Music: smoke gets in eyes

坂の上の雲ミュージアム



		このような博物館(美術館)は、結局架空の物語(小説)を元にして作っているのだから余り意味が無いと言う人がいる。
		確かにここも、「坂の上の雲」という、サンケイ記者から作家になった司馬遼太郎が書いた小説が元になっているので、
		ミユージアムとしては大して価値が無いと言えるかも知れない。しかし例えば京都の宇治に行くと、「源氏物語館」があ
		って、あそこも紫式部が書いた「源氏物語」の世界を復元してあるので、全く意味が無いかと言うとそうではない。
		確かに「光源氏」を中心にした架空の登場人物などが出現して、「なんじゃこりゃあ」という気にもなるが、よく見ると
		平安時代の風俗や町の様子が再現してあり、我々はビジュアル的に「源氏物語」を通して「平安時代」を体感する事が出
		来るのである。
		このミュ−ジアムも同じであろう。秋山兄弟は実在だが、小説そのものは多分にフィクションが取り入れられているはず
		だし、そうで無ければ小説では無く伝記になってしまう。我々は、司馬遼太郎が書いた「坂の上の雲」という小説を通し
		て、日清から日露の戦役に至る時代を学ぶのである。但し、「運営母体(この場合は自治体)が火の車なのに何十億円も
		掛けて」という議論は当然あるし、それはまた違う次元の話である。

		見学者は、日本が明治という時代に、如何にして西欧列強と肩を並べようとしたか、その個人的な、また国家的な過程を
		学べば良い。そしてそれを子や孫や、遙かなる子孫たちに伝えて繁栄の礎とするのである。そうでなければ、我々はまた、
		歴史を学ぶ意味も無いのである。







これも合成写真ですが、これはすぐ判りますね。私を真ん中に追加しています。













ここでお皿が沢山発掘されていたらおもしろかったのにねぇ。文字通り「番町皿屋敷」じゃん。




		坂の上の雲ミュージアム	 出典:ウィキペディア

		坂の上の雲ミュージアム(さかのうえのくもミュージアム)は、愛媛県松山市にある博物館で、同市が取り組んでいる司馬
		遼太郎の小説『坂の上の雲』を軸としたまちづくりの中心を担う施設である。2007年(平成19年) 4月28日に市内中心部の
		松山城を頂く城山の南裾に開館し、総工費は約30億円。館長は松原正毅国立民族学博物館名誉教授。

		松山市出身の秋山好古・真之兄弟、正岡子規の3人が主人公となっている小説『坂の上の雲』ゆかりの地域資源が多く点在
		する松山市全体を、松山城を中心としたセンターゾーンと、道後温泉など6つのサブセンターゾーン、個別資源としてのサ
		テライトを設定し、同市全体を「屋根のない博物館」に見立てる構想である。
		三角形という大胆な形状の、地上4階、地下1階の鉄骨鉄筋コンクリート造で、延べ約3100m2である。展示フロアは2〜4階
		で各階はスロープで結ばれている。

		設計:安藤忠雄建築研究所
		設備設計:森村設計
		所在地:松山市一番町三丁目20番地
		敷地面積:3,384.64m2
		建築面積:936.80m2
		延床面積:3,122.83m2
		構造規模:鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)造



入り口を入って右(上右)へ向けばミュージアムへ行き、左(上左)へ行けば萬翠荘へ至る。



「高齢者は安うならんの?」と河内さん。行いは全く高齢者ちゃうけどね。



なんか脇道のような通路から入り口へ入るようになっている。



























壁一面に、新聞連載中の「坂の上の雲」が張られている。新聞連載というのは大変ですな。書き直しきかないしねぇ。





2F


















ロシア捕虜の待遇はすこぶる良くて、温泉に入ったりハイキングに行ったり映画を見たりと、とても捕虜とは思えないような厚遇だった。
後にロシア政府からそのことに対して感謝状が届いたと言うから恐れ入る。「文明国と思われたい」という気持ちは分かるが、一寸ねぇ。















































