Music: 旅愁

橿原市博物館



新沢千塚古墳群を降りてくるとここへ出てくる。目の前の建物は「高齢者介護施設」。その脇を更に下へ降りる。





「歴史に憩う橿原市博物館」外観。どうやらこれが公式な名前のようだ。







	
	<ごあいさつ>

	橿原市には、原始以来の先人の営みが大地に刻まれた、史跡新沢千塚古墳群、特別史跡藤原宮跡や、江戸時代の
	建造物が数多く建ち並び当時の町並みを今に伝える、重要伝統的建造物群保存地区今井町をはじめとする、優れ
	た歴史遺産が随所に残されています。
	本市では、このような貴重な文化財の保護と活用に取り組んでおり、このたび、新沢千塚古墳群公園整備事業の
	先駆けとして、「歴史に憩う橿原市博物館」を開館いたしました。
	博物館の前身は、1976(昭和51)年の新沢千塚古墳群の史跡指定が契機となり、財団法人大和歴史教育センター
	が建設され、1978(昭和53)年に開館しました橿原市千塚資料館であります。
	博物館は先の資料館と同様に、隣接する新沢千塚古墳群のサイトミュージアムとしての位置付けはもちろんです
	が、本市を代表する縄文時代の終わり頃から江戸時代までの、二千数百年にわたる遺跡出土資料の展示を通し、
	本市の歴史の息吹を体感しながら、楽しく学んでいただくことをモットーにしております。
	また、来館者一人一人に合う展示資料の紹介と、本市の豊かな歴史遺産への訪問をサポートする、斬新なパーソ
	ナルガイドを全国で初めて設置しました。
	これからは、魅力溢れる博物館の創造を目指してまいりますので、皆様の幾度とないご来館をお待ちしておりま
	す。

































	
	橿原市の縄文時代

	奈良盆地内における遺跡の多くは弥生時代以降で、それ以前の旧石器・縄文時代の遺跡は極めて希薄な状況
	にある。戦前に一大発掘調査が行われた橿原遺跡は縄文時代晩期の代表的な遺跡として全国的に知られてい
	るものの、本市でも同様な事が言える。橿原遺跡を除いては縄文時代の遺跡は数ヵ所の遺物散布地が知られ
	ている程度である。しかしながら近年、偶然に藤原京跡の下層部分で縄文土器が発見された。
	各時期別に市内の出土例をみていくと、まず草創・早期では、有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)が夫婦池
	(めおといけ)周辺と新沢千塚の丘陵の一端から各々採集された報告がある。しかし、周辺に遺跡が存在し
	たかどうかは不明である。当該期の遺跡は、県内をみても山間部に集中している。
	盆地内では縁辺部で数ヵ所認められる程度で、盆地の中心の低地部では出土していない。前期になると、藤
	原京跡の下層から数点の北白川下層式土器が出土している。中期のものでは、飛鳥川右岸に位置する藤原京
	右京五条四坊(小房町)で、船元式土器の破片が河道内から数点出土している。
	また、貝吹山から北に延びる丘陵の北端に位置する鳥屋遺跡でも、戦前の暗渠排水工事の際に中期後半の土
	器が数点発見されている。後期では、耳成山の北方に位置する下明寺遺跡で、元住吉山式土器の破片が出土
	している。この他、晩期に盛行する橿原遺跡にも当該期の土器が認められる。文久三年(1863)に、その北
	側の畝傍北山麓でおこなわれた神武陵築造の際に後半期の土器がほぼ完形に近い形で発見されている。
	市の近辺では、天香久山の南に位置する大官大寺下層遺跡(明日香村)から中期末から後期初頭にかけての
	重要な土器が出土している。
	晩期の出土例は、橿原遺跡・曲川遺跡・坪井遺跡などがある。また、藤原京内など他遺跡においても、下層
	部分などから出土する例が増加しており、当該期になると市内のほぼ全域に認められるようになった。
	市内の縄文時代の遺跡は、低地部に位置するため、未確認の遺跡の存在も充分に考えられる。居住地が水際
	であったことを前提にすると、遺跡の立地も重要な視点の一つと言える。遺跡の立地は、標高の高い南部中
	心から沖積に伴う盆地の形成により徐々に標高の低い市の北部でも出土が認められるようになる。中期にな
	ると市中央部の飛鳥川に接した藤原京右京五条四坊地点からは中期初頭の土器が出土しており、既にこの付
	近に微高地が存在していたと考えられる。
	後期・晩期になると、更に北側の寺川と米川に挟まれた坪井遺跡(常盤町)や、葛城川と曽我川に挟まれた
	曲川遺跡(新堂町)など更に低い地点で、肥沃地・微高地上に遺跡の存在が認められる。市内では北側の標
	高60m付近まで、縄文土器の出土が確認できている。盆地中央部の標高40m付近まで縄文土器の出土が認めら
	れており、従来考えられていたより低地で、既に縄文時代晩期から遺跡が存在していたことが明らかになっ
	ている。
	晩期の土器は、後続する弥生時代の遺跡で出土するケースも多く、この時期に稲作受容に伴う何らかの変化
	があったものと考えられる。
	(橿原市HPより)



























