Music: 旅愁


新沢千塚古墳群


	●新沢千塚古墳群

	新沢千塚古墳群は橿原市南部に位置し、高取町との境界になっている貝吹山から四方に伸びる尾根の内、南西に
	伸びる低い丘陵上にある。ここは総数600基からなる4世紀終末から7世紀にかけての古墳群で、日本でも代
	表的な群集墳である。5世紀半ばから6世紀にかけて盛んに造営され、6世紀終わりから衰退しはじめる。

	現在、丘陵のほぼ中央を東西に道路が横切っており、古墳群はこの道路で北群と南群に分かれる。比較的北群の
	ほうが、遊歩道などが整備されており見学には適している。古墳群は昭和37年から41年にかけて発掘調査さ
	れ、130基ほどが確認された。
	調査の結果500号墳をはじめ、遠くペルシャから運ばれたと思われるガラス器と黄金色に輝く装飾品を副葬し
	た126号墳、多量の武具・馬具が出土した139号墳など、権力と財力に富んだ豪族の奥津城(おくつき:墓
	地)である。造営主は大伴氏あるいは渡来系氏族の漢(あや)氏ではないかと推測されるが、勿論確とした証拠
	があるわけではない。



道路から古墳群へ上がれそうなので、ここから上に登る。古墳群の東端のようだ。


	
	小高い土まんじゅうのようなところは全て古墳である。藪だったところが綺麗に整備されていて、説明板もずい
	ぶん充実している。調査された分の遺物だけでも相当貴重な出土物が存在している。発掘されたのは100基ほ
	どだから、あと500基を全部開けたら一体どういう事になるのだろう。全く夥しい古墳の数である。ここはお
	そらく渡来人の一族郎党が集団で葬られている場所だろうと思う。








	<139号墳>
	139号墳は北群にあり、東西 23m、南北約20mの方形墳で、5世紀前半から中頃にかけて造築されたものと 思わ
	れる。埋葬の仕方は、木棺をそのまま地中に埋める木棺直葬と呼ばれる方法で、棺の大きさは、全長約 3.7m、
	幅70cm前後で、棺の中からは頭部付近に櫛、中央に刀、足部側には肩・頸鎧、短甲が置かれていた。武具その他
	の多くの副葬品から、この古墳群の盟主に当たる人物の墓ではないかとみられる。



 
	<500号墳>
	500号墳は4世紀の終わり頃に造築された全長 42mの前方後円墳で、後円部・くびれ部・前方部のそれぞれに粘
	土槨からなる埋葬施設を備えている。特に、後円部には「八つ手葉形(やつでばがた)銅製品」と呼ばれる懸垂
	鏡や三角縁神獣鏡を含む6面の鏡を始め、玉類や武器などの多くの副葬品が納められていた。


















	
	<126号墳>
	126号墳は、5世紀後半頃に築かれた東西 23m、南北16mの長方形墳である。この古墳は外見上なんら他の古墳と
	変わりはなかったが、その副葬品は驚くべきものであった。遠くペルシャで製造され、シルクロードを経て中国か
	ら我が国に運ばれてきたと推測されるガラスの鉢・皿、竜文の透かしを持つ冠の金具や垂下式耳飾り・指輪等の装
	身具、我が国で始めて出土した火熨斗(ひのし:古代のアイロン)など、いずれも現在重要文化財に指定されてい
	るすばらしい出土品である。


	
	これらは現在全て東京国立博物館に展示されており、この橿原市博物館にはレプリカがある。初めてこのガラス器
	を「東京国立博物館」で見たときは、そのすばらしさに声もでなかった。1500年も前にこんなものが中近東からと
	思うと人間の営みの偉大さに感動してしまう。特筆すべき出土品により、この126号墳は新沢千塚古墳群を代表
	する古墳となった。


	
	★−ガラス皿。(口径14.5a、高さは3a)。もとは金箔の人物や馬の絵があったと見られる。 
	★−ガラス碗(口径7.8a、高さ6.7a)、丸くカットした文様が底で2段、胴の部分で5段にめぐっているが一部
	 は仕上げられていない。口縁もギザギザで未完成品と考えられる。
	★−金属製の垂下式耳飾り。全長21aと長く、3本の鎖には細金細工の飾りが付けられている。
	★−熨斗(火熨斗)。貴族が用いていたと思われる古代のアイロンである。我が国ではこの時代のものは2例しか
	 出土していない。
















	
	1963年当時発掘を担当していた故同志社大学教授森浩一氏は言う、「藤ノ木古墳の遺物はせいぜい中国止まり。新
	沢千塚古墳ははるかに飛び越えてヨーロッパの遺物が出ている。戦後の発掘調査で遺物がヨーロッパまで及んでい
	たのはここだけです。」「鮮卑など中国の北方系の人達と古代日本人との接触は『古事記』にも『日本書紀』にも
	出てこない。しかし出てこないからといって、接触がなかったと考えるのは大間違いだ。これまで渡来系と言うと、
	大部分は朝鮮半島や中国大陸を指していたが、126号墳はそれをもっと広げてくれた。しかも遺物の一部はヨーロッ
	パまでつながっている。」そして 126号墳とはるか西方の遺物を結ぶルートとして、おそらく百済が中心的に介在
	し、北方の遊牧民族との接触を通して入手した、という図式を描いている。













ガイダンス施設となっていたが、今は何も使われていないようだ。開園当時は色々イベントをやっていたんだろいうな。















ここから降ると、橿原市博物館へ降りるようになっている。さぁ、博物館へ行こう。



 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/216回例会・橿原市を歩く