈り、四天王寺の建立を誓った。迹見赤檮(とみ
	のいちい)が樹上の守屋を射抜いた場所である。弓を放った場所も、鏑矢が守屋に当たった場所もあり、守屋の墓まである
	のだ。
	これらの伝承や旧跡の信憑性がいかほどのものかは甚だ心許ないが、この地にこういうものが色濃く残っているのはかって
	何らかの事象がこの地に存在したからと考えるほうが、「全てねつ造だ」とする考えより合理的だと思うし、なにより楽し
	い。
	物部氏については、以下の諸本に見られるように今日においても様々な論考を呼んでいる。日本史の謎解きが好きな御仁に
	は物部氏は格好の題材であり、「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)における物部氏の謎は、研究者にとってはある意
	味「パンドラの匣」でもある。いくらでも仮説は出てくるのだ。かって先代旧事本紀は 江戸時代の国学者によって偽書と
	されたが、近年は物部氏族伝承の史料価値があると再評価されている。先代旧事本紀によれば、物部氏本貫地と一族の展開
	は以下の様に北九州である。

	筑紫弦田(つるた)物部		宮若市鶴田?				その他(不明地を含む)
	二田(にいた)物部 		鞍手郡小竹町新多?			当麻(たきま)物部
	芹田(せりた)物部		宮若市芹田?				浮田(うきた)物部 
	鳥見(とみ)物部			北九州市小倉北区富野?			巷宜(そが)物部 
	横田(よこた)物部		飯塚市横田?				足田(あしだ)物部 
	嶋戸(しまと)物部		遠賀郡遠賀町島門?			須尺(すじゃく)物部 
	赤間(あかま)物部		宗像市赤間?				久米(くめ)物部 
	大豆(おほまめ)物部		嘉穂郡桂川町豆田?			狭竹(さたけ)物部
	肩野(かたの)物部		北九州市小倉北区片野?			羽束(はつかし)物部
	相槻(あひつき)物部		朝倉市秋月?				布都留(ふつる)物部
	筑紫聞(きく)物部		北九州市小倉南区企救?			住跡(すみのと)物部
	筑紫贄田(にへた)物部		鞍手郡鞍手町新北?			讃岐三野(みの)物部
	田尻(たじり)物部		田川郡糸田町泌(たぎり)?		播麻(はりま)物部


	またかっては蘇我と物部の闘いは、崇仏派と排仏派の闘いと理解されてきたが、1935年に八尾市渋川町にある渋川天神社操車
	場を工事した際に、この場所から仏教施設に用いられた塔の基礎や多数の忍冬唐草紋の瓦が出土している。この遺構は物部氏
	の居住跡である渋川廃寺址とされることから、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題
	でなく、国家祭祀の対立であったとする見方が最近有力である。

	私もかって以下で物部氏、ニギハヤヒ等について考えたことがある。参考までに是非一読されたい。

	「12.文献は語る −日本神話・その5−」




	尚、透明な二重枠で囲まれた写真は、西本さん撮影の写真だが、フォルダー毎どっかへ紛失していたものを、3月7日になって
	発見したので、急遽追加した。西本さん申し訳ないっす。この例会の写真提供者は、西本さん、郭公さん、筑前だが、しかし
	こうやって見比べると、西本さんのデジカが一番性能良さそうやね。






JR八尾駅前にて



	JR八尾駅から南東の方向に見えるこんもりと楠の茂る森が、式内社渋川神社である。歩いて4,5分だ。
	
	【渋川神社(しぶかわじんじゃ)】
	
	主な祭神は天忍穂耳命・饒速日命の二社。かつて飛鳥時代に本地域を本拠地としていた物部守屋の渋河の家の跡ともいわれ
	ている。もとは旧大和川の東側の字川向にあったが、天文3年(1533年)の大洪水で境内全域を流失。この時、浮島神社は
	数kmほど北の茨田郡新田村に漂着した。その後元亀2年(1572年)、お旅所のあった現在地に再建された。若江郡の式内
	社であり、旧社格は郷社。境内にある樹齢千年という大樟樹は八尾市指定天然記念物。

	所在地 : 大阪府八尾市植松町三丁目3 
	主祭神 : 天忍穂耳尊、饒速日命、國狹槌尊、日高大神、菅原大神
	社格等 : 式内社、郷社 
	創 建 : 不明 
	例 祭 : 7月25,26日 









