Music: 京都の恋



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		歴史倶楽部第205回例会 醍醐寺近辺・太閤秀吉「醍醐の花見」探訪
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		☆2015年4月26日(日曜日)
		☆10:00AM 京阪線「三条京阪」駅前集合(高山彦九郎皇居遙拝像の前あたり)
		★見学旧跡    三条京阪より京都市営地下鉄「東西線」で「小野」まで。(コースは別途地図参照の事)
		 醍醐天皇ゆかりの寺「勧修寺」。	小野小町ゆかりの寺「随心院」。
		 醍醐天皇後山科陵・朱雀天皇醍醐陵。 理性院・三宝院・長尾天満宮。
		 醍醐寺(金堂・五重塔・女人塔・奥醍醐)			
				− 昼食 −
		 明智塚・法琳寺跡碑・明智藪(明智光秀が討たれたところ)「平家物語悲劇の主人公」平重衡の墓。
		 「栢(かや)の杜」遺跡。 (醍醐寺別院八角堂の跡)	
		 平家物語ゆかりの阿波内侍の寺「一言寺」。かやの木不動「善願寺」  → 「醍醐駅」へ
		 東西線にて「三条京阪」へ。  三条にて反省会・解散 −
		★弁当・水筒・雨具類は各自ご準備下さい。(付近にコンビニ・食堂はありません)
		★当日連絡先  井上 090-xxxx-xxxx (自宅 06-xxxx-xxxx)
		★参加連絡   早めにに参加・不参加をお知らせ下さい。
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		このHPの解説は、今までに行った例会時の解説、並びに「天皇陵めぐり」ならびにinternet内のウィキ、
		と京都市HPから転載しています。あしからず。







自宅近辺の花は、すでに桜からツツジへと移ったけれど、本日は「醍醐の花見」で有名な秀吉の醍醐」へ。



阪急四条で降りて、京阪三条へ歩く途中の鴨川で。アオサギ君の羽づくろい。



三条大橋。この袂から上へあがる。そこが待ち合わせの「高山彦九郎皇居遙拝像」である。


	
	京都府京都市三条大橋東詰(三条京阪)に皇居望拝(誤って土下座と通称される)姿の彦九郎の銅像がある。
	初代は1928年に作られ、法華経と伊勢神宮で入魂した柱が納められ、東郷平八郎が台座の揮毫をした。しかし、
	1944年11月に金属類回収令で供出され、現在の銅像は1961年に伊藤五百亀によって再建されたものである。
	2代目は若干西に移動し、初代の台座跡には「高山彦九郎先生銅像趾跡記念碑」が建てられている。


	
	高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日))
	は江戸時代後期の尊皇思想家である。父は高山良左衛門正教、母はしげ。兄は高山正晴。妻はしも後にさき。
	子に高山義介ほか娘など。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人。名は正之。


	
	上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、諱を正之という。戒名
	は「松陰以白居士」。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田十六騎の一人である高山重栄とされてい
	る。13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各
	地を遊歴して勤皇論を説く。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多
	くの人々と交友し、蝦夷地(北海道)へ渡ろうとするが果たせずにいる。京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の
	亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁した。その感激を詠った次の歌は、愛国百人一首にもとられており、
	名高い。

	我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ


	
	尊号一件と呼ばれる事件に遭遇し、公家中山愛親の知遇を得た事が老中の松平定信など幕府の警戒を呼ぶ。
	1791年(寛政3年)には九州各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとするが退けられ、一時は豊後国日田において
	捕縛される。その後も幕府の監視を受け、1793年(寛政5年)筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃する。享年46。


	
	多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの	影響を与えた人物で
	ある。また二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物でもある。かの吉田寅次郎は、
	高山彦九郎のことを知って以後、自分の名前を彦九郎の戒名にちなんで「松蔭」としたのは有名である。それ
	を知った吉田松陰の師佐久間象山は「あんな馬鹿の名前を名乗るのか」と笑ったそうである。



京都市営地下鉄「小野駅」で降りて勧修寺方面へ歩き出す。小野川(醍醐川?)に掛かる「なぎつじばし」。



その川を渡った所に坂上田村麻呂公園があって、そこに征夷大将軍「坂上田村麻呂」の墓所がある。


	
	1919年に発見された山科西野山古墓は、国宝を含む豪華な副葬品にもかかわらず、その被葬者が永く明らかで
	はなかった。平安時代の貴族の墓とされていたが、大正8年に地元の住民が竹林に土入れ作業をしていたところ、
	偶然に木炭で覆われた木棺墓を発見した。発掘調査の結果、金銀平脱双鳳文鏡、金装大刀、鉄鏃、鉄刀子、鉄釘、
	鉄板、硯、石帯破片、漆箱、桐箱などの副葬品が発見された。平成19年、京都大学による調査の結果、田村麻
	呂の墓とされた。

	
	京都大学吉川准教授によると、古地図・古文書、現在の地形といった資料や情報を横断的・総合的に研究した
	結果、征夷大将軍坂上田村麻呂の墓である可能性が極めて高いという。平成19年6月に発表され、大きな話
	題となる。吉川准教授は、清水寺に残る文献「清水寺縁起」を調査し、811年10月に「(田村麻呂の墓に)
	山城国宇治郡七条咋田里西栗栖村の水田、陸田、山を与える」という記述があることに注目した。この場所を
	東大史料編纂所が保管する当時の条里図(地図)と照合したところ、8世紀後半から9世紀前半の築造とみら
	れる西野山古墓の場所と一致することが確認されたという。


	
	京都市山科区勧修寺東栗栖野町「坂上田村麻呂の墓」。780年、妻の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血
	を求め音羽山に入り込んできた若者が、そこで清水寺の開基となった延鎮に出会って、殺生の罪を説かれ、鹿
	を弔って下山した。彼は延鎮の教えに従って観音に帰依し、観音像を祀るために自邸を本堂として寄進した。
	この若者が坂上田村麻呂である。8世紀末は大和朝廷の東国征討政策がより強行に進められていた時代である。
	793年、陸奥国の蝦夷に対する戦いで、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を補佐する副将軍達の中で、田
	村麻呂は多大な功績を上げた。


	
	彼は後に征夷大将軍となり、蝦夷征討の総指揮を執った。801年、桓武朝の蝦夷征伐が実施され、44才に
	なった征夷大将軍坂上田村麻呂は平安京を出発した。4万の兵を引き連れ胆沢(いざわ)を越えて東北奥部ま
	で優位に進撃した。802年に胆沢城を築くと、それまで頑強に抵抗を続けていた蝦夷の首領阿弖流為(アテ
	ルイ)と母礼(モレ)は、これ以上の死傷者を出す訳にはいかないと五百人余りの部下を引き連れて投降した。



この下に「立ったまま!」葬られているのだ。まさに京都の守護神だ。


	
	田村麻呂は阿弖流為と母礼と共に京都に戻ってきた。敵対関係ではあったが、武勇とその人柄から、田村麻呂
	は二人に畏敬の念を抱くようになっていた。田村麻呂は二人の命乞いをして、阿弖流為らに恩賞を与えて故郷
	に還そうと考えていたのである。


