Music: 年の初め
		
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		電車:
			09:15 難波 南海線空港急行・関西空港行 9駅 
			09:48 泉佐野 着
			09:51 泉佐野 発 南海線・和歌山市行 6駅 740円 
			09:58 尾崎着
		行程: 添付PDF参照(印刷して持参されたし)
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造り酒屋「浪速正宗」に寄る






		【成子(なるこ)家住宅】
		阪南市内唯一の日本酒醸造元である。成子家は代々酒造業を営み、1916(大正5)年に建てられた主家や離れ座敷、
		表門、酒蔵等の10棟の建物が、2000年10月に文化財保護法による登録有形文化財に指定された。和洋折衷の応
		接室の造作が秀逸。阪南市の「まちかど博物館」のキャンペーンに参加し、主家、酒蔵などを指定した日に一般公開し
		ている。この日はちょうどその公開日にあたっていた。









酒蔵見学は11時からだったので、事前にその先にある旧跡を見学に行く。



福島日限地蔵尊
地元の人達が大切に守ってきた地蔵様である。尾崎中学校の側にある。


















		男里川から海岸沿いに歩いて造り酒屋「浪速正宗」を目指す。この自然河口は、大阪湾に残る数少ない干潟の一つで、
		カニ類や水鳥など、この干潟にしか棲息しない珍しい生物や植物が沢山観察できる。






		浜(孝子越)街道標識

		浜街道(別名、孝子越街道)は、泉佐野市を起点とし、浜づたいに田尻町、泉南市、阪南市の尾崎・箱作を過ぎ、岬町から
		孝子峠を越えて和歌山市内に通じる街道である。浜街道筋には往時を偲ばせる古い町並も見られ、趣ある風情を漂わせてい
		る。また、尾崎団地の横には明治37(1904)年に大阪府が建てた「孝子越街道」の道標が現在も残っている。



西鳥取漁港

		西鳥取漁港(にしとっとりぎょこう)は、大阪府阪南市にある港で漁港漁場整備法(昭和25年5月2日法律第137号)第1章第
		5条に規定する第1種漁港である。
		収穫される主な魚種は、イワシ、カレイ、アジ、キス、タコ等々で、主な漁業は、船びき網漁業、底びき網漁業、刺網漁業、
		採貝藻漁業など。
		<出典」水産庁ホームページ>







浜街道沿いの、尾崎村入口祠。下が浜街道。



造り酒屋「浪速正宗」 の酒蔵見学会に参加する。



まずは母屋にて説明ビデオを見て、母屋見学





ここが和洋折衷の応接間である。



















酒蔵見学



















































見学の後はこれこれ、なんたってこれが楽しみで見学してるようなもんだからねぇ。



フルーティなお酒あり、辛口ありとなかなか美味であった。お土産に吟醸の一合瓶をくれた。



貰った一合瓶も、お土産に買った酒も呑んでしまっている皆さん。これでは今日の行程は大分カットやな。



善性寺








		浄土宗知恩院末寺。天正3(1575)年、尾崎村を開創した鳥取源右衛門清房(吉田清房)宅に、持仏堂を造り祀った事が始
		まりと言われている。境内の墓所には源右衛門から17代までの墓が安置されている。

















本願寺尾崎別院

		本願尾崎別院 元は善徳寺という草堂(小さな寺)だったが、慶長3(1598)年、領主・桑山正勝の家臣・石田次郎左衛門が改築し、
		本願寺に寄進して尾崎御坊となった。本尊は鎌倉時代作の阿弥陀如来立像。元禄13(1700)年11月、火災に遭い、現在のものは
		宝永2(1705)年に再建されたものである。また正門前の石段は、最下段右側の石柱の銘から、文化14(1817)年に作られたこ
		とがわかる。







旧尾崎村役場

		昭和初期に地元出身で当時の村長であった銭高善造の創業した銭高組によって尾崎村役場として建築され、当時この地方では
		見られぬ西洋文化を取り入れた豪華な建物だった。本館は鉄筋コンクリート地上2階、地下1階建てで、後に3階部分と前面
		の付属建物が増築されている。南海町役場、阪南町役場を経て、現在も尾崎住民センターとして使用されている。 







尾崎神社

		本社本殿と若宮本殿が並び建つ前方に据えられている石燈籠に、元禄10(1697)年の銘があることや、本殿の建築様式からこの
		神社がおよそ三百年前にはこの地にあったことがわかる。本社本殿は素戔鳴命を祭り、若宮本殿は八重事代命を祭るえびす神
		社で、本社本殿より少し後の時代(18世紀初め)に建てられたものであると考えられる。本殿前に建つ狛犬(吽形)の台座には
		「西畑村/石工源七」、また鳥居の柱には「大坂石工/御影屋治兵衛」の石工名が刻まれている。 