渋川神社の鳥居と拝殿



























	
	JR八尾駅へ戻り、一つ大阪寄りの駅「久宝寺駅」近くまで歩く。約2kmだから15分くらいだったかな。



	
	【跡部神社(あとべじんじゃ)】
	
	延喜式神名帳に、『河内国渋川郡 跡部神社』とある式内社。JR久宝寺駅より南方向の亀井2丁目に鎮座する。祭神は物部
	の遠祖である阿刀連の祖神・阿刀連大神という伝承がある。現在は天照皇大神 伊奘冊命。
	大阪府神社名鑑によれば、「当社は延喜式内の神社であるが、創建の年月および御祭神は詳らかでない。しかし此の地は古の
	跡部郷であり、阿刀連がその祖神を祀ったものであろうと伝えられている。明治五年四月に天照皇大神、伊奘冊命を合祀した。
	同年村社に列せられた。」とある。



跡部神社鳥居







	
	「日本書紀」の崇峻天皇紀、崇峻二年の秋の物部守屋討伐のくだりでは、八尾市の地名がぞくぞくと出てくる。当社社頭に掲
	げる由緒記によれば、「当社の創建年代・祭神ともに不明。然し、当地は昔から“古の跡部郷”といわれ、この辺りに居住し
	ていた阿刀連(アトムラジ)一族が、その祖神を祀った社と伝えられている。明治5年4月、太政官符により天照皇大神と伊
	奘冉大神を一緒に合祀せられ、・・・」(大意)とあり、主祭神は阿刀連の祖神・阿刀連大神という。




	一方、江戸時代の古資料・河内志などは、祭神について記しておらず、明治以降の諸史料も「その祭神詳かならず」とはする
	ものの、

	「思うに本地に住せし阿刀氏の其の祖神を祀りしものならん」−−大阪府全志(大11-1922)
	「この地、古の跡部郷にして、物部守屋の阿都の第は此地なるべし。されば物部氏と同祖なる阿都連がその祖神を祀れるなら
	ん」−−大阪府史蹟名勝天然記念物(昭3-1928)

	とあり、阿刀氏祖神を祭神とする伝承があったことを伝えている。



	阿刀連とは、新撰姓氏禄(815)に
	「摂津国神別(天神) 阿刀連 神饒速日命之後也」「和泉国神別(天神) 阿刀連 神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」
	とある物部氏系の氏族という。
	日本書紀・用明天皇2年(586)条に、「(天皇の病気治療のため仏僧が呼ばれたことを物部守屋が怒っていると)群臣が自分
	を陥れるために退路を絶とうとしていると聞かされ、直ちに別業(別邸)のある河内の阿都(アト)にしりぞいて人を集めた」
	(大意)とある。ここでいう“河内の阿都”とは当地の辺り・“旧跡部郷”を指すとされる。また、崇峻天皇2年(587)条に
	は、「秋7月、蘇我馬子が諸王子と群臣とともに物部守屋を滅ぼそうと謀り、軍勢を率いて志紀郡から守屋の渋河の家を攻めた。
	守屋は子弟と奴を率いて、稲を積んだ砦を築いて戦った」(大意)とある。ここで守屋の家があった渋河とは、澁川神社のこと
	というが、当地・阿都の辺りとの説もある。






	河内の阿都・澁河あるいは当地南方の太子堂・木本町といった八尾市西南部一帯は、物部氏の本拠地、特に守屋の館があった地
	といわれ、物部氏にかかわる神社(跡部神社・澁川神社・樟本神社)・寺院(大聖勝軍寺)・史蹟(守屋の墓・稲城趾)などが
	集まっていて、当社もそのひとつである。



このおっさん、腹に何か詰めとんのかな?






	【大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)】

	大聖勝軍寺は、大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。山号は神妙椋樹山。

	植髪太子堂の背後の新太子殿には、聖徳太子がみずから刻んだといわれている植髪太子像を安置し、その脇に四天王像をまつり、
	弓矢をもつ四天王として名高い。これは太子が四大臣をおのおの四天王になぞらえてそのおのおのが頭髪の中に、白膠木(ぬり
	で)をもって作った四天王像をおいて戦ったことによるものと伝え、右から持国天(蘇我馬子)多聞天(秦川勝)広目天(迹見赤
	檮)増長天(小野妹子)の四体となっている。天文22年(1553)には、京都の公卿三条西公条(さんじょうにしきんえだ)が、
	吉野詣での帰途ここに参詣し特に許されて植髪太子を拝した。
	開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)である。 聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の
	太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。地元では単に「太子堂」と呼ばれている