	
	ところが彼らの処遇を決める朝議では、二人の罪を許さず処刑するというものであった。田村麻呂は二人を
	連れて帰ったことを後悔した。そして悲しみの内に802年、河内国で手に掛け屍を手厚く葬ったのである。
	処刑された阿弖流為と母禮の首塚は、枚方市片埜神社横の牧野公園に残っている。また清水寺の境内には、
	関西岩手県人会の手によって、阿弖流為と母礼の武勇と田村麻呂の人柄を称えて「北天の雄、阿弖流為、母
	禮之碑」と彫られた顕彰碑が建てられている。清水の舞台の下、やや南の丘の上にある。 



川を渡って勧修寺へ向かう。








	勧修寺

	昌泰三年(900年)、醍醐天皇は生母の菩提を弔うため、生母の里であった寺を御願寺と定め、外祖父藤原高藤
	の諡号をとって勧修寺と号した。天皇家、藤原家の帰依のもと、代々の法親王が相次いで入寺し、門跡寺院と
	して繁栄したが、まもなく衰え、徳川氏の時代、寺領寄進などにより再興された。
	寝殿作り風の宸殿や、江戸初期書院作りの典型とされる書院(重文)は元禄十年(1697)に、明正天皇の旧殿
	を外賜されたもので、書院には土佐光起の作とされる襖絵がある。この寺の見所は、「勧修寺氷池園」と呼ば
	れる池のある庭園である。また、勧修寺はこの庭園しか公開されていない。
	この庭園は「典雅の極致」とたたえられるように、まさに平安期族の庭である。二万平方メートルの池を中心
	に展開する雄大な池泉舟遊式の庭園で、池の中には大小3つの島が浮かび東山を借景に15の景勝が設けられて
	いる。



ハワイでGUNs射撃の的にしたシャツを来ている。私が撃った弾の跡はバラバラだった。wifeは大半真ん中に命中させていた。





	真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は
	千手観音である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。「山階門跡」とも称す
	る。
	寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称
	としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」
	である。
	1872年10月30日(明治5年9月28日)から1881年(明治14年)6月にかけて勧修寺内の一部が勧修小学校として
	使用されていた。



	『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、
	胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤
	原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号し
	た。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、1470年
	(文明2年)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。



	宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れ
	を汲む内大臣藤原高藤に嫁した。彼らの間に生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。
	高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。なお、高藤と列子のロマンスについて『今昔物語集』
	に説話が残されている。



	創建年代については上述の通り昌泰3年とするのが一般的だが、異説もある。勧修寺は延喜5年(905年)、定額寺
	に列せられているが、この時の太政官符には「贈皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、これに従えば、
	胤子の没した寛平8年(896年)以前の創建となる。



	前述の通り、勧修寺は延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、皇室と藤原氏の援助を受けて栄えた。天永元年
	(1110年)7世長吏となった寛信(1084 - 1153)は藤原高藤8世の孫・藤原為房の子で、東寺長者、東大寺別当な
	どを歴任した人物である。「勧修寺法務」とも称された寛信は真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である
	勧修寺流の祖とされている。













	南北朝時代、後伏見天皇第7皇子の寛胤法親王(1309 - 1376)が15世長吏となって以来、勧修寺は宮門跡寺院と
	なり、幕末まで法親王ないし入道親王が入寺した。中世の勧修寺は現在の京都市山科区勧修寺一帯を領するほか、
	各地に広大な寺領をもち、真言宗小野流の中心寺院、皇室ゆかりの寺院として最盛期を迎えた。建武3年(1336年)
	の「勧修寺寺領目録」によると、勧修寺の寺領は加賀国郡家荘をはじめ、三河、備前など18か荘に及んでいた。





	宸殿−元禄10年(1697年)に明正天皇の旧殿を下賜されたものという。入母屋造、桟瓦葺き。内部は書院造である。
	明治5年9月勧修小学校が開校時、ここが校舎になった。



	その後、応仁の乱と文明2年(1470年)の兵火で寺は焼失。豊臣秀吉が伏見街道を造るに際し境内地を削られる
	などして次第に衰退する。寺が再興されるのは天和2年(1682年)、霊元天皇皇子の済深法親王が29世長吏とし
	て入寺してからであった。
	法親王が東大寺大仏殿再建に功があったとして、寺領が1,012石に加増された。現存する本堂、宸殿、書院等の
	伽藍は、霊元天皇、明正天皇などの旧殿を下賜されたものである。済深法親王に次いで30世となった尊孝法親
	王は伏見宮出身であった。法親王の叔母にあたる真宮理子(さなのみやまさこ)が紀州藩出身の将軍・徳川吉
	宗の正室であった縁で、紀伊国の約100か寺が勧修寺の末寺となった。西国札所として著名な紀三井寺護国院は、
	現在は真言宗から独立しているが、元は勧修寺の末寺であった。幕末の32世済範入道親王も伏見宮の出身であ
	ったが、後に還俗して山階宮晃親王となった。



	真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も勧修寺は
	「真言宗」にとどまっていたが、明治40年(1907年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺
	派、泉涌寺派として独立。勧修寺は山階派本山となった。その後、第二次大戦中には宗教団体法の施行により、
	既存仏教各派の統合が進められ、真言宗各派は完全に統合されたが、戦後の昭和27年(1952年)に再度山階派と
	して独立している。









これが水戸黄門が寄進したと言われる石灯籠。







	『今昔物語集』には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、
	鷹狩が趣味であった。ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていた高藤は、雨
	宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるままに弥益の邸に一泊した高藤は弥
	益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。
	翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを
	厳禁した。その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。それから六年後、高藤はようやく列子と再会す
	る。列子には娘がいた。六年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。この娘こそが後に宇多天皇の女
	御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。



	書院−貞享3年(1686年)に後西天皇の旧殿を下賜されたものという(明正天皇の旧殿とも)。入母屋造、
	柿(こけら)葺きで、一の間の違棚は「勧修寺棚」として知られる。障壁画は土佐光起・光成父子の作と
	されるが、狩野派の作とする説もある。書院前の庭にある燈籠は徳川光圀寄進と伝え、「勧修寺型燈籠」
	と呼ばれる。



	山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。境内東側には手前から
	宸殿、書院、五大堂、本堂などが建つ。境内西側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面して楼閣風
	の観音堂(昭和初期の建立)が建つ。























	庭は勧修寺氷池園という池泉庭園である。中心を占める池は氷室の池といい蓮で知られており、平安時代
	には1月2日にここに張った氷を宮中に献上してその厚さによって五穀豊穣を占ったと言われている。池には
	野鳥が多く、特にカワセミが来ると言うのでそれを狙ったカメラマン達が大勢いる。



	本堂−寛文12年(1672年)に霊元天皇の仮内侍所を下賜されたもので、元は近衛家の建物であったという。
	本尊千手観音立像は醍醐天皇の等身像と伝えるが、現存の像は室町時代頃の作である。

	
	これは、どうしてこういう写真になったのだろう?不思議なこともあるもんだ、と思っていたら、ガラス
	越しに撮ったのでガラスに映っていた光景が一緒に映っていたのだった。「さては仏のご威光か」と思った
	写真も、「分かってしまえばこの世にミラクルなどは無いのだ」という見本のような写真。



















