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		大阪本町・歴史倶楽部 第204回例会 阪南の古代を歩く(続編)
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		日時:2015.3.29(日)南海電車「なんば駅」AM9:00集合
		電車:
			09:15 難波 南海線空港急行・関西空港行 9駅 
			09:48 泉佐野 着
			09:51 泉佐野 発 南海線・和歌山市行 6駅 740円 
			10:02 鳥取ノ荘着
		行程:添付PDF参照(印刷して持参されたし)
			前回の続きです。前回は鳥取ノ庄まででしたので、今回はそこから南(淡輪あたり?)を歩きます。

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		先月の「阪南市の古代を歩く」例会は、本当は今回のエリアも含んでいたのである。しかし前回は例会
		のTOPで酒蔵を見学したものだから、みんな疲れ果て、とうとうコースの半分ほどで例会打ち切りと
		なってしまった。なので今回は、前回の続きであり、雪辱戦なのである。尚、今回の解説は、全面的に
		ウィキペディアと阪南市HPの「文化・芸術・歴史」コーナーから転載させていただいた。深謝したい。



難波駅から南海電車で「鳥取ノ荘」へ。朝から雨模様だったが、一日中降ったり止んだりだった。










		小原 小女郎稲荷

		250号線と国道26号線が交差する少し手前に、傾いた鳥居の小さな祠〜「小原 小女郎稲荷」があります。
		「病気の母狐のために、美女に化け、身を売った娘狐が母に会いに行く途中、病気で野垂れ死んだ。哀れ
		に思った土地の人が娘狐のために小女郎稲荷を立てた」との事です。










		貝掛松碑

		この地にかつて高さ約10m、太さ約6m、樹齢500年の、江戸時代の絵図にも描かれている松の大木が
		生えていて、その松にまつわる伝説や由緒、貝掛の地名の由来が刻まれています。元は松と石碑は
		海岸近くにあり、昭和の初めに現在地に移されましたが、風化が激しく、平成9(1997)年地元の人々
		によって石碑は建て替えられました。碑文は明治30(1897)年9月に播磨国(兵庫県)の近藤美という
		人物によって書かれています。 







この建物の側に「浜(孝子越)街道」の碑が立っている。




		浜(孝子越)街道

		浜街道(別名、孝子越街道)は、泉佐野市を起点とし、浜づたいに田尻町、泉南市、本市の尾崎・
		箱作を過ぎ、岬町から孝子峠を越えて和歌山市内に通じる街道です。浜街道筋には往時を偲ばせる
		古い町並も見られ、趣ある風情を漂わせています。また、尾崎団地の横には明治37(1904)年に大
		阪府が建てた「孝子越街道」の道標が現在も残っています。



河内さんが何やら喋っている動画です。間違って録画してしまいました。数秒です。












		指出森神社 

		元は貝掛神社と称し、応神天皇を祭る八幡宮でしたが、天授年間(1375年ごろ)に火災にあい、祭神
		を波太神社に移し、その跡地に小社を建てたと伝えられています。現在も指出森神社には、昔の面影
		を偲ばせる趣ある風情が残っており、社近くの「鎮守の森」も、ひっそりとしたたたずまいを見せて
		います。 







































箱作駅の近く、茶屋川に掛かる茶屋橋の下にコイが沢山泳いでいる。浄化の為だろうね。






加茂神社






















		加茂神社 (昭和45年2月20日 大阪府指定有形文化財) 

		加茂神社 下荘地区は古代末から中世期にかけて京都の上賀茂神社の荘園であった。本社は社伝によると
		弘仁4(813)年に創建されたものといわれる。京都上賀茂神社を模して創建された桧皮葺の本殿は安土
		桃山時代の建築で、燈籠とともに大阪府の指定を受けている。











雨を避けて、賀茂神社近くのJAのような施設(何だったかな?)の天幕の下で昼食。





雨の中でも桜は満開です。








		せんなん里海公園 

		里海とは、大自然や荒々しい自然ではなく、半自然・中自然の里山のように、人間が海と共にくらして
		きた文化が色濃く残されているような、里とその海辺を表しています。箱作海水浴場を始め、汐干狩り
		やビーチバレーを楽しめる砂浜、バーベキューコーナー、芝生広場や海辺の森など、一年を通じて自然
		を身近に感じる事ができます。







里海公園近くに居た野鳥、イソヒヨドリとカワラヒワのような。ボケてて良くわからん。









海岸伝いに淡輪ヨットハーバーへ到着。淡輪には昔ここだけ歩く例会で来ましたね。「淡輪古墳群」を巡った。





船の形をした「何とかセンター」。青少年何とかだったかな?






