Music: 旅愁





	水落遺跡
  
	この遺跡は隣接する「石神遺跡」(いしがみいせき)と一体となって、どうやら水に関する遺跡が存在していた
	らしい。水落遺跡自体は「漏刻」(ろうこく:時計)であることはほぼ確定しているようだが、水時計を実現す
	る水流が石神遺跡と一帯となって、この辺り一帯には壮大な水施設が造られていたようである。

	斉明天皇6年(660)5月、皇太子中大兄皇子(のちの天智天皇)は、日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知ら
	せた、と「日本書紀」に書かれている。日本書紀はその場所について何も語っていないが、1981年その水時
	計の遺跡が、ここ飛鳥水落遺跡で掘り出された。ここでは、精密に、堅固に築いた水時計建物と、建物内の中央
	で黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置とが見つかった。水時計建物を中心にして、水を利用したさまざまな
	施設があることもわかった。ここは、「石神遺跡」と呼ばれる遺跡全体の中にある。




	斉明6年(660)、中大兄皇子がはじめてつくった漏剋(水時計)を据えた時計台の遺跡が、飛鳥寺の西方で発見
	された。貼石のある四角い土壇に、4間四方の楼状建物が建っていた。土壇をつくる途中で礎石を据え、礎石間
	には自然石を連結した、地中梁工法ともいえる堅固なつくりとなっている。建物と一体で黒漆塗りの木箱、木樋暗
	渠、枡、銅管など、水を使用するいろいろな仕掛けがつくられていた。噴水用のプールだったとする説もあり、飛
	鳥資料館には復元模型が展示されている。礎石も残っていて、導管や配水管も発掘された。平成6年には飛鳥川と
	つながっていたと思われる水路やいくつかの附属の建物の遺構も出土し、贅をこらした建物であったことが解明さ
	れつつある。飛鳥川の水を利用し、サイフォンの原理で一定量の水を垂らすことによって時を刻んだ。万葉集にも
	時報の鐘の音を聞く歌が収められている。




	水落遺跡の水時計は、当時最新の技術によって作られていたであろうと思われる。四段式漏壺、あるいは、三段式
	漏壺であったかもしれない。東から木樋を流れてきた水を桝で堰止め、ラッパ状鋼管を通して、一旦、地上に汲み
	上げる。そこから一番上の漏壺への給水は人力に頼ったのであろう。箭が上がりきると、箭壺にたまった水を漆塗
	の木箱へ一気に排水し、そこから、さらに、木樋を通して西へ流した。中大兄皇子が漏刻を作ったことにより、そ
	れまで大まかに決められていた時間の観念が、詳細になった。役人達の勤務時間も漏刻により決められたであろう。




	水落遺跡では、全ての柱が抜き取られており、残っていたのは、木樋、漆塗の木箱、銅管等であった。ラッパ状銅
	管も、木樋の蓋にしっかりとくい込んでいたためであろうか、途中で無理にへし析ったような状態であった。水落
	遺跡では、天武朝の時期と考えられる柱穴等もみつかっているので、漏刻施設の廃絶は、天武朝の造作にかかわる
	可能性も残されている。遺跡には現在、石で築いた一辺20cmの方形の基壇が復元され、25本の柱が立っている。 


上はクリックで拡大します。


	白村江で唐・新羅の連合軍と戦い破れた後、天智6年(667)には、飛鳥を離れ近江の大津に都を遷し、翌天智7年
	(668)には、斉明の死後、皇大子の地位にとどまったまま政治を行なってきた中大兄皇子が即位した。水落遺跡の
	漏刻は、近江遷都とともに飛鳥から近江へと移されたのであろうか。日本書紀には、天智天皇が近江にも漏刻を作
	ったという記載がある。





上左は、石神遺跡から発見された「須彌山石」(しゅみせんいし)。
下から水を吸い上げて口から排出する一種の噴水である。

















式内大社 飛鳥座神社 あすかにいますじんじゃ




	<飛鳥坐神社>  奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708  出典:ウィキペディア

	主祭神   事代主神 高皇産靈神  飛鳥神奈備三日女神 大物主神 
	社格等   式内社(名神大)・旧村社 
	創 建   不明 
	本殿の様式 四間社流造 
	主な神事  御田祭(2月第1日曜日) 

	飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ、あすかにますじんじゃ)は、奈良県高市郡明日香村にある神社である。
	式内社(名神大)で、旧社格は村社。毎年2月第1日曜日に行われる奇祭おんだ祭でも有名である。





	<飛鳥坐神社> (続き)

	<祭神>
	延喜式神名帳には「飛鳥坐神社四座」とある。現在の祭神は事代主神、高皇産靈神、飛鳥神奈備三日女神
	(賀夜奈流美乃御魂)、大物主神の四座であるが、多くの異説がある。