Bird watcherの私としては、面目躍如というところか。



小野小町のぉー、随心院〜ってか。



	<随心院>

	随心院(ずいしんいん・ずいしんにん、隨心院)は京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。
	小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基。本尊は如意輪観音。寺紋は九条藤。当寺の位置する小
	野地区は小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。
	


	随心院は、仁海(954 - 1046)が創建した牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であった。仁海
	(954- 1046)は真言宗小野流の祖である。神泉苑にて雨乞の祈祷をたびたび行い、そのたびに雨を降らせたと
	され、「雨僧正」の通称があった。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2年(991年)に建立した
	寺である。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく
	死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けた
	という。なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母ではなく父とされて
	いる。



	第5世住持の増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。続く6世顕厳の時には順徳天皇、
	後堀河天皇、四条天皇の祈願所となっている。東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳(1151 - 1236)の時、
	寛喜元年(1229年)に後堀河天皇の宣旨(せんじ)により門跡寺院(皇族や摂家出身者が住持として入寺す
	る寺院)となった。その後一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺している。



	その後多くの伽藍が建造され、山城、播磨、紀伊などに多くの寺領を有したが応仁の乱によりほとんど焼失
	した。『隨心院史略』によれば、応仁の乱後は寺地九条唐橋や相国寺近辺などへたびたび移転している。
	その後慶長4年(1599年)、24世増孝(九条家出身)の時、曼陀羅寺の故地に本堂が再興されている。



	江戸時代中期の門跡であった堯厳(1717 - 1787)は、関白九条輔実の子で、大僧正に至ったが、九条稙基が
	夭折したことを受けて寛保3年(1743年)還俗し、九条尚実と名乗って関白、太政大臣の位に至っている。



	真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も随心院
	は「真言宗」にとどまっていたが、明治40年(1907年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、
	東寺派、泉涌寺派として独立。随心院は小野派本山となった。その後昭和6年(1931年)には真言宗小野派を
	真言宗善通寺派と改称。
	昭和16年(1941年)には善通寺が総本山に昇格した。現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が善通寺派総本山、
	随心院は同派大本山と位置づけられ、善通寺には管長が住し、随心院には能化が置かれている。



	また近年、昭和48年には「はねず踊り」を創めたり、平成15年には「ミス小町コンテスト」、平成20年
	にライトアップ、平成21年には若手アーティストによる「極彩色梅匂小町絵図」という障壁画を取り入れた
	りと、新しい仏閣像を作り出している。



随心院を出て、醍醐寺へ向かう途中の公園。咲き誇った藤の花の下で昼食。







歳食ったら人は子供に還ると言うが、・・・・。もう二人は、とっくに還暦は過ぎているから子供なんだな。







	【第60代 醍醐(だいご)天皇】

	別名: 敦仁(あつぎみ)
	生誕−崩御:元慶9年(885)〜 延長8年(930)(46歳)
	在位期間: 寛平9年(897)〜 延長8年(930)
	父: 宇多天皇 第1皇子
	母: 藤原胤子
	皇后: 藤原穏子
	皇妃: 為子内親王、源和子、藤原能子、藤原和香子、藤原桑子、藤原淑姫、源周子、源封子、
	    藤原鮮子、満子女王、源暖子、他  
	皇子女:克明親王、保明親王、代明親王、重明親王、常明親王、式明親王、有明親王、時明親王、
	    長明親王、宣子内親王、恭子内親王、慶子内親王、勤子内親王、婉子内親王、都子内親王、
	    修子内親王、敏子内親王、雅子内親王、普子内親王、靖子内親王、韶子内親王、康子内親王、
		斉子内親王、英子内親王、兼子、厳子、自明、允明、為明   
	皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)  
	陵墓: 後山科陵(のちのやましなのみささぎ:京都府京都市伏見区醍醐古道) 


醍醐天皇宸筆 白居易詩巻(部分)



	この陵は住宅街の真ん中にある。御陵だけが家と家、家と駐車場の中にぽつねんとある。昌泰3年(900)
	9月9日、重陽の節句に宮中では観菊の歌会が行われた。翌日の後宴にて右大臣近衛大将であった菅原道真
	は、醍醐天皇より作詩を命じられ、宇多上皇・醍醐天皇の恩に報いたいと詠んだ漢詩を献上した。感激した
	醍醐天皇は御衣を与える。
	この4ケ月後、政敵の時平に西の果てまで流されるとは露程も思わなかった、道真絶頂の時であった。
	宇多天皇の第一皇子敦仁(あつぎみ)親王が即位したのは13才の時である。そのため宇多天皇は菅原道真と
	藤原時平を車の両輪とする天皇親政の政治を画策した。だがその思惑はうまくいかなかった。時平は多くの
	賛同者を得てライバルの道真に退位をせまった。天皇の廃位を謀ったという理由で、道真は太宰府の権師
	(ごんのそち)に左遷される。醍醐帝は、道真の弁護にでた宇多上皇の意見を無視する形でこの処分を実行
	した。



	昌泰4年(901)正月25日、突然の「道真太宰府左遷」を聞いて驚いた宇多上皇は、醍醐天皇への抗議の為
	宮中に駆けつけるが、かつての宇多上皇の腹心で道真の弟子でもあった「藤原菅根」が門番をしていて、
	天皇の命令だとして上皇を宮中にいれず、上皇は呆然と裸足のまま門の外に夜まで立ちつくしていたと言う。
	道真は、結局九州へと赴き、太宰府の地で59歳で没した。道真は遺言で、自分の遺体を車にのせて牛に引
	かせ、牛が立ち止まった所に自分を葬ってくれと言い残した。味酒安行(うまさけやすゆき)によって遺言
	は実行され、小さな塚が築かれた。2年後味酒はその場所に祠廟を建てたが、延喜19年、更にこの祠を藤
	原仲平が大きな社殿に作り替える。これが現在の太宰府天満宮(福岡県太宰府市)であり、天満宮に牛の像
	があるのはその故事によっている。





	醍醐上皇は延長8年(930)崩御し、土葬される。山陵の埋葬主体は、一辺3丈、深さ9尺の土壙を掘り、
	その中に一辺1丈、高さ4尺3寸の「校倉」を納め、さらにその中に棺を入れたもの。外部構造としての
	墳丘はないが、陵上には卒塔婆3基を立て、承平元年(931)には空堀が掘られた。現陵は直径45mの
	円憤だが、盛り土はなく周囲に周溝と外堤をめぐらせている。
	鎌倉時代の「宇治郡山科郷古図」に「延喜御陵」として挙げられている事、醍醐寺が陵の管理と祭祀を継
	続していた事などから、この陵は、醍醐天皇陵と見なしても問題なさそうである。