	587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、
	おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難
	波(大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。

	594年、推古天皇より現在の山号と寺号が贈られ、この年が創建年とされる。
	756年、聖武上皇から鎮護国家寺の称号を贈られ、勅願寺に定められる。






	吉田東伍は勝軍寺について、「堂前には椋樹の老朽せるあり、物部守屋を渋川阿都別業に攻撃したまふ時、椋陰に隠れ危急を免
	れたまふとて、戦勝後、此れに伽藍を興さる故、椋樹寺の別号あり」と書き記している。




	大聖勝軍寺の境内(門前)にある「守屋池」。この池は聖徳太子が迹見赤檮(とみのいちい)に鏑矢で守屋を射させ、秦河勝
	(はたのかわかつ)がその首を取って、この池で洗ったとの伝えがあり、「守屋首洗池」とも呼ばれる。近くには物部守屋の
	墓がある。





大聖勝軍寺にある聖徳太子像と四天王像

左手前が蘇我馬子=増長天、その後ろが秦河勝=多聞天、右側手前が小野妹子=持国天、その後ろ迹見赤檮=広目天である。























四天王像の前に小さく見えているのが「守屋首洗池」である。







小徳隊士





















太子殿の前に、五重塔や十三塔の模型が幾つか立っていて、その壁や屋根に使われているのは全て古銭であった。


















	【鏑矢塚(かぶらやづか)】

	国道を挟んだ小さな飲み屋街の入口に、「鏑矢塚」の碑があるが、「史跡」の前は、和洋中華の看板で不法占拠されており見苦
	しい状態になっている。八尾市のHPには「市の史跡」として載っていない。郭公さんが「不確かな記憶ですが、聖徳太子がその
	木に登って弓を射て、守屋を討ったとかなんとか・・・。」と書いていたのがこれである。



ほんとは碑の前に、カラオケ屋だとか中華料理店の立て看板が覆っていて道からは見えない「鏑矢塚の碑」




	「迹見赤檮(とみのいちい)が樹上の守屋を射抜いた。その鏑矢が落ちたところにその矢を埋めた」と案内にあるが、命中率が
	低くしかも音を発する鏑矢をなぜ使ったか、それに、ここからでは射抜くことは難しい。郭公さんが掲示板で「後代の付会かも
	しれません。」と書いていたのはおそらく正しい。






	大聖勝軍寺より国道25号線を100m程東に進んだところに物部守屋の墓がある。墓の周りの玉垣には全国の有名な神社がこぞっ
	て寄進している。神社=物部守屋、寺院=聖徳太子の図式が出来上がっている。





物部守屋の墓

	【物部守屋の墓】

	物部守屋は欽明朝の大連物部尾輿の子で敏達朝・用明朝の大連。母は弓削氏の女阿佐姫と伝えられ、『日本書紀』には物部弓削
	守屋大連とみえる。敏達天皇の時代に、仏教の受容に積極的態度をとる蘇我馬子と対立し、中臣勝海とともに排仏を主張して、
	寺院や仏像を焼き捨てたとある。
	古来より、蘇我・物部両氏の対立は、仏教受容の可否をめぐる争いを中心に語られることが多いが、これは仏家の教化的意図を
	中心とした説話にもとづくと考えられ、『日本書紀』にみえる守屋の排仏行為もそのまま史実と考えられず、権力闘争に勝った
	側の意図が反映しているものと思われる。
	また、権力闘争に負けた守屋の墓が守られ現存することは、仏教優位になったとは雖も、依然として神道を崇敬する人々がいた
	ことを物語る。



寄進された玉垣


「世界大神宮」ていったい何者?




	この墓の玉垣は全国の神社から寄進されている。郭公氏の投稿にあるように、宗像大社だとか、諏訪神社などから寄進がある。
	これは、崇仏派の蘇我氏に滅ぼされはしたが、神道擁立を旗頭にした物部守屋なので、その墓を整備することに際して全国の神
	社が協力したことは自然な流れであろう。










	『やお文化協会』のHP「史跡など まちの風景 あれこれ」では、以下のように紹介している。 

	「物部守屋墳」 
	奈良街道、すなわち国道25号線に面した八尾市内で一番交通量の多い道路脇にある。この地は物部守屋大連を葬ったところで、
	『河内鑑名所記』や『河内名所図絵』には、小さな塚上の丘の上に一本松のある姿がえがかれている。明治初期、堺県知事小河
	一敏が、立派な墓碑を建立。表に「物部守屋大連墳」と刻し、周囲に玉垣を作った。 