	
	橿原市の弥生時代

	弥生時代は縄文時代後期から九州に伝わったとされる稲作をもとに集落としてのまとまりが生じ、集落内や
	集落同士のつながりの中で支配階級が発生する。そうした地域的なまとまりは、古墳文化に象徴される一層
	大きな地域集団を形成する過程をたどる。このように弥生時代は、「クニ」が生まれる準備段階の時代であ
	ると言える。
	橿原市内の弥生時代遺跡は大正年間以来、多くの研究者によって遺物を中心に学界で報告されてきた。更に
	近年の発掘調査成果の蓄積により、遺跡の性格が少しずつながら解明されつつある。
	市内において弥生時代の遺構・遺物が出土する遺跡は、70ヶ所近くにおよぶ。市内の弥生時代の遺跡は、そ
	の多くが当時の生活と密接なつながりをもつ河川流域に位置している。その分布を見てみると、寺川流域に
	は坪井・大福(つぼい・だいふく)遺跡が、曽我川流域には南から一町(かずちょう)遺跡や上ノ山(うえ
	のやま)遺跡、忌部山(いんべやま)遺跡、中曽司(なかぞし)遺跡が、飛鳥川流域には四分(しぶ)遺跡、
	多(おお)遺跡がそれぞれ分布している。
	こうした遺跡は河川流域の平坦地や微高地上に位置している。一方、上ノ山遺跡と忌部山遺跡など丘陵上に
	立地する遺跡は、高地性集落と呼ばれている。このように数多く点在する弥生時代の遺跡の中でも、弥生時
	代前・中・後期を通じて生活が営まれていた遺跡は”中心的集落”とされ、近隣の遺跡とつながりがあった
	と考えられている。
	奈良盆地内にはこのような中心的集落は盆地南東部を中心に現在7ヶ所想定されており、橿原市内にはその
	うち多遺跡、中曽司遺跡、坪井・大福遺跡、四分遺跡、一町遺跡の5ヶ所が存在する。
	当時の暮らしについては、集落の周りには大きな溝(環濠)を幾重にも巡らしたものが多く、その内側で竪
	穴住居や掘立柱建物が見つかっている。一町西(かずちょうにし)遺跡では弥生時代後期の火事で焼失した
	住居も見つかっており、下明寺(げみょうじ)遺跡では18棟の竪穴住居が確認されている。またこうした居
	住域の中では井戸なども見つかっており、当時の生活の一端がうかがわれる。
	集落内には木棺墓(穴を掘り木の棺を収めたもの)や土器棺墓(穴を掘り数個の土器を合わせたものを棺と
	して収めたもので子供の墓と考えられている)、方形周溝墓(周囲に溝を巡らす土を盛って造った方形の墓)
	などの墓が造られ、居住域とは別に区画された墓地を形成していたようだ。木棺墓は坪井・大福遺跡や四分
	遺跡で見つかっている。方形周溝墓は1ヶ所に群集して築かれている例が多く、観音寺本馬丘(かんのんじほ
	んまおか)遺跡では35基以上、曲川(まがりかわ)遺跡では30基、土橋(つちはし)遺跡では24基の周溝墓
	が見つかっている。
	また、弥生時代初めに東北地方まで急速に広まった稲作については、水田跡が四分遺跡や新堂(しんどう)
	遺跡、東竹田(ひがしたけだ)遺跡、萩之本(はぎのもと)遺跡、一町西遺跡などで見つかっている。その
	ほかに河川・溝に設置された水量を調整するダムのような施設(堰)(せき)が、坪井・大福遺跡や曲川遺
	跡、新堂遺跡、萩之本遺跡、藤原京下層などで見つかっており、当時の耕作の様子がうかがえる。
	上ノ山遺跡、忌部山遺跡は弥生時代後期の高地性集落として知られているが、なぜ平坦地に比べわざわざ不
	便な高い場所に住んだのか不明である。これらの遺跡は高い場所に位置し周辺の見晴らしがきくなどの特徴
	を持っている。弥生時代後期の日本は、中国の書物を見ると国内が戦乱の最中にあったような記載があり、
	その特徴から高地性集落は”軍事的集落”として利用された可能性も十分に考えられる。
	このように、市内には弥生時代の生活を窺うことができる多くの遺跡が存在している。奈良盆地全体を見渡
	してみると、弥生時代の遺跡は盆地東南部が最も多く、特に当市をはじめ三輪山麓(桜井市)、田原本町周
	辺に分布することが判明している。
	こうしたことから、当市は弥生時代の中心的な地域であったことがうかがえる。発掘調査の成果を丁寧に積
	み重ねていくことにより、弥生人の暮らしぶりがより鮮明に見えてくるようになると思われる。
	(橿原市HPより)






