	<怨霊物語>

	古来から、無実の人間が陥れられて、その怨念が時の政権に祟るというのは日常茶飯事的に記録されている。
	これはおそらく、当時にあっては広く一般社会に受け入れられていた概念だろうと思う。今日では一笑に付
	されるようなお話も、古代にあっては真面目に取りざたされていたのである。藤原氏に冤罪をかけられ、流
	罪になった光仁天皇の皇后・井上内親王、皇太子・他戸親王(おさへしんのう)、桓武天皇の弟で、反逆罪
	で流刑となった早良親王(さわらしんのう)らは特に有名である。
	彼らの怨霊は、その高い地位の故に一般の怨霊とは区別されて「御霊」と呼ばれることもあるが、生前の権
	力が強大だったこともあって、死後も天変地異や疫病を引き起こす力があると信じられていたようである。
	古来、御霊を慰めるための様々な催しが幾度と無く行われてきており、京都の「祇園祭」などはその名残と
	言われている。
	怨霊(御霊)信仰が社会に及ぼした影響については、古くは梅原猛、最近は小説家の井沢元彦らが言及して
	いるが、御霊信仰は近世に至るまでこの国の支配層に根付いており、明治天皇は、「末代まで天皇家に祟っ
	てやる」と言い残して死んだ崇徳上皇の鎮魂のため、その鎮守府を讃岐から京都へ移している。(京都・白
	峰神社)太宰府において死んだ菅原道真の怨霊が、政敵に祟り、天地異変を起こしたことは「怨霊復讐劇」
	としては最初のものとされるが、当時の記録には見えないようである。
	文献での初現は、「日本紀略」延喜23年の条に、「菅帥の霊魂宿忿の仕業と世間は噂せり。」とある。
	道真が左遷されたのは昌泰四年(延喜元年)正月だから、23年後という事になる。道真は、延喜3年
	(903)に死去したが、死後20年間に渡ってのあらゆる凶事が道真のせいだとされたのは、それだけ道真
	の生前の権力が大きかったのだとも言える。






	【第61代 朱雀(すざく)天皇】

	別名: 寛明(ゆたあきら)
	生誕−崩御:延長元年(923)〜 天暦6年(952)(30歳)
	在位期間: 延長3年(925)〜 天慶9年(946)
	父: 醍醐天皇  第11皇子
	母: 藤原穏子(藤原基経の娘)
	皇妃: 
	皇子女:昌子内親王
	皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)  
	陵墓: 醍醐陵(だいごのみささぎ:京都府京都市伏見区醍醐陵東浦町)





	醍醐天皇の第11皇子。名は寛明。延長八年(930)9月、醍醐天皇は皇太子・寛明親王に譲位して程なく、
	46歳で崩御する。天皇はわずか八歳で即位したため、藤原忠平(時平の弟)が摂政となる。即位後、醍醐
	上皇、宇多法皇が相次いで崩じて後ろ盾を亡くし、摂政となった藤原忠平が実権を握った。醍醐天皇の御
	代、清涼殿に菅原道真公の祟りと言われた落雷があり、比較的安定していた平安時代前期が終了する。
	醍醐天皇のあとを受けて朱雀天皇は即位したが、相次ぐ内乱や天災に悩まされた在位期間であった。醍醐
	天皇時代に完成した「延喜式」に続いて、朱雀天皇の承平4年(931)に「和多類聚抄」(和多抄)も完成
	を見ている。 



	承平5年(935)、平将門が関東で反乱を起こし、いわゆる「将門の乱」が始まる。またこの年、新羅が滅
	亡し、高麗国により朝鮮半島の統一が成る。翌承平六年( 936)には、西海で藤原純友の乱が勃発する。
	朝廷は、藤原忠文を征夷大将軍に任命し将門討伐に向かせ、京都府八幡市の石清水八幡宮で、平将門と藤
	原純友の反乱鎮圧のための祭礼を執り行う。
	天慶2年(939)12月15日、平将門は自ら「新皇」と名乗り、新しい天皇に就任したことを宣言するが、天慶
	3年(940)2月、藤原秀郷・平貞盛らに攻められ、新皇宣言の後わずか2ヶ月で、猿島北山(現茨城県岩
	井市)に敗れる。
	将門の首はすぐさま都に送られ、獄門台にさらされるが、その首は空を飛んで関東に戻ったと伝えられ、
	その首の落ちた場所が、現在の東京駅近くの「首塚」である。ちなみに、この首塚のある現住所は「東京
	都中央区大手町1丁目1番地1号」であって、中央区はここから始まっているのである。
	一方、将門の乱直後に西海で乱を起こした藤原純友のほうも、天慶4年(941)6月に討ち取られ、ここに
	「承平天慶の乱」は平定される。この乱に現れているように、この時代は地方に土着した貴族の武士化が
	進み、律令体制が次第に弱体化していく節目でもあった。 
	この乱の間、承平4(934)年7月と天慶元年(938)4月・8月の大地震、承平2 年(932)・承平7年(937)
	承平7年の富士山噴火が記録に見える。理科年表によれば、この937年の噴火で山中湖が形成されたそうで
	ある。



	天慶9年(946)、天皇は24歳で弟の成明親王(村上天皇)に譲位し、朱雀院に隠居した。この突然の
	譲位は、天皇が母穏子のもとへ行幸した際、天皇の姿を見た母がその姿をほめ、東宮(成明親王)のこ
	んな姿も見たいと言ったのを、弟への譲位を促されたと受	けとったからと言われる。村上天皇以降
	を一般に平安時代後期と呼び、やがて藤原道長・頼通の時代が到来する。
	朱雀天皇は天暦6年(952)崩御し、遺体は来定寺の北野(伏見区深草村付近)において火葬された。
	遺骨は醍醐天皇陵の脇に埋められ、祠が造られた。元禄11年(1698)に「御廟」として江戸幕府が認定
	し、ついで元治元年(1864)の改修によって拡張・整備され現在に至っている。現陵は、直径6mの円
	形の盛土を中心とし、一辺18mの方形の土地に周溝がめぐらしてある。



	私(井上筑前)の生まれ故郷は福岡県朝倉市秋月である。秀吉に逆らって宮崎県高鍋へ流されるまで、
	この地は約四百年に渡って秋月氏が支配していた。秋月氏は大蔵氏を遠祖とする。秋月家由緒によれば、
	大蔵氏は後漢霊帝の玄孫が来朝し帰化した阿知使主の後裔といわれる。大蔵春実は天慶3年(941)、
	藤原純友が反乱を起こし大宰府に攻めこんで焼き打ちしたとき、朱雀天皇より錦の御旗および天国の
	短刀を賜わり、小野好古らとともに純友を追討した。
	その勲功によって西征将軍となり、筑前に所領を賜り、代々、太宰府政庁の府官の職務についた。そして、
	三笠郡原田(はるだ)村に移って原田(はらだ)と称した。春実より七代目の子孫原田種雄は、「秋月家
	譜」に「種雄賜封筑前秋月荘乃城而治之、自是以秋月為姓也」とあり、種雄が源頼家の時代に「叛乱」の
	兆しをいち早く鎌倉幕府に知らせた功により秋月荘を賜って、地名によって秋月氏と称したとなっている。
	江戸時代になって、黒田長政の三男長興が福岡黒田藩の支藩として秋月藩を受領し、以来明治維新まで続
	くが、明治初期、不平氏族が萩の乱に呼応して「秋月の乱」を引き起こし、当然鎮圧されて「山峡の小京
	都」と言われる現在に至っている。