	物部守屋		出典:ウィキペディア

	物部守屋(もののべ の もりや、生年不詳 - 用明天皇2年(587年)7月)は、飛鳥時代の大連(有力豪族)。物部尾輿の子。
	母は弓削倭古の娘、阿佐姫。
	物部氏は有力な軍事氏族である。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立した。敏達
	天皇元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。
	敏達天皇14年( 585年)、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇はこれを許可
	したが、この頃から疫病が流行しだした。物部守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したた
	めに疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔
	を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟
	子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ
	連行し、群衆の目前で鞭打った。
	疫病は更にはげしくなり、天皇も病に伏した。馬子は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上した。天皇は馬子に限り許し
	た。馬子は三尼を崇拝し、寺を営んだ。ほどなくして、天皇は崩御した。殯宮で葬儀が行われ、馬子は佩刀して誄言(しのび
	ごと)を奉った。守屋は「猟箭がつきたった雀鳥のようだ」と笑った。守屋が身を震わせて誄言を奉ると、馬子は「鈴をつけ
	ればよく鳴るであろう」と笑った。
	敏達天皇の次には馬子の推す用明天皇(欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位した。守屋は敏達天皇の異母弟・穴穂部皇子と
	結んだ。用明天皇元年( 586年)、穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の后)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、三輪
	逆に阻まれた。怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させた。馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆いた。
	守屋は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えた。
	用明天皇2年4月2日(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。守屋と中
	臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。馬子は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子に僧
	の豊国をつれて来させた。守屋は睨みつけて大いに怒った。史(書記)の毛屎が守屋に群臣たちが守屋の帰路を断とうとして
	いると告げた。守屋は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国)へ退き、味方を募った。

	排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓
	った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策した
	とも言われている)が、その帰路、舍人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。
	守屋は物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝え
	た。4月9日、用明天皇は崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、6月7日、馬子は炊屋姫の詔を得て、穴穂
	部皇子の宮を包囲して誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。

	7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵
	を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かった。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その
	軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。こ
	れを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり
	仏法の弘通に努めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。
	迹見赤檮が大木に登っている守屋を射落として殺した。寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗北して逃げ散
	った。守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。この戦いを丁未の乱と称する。
	厩戸皇子は摂津国(現在の大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のも
	のになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進され
	た。

	先代旧事本紀における記述

	第五巻「天孫本紀」では物部尾輿の子で物部大市御狩連の弟、弓削大連とも、池邊雙槻宮天皇(用明天皇)の時に大連となり
	神宮の斎となったとある。
	第九巻「帝皇本紀」では用明天皇が9月5日に即位した際、物部弓削守屋連公を大連また大臣とし、用明天皇2年夏4月2日磐余河
	上の新嘗祭に病で帰った用明天皇が三宝を敬うことを検討するよう家臣にいったさい、中臣勝海連とともに国神に叛き他神を
	敬うことはできず聞いた事もないと反対したとある。
	しかし上記は藤原不比等らによる『日本書紀』の改竄によるものとする説もある。



	弓代塚

	【物部守屋旧跡「弓代塚」】の石柱もあるが、これもあやしい。「迹見赤檮発箭地(とみのいちいはっせんち)」と彫られてい
	る。箭=矢だから「矢を発した所」という意味だろうが「矢の飛距離」を考えても俄には信じがたい。





この裏の公園で昼食にしたが、時々細かい霧雨が降ったり止んだり。



	【樟本神社】(北木の本)

	物部守屋墳から南へ歩くと、式内社「樟本神社」三座が鎮座している。北木の本、木の本、南木の本にそれぞれ一社ずつある。
	ともに式内社で、延喜式に「樟本神社三座」とある。祭神は全て「布都大神」である。この辺り一帯の地は、物部氏の住地であ
	ったためその祖神をまつったと考えられる。物部大連守屋が、聖徳太子の軍を防ぐために、この辺りに稲城を設けた。南木の本
	と同様境内には榎木の大木があり、榎木村と称したのが、後に単に木本村となったと伝える。北木の本神社の鳥居のすぐ横に、
	ここにも小さな守屋池がある、と案内にあるが。

















