Music: 女ひとり
		
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		第210回例会 三匹の侍、師走の嵐山をゆく「行き当たりばったり嵐山」
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		今回は、筑前が12月中旬、この1年間の例会HP6回分をを急ピッチで製作したこともあり、碌々
		例会のプランを考える暇が無かった。一度だけ、「水尾の里」で「鶏鍋&ゆず風呂を楽しむ」プラ
		ンを考えて見たのだけれども、水尾の観光協会へ訪ねたら「あ、27日はもうどこさんも店じまい
		ですね」といわれて、仕方無く以下の様な事に相成った。
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		日時:  12月27日(日曜)
		集合:  阪急嵐山駅 AM10:00
		アクセス:略
		持参:  弁当不要、雨具、防寒具、その他
		コース: ゆきあたりばったり
		概要:  以下
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		「12/27日の」 投稿者:筑前   投稿日:2015年12月23日(水)14時45分30秒
		納会例会ですが、幾つか考えましたがいずれも27日は営業していない店や湯が多く、定番の嵐山散策
		にしたいと思います。久し振りに化野の念仏寺とか、大河内伝次郎の邸宅などに入ってみましょう。
		財布との兼ね合いで入れる湯豆腐やお湯があれば入るという事で、題して「行き当たりばったり嵐山」。
		12/27日AM10:00に阪急嵐山駅集合とします。参加希望者は連絡ください。遅くなりまして
		申し訳ない。例会のHP製作で時間を取られていたもので、遅くなってしまいました。 
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		「210回例会・納会」 投稿者:筑前   投稿日:2015年12月24日(木)11時13分40秒
		栗本さん、西本さんは体調・都合により欠席です。どなたか出席はありますか? 
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		「210回例会」 投稿者:筑前   投稿日:2015年12月24日(木)16時57分6秒
		靖さん、河内さんも欠席です。今の所、大隈君と「嵐山で湯豆腐でも食おうや」と言う事になってます。
		「湯豆腐で酒盛り」になる公算大ですな。あ、というわけで、当日弁当は不要です。
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		「210回例会は」 投稿者:筑前   投稿日:2015年12月25日(金)15時58分2秒
		栗本さん、西本さん、靖さん、河内さん、橋本さん、杉本さん、橋爪さん、乾さん、高野さんと欠席で、
		いまのところ、大隈、錦織、筑前の3人が参加です。いよいよ酒盛りの様相を呈してきましたな。松田
		さん、郭公さん、いかがでしょうか?    



阪急嵐山駅に集合。私は寝過ごして桂駅で目覚めたが、
ドアが閉まった直後に気づき西院から引き返した。おかげで10分ほど遅れた。



さぁ、「行き当たりばったり」スタートである。

錦織さんが「川の向こうに安倍晴明の墓があるらしいで」と言うのでまずそこへゆく事にした。



大洪水の惨状が嘘のように綺麗になっている。ついこの間までブルドーザーが川の中にいたんだが。



快晴、快晴。冬晴れの京都・嵐山。渡月橋を渡る。



いつぞや納会の打ち上げげをした「花の家」の手前を左へおれる。


陰陽師安倍晴明・嵯峨御墓





「嵯峨御墓」というくらいだから、他にも幾つかあるんだろうね。生まれ在所も我々が行っただけでも3ヶ所あるし。









隣は「角倉稲荷神社」で、角倉了以一族の氏神である。ここの現住所はモロ「角倉町」だもんね。







まるで稲荷神社っぽく無い。狐も居ないし、「正一位」の幟も立っていない。

大阪の信太山では、安倍晴明は狐から生まれた事になってるけどねぇ。「恋しくば 訪ね来てみよ・・・」は有名だ。





私は安倍晴明にも関心があり、彼に関する旧跡は訪ねて歩いてるが、ここは知らなかった。



第98代長慶天皇・嵯峨東陵 



		この天皇陵は観光地のど真ん中にあるが、ほとんど観光客はこない。

		【第98代 長慶(ちょうけい)天皇】
		別名: 寛成(ゆたなり/ひろなり)
		生没年:康永2年(南朝年号興国4年)(1343)〜 応永元年(1394)(52歳)
		在位: 応安元年(同正平23年)(1368)〜弘和3年(1383)
		父:  後村上天皇第1皇子
		母:  藤原氏(嘉喜門院)
		皇后: 不明
		皇子女:世泰親王、承朝、尊聖  
		皇居: 住吉行宮(すみよしのあんぐう:大阪市住吉区)、
		    吉野行宮(よしののあんぐう:奈良県吉野郡吉野町)  
		御陵: 嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ:京都府京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町)



	長慶天皇は、正平23年(1368)後村上天皇崩御の後を継ぎ即位した。後醍醐天皇、後村上天皇、そして長慶天皇
	と続く南朝3代目の天皇である。弟の4代目後亀山天皇に譲位するまで、およそ16年間在位したとされる。南朝
	は4代を以て終焉を迎え、後亀山天皇は北朝の後小松天皇に「三種の神器」を渡し、およそ60年に及ぶ南北朝時
	代は終わりを迎える。