	<醍醐寺>

	貞観16年(874)、聖宝理源大師は上醍醐山上で地主横尾明神(よこおみょうじん)の示現によって霊泉
	(醍醐水)を得る。そして山上に小さな御堂を建立し、准胝(じゅんてい)観音像・如意輪観音像を安置
	した。これが醍醐寺の創建とされる。
	その後、醍醐天皇の御願によって、延喜7年( 907)に薬師堂が建立され、また五大堂が落成されて上醍醐
	の伽藍が完成し、ひきつづいて下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立された。
	ついで醍醐天皇の皇子朱雀天皇の起工により、その弟である村上天皇の御代に(天歴5年(951))五重塔が
	落成し、下伽藍が完成する。慶長3年(1598)の春、太閤秀吉が秀頼、北政所、淀殿、大名の長束正政家な
	ど約900名を従えて催した「醍醐の花見」は有名である。

	◆五重塔  平安時代(国宝)
	醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天歴5年(951年)に完成した。京都府下最古
	の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものといわれる。

	◆平安末期の醍醐寺
	醍醐寺は平安末期政治の中心にあった人達の関与が深く、藤原一族に代わって大きい権力を持っていた権門
	源俊房(けんもんみなもとのとしふさ)の系統(醍醐源氏)が座主(ざす)として永く続いていた。
	そして座主勝覚(しょうかく俊房の息子)の時代に山醍醐・下醍醐共に伽藍がことごとく整備され、永久3
	年(1115)に三宝院が建立され、醍醐寺発展の基礎が完成した。





例によって600円以上の施設には入場しないという不文律(?)に従って、境内へは入らず。ははは。





































		大田垣蓮月

		カテゴリ: 藤堂氏 1791年生 1875年没
		江戸時代の女性 幕末の女性 江戸時代の歌人 江戸時代の陶芸家 江戸時代の僧

		大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ、寛政3年1月8日(1791年2月10日) - 明治8年(1875年)
		−2月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも
		称した。
		京都の生まれ。実父は伊賀国上野の城代家老藤堂良聖。生後10日にして京都知恩院門跡に勤仕
		する大田垣光古(もとは山崎常右衛門)の養女となった。養父の光古は因幡国出身で、誠を引
		き取った当時は知恩院勤仕といえども不安定な立場にあったが、同年8月には知恩院の譜代に
		任じられ、門跡の坊官として世襲が許される身分となった。太田垣氏は室町時代に因幡・但馬
		で栄えた山名氏の重臣の子孫である。
		生母は誠を出産して後に、丹波亀山藩の藩士の妻となった。この生母の結婚が縁で、寛政10年
		(1798年)頃より丹波亀山城にて御殿奉公を勤め、10年ほど亀山で暮らした。
		養父の光古には5人の実子がいたが、そのうち4人は誠が養女になる前に亡くなり、唯一成人
		まで成長した末子の仙之助も誠が亀山に奉公していた時期に病没した。そのため光古は但馬国
		城崎の庄屋銀右衛門の四男天造を養子に迎え、望古と名乗らせた。
		誠は、亀山での奉公を終えた文化4年(1807年)ごろに望古と結婚。誠と望古の間には長男鉄
		太郎、長女、次女が生まれたが、いずれも幼くして亡くなった。さらに文化12年(1815年)に
		は夫の望古も亡くなり、誠は25歳にして寡婦となった。
		望古の死から4年後の文政2年(1819年)、誠は新たに大田垣家の養子となった古肥と再婚す
		る。古肥は旧名重次郎といい、彦根藩の石川光定の次男であった。誠と古肥の間には一女が生
		まれたが、文政6年(1823年)には古肥と死別した。古肥の死後、誠は仏門に入ることを決め、
		養父光古と共に剃髪した。剃髪後は、誠は蓮月、光古は西心と号した。

		蓮月が出家した年に、大田垣家は再び彦根藩より古敦という養子を迎え、知恩院の譜代を継承
		させた。その頃、西心は知恩院内の真葛庵の守役を命じられ、蓮月親子と共に庵に移った。
		しかしながら、この生活は長くは続かず、二年後には古肥との間の女児が亡くなり、その二年
		後には養父西心までが亡くなった。
		養父の死を期に、連月は生まれ育った知恩院を去って、岡崎村(現在の京都市左京区)に移っ
		た。その後の蓮月は住居を転々とし、「屋越し蓮月」と呼ばれるほどの引越し好きとして知ら
		れた。

		六人部是香・上田秋成・香川景樹に学び、小沢蘆庵にも私淑した。歌友に村上忠順・橘曙覧・
		野村望東尼・高畠式部・上田ちか子・桜木太夫などがいる。歌集に「蓮月高畠式部二女和歌集」
		「海人の刈藻」。『富岡鉄斎 大田垣蓮月』(近代浪漫派文庫2:新学社、2007年)に、和歌
		と消息(書簡集)が収められている。
		岡崎に移った後、蓮月は陶芸により生計をたてた。自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りで施し
		た作品は「蓮月焼」と呼ばれ、京のお土産として人気を博すほど評判であった。後に贋作が出
		回る程であったという。
		出家後の蓮月は、若き日の富岡鉄斎を侍童として暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与え
		た。京都でたびたび起った飢饉のときには、私財をなげうって寄付し、また自費で鴨川に丸太
		町橋も架けるなど、慈善活動に勤しんだ。
		住居としていた西賀茂村神光院の茶所で、明治8年12月10日、85歳で没したが、別れを惜しん
		だ西賀茂村の住人が総出で弔いをしたという。








	醍醐寺塔頭金剛王院一言寺 ひとことでら

	真言宗醍醐派の別格本山。少納言藤原入道信成の女、阿波内待(あわのないじ:建礼門院の侍女)が清水寺
	本尊の霊告により建立したと伝えられている。本堂には千手観音菩薩像、阿波内待の像が安置されている。
	この千手観音菩薩像は33年ごとの開帳で、一心に祈れば言下に願い事がかなえられるということから、一言
	寺と呼ばれている。



	建礼門院は名を徳子といい、平清盛の娘。平家がかつての藤原氏の様な権力を得るよう清盛は画策し、その
	手段として藤原氏同様一門から天皇の母を出す為に徳子を高倉天皇の中宮(皇后と同格)とする。そして生
	まれたのが安徳天皇である。清盛の死後、源義仲軍が都に迫り、平家一門は一転して都を捨て西国へ落ちの
	びていく。この際徳子も、三種の神器を携えた幼い安徳天皇を連れて京の都を後にする。いわゆる福原遷都
	である。しかし源氏の勢いをとどめることができずに、平家一門は壇ノ浦にて滅亡する。一門皆海に身を投
	げる。安徳天皇、徳子も同様だったが、徳子は源氏軍に引き上げられ、都へ護送されることとなった。



