Music: 青葉茂れる




	
	大阪本町歴史倶楽部 第218回例会  <中河内・恩智川周辺を歩く>

	前回みゆき会でお渡しした地図の、上部と高井田周辺は歩きましたので、恩地を歩けば生駒西麓部分を踏破したこと
	になり、河内湖時代の河内地方をほぼ体感したことになると思います。ニギハヤヒとナガスネヒコに神武天皇が立ち
	向かった時の土地を歩くことになります。また恩地遺跡は縄文時代の石器が発見されていますから、ギリギリ河内湖
	の端に1万年以上前から人が住んでいた痕跡が残っています。

	日時: 9月25日(日)
	集合:近鉄大阪線高安駅 AM9:30
	持参:弁当・水筒、他
	アクセス:[大阪方面から]
	     JR大阪 8:39発 −>JR大阪環状線外回り 鶴橋08:56着
	     近鉄鶴橋 09:04発 近鉄大阪線準急・高安行 09:19高安駅着
	     [奈良方面]
	     近鉄奈良駅 08:26発 −>近鉄奈良線快速急行・大阪難波行
	     鶴橋 08:57着 09:04発 近鉄大阪線準急・高安行 09:19高安駅着
	コース: 教興寺 −>大通寺 −>一里塚 −> 善光寺 −> 恩智城址 −>恩智神社・恩智遺跡 −>
		 恩智左近の墓 −>神宮寺感応院 −>天照大神高座神社・岩戸神社 −>常世岐姫神社 −>瑠璃光寺
		 −>若倭姫神社 −> 若倭彦神社 −> 禅林寺 −>大里寺跡・大縣遺跡 −>鐸比古・鐸比売神社
		 −>清浄泉 −>石神社・智識神社跡 太平寺古墳群 −>安堂古墳群 −>近鉄安堂駅 解散・反省会
	解説: 後日配布

		(このHPでのSCAN解説は、『山川出版社「新版大阪府の歴史散歩 下」(1998年7月20日1版4刷)発行』
		から転載しています。深謝します。但し解説は、我々が歩いた反対方向からですので、注意が必要です。)








上の黄色い範囲を行く予定でしたが、本日は日和に日和って L番まで、
約三分の一程しか歩けませんでした。また機会を見つけて、いつか
残りの部分にも再挑戦したいと思います。毎度の事ですが、あしからず。
















	 
	湯川直光   出典:ウィキペディア

	湯川 直光(ゆかわ なおみつ)は、戦国時代の武将で、湯川衆の頭目。畠山氏の重臣で湯川氏第12代当主、紀伊亀山城
	(現・和歌山県御坊市湯川町丸山)第11代城主で、河内守護代も兼ねた。湯川政春の長男。

	湯川氏は甲斐源氏の流れを組み、熊野街道の要衝であった道湯川(現・和歌山県田辺市中辺路町道湯川)を領したこと
	に始まり、南北朝時代に湯川光春が牟婁郡から日高郡にかけて広大な勢力を築いて亀山城を築城した。戦国時代に入り、
	直光は当時の交通の要衝であった小松原館(現・和歌山県立紀央館高等学校、湯川神社)を築城して平時の居館とした
	という。
	『紀伊続風土記』によると、享禄元年(1528年)、摂津江口の戦いで三好長慶の軍勢に敗れたが、山科本願寺の証如の
	助力もあり小松原館に帰還。天文年間に感謝の意を込めて一堂(現・浄土真宗本願寺日高別院)を建立し、次男の信春
	を出家させて住職としたという。
	元来、河内と紀伊は畠山氏の領国であったが、永禄元年(1558年)、河内から守護畠山高政が河内守護代安見宗房に追
	放され紀伊に下向してきたため直光は迎え入れ、翌永禄2年(1559年)に三好長慶と湯川氏の尽力により河内に返り咲
	いた高政は、この功を高く評価し直光を宗房に代わる河内守護代に任じた。ところが、河内を上手く治められなかった
	ため永禄3年(1560年)に高政に守護代を罷免させられ紀伊へ退去、宗房に交代させられた。これが長慶の河内侵攻を
	招き、高政・宗房は河内を奪われ紀伊へ亡命した。
	永禄5年(1562年)3月5日、河内奪還を狙う高政の命で湯川衆を率いて従軍し、河内で長慶の弟・義賢が率いる三好軍を
	撃破した(久米田の戦い)。5月19日の教興寺の戦いでは三好長逸らの軍勢を雑賀衆と共に迎撃していたが、長慶の子・
	義興の軍勢が参加したことで劣勢となり戦死した。跡は長男の直春が継いだ。

































































「本田善光の像」は無かった。鉄が戦時中に供出されたので、ここの像も持って行かれたそうだ。
飛行機の部品か銃弾の何発かになったのだろうが、仏の威光を持ってしても「皇国」は守れなかったのね。

