3F




安藤忠雄は、たぶんコンクリを使わない建物は設計出来ないんだろうね。

















上下は、クリックすれば拡大します。(が、それでもよく見えません)








































































萬翠荘

みんなが出てくるのが遅かったので、一人で大急ぎ萬翠荘を見てきた。中には入れなかったが豪壮な西洋建築だった。



		萬翠荘	 出典:ウィキペディア

		萬翠荘(ばんすいそう)は愛媛県松山市にある歴史的建造物。松山城の城山の南麓、国道11号から地方裁判所の横を北側
		に入った場所に位置するフランス風の西洋館である。市街地の喧騒から隔絶された観光スポット。重要文化財に指定され
		ている。
		松山城山の南麓に建つ。1922年(大正11年)に、旧松山藩主の子孫久松定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が別邸として建て
		た、フランス・ルネッサンス風の洋館で、設計は後に愛媛県庁本館などを手がけた建築家木子七郎。建物を「萬翠荘」と
		命名したのは、定謨の子で次代当主となった久松定武である。
		建築面積428.78平方メートル、地下1階、地上2階建て。松山で最も古い鉄筋コンクリート造建築である。屋根は寄棟造、
		スレートおよび銅板葺き。屋根中央にはマンサード屋根、東南隅には尖塔を設けて外観に変化をもたせる。平面は正面車
		寄を入って中央が階段のある広間、東側は表がサロン(謁見の間)、裏手が食堂(晩餐の間)となり、西側には執事室、
		配膳室など内向きの部屋を配する。2階は居間、寝室などの居住スペースとする(現在は第1?第7展示室)。
		玄関の床は大理石、玄関ホールの柱は岡山産の万成石(通称紅桜)、正面階段の手すりは継ぎ目の無い南洋チーク材の一
		本木、各部屋には色の異なる大理石で造られたマントルピース(暖炉)、水晶のシャンデリア、縦4,442ミリメートル×
		横3,106ミリメートルのステンドグラス等、非常に質の高い造りとなっている。踊り場の大窓に広がる海の風景は、グラデ
		ーションを使用した繊細な色彩のステンドグラスで、これまでハワイ製と言われていたが、2010年の愛媛県の調査(奈良
		文化財研究所に委託)により木内真太郎の制作と判明した。完成直後の11月22日から24日まで、皇太子摂政宮(昭和天皇)
		が滞在した。その後も皇族などの滞在場所として度々使用されている。また、当時は社交の場として各界の名士が集まっ
		たという。

		太平洋戦争終結後、米軍に接収される。接収解除後、1947年(昭和22年)から松山商工会議所として使用される。1952年
		(昭和27年)から松山家庭裁判所として裁判官室、事務局等が入居。1954年(昭和29年)より愛媛県の管理となり、同年
		8月に愛媛県立郷土芸術館として開館した。1979年(昭和54年)に愛媛県立美術館分館と名称変更。1985年(昭和60年)
		に愛媛県指定文化財に指定された。2008年に改修工事が行われ、2009年4月から指定管理者制度の導入により、愚陀仏庵
		とともに株式会社ウインに運営を委ねている(2014年(平成26年)3月31日まで)。イベント・展示会場として利用され
		ている。2011年11月29日に本館と管理人舎の2棟が国の重要文化財に指定された。











		萬翠荘 Bansuiso,Matsuyama-city,Japan

		設計者   木子七郎 
		開館開所  1922年(大正11年) 
		所在地   〒790-0001 愛媛県松山市1番町3丁目3-7 
		文化財指定 重要文化財 指定日 2011年(平成23年)







上はクリックで拡大

















上の家に、一時夏目漱石が下宿していた。









上は収蔵庫である。下が夏目漱石(金之助)の下宿。






























坊ちゃん列車




ミュージアムを出て宿へ戻っていると弁慶号のような汽車が走ってきた。「坊ちゃん号」だそうだ。















邪馬台国大研究/歴史倶楽部/200回記念例会・松山から村上水軍を訪ねて