	引き上げられた平家の男達はほとんど処刑されたが、女性は赦免されたのである。徳子はしばらく東山の麓
	の吉田にある奈良法師の朽房に身をよせていたが出家し、後に寂光院に入り、その傍らに庵を結んで住んだ。
	建礼門院は臨終にさいし、阿弥陀仏の御手にかけてある五色の糸の一端を持って、念仏を唱えたので、大納
	言佐の局と阿波内侍とが左右に付き添って、この世の名残りに声も惜しまず泣き叫んだと言う。念仏の声が
	弱くなると、西の方に紫雲がたなびき、たとえようもない美しい香りが部屋に満ち、来迎の音楽が空に聞こ
	えてくる。そして静かに息を引き取ったと平家物語は伝える。








		この石標は栢杜遺跡を示すものである。国指定史跡(昭和58年「醍醐寺境内」に追加指定)。  
 
		所在地 伏見区醍醐柏森町 
		建立年 1982年 
		建立者 京都洛東ライオンズクラブ 
		寸 法 高144×幅30×奥行20cm 
		碑 文   [南西]   史跡醍醐寺境内  栢杜遺跡 
			 [南東]  指定昭和四十二年十二月二十七日 
			 [北西]  文部省指定 
			 [北東]   昭和五十七年十一月  京都洛東ライオンズクラブ建立 
		調 査 2002年2月13日 



	醍醐寺境内栢杜遺跡 だいごじけいだいかやのもりいせき 

	栢ノ杜遺跡は、今から約850年前、平安時代の終わりに建てられた醍醐寺の子院跡。場所は、醍醐寺から
	南へ約1km、笠取山の西麓、標高50m前後の西側に視界の開けた高台に位置する。昭和48年に発掘調査が行
	われ八角円堂と方形堂の二つの建物が南北に並んで確認された。建物跡が『醍醐雑事記』や『南無阿弥陀
	仏作善集』の記載に一致することから、長くその存在が不明であった「大蔵卿堂」或いは「栢杜堂」と呼
	ばれた子院がこの場所に存在したことが明らかになり、昭和58年には国の史跡に指定された。

	栢杜遺跡は,醍醐寺の子院であった栢杜堂・大蔵卿堂・庭園遺跡で,醍醐山西麓標高40〜50mの台地上に
	ある。昭和47(1972)年発掘調査が行われ,文献通り大蔵卿源師行の八角円堂の存在や重源(1121〜1206)が
	栢杜堂で九体丈六堂を造立したことが裏付けられた。遺構の残存状態もよく平安から鎌倉時代の建築様式
	がよくわかる貴重なものである。
	
	以前例会でこの地を訪れたのは、以下の文章に2001年とあるからもう14年も前になるのか。アッという
	まだなぁ。還暦過ぎたら一年経つのが早い早い。5年など瞬く間に過ぎてしまった。

	「平安末期から鎌倉にかけてこの辺り一帯にあった古代寺院の跡である。近所の人に聞いても誰一人知ら
	なかった。事前に京都市教育委員会にTELして大体の位置を聞いていてよかった。やっと探し当てた場所
	には真新しい石碑が立っていて、刻文の日付は驚いたことに今日(2001.3.25)になっていた。私が電話
	したので、あわてて教育委員会も石碑を建てたんやで、とはみんなの意見。
	いくら何でもと思ったが、もしかしたら・・・・・・。」



 


	現地説明会資料   平成16年1月17日  財団法人 京都市埋蔵文化財研究所

	建物跡

	基壇の一部と思われる痕跡を確認した。規模は、南北10m、西半分が失われており全容は明らかではないが、
	一辺10mの方形であったと思われる。本来、基壇上には礎石が据えられるが既に失われていた。基壇の周辺
	からは多量の瓦が出土しており、建物に葺かれていたものが落下したもの。瓦のほかに風鐸の破片や釘など
	も出土している。

	
	瓦の出土状況(北から)


	石垣

	建物跡の西側で確認された。石が積まれているのは南北10m余り、高さは最も高いところで0.8mである。
	0.3m程の石が段状に積まれている。建物正面にしか石が積まれていないことから、傾斜地の土砂崩れを防ぎ、
	建物崩壌を防ぐために作られたものと分かる。また、石垣が途切れる南側延長部分では、段差の上部に石が
	敷かれている。

	
	石垣の状況

	溝 

	石垣の前面には平行して、排水のための溝が掘られていた。溝の幅は、1.8mと大きなもの。

	栢ノ杜遺跡で確認した建物跡は、昭和48年の調査の2棟と今回のものを合わせて3棟になった。平安時代の
	終わりに成立した『醍醐雑事記』には栢ノ杜遺跡の事である「栢杜大蔵卿堂」が久寿二年(1155)に供養
	された事が記されており、さらに「大蔵卿堂八角二階九躰丈六堂 三重塔一基各槍皮茸」「願主大蔵卿正
	四位源師行」とある事から、ここには八角二階の建物や三重塔が、大蔵卿を務めた源師行(?〜1172)に
	よって造られたことが分かる。また、鎌倉時代、東大寺を再興した俊乗坊重源の事蹟を著した『南無阿弥
	陀仏作善集』には、重源が「栢杜堂一宇」を造り、丈六の阿弥陀如来像を9鉢、金色の三尺立像などを安
	置した事が記されている。これまでの調査で確認された建物跡が、文献史料に記された建物のどれに当た
	るのかが問題となるが、昭和48年の調査で確認された建物のうち、八角形の建物跡は、その特異な形から
	「八角二階の大蔵卿堂」にあたることは明らかである。一方、方形の建物は、重源が建久三年(1192)に
	造営した兵庫県小野市に現存する浄土寺浄土堂と平面プランが全く同じである事から、重源の造った「栢
	杜堂一宇」に相当すると思われる。
	今回の調査で新たに確認した建物跡は、礎石が全く残っていないため、建物の構造を知る事はできないが、
	文献史料に残る「三重塔」の可能性が考えられる。三重塔としては規模が大きいが、承安元年(1171)に
	建立された兵庫県加西市の一乗寺三重塔(一辺8.93m)の例がある。
	また、塔の屋根は槍皮葺と『醍醐雑事記』にあり、多量の瓦の出土はこれと反するが、鎌倉時代に瓦屋根
	に葺き替えられたとも考えられる。いずれにしても800年前のこの場所には、仏堂や塔が南北に並び、西
	側を通る奈良街道から望めば、その堂舎は燦然と輝いて見えた事であろう。





上の石柱を頼りに相当近辺を探したが見つからない。仕方が無いのでオバサンに聞いてやっと所在地が判明。



道路から一段下がった窪地の中に平重衡の墓はあった。



ここも昔に比べると大分整備されている。綺麗な一画になっていた。








	平重衡(たいらの しげひら)