私と栗本さんはしんどかったので、ここで休憩。従って二人は、以下の岩戸神社にはお参りせず。







































乾さんの頭にトンボが。
















































































	 
	神宮寺小太郎   出典:ウィキペディア(抜粋)

	鎌倉期から室町期にかけて当地の豪族として神宮寺氏が楠木氏一族として資料に見える。『太平記』巻一六に延元元年
	の湊川の戦いで戦死した楠木氏一族6人の中に楠木正成公八臣の一人である神宮寺太郎兵衛正師の名がある。
	また、『和田文書』には神宮寺新判官正房の名が湊川合戦で奮戦した者として記されている。両名は同一人物とも兄弟
	か親子とも言われている。当地にある神宮寺小太郎塚は正師または正房の墓であるとの言い伝えがある。
	 
	一般的なこの人物の評伝は以下の様なものである。

	「神宮寺小太郎は、当地の豪族で、神宮寺城を構え恩智左近満一とともに楠木正成に属し、その八臣の一人である。
	 正成湊川で戦死後は、その子正行に従い、四條畷の戦で討死し、そのとき北朝方により神宮寺城も落城した。」

	しかし小太郎という人物は文献上存在せず、太郎或いは正房がいるだけである。これらの人物像が重なって小太郎とい
	う人物になったのか、或いは、一族に二人とは別人の小太郎なる人物が居たのかは定かでない。しかし地域の人々がこ
	の塚に寄せる思いと、忠臣としての神宮寺家を寿ぐ気持ちは正しく日本人のものであろうという気がした。








	 
	八王子神社  出典:八尾市観光データベース

	式内社で常世岐姫神社といったが地元では八王子神社として親しまれている。古記録によれば宝亀七年(七七六)の
	夏河内國大県郡の人正六位上、赤染人足ら十三人に常世岐の姓を与えたという。この赤染とは茜染のことでこのあた
	りの人々が茜染めをやっていたことがわかりこの人々の祖神を祭ったものであろう。今は安産の神として名高い。
	【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

	王子神社=常世岐姫神社:河内国大県郡の人正六位赤染(茜染)人足ら13人に常世連の姓を与えられ、その祖神をまつ
	ったものであろうと言われている。
	【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)より抜粋】






























	 
	恩智左近の墓  出典:八尾市観光データベース

	恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人である。
	湊川の戦の後は、その子正行を助けて南朝方を守ったが不幸にして延元二年(一三三七)七月熱病のため急死した。
	「傍の墓碑十六基は明治十年の西南戦争に官軍として従軍し、戦死した中河内近在の人々の墓である。
	【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

	*恩智左近の出身地などについてはいくつかの説があります。


	 
	これは西南戦争で死亡したこの地域出身者の墓である。まんとまぁ。
	 
	西南戦争戦死者墓―恩智左近墓の傍に明治10年の西南戦争に官軍として従事し、戦死した旧中河内郡近在の人々の墓が
	16基まつられており、感応院にはその位牌がまつられている。
	【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】















恩智左近の墓を降りてきた所に上の看板があった。スパルタ教育とはまた懐かしい。一体どんなんやろ?









	
	恩智石器時代遺跡  出典:八尾市観光データベース

	この地、天王の森は恩智神社のお旅所でこの森を中心として東高野街道から恩智川に至る付近一帯は府下でも有名な
	弥生時代の遺跡で大阪府の建てた碑がある。近年縄文式土器も出土している。
	今日まで地下およそ三メートルの辺から種々の石器土器が出土し、またこの斜面から石鏃が露出した。
	【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

	*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。











余りに見事な青空で、おもわず青空をBACKに記念撮影。私の像も念写。









どこで反省会したんかな、難波だっけ?下は確か栗本さんに案内して貰った英国パブだよね。




	[参考資料] ホントはここまで行きたかったのれす。トホホ。
	
	■高尾山周辺は、弥生土器や石器が採集されることから、弥生時代の高地性集落であった言われます。大正14年には、
	山頂から少し下った標高200mのところから、ぶどう畑の開墾中に多紐細文鏡が見つかっています。
	この鏡は古墳から見つかる中国鏡とはまったく異なり、朝鮮半島の青銅器時代に盛行した鏡で、日本ではわずか8面し
	か出土していない貴重な鏡で、鏡の背面の6つの重圏内に三角文・斜格子文・市松文が施され、細かい斜線でうめられ
	ています。
	山ろくに広がっていた渡来文化を偲ばせる貴重な遺物です。また、神社の周辺山ろくに存在する「大県遺跡」(おおあ
	がたいせき)は、古墳時代〜奈良時代の大遺跡で、最近の発掘調査で、次々と渡来系の鍛冶技術集団の集落遺跡であっ
	たことを示す鍛冶炉や建物跡・井戸のほか、多数の韓式土器や鉄縡なども出土しています。 
	『大県の鉄-発掘調査15年』1996.3 柏原市教委

	 
		多紐細文鏡       高尾山頂の南西面に岩盤が露出する

 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/218回例会・恩智川流域を歩く