ほろ酔い気分で浜街道へ出て、海岸沿いに昼食場所を探して歩く。





えびの浜近く、海に突き出した突堤(昔の船着き場の跡)があったので、あの上に座り込んで昼食にしようとしたのだが、何と。



イルカの子供が浜に打ち上げられていた。勿論もう死んでいたが、親とはぐれたか、どうして打ち上げられたのか胸が詰まる。





胸が詰まっても腹も詰めないとイカンので、予定通りここで昼食となる。





清水大師/清水庵

海の直ぐ側にわき水がある。











堤防に地元の小学生たちが描いたという壁画が。小学生にしてはうまいもんだ。







勇夫善六の碑

		天正18(1590)年、秀吉の小田原攻めの時、波有手村の善六が多大な功績を残し戦死した。その恩賞として村人達は税金を
		減じられ、永くその恩恵を受けたことにより、元文4(1739)年に波有手村と新村の人々によって墓碑が建てられた。















西鳥取観音堂

		天正13(1585)年の秀吉の根来寺攻めのとき、波有手村にあった道弘寺の僧が反抗し斬首され、寺は焼かれたと伝えられ、焼
		け残った観音堂と二階堂は元禄年間(1688〜1704年)に鳥取の村中に移されたといわれている。現在、鳥取の正行寺に建つ観
		音堂は天保14(1843)年、木村九衛門宗七の寄進により建てられたものである。




		<十一面観音菩薩立像(西鳥取観音堂)>
		本尊の十一面観音菩薩立像は平安時代の作で、高さ161.7cmの檜の一木造で頭上には宝冠を頂き、右手を垂下し、左手には
		華瓶を持っている。ほぼ千年の時をへて今に残る、阪南市内でもひときわ優れた仏像といえる。 







海産物の博物館
のり(名倉水産)







のり工場の見学。採取されたのりは、上の写真、左上のパイプを通って船から工場へ直接移動してくる。





驚いた。全て全自動である。平たくして乾燥し、カットされて一枚一枚出口からでてくる。お姉さんがそれを束ねるのだ。





「いゃー、全部自動とはねぇ。天日で乾かしてるんかと思ったら乾燥機なんやなぁ」と呟くと、



「きょう日天日なんかで乾かすかい。そんなゆうちょうな事しとれんわ」と工場長(社長?かな)。





これこれ、このビニールパイプの中を、のりがドドドッと流れているのだ。エライもんやなぁ。





旧鳥取銀行跡

		旧鳥取銀行跡 日清戦争(1894〜1895年)後、好景気を背景に銀行の新設が目立ち、阪南市域でも明治33(1900)年に鳥取銀行
		が設立された。その後幾度かの銀行恐慌があり、地方小銀行として地方振興に貢献してきた鳥取銀行も、昭和2(1927)年公布
		の新銀行法の銀行集中政策により、昭和7(1932)年に上之郷銀行と合併して泉南銀行になった。その後泉南銀行は昭和17(19
		42)年に阪南銀行に、阪南銀行は昭和20(1945)年に住友銀行に吸収合併された。現在は個人宅になっているが、屋根には鳥取
		銀行の商標の入った瓦が残っている。 







法福寺

		俗に「お菊寺」と呼ばれている、文亀元(1501)年創建の浄土宗寺院。本尊は江戸時代に作られた阿弥陀如来三尊像。 




		<お菊木像>
		お菊は文禄4(1595)年、豊臣秀次と側室お督との間に生まれたが、生まれて間もなく、秀次は太閤秀吉の怒りに触れ高野山
		に幽閉されたのち切腹を命じられ、母・お督も三条河原で斬首された。お菊は生後間もないことや女であったため難を逃れ、
		祖父淡輪大和守徹斎の実家である波有手村の後藤家に預けられた。やがて成長したお菊が紀州の山口家に嫁いで数日後、夫
		・兵内は大坂夏の陣で和歌山城主浅野長晟に背き、豊臣側につき出陣した。このため山口家は攻められ、お菊は大坂方の援
		軍を請うために密使として大坂城に向かい、使命を果たした。しかし実家である後藤家に着いたお菊は山口一族の斬首、夫
		の討死を知らされ、自身も浅野方に捕らえられた。
		浅野は助命しようとしたがお菊はそれを拒み、元和元(1615)年、処刑され短い生涯を閉じた。波有手村の後藤家の養母がお
		菊を哀れんで木像を作り後藤家の菩提寺である法福寺に納め冥福を祈った。法福寺は寛政7(1795)年に火災で焼失し、お菊
		の木像もその際に焼失したのだが、安政5(1858)年に村人の手により新たに作られ、現在も祀られている。





















民家の壁に鍾馗様のような神像が埋めこんであった。屋根の上はよく見るが壁にあるのは珍しい。





狭く狭く、低い低い陸橋下の通路。こりゃ軽かバイクしか通れんで。



午前中の酒蔵見学が祟って、今日の予定は半分しかこなせなかった。残りは来月に廻すことにして次回例会は「阪南市散歩第二弾!」



難波へ戻り反省会。またしても赤垣屋は満杯だったので、直ぐ隣のがんこで反省会。高かった。










本日の散歩地図と史跡案内。クリックして貰えば大画面の資料がでます。

阪南市散歩地図−その壱−

阪南市散歩資料−その壱−



 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/202回例会・大古事記展