	?〜寿永四年(???〜1185)、本三位中将(正三位左近衛中将)清盛の五男、母は左大臣平時信の
	女。宗盛、知盛の実の弟。文学芸術面で光る平家の公達中では武勇に優れ、武功も数えるに暇がない。
	源氏との主要な合戦には、ほぼその名を見ることが出来る。なかんずく、奈良法師を攻め、狼藉を極めた
	悪僧達を全滅に追い込んだことは、ひときわ光る武勲であったが、その結果、東大寺や興福寺等の堂搭伽
	藍が兵火によって焼失した。一の谷における合戦で源氏方に捕らえられ捕虜となる。首は、般若寺の大鳥
	居の前に釘づけにしてかけられた。
	治承の合戦の時、重衡はここに立って伽藍を焼き滅ぼしたからである。奥方はこれを聞くと、たとえ首は
	はねられても、むくろはさだめし捨ておかれてあるにちがいない。もらいうけて供養しようと考え、重衡
	の体を日野(醍醐)へ持って帰ってきた。
	平家物語は荒々しい戦の物語であり、閑寂とした滅びの物語であるとともに、美しい恋の物語でもある。
	中でも群を抜いて悲壮なる逸話が重衡には残されている。現代の若い女性達に人気がある由縁だろう。







帰り道、どっかの家の軒先にあった野点風唐傘(?)。
今回は反省会の写真がありません、あしからず。
皆様お疲れ様でした。また次回も宜しくお願いします。






	今回の散策で、私が一番行きたかったのがこの遺跡だった。10数年前の例会では行かなかった(知らな
	かった)ので、今回どうしても行きたくて、みんなで相当探したけれども見つからなかった。断腸の思
	いで現地を後にしたが、いつか雪辱を果たしてリターンマッチしたい。以下はHPから拾ってきた中臣
	遺跡の概要。よく見たら、すぐ近くまで来ていたのだった。


	やましなの歴史 出典:京都市HP

	新規第3章 中臣遺跡   −−夢とロマンあふれる中臣遺跡−−  鏡山次郎 作

	(1)はじめに

	 中臣遺跡のある山科盆地は、北は如意ヶ嶽南端に位置する安祥寺山や諸羽山、東を音羽山・醍醐山、
	西を東山・桃山丘陵に囲まれ南側に開けている、京都盆地のミニュチアのような観を呈した盆地です。
	この盆地の中央を山科川が南流し、それに西側から南流してきた旧安祥寺川が合流しています。
	中臣遺跡は、この両川の合流地点北方に広がる栗栖野丘陵の台地上(下位洪積段丘)一帯に位置して
	います。
	 この場所の一角(西野山中臣町)で、1969(昭和44)年に、地元の(当時)洛東高校1年生
	のO氏によって弥生時代のものと思われる須恵器土器の破片が発見され、一躍注目を浴びるようにな
	りました。以後、1971(昭和46)年から発掘調査が始まり、現在に至るまで85回にわたり発
	掘調査が行われています。
	 中臣遺跡の総面積は10万平方メートル以上と推定されています。検出した遺構・遺物は、旧石器
	時代後期の「ナイフ型石器」をはじめ、縄文時代後期の土壙・弥生時代中期の方形周溝墓・弥生時代
	中期〜古墳時代後期に及ぶ竪穴式住居多数、掘立柱建物跡、平安時代の井戸跡など、きわめて長期間
	にわたるもので、縄文時代〜平安時代まで断続的に続く生活跡であったことが解っています。
	 最初に土器が発見された地名にちなんで「中臣遺跡」と命名されましたが、「中臣」という地名自
	体は、定かではありませんが、古代の山科に勢力のあった古代豪族中臣氏との関連を伺わせるもので
	す。特に古墳後期以後の集落については中臣氏と何らかの関係を伺わせますが、関係を示す直接的な
	証拠はまだ見つかっていません。
	 出土した一番古い遺物は、第74次調査で見つかった約2万年前のものと推定される旧石器時代後
	期の「ナイフ形石器」ですが、大事なことは、同時に剥片・破片を含めて約1,400点も見つかっ
	ている点です。これは製品としての「ナイフ型石器」だけでなく、「この地で製造された」ことを示
	しているからです。これは京都では他にはない貴重な遺跡であると言えます。
	 その他の調査でも旧石器時代のものとして有舌尖頭器も出土しています。縄文時代のものとしては、
	鏃・槍先などの石器、縄文土器、晩期の「土器棺墓」なども発掘されています。また弥生時代のもの
	として、弥生式土器、石斧などの石器、竪穴式住居、方形周溝墓などが、また古墳時代〜飛鳥時代に
	は、土師器・須恵器・朝鮮半島(百済)製の土器のほか、竪穴式住居跡(多数)、掘立柱建物、土壙
	墓・古墳などが多数見つかっています。
	奈良〜平安時代にかけても、土師器・須恵器のほか、掘立柱建物、土壙墓などが発見され、古代から
	中世にかけて、この地で綿々と人々の生活が営まれてきたことが確認されています。 

	【次表は、「第79次発掘調査現地説明会」の資料より】

	時代			主な遺構		主な遺物

	旧石器時代					石器作成の時の剥片
	縄文時代		土器棺墓1基(晩期)	槍先などの石器
	縄文土器
	弥生時代		竪穴住居跡1棟(中期)竪穴住居跡1棟(後期)弥生土器 石斧などの石器
	古墳時代後期〜飛鳥時代	古墳9基 土壙墓8基 竪住居跡62棟 掘立柱建物10数棟	土師器 須
				恵器、朝鮮半島(百済)製の土器  刀子などの鉄製品  砥石などの石製品
	奈良時代〜平安時代	掘立柱建物数棟  土こう墓1基	土師器 須恵器




遺構図とナイフ形石器(上右:中臣遺跡第74次調査報告書(京都市埋蔵文化財研究所より)