	長慶天皇も父後村上天皇と同じく対北朝強硬派で、南北朝の戦乱の中にその生涯を過ごした。足利幕府の軍勢は、
	各地の行宮に頻繁に攻撃をしかけ、帝はこれに応戦し続けた。大和吉野から、河内金剛寺、大和五條の栄山寺と転
	戦している。弟に譲位した後は、各地の南朝方の武将を訪ね、南朝への協力を求めたと言われているが、その為
	「長慶天皇墓」と称する陵墓も全国各地に点在している。陸奥国(青森県)、川上村(奈良県)など20ヶ所に及ぶ
	とも言われている。
	この帝は動乱期の天皇だと言うこともあってその生涯については謎が多く、即位についても疑義が多かった。江戸
	期には歴代天皇とは見なされていなかったが、それでも『大日本史』などは、本紀に第71代として長慶天皇を列記
	していた。明治を経て、大正年間に至っても即位は確認されなかったが、大正4年頃『長慶天皇御即位の研究』
	(八代国治著)という論文が発表され、大正15年10月21日付詔勅で皇統に加えられた。

	朕惟フニ長慶天皇在位ノ事蹟ハ史乗ノ紀述審ナラサルモノアリ今ヤ在廷ノ臣僚ニ命シ深究精覈セシメ其ノ事蹟明瞭
	ナルニ至レリ乃チ大統中同天皇ヲ後村上天皇ノ次ニ列ス茲ニ之ヲ宣示ス

											御 名 御 璽
											摂 政 名
											大正十五年十月二十一日

											宮内大臣 一木喜コ郎
											内閣總理大臣 若槻禮次郎


	その後宮内庁は、昭和19年になって、京都嵯峨の慶寿院跡を「長慶天皇御陵墓」と決定した。
	例によって宮内庁による詳細な調査が行われたようであるが、ここを長慶天皇陵とする確固たる証拠は見つから
	なかったようだ。結局、一番ゆかりの深いこの地が選定されたようである。この帝の著作集として、『仙源抄』
	『長慶院御千首』等がある。



	京都を追われた後醍醐天皇は、三種の神器を持って吉野に逃げ込み南朝を立てた。一方、足利尊氏は、京都で持
	明院統である光明天皇を擁立し北朝をうちたてた。これにより南北朝時代が幕開けをし、以後60年あまりにわ
	たって南北朝対立の時代となる。しかし南朝側は吉野の山奥に逃れたため、ほとんど記録らしい記録が残ってい
	ない。長慶天皇の即位行為も長い間認定されなかったし、また後亀山天皇の生年も明らかではない。足利3代将
	軍足利義満によって、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して譲位し、戦乱に明け暮れた南
	北朝時代は幕を下ろした。




	これ以降は皇位が継承された北朝が正統とされていたが、南朝の正統性を主張する議論は、北畠親房の「神皇正
	統記」以来続き、明治44年に明治天皇が南朝の正統を勅裁し、「南朝が正統であるが、北朝の天皇も歴代以外
	の天皇」とした。その根拠となったのは、皇位のあかしである三種の神器を南朝方が最後まで保有していた点に
	あると思われる。皇室にとって、三種の神器がいかに重要なものかを窺わせる。



長慶天皇陵の隣には、その皇子「承朝王」の墓が寄り添うようにして並んでいる。



		承朝王(じょうちょうおう)

		・異  称:憲明王、海門承朝、宝智円明禅師
		・生没年:文中3(1374)年〜嘉吉3(1443)年
		・続  柄:(父)長慶天皇、(母)不詳

		長慶天皇の皇子として生まれ、俗名を憲明といった。南北朝統一後に落飾し相国寺住持、南禅寺住持等
		を歴任した。出家直後は父天皇の遺訓に従い河内観心寺座主を補佐したり菩提を弔うため慶寿院を創始
		したりしたが、室町幕府とも親交があった。晩年は嵯峨慶寿院にて晩年を過ごしたという。享年69歳。


京都ジオラマ館









	トロッコ駅から野々宮神社の方へ歩き出すと、「ジオラマ館」という看板が目に付いた。
	[何やろこれ?」「入った事ないなぁ」「あ、コレこの前TVでやってましたで、何か京都の町のジオラマに模型
	の電車が走ってるやつや」「どないする?」「見ていきまひょか」「ゆきあたりばったりやもんな」「行きまひょ」









「あ、梅小路や」「マニアはたまらんやろなぁ」「なかなかおもろいな]















「大文字や」「あない一カ所に集まってたらおもろいやろなぁ」「ははは」



「一台十万円やて!」「ヒェー」「みんな集めたら凄い金やな」「道楽は何でもエライ金がかかりまんなぁ」



「こっちは30万円やで」「たまらんなぁ」









この特急は運転席に入って運転できる。勿論有料。隣で運転士のような人が教えていた。















写真を写しっこしていたら、この館のオジサンが寄ってきて「3人一緒に撮りましょう」と言ってくれた。
もう出ようとする我々に「今から夜になるから見てって下さい」という。「え、夜になる?」「星空が綺麗でっせ」