		宇土墓古墳・陪塚

		古墳には後円部を取り囲むように陪塚7基があったといわれる。現在は6基が現存し、宮内庁により
		宇度墓の陪冢に治定されている。ココもその一つ

		交通アクセス : 南海電気鉄道(南海電鉄)南海本線 淡輪駅 (南へ徒歩すぐ)



宇土墓古墳(淡輪ニサンザイ古墳)










		淡輪ニサンザイ古墳(宇度墓古墳) 出展:ウィキペディア

		所属  :  淡輪古墳群 
		所在地 :  大阪府泉南郡岬町淡輪 
		形状  :  前方後円墳 
		規模  :  墳丘長170m(推定復元約200m) 
		築造年代:  5世紀中頃-後半 
		埋葬施設:  不明 
		被葬者 :  五十瓊敷入彦命(宮内庁治定)(推定)紀小弓 
		出土品 :  円筒埴輪・形象埴輪など 
		史跡指定:  宮内庁治定「宇度墓」 

		淡輪ニサンザイ古墳(たんのわニサンザイこふん)は、大阪府泉南郡岬町淡輪にある前方後円墳。名称は
		「宇度墓古墳(うどはかこふん/うどばかこふん)」とも。淡輪古墳群を構成する古墳の一つ。宮内庁に
		より「宇度墓(うどのはか)」として第11代垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命の墓に治定されている。
		大阪府の最南端、大阪湾に面した台地上に位置する。800メートルほど西にある西陵古墳(国の史	跡、
		墳丘長 210m)、および両古墳の中間にあった西小山古墳(円墳、非現存)などとともに、淡輪古墳群を
		形成する。名称の「ニサンザイ」は「ミササギ(陵)」の転訛。現在は宮内庁の治定墓として同庁の管理
		下にあるが、治定墓としては珍しく2014年度(平成26年度)に墳丘の整備工事に先立つ発掘調査が初めて
		実施された。
		墳形は前方後円形で、前方部を西南西方に向ける。墳丘は3段築成(4段以上か)。墳丘長は現在約170メー
		トルを測るが、後世に削られており、築造時点では約200メートルあったと推測される。外部施設として、
		墳丘南側のくびれ部には方形の造出が認められる(後世に付加された方墳の可能性もある)。現存はしな
		いが、北側くびれ部にも造出の存在が明らかとなっている。墳丘表面には葺石が葺かれ、加えて須恵質の
		円筒埴輪列、家・盾・キヌガサ・鳥などの埴輪があった。内部施設(埋葬施設)は明らかでない。墳丘周
		囲には幅約35メートルの周濠が巡らされたほか、そのさらに外側には兆域を区画した浅い溝(外周溝)が
		巡らされたことが判明している。この周濠付近の後円部外周部分には陪塚7基が分布し、うち6基が現存し
		主墳同様に宮内庁の管理下にある。
		古墳の築造年代は、出土埴輪から5世紀中頃から後半の西暦440年-460年頃と推定されている。5世紀中頃に
		限って築造された淡輪古墳群の大型古墳3基(西陵古墳・西小山古墳・淡輪ニサンザイ古墳)のうちでは、
		西陵古墳に次ぎ西小山古墳と同時期で、本古墳の築造をもって当地での大型古墳の築造は終焉する。これ
		ら岬町の大型古墳群では円筒埴輪に独特の技法(淡輪技法)が見られるが、同様の技法は和歌山平野の木
		ノ本古墳群(和歌山市木ノ本)にも見られることから、古墳群は紀伊勢力(紀氏)との強い関わりの中で
		成立したと考えられている。




		被葬者は、現在では宮内庁により第11代垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)に
		治定されている。この五十瓊敷入彦命の墓について『日本書紀』『古事記』に記載はないが、『延喜式』
		諸陵寮では和泉国日根郡に所在する「宇度墓」として見え、兆域は東西3町・南北3町、守戸3烟で遠墓と
		している。しかし中世には荒廃して所在が失われ、明治7年(1874年)に『泉州志』の記載に基づき玉田
		山に定められたが、明治13年(1880年)に淡輪ニサンザイ古墳に改められている。ただし本古墳に治定さ
		れる明確な根拠はない。
		考古学的には、岬町の大型前方後円墳2基はいずれも当地の経済力のみで築造されたと考えにくいことか
		ら、これらの築造において紀伊勢力(紀氏)の関与が想定される。特に『日本書紀』雄略天皇9年条に
		「田身輪邑(たむわのむら:淡輪村に比定)」に葬られたと見える、5世紀後半の将軍の紀小弓(きのお
		ゆみ)に比定する説もある。
		そのほか、『和泉志』では紀小弓の墓とする説を挙げ、『泉州志』では西陵古墳・宇度墓古墳のどちらか
		一方を紀小弓の墓としてもう一方を紀船守(きのふなもり)の墓とする説を挙げる。ただし、この紀船守
		は8世紀の人物(731年-792年)になる。













淡輪駅にて。本日の例会終了。皆さんお疲れ様でした。さぁ、反省です。









本日の散歩地図と史跡案内。クリックして貰えば大画面の資料がでます。

阪南市散歩地図−その弐−

阪南市散歩資料−その弐−

阪南資料館資料−PDF−



以下はおまけ、先月行った「阪南散歩(前編)」の地図です。

阪南市散歩地図−その壱−




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