	『大神分身類社鈔』 -- 事代主命・高照光姫命・木俣命・建御名方命
	『五郡神社記』 -- 大己貴命・飛鳥三日女神・味鋤高彦神・事代主神
	『社家縁起』 -- 事代主命・高照光姫命・建御名方命・下照姫命
	『出雲國造神賀詞』 -- 
	「賀夜奈流美乃御魂乃飛鳥乃神奈備爾坐天(賀夜奈流美の御魂の飛鳥の神奈備に坐て)」との記述がある。

	また、当社地が天照大神を初めて宮中の外で祀った地「倭笠縫邑」であるとする伝承もあり(有力な説は大神
	神社摂社の檜原神社である)、近世には元伊勢とも称していた。




	<飛鳥坐神社> (続き)

	<歴史>
	創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守
	神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとあ
	る。また『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月の条に「奉幣 於居紀伊国国懸神 飛鳥四社 住吉大社」とあり、
	天武天皇の病気平癒祈願のため幣帛が奉られた。『日本紀略』によれば、天長6年(829年)、神託により、現
	在の鳥形山へ遷座した。(遷座する前の場所については諸説ある)

	寛永17年(1640年)に高取城に入った高取藩初代藩主・植村家政は、高取城の鬼門に当たる当社を深く信仰し
	た。享保10年(1725年)に里からの火災により社殿の大半を焼失したため、天明元年(1781年)に高取藩8代藩
	主・植村家利により再建された。平成13年(2001年)再建から200年を経て社殿が老朽化してきたことから、吉
	野の丹生川上神社上社が大滝ダム建設に伴い移築するに際し、旧社殿を譲り受け再建した。






	<飛鳥坐神社> (続き)

	<祭事>
	2月第1日曜日(元は旧暦1月11日)のお田植神事「お田植祭(おんだまつり)」には夫婦和合の所作(種まき前
	の胤付けの意で、天狗とオカメが性行為,特に正常位を踊る)があり、奇祭として知られている。境内には、男
	性器を模した石が多く安置されている.


	<境内>
	境内には、江戸時代に式内小社飛鳥山口坐神社(あすかやまぐちにますじんじゃ)が遷座している。大山津見命、
	久久乃之知命、猿田彦命を祀る。「飛鳥山」はかつての皇室の御料林であり、その山神を祀ったものと考えられ
	るが、旧鎮座地は不明である。


	<関連項目>
	折口信夫 - 折口信夫の祖父酒造ノ介は、岡寺前の岡本善右衛門の8男であったが、当社81代宮司飛鳥助信の養子
	となった上で折口家に入った。父・秀太郎の代には交流は途絶えていたが、明治33年(1900年)夏に初めて当社
	に参詣し、同37年には祖母つた・叔母えいと共に参詣し旧交を復した。折口は、祖父が大和飛鳥の由緒ある神社
	の出自であったことを終生誇りにしており、慶應義塾の教授時代にもよく学生を連れて飛鳥を旅している。





	由緒書きによれば、この神社の起源は神話の時代までさかのぼる。大国主神が国土を天孫に譲った際、天孫の守
	護神としてわが子の事代主神と妹の飛鳥神奈備三日女神の神霊を飛鳥の神南備に鎮座させたという。
	『延喜式神名帳』は飛鳥坐神社を事代主神、飛鳥神奈備三日女神、大物主神、および高皇産霊神の四柱を祀る古
	社としている。



	前回ココを訪問したときは、偶然、お田植祭(おんだまつり)」に遭遇した。夫婦和合(性行為)の所作を、実
	におおらかに表現した、ユニークな縁結びの演舞(?)だった。飛鳥の神南備(かんなび)に鎮座し、事代主神
	ら4柱を祀る神社だが、元々は農村の豊作祈願の祭事と、子孫繁栄を願っての祭事が執り行われていた神社だっ
	たのかも知れない。甘樫丘から見える、こんもりと樹木に覆われた鳥形山に鎮座している。 



	おんだ祭りの当日は、天狗と翁の面をかぶった村の若者がササラ(竹の先を細かく裂いた棒)を振り回して、参
	拝者を追っかけて尻をたたく。見ていると、そのたたき方に差がある。成年男子の尻は思い切りひっぱたたくが、
	女性の場合は手加減し、子供や幼児は触る程度だ。なぜこのようなことをするのかよく分かっていない。今では
	一種の厄払いか魔除けと見られているようで、この騒ぎが大きいほど、その年は豊年に恵まれるそうだ。 





 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/219回例会・紅葉の明日香村を走る