「こりゃ、どういう仕掛けなんやろね」「プラネタリウムではなさそうやけど」「天井に穴が開いてるんちゃうやろか?」





トロッコ駅構内にて。









竹林の中、大河内山荘へ向かう





「年末で人も少ないな思てたらとんでもないな」「やっぱ居るんですねぇ」「みんな日本語は喋ってへんで」





藍染め屋さんのウィンドゥに映った三匹の侍。窓がちょうど額縁のようになっている。

道ばたに百人一首の石碑コーナーがある。殆ど見ている人はいない。
我々が見ていると、幾人かが寄ってきたが、日本語は喋っていなかった。



















「これはどうして上賀茂神社て分かるんか知ってる?」「え、なんで?」「ならの小川いうんが上賀茂神社にあるんよ」「あ、それで」



この辺りがよくポスターなどに登場する「嵯峨野の竹林」だ。さすがに青々しい。「竹林の三賢人やな」「ははは」







大河内山荘庭園









入場券に抹茶券が附いていたので、まず抹茶を頂いてから回ることにする。





外人のお父さんと日本人のお母さんの間に、3人兄弟のハーフがいた。その後、この一番下の女の子とは、アチコチで出合う。





さぁ、大河内伝次郎が30年掛けて作ったという庭園散策の入り口だ。



上はクリックで拡大。





「とても個人で建てたもんとは思えんね」「エライもんやなぁ」











「中に仏さんがいてはるんやろか?」「どやろ」「ここで瞑想してたんか」







なんと懐かしい。いかにも京都らしいが、田舎にはどこにでもある家だ。



「お控えなすって!手前生国が、伝次郎と一緒でござんす」「それがどうした」
「それだけでは何もでんじろう」「ははは、うまいうまい、座布団半分」「半分て何や」





我々の後ろの谷に保津川(桂川)が流れているのだ。平幹二朗のような人が我々の前を歩いていた。その人の奥さんに写して貰う。







保津川を挟んで対面の尾根に、角倉了以の「大悲閣」が見えている。
あそこには例会でも行ったし、私はもう3、4回は行ったね。例会時はボロボロだったが、
今は綺麗に修復されている。私は千円寄進したけど、障子紙くらいにはなったかしらね。







双が岡



京都タワーも見えている。



展望台のような東屋から見ると京都市内が一望。一番景色の良いところに東屋を建てている。



「妙香庵」。妙香というのは伝次郎の奥さんの名前である。
坊主の娘だから妙香なのだろうけど、映画スターでも田舎で見合いして嫁を貰っているのだ。時代だねぇ。



大河内伝次郎資料館





途中でトイレに入って、「長いなぁ」「冬はなかなかでんじろう」「・・・・」















この時代、日本でクライスラーに乗っていたのは大河内伝次郎だけらしい。
関係者を除けば、クライスラー輸入者第一号なのだ。



















何と、大河内伝次郎は福岡県生まれだった。「豊前市大河内の生まれかぁ」「黒木瞳みたいなもんやな」











何となく市川雷蔵に似ているような。























またあの子にであった。元気よく走り回っていて、お母さんは追いかけるのが大変そうだった。



嵐山公園へ











三天皇火葬墓















角倉了以像





私は角倉了以も大好きでR(あーる)。
事業に対する発想力、企画力、行動力、いずれをとっても現役時代に欲しかった。









周恩来総理碑



「三回嵐山に遊んだ」てな事が書いてある。周恩来は京都大学に留学していたから、弁当もってちょくちょく来たんだろうね。



ガイドブックに書いてあるのだろう、多くの中国人観光客がこの廻りに寄ってくる。「日本語が聴きたいー」





保津川へ降りてくる。「保津川下り」は冬でもやっているが、屋根の付いた屋形船みたいな船だった。カップルしか乗っていない。









湯豆腐 「嵐山・嵯峨野」















40年前大阪へ来たときは1,200円位だったけどなぁ。ま、給料も6万円くらいだったもんな。







「どうする?カラオケ行く?」という錦織さんの一言で、「じゃどっかで下車しましょう」となった。
「ゆきあたりばったり嵐山」に相応しいフィナーレだ。桂を見てみたが何もなさそうなので、「高槻まで行きましょう!」



高槻で下車、カラオケへ





1時間を30分延長して、「長崎シリーズ」「北海道シリーズ」「大阪シリーズ」と歌い継いでゆくのでした。





すっかり酩酊して眠りこけております。「正雀で起こしてや!」「起きてたらね」





本日の成果







いやぁ楽しかったです。安倍晴明墓は始めてやったし、大河内伝次郎の庭園も始めて見ました。
あれは相当な資金を費やしてますな。今日は3人だったけど、一年間色々と御世話になりました。
また来年もアチコチ出掛けましょう。まだまだ遺跡旧跡は、関西には山ほどあります。お疲れ様。

良いお年を!!!










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邪馬台国大研究/歴史倶楽部/第210回例会案内