	坪井遺跡

	坪井遺跡(つぼいいせき)とは、奈良県橿原市常盤町と奈良県桜井市大福にまたがる弥生時代中期・後期
	の遺跡である。井戸と墓地群などの遺構が確認された。内に人骨が残った木棺墓が2基検出される。土器、
	石器、木製品、獣骨などの大量の遺物が出土しており、銅剣を模して作られた木製の柄頭なども出土した。
	1974年(昭和49年)、橿原考古学研究所が調査。それ以降は、桜井市教委が調査を継続。





	
	橿原市の古墳時代

	古墳時代前期(3世紀後半頃〜4世紀)には、初現期の古墳である弁天塚古墳をはじめとして、耳成山の
	北方一帯を中心とする地域に中〜小規模の古墳が築かれた。
	前期の終わり頃(4世紀後半)からは、古墳が築かれる地域が次第に広がっていき、中〜小規模の古墳
	からなる古墳群が市内各所で形成され始める。このうち、市南西部の丘陵地に形成された新沢千塚古墳
	群は、総数600基をこえる古墳からなり、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)として知られて
	いる。新沢千塚からは、装身具や武器・武具といった豊富な副葬品などが出土している。
	その中には新沢千塚126号墳(5世紀後半)出土の中国大陸・朝鮮半島製の装身具やペルシャからも
	たらされたと考えられるガラス碗・皿のように、海外との交流を示すものが含まれている。
	人々が暮らす集落の実態についてはまだ不明な点が多いが、市内各所の中期(5世紀代)の集落遺跡か
	らは、渡来人によってもたらされたと考えられる陶質土器(とうしつどき)や韓式系土器(かんしきけ
	いどき)が出土している。東坊城遺跡、新堂遺跡、内膳・北八木遺跡では、これらの土器とともに鍛冶
	(かじ)関連の遺物が出土しており、渡来人の技術を用いた鉄器の生産活動が行われていたことがうか
	がえる。このほかの生産活動としては、玉造り集団の集落である曽我遺跡の存在が知られている。
	中期以降、このような生産活動の充実とともに集落の分布範囲が広がっていく。その背景のひとつには、
	渡来人によってもたらされた新たな土木技術の導入があったと考えられる。
	中期以降、橿原の地は古墳と集落のそれぞれで見られるような海外との交流を基盤として発展していく。
	このような背景のもと、古墳時代の終わりにあたる6世紀後半から7世紀にかけての時期には、市南部に
	丸山古墳、植山古墳、菖蒲池古墳、小谷古墳など、この時期を代表する古墳が築かれた。これらの古墳
	は、この時期に政治の中心となった飛鳥の地の人々と密接な関係をもつと考えられている。















































































































































































































































































































































































 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/216回例会・橿原市を歩く