守屋池を探したが、とうとう見つからなかった。もう埋められてしまったのかもしれない。







と思ったら、歩道に面した出口の側にあった。






了意橋バス停の古代史説明板




南へ歩いていると、バス停の広場に各種説明板が設置されていた。反対側を歩き気づかず先へ行った連中を呼び戻して、しばしお勉強。



























なかなか有効な学習板である。八尾市跡部周辺や大和川流域の歴史が学べる。

	【樟本神社】(南木の本)

	この地は物部氏の住地で、守屋が聖徳太子の軍を防ぐため、このあたりに「稲城」を設けたが城中に榎木があったので、「榎木
	城」と称し、村名も榎木村といったが、のちに木の本となったと伝えられている。境内には黄檗宗の日羅寺があり、薬師如来が
	本尊である。















ここの境内には樟本神社と日羅寺、神社と寺が同居している。上右の隅っこに写っているのが日羅寺である。








	【日羅寺】

	高樹山日羅寺と称し、黄檗宗で、南木の本の樟本神社境内にある。本尊は薬師如来。お堂に座す厨子は、延宝8年(1680)、平
	野の豪家末吉勘兵衛利長の寄進によるものである。日羅が百済から帰朝して、阿都の桑市に地を与えられ住み、ここに一寺を建
	立して薬師如来をまつったのが始まりである。日羅は宣化天皇の時に、百済に渡り、達卒(だちそち)に任ぜられて都城の治安
	警備にあたり重く用いられていた。 






	新羅のために任那の日本府が滅ぼされたので、敏達天皇はその回復策を図るため、この智勇兼ね備わり、半島の政情に詳しい日
	羅を召し帰して、その意見を徴しようとした。百済はこれを拒否してなかなか許さなかったが、たびたびの要請によってようや
	く許され、百済使や水手をつけて帰朝せしめた。日羅は天皇に対して、兵事よりも百姓保護に努めることによって、国力を充実
	し、百済を討つべきことを説いた。このため同行して来ていた百済使のために日羅は暗殺されるにいたったという。 







	【樟本神社】(木の本)

	祭神は布都大神で、由緒は式内社三座の一つで、他の二座は南木の本、北木の本に分祀されている。創建の年代は詳かでないが
	用明天皇の御代(約1400年前)物部守屋が本拠地である稲村城(現光蓮寺敷地)の守護神として崇めていた布都大神を奉祀した
	ものと伝えられる。紀・記古伝によると悪疫邪霊を祓い病気平癒または農耕・武の神として広く村民の崇敬を受け現在にいたっ
	ている。 樟本神社の社名は往古境内に樟の巨木が茂っていたところからと謂われている。(神社縁起説明板) 










































	【光蓮寺】(稲城址)

	光蓮寺は守屋の滅亡後、その館を寺としたのを起源とする。その後若江郡若江村に転じ、兵火に遭ったため1477年(文明9
	年)に現在地に遷ったと伝わる。光蓮寺門前に碑がある。高さ145pの自然石に、”稲城址”と刻してあり、昭和14年の建
	立によるものである。聖徳太子が物部守屋をその居館のあった阿都に攻め寄せた時、守屋は兵を集めて、此の地に稲城を構えて
	たてこもり、抗戦したといわれる。稲城は稲で囲った城とか稲t積みの城とか伝えられている。




	物部守屋の阿都桑市の館が太子堂辺りから木の本にわたる地域であったことを語るものであろう。なお、光蓮寺は若江山光蓮寺
	といい、浄土真宗本願派に属す。寺伝によれば、中世には若江郡の稲葉(現 東大阪市役所付近)において法燈をつぎ光蓮寺と
	なし、慶長年間(1596〜1615)に現地に移転したという。文明7年(1470)に、蓮如上人によって、天台宗から浄土真宗に転宗
	した。住職は「稲城」という苗字である。 
	(『八尾市内寺古文書調査報告書』平成3年3月31日発行八尾市教育委員会) 




	なお、稲城の謂れは稲で囲った城とも、稲積みの城であったとも伝わる。この寺院本堂前に蓮如上人像があり、昭和50年に五
	百年を記念して鋳造されたという。碑は1939年(昭和14年)個人の手により建てられている。この「個人の手によって」
	と言う個人が、我が倶楽部錦織さんの奥さんの父上・母上である。

















ここに言う釣部という人が錦織さんの奥さんのお父上で、今日ここへ行くと言ったとき「必ず寄ってきてよ」と言われたそうだ。





















亡きお父上、お母上もさぞやお喜びでございましょう。



この寺を出たところに、何やらビール缶でお城が作ってあった。



八尾空港を横目に地下鉄「八尾南駅」(谷町線)へ

	八尾空港の側を抜け、右折すれば地下鉄八尾南駅に到着する。なお、南駅の北西(平野区)には、古代船なみはやの埴輪がでた
	長原遺跡や大阪市埋蔵文化財収蔵展示室(平野区)があるが、「元気があればよれるかも知れない」とは案内に書いたけれども、
	「行こう」という人はいなかった。









地下鉄谷町線はこの「八尾南駅」が終着なので、駅構内に車両基地がある。





この辺りは弥生時代の遺跡だらけで、この駅建設の時にも様々な出土品が出ている。
弥生時代の住居跡が密集していたのである。駅の壁はモニュメントでいっぱい。








	反省会は杉本さんたちがよく行ったという天王寺の魚料理の店へ。私は数日前から風邪を引いていたので反省会は欠席したか
	ったが、新年会という事でとりあえず少し呑んだ。しかし意識朦朧とし出したので、とうとうお先に失礼させて貰った。この
	HPを製作している2月2日でもまだ治っていない。もう2週間以上、鼻水、痰が切れない。別な病気でなければいいが。

	皆様、今年も宜しくお願いします。

	尚、本HPの写真提供者は、郭公さん、河内さん、西本さん、筑前です。深謝します。





=参考資料=


以下は山川出版社の「大阪府の歴史散歩」から、今回の例会に該当しそうな部分の抜粋です。












以下は梓書院発行「季刊邪馬台国119号」(「新・邪馬台国東遷論」安本美典)からの抜粋です。







以下省略




	物部氏		出典:ウィキペディア

	物部氏(もののべうじ/し)は、「物部」を氏とする氏族。河内国の哮峰(現 大阪府交野市か)に瓊瓊杵命よりも前に天孫降臨
	したとされる饒速日命を祖先と伝えられる氏族である。
	元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。5世紀代の皇位継承
	争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍
	事、呪術、氏姓などの職務を担当し、盟神探湯の執行者ともなった。物部氏は528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐
	井の乱の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。

	宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時代になると物部尾輿(生没年不詳)が大連になった。欽明天皇の時代百済から仏像が贈られた
	仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派
	が争った。
	稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わりした。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。
	天皇は排仏派でありこれを許可したが、このころから疫病が流行しだした。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信
	奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、
	仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその
	弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ
	連行し、群衆の目前で鞭打った。
	こうした物部氏の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。
	用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか
	2年後の587年5月21日(用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御した(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇
	子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、
	穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込んだ。当初、守屋は有
	利であったが、河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。同年9月9日に蘇我氏の推薦する崇
	峻天皇が即位し、以降物部氏は没落する。

	686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。石上の姓はもと物部守屋の弟
	である贄子が称していたが、のちに守屋の兄・大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある。
	石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。
	息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文
	人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。
	石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣
	の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある。

	物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。長門守護の厚東氏、
	物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、廣瀬大社神主家の曾禰氏の他、穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族が非常に多
	いことが特徴である。江戸幕府の幕臣・荻生徂徠は子孫といわれる。

	石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。扶桑略記、陸奥話記
	などには陸奥大目として物部長頼という人物が記載されている。いわゆる「古史古伝」のひとつである物部文書に拠ると出羽物
	部氏は物部守屋の子孫と称しているが証拠はない。一方で六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥候氏が物部斯波連を
	賜ったという記録も見える。
	
	下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、布都久留の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出し征圧したというもの
	がある。また平安中期に作られた和名類聚抄には下総国千葉郡物部郷〈四街道市物井〉の記述があり、これらについては常陸国
	信太郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。

	古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。

	石見国の一の宮「物部神社」(島根県大田市)は、部民設置地説以外に出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、
	社家の長田家・金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。金子家は、戦前は社家華族として男爵に列して
	いる。

	岡山県には備前一宮として知られる石上布都御魂神社がある。縁起によると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した「十握劒」(ある
	いは「韓鋤(からさひ)の剣)を山上の磐座に納めたのが始まりといわれる。江戸期には岡山藩の池田家から尊崇を受け「物部」
	姓を名乗ることを許されたといい、今の宮司も物部氏をついでいる。大和の石上神宮の本社ともいわれているが、神宮側は公認
	していない。

=参考・物部氏系図=







邪馬台国大研究/歴史倶楽部/194回例会・物部氏の故地を歩く