	(2)中臣遺跡の発掘調査

	1969(昭和44)年、当時の洛東高校1年生であったO氏が、西野山中臣町で弥生時代の須恵器
	土器破片を採集したことをきっかけに、以後85回にわたり、中臣遺跡の発掘調査が行われました。
	 第1回目の発掘調査は、京都大学考古学研究室、洛東高校郷土クラブなどが「中臣遺跡発掘調査団」
	(代表:故・林屋辰三郎氏)を結成、遺跡発見の契機となった弥生土器採集地点の近くで、1971
	(昭和46)年5月に、約1ヶ月をかけて行われました。
	この時は100平方メートルほどの小規模な調査でしたが、それでも弥生時代中期の方形周溝墓(ほう
	けいしゆうこうぼ)や古墳時代後期の古墳石室が見つかり、弥生土器・石器・須恵器などの遺物も多数
	出土しました。「中臣遺跡発掘調査団」による調査は1次〜3次(1971〜1974)まで行われました。 
	 本格的な調査は、1973(昭和48年)年から、土地区画整理事業に伴って、これは1978
	(昭和53)年まで続きます。この中では、多数の竪穴住居跡、掘立柱建物、土器など数多くの遺物
	が発見されています。
	第4次〜6次(1974〜1976)の調査は、「平安京調査会」によって行われ、第7次(1976.12)以降は
	京都市埋蔵文化研究所によって受け継がれ、現在に至っています。
	 1978(昭和53)年以後は、しばらくは大規模な開発事業もなく、発掘調査は小規模なものに
	とどまっていましたが、バブル期に入って、「新十条道路」の建設工事、またこの道路に直行する南
	北道路である「西野道」の改良工事、さらには周辺の勧修寺第一・第二市営住宅の建替工事など、都
	市基盤整備事業などが次々に行われ、それに合わせた形で、発掘調査も1988(昭和63)年から
	2000(平成12)年にかけて行われました。 
	 これらの調査の中では、1988(昭和63)年から1991(平成3)年までは主として遺跡の
	立地する栗栖野丘陵の頂部から西側の斜面を対象として行われ、縄文時代の土壙10基、弥生時代後
	期の竪穴住居7棟、古墳時代後期の古墳2基、平安時代の建物跡などが発見されています。 
	 1994(平成6)年から1995(平成7)年にかけては、勧修寺第一市営住宅団地の建替えに
	伴って栗栖野丘陵の頂部から東側の斜面が調査されています。ここでは古墳時代後期から飛鳥時代に
	かけての竪穴住居跡20棟が調査され、大型の住居(一辺6m以上)から小型の住居(一辺3〜5m)
	へと、時代が下がるにつれて規模が小型化している様子が明らかにされました。また、住居跡の西域
	で、死者を木棺に入れて埋葬したと考えられる土壙墓が数カ所で発見され、前の調査と合わせて古墳
	時代の終わりから飛鳥時代にかけて存続した集落の居住地と墓地の両方が発見されたことになります。
	また、竪穴住居(第74次調査S3区竪穴2)の床下地面からナイフ型石器(長さ8.5cm)が発見
	されたことから、周辺が丹念に調査され、剥片など1,400点が採集されています。 
	 続いて、1998(平成10)年から1999(平成11)年にかけては、西野道の拡張工事と勧
	修寺第二市営住宅団地建設に伴い、栗栖野丘陵の頂部から東側斜面で、上記の南東部分が調査されて
	います。
	この付近では初めて古墳の存在が確認されました。10基見つかった古墳は、古墳時代(5世紀後半
	から6世紀の初め)につくられたものですが、残念ながら古墳のマウンド自体は削られ、石室なども
	残っていませんでした。しかし、周溝が残っていたことから、発見された古墳のほとんどが方墳であ
	ることが確認されました。方墳の中からは、お供えに埋納したと思われる土器などが出土しています。
	調査では、60棟以上の竪穴住居も発見され、勧修寺第一市営住宅団地敷地の竪穴住居と同じ頃であ
	ることから、この付近にかなり大規模な集落が営まれていたことが判明しました。
	また、飛鳥・奈良・平安時代の掘立柱建物跡や柱穴も多数発見されているところから、生活様式を変
	えながらも継続して人々が生活を営んできたことが明らかになりました。開発によって遺跡が失われ
	ていくことは残念ですが、今後さらに遺跡調査が進み、中臣遺跡の全貌が明らかになることを期待し
	たいものです。



勧修寺第二市営住宅前にある中臣遺跡の説明板






	(3)第74次調査から

	 中臣遺跡74次調査は、京都市勧修寺第一市営住宅の建替に伴い行われたもので、調査地域は
	2つあり、栗栖野打越町12の勧修寺第一市営住宅2号棟、3号棟、打越公園(以上N区)と、栗
	栖野打越町から勧修寺東栗栖野町にかけての、勧修寺第一市営住宅1号棟、および東側道路、南側
	公園の一部(以上S区)です。調査は、1995年6月12日にS区より開始、終了は翌年の2月29
	日です。
	 調査の途中にS3区の竪穴住居の床面下から「ナイフ形石器」が発見されたため、その周辺は特
	にさらに地層を掘り下げ、念入りな調査が行われました。
	 この第74次調査では、遺構として、旧石器時代、縄文時代晩期、飛鳥時代、平安時代末期から
	鎌倉時代、室町時代、桃山時代の各時代の遺構が検出されています。
	 まず、旧石器時代の遺構としては、S3区で石器が集中して出土しているところが発見されまし
	た。これは「石器集中部」と名付けられました。「出土石器は10〜50cmのサヌカイト剥片が
	主体で、製品や大型の剥片、明確な石核を欠いているため現状では判断できない」(74次調査報
	告書)とされています。
	また「礫群」があり、「拳大以下の自然礫、砥石破片など13個が、およそ70×50cmの範囲
	に集中する」(同)状態でした。旧石器時代の遺物としては、「表面採集や水洗選別で得た剥片・
	破片を含めて約1,400点」(同)あったということです。剥片は長さ10〜50cmの不定形
	のものが大変で、砥石も数点出土しています。
	製品は、ナイフ形石器2点、鏃1点、石刃1点です。京都市内では一番古いころの遺物で、これほ
	どまとまって発見されたのはこの付近だけです。ナイフ型石器は長さ8.5cmで、ほかにサヌカイ
	ト製のチップ、原石を打つかいて石器をつくるときに出るフレーク(剥片の一つ)、他の場所から
	チャート製の石核(せつかく)なども同時に出土しています。製品としての「ナイフ型石器」だけで
	なく、多数の剥片などが出土していることから、「この地で製造された」ことが確認されています。
	この「ナイフ形石器」は、その後の調査で、約2万年前の旧石器時代のものであることが明らかに
	なっています。 サヌカイトとは、安山岩の一種で命名は「讃岐石」からきています。
	 縄文時代については、早期の押型文土器(山形押型)、後期の波状口縁の深鉢片、晩期の土器も
	出土しています。飛鳥時代の遺構としては、竪穴住居7棟、掘立柱建物1棟、柱穴数基、土壙墓11
	基などが出土しています。いずれも7世紀代のものです。竪穴住居はS区のみに出土し、竪穴5は
	一辺6.6mで4カ所の主柱穴が発見され、他の竪穴住居は一辺3〜4mと小型で主柱穴はありま
	せん。床下で「ナイフ形石器」が発見された、竪穴2は、新旧2時期があります。また、この時期
	の土器類は出土が多く、煮沸甕、杯型などの土師器、短頸壺、平瓶などの須恵器などが出土してい
	ます。
	 土壙墓は、N区で7基、S区で4基出土しており、平面は長方形もしくは長楕円形で、長さ
	1.6〜2.6m、幅0.7〜1.4mあります。「被葬者の頭位は北側にあると考える」(同)
	とされています。また墳墓内から、須恵器、土師器の土器類、馬具、鏃(やじり)、刀子、釘など
	の鉄器も出土しています。7世紀前半頃の、ものと推定されています。
	 また、平安時代末から鎌倉時代にかけての遺構に、S3区から出土した墳墓があり、長さ1.75m、
	幅0.9mで、木棺痕跡が残り、棺内の北西隅に土師皿3枚が納められていました。
	 そして、室町時代から桃山時代にかけての遺物では、15世紀後半の瀬戸杯釉、染付、青磁など
	の輸入陶磁器が出土しています。 
 


中臣遺跡石碑(勧修小学校横)






	(4)第79次調査から

	 京都市埋蔵文化研究所による第79次中臣遺跡発掘調査は、西野道の拡張工事と勧修寺第二市営
	住宅建設に伴って、1998(平成10)年11月16日に始まり、2000(平成12)年3月
	まで行われました。
	 この調査では、6世紀(古墳時代後期)の古墳と墓、7世紀(飛鳥時代)の集落の跡が見つかっ
	ています。6世紀の古墳(9基)は、中臣遺跡発掘調査では初めての発見で、いずれも6世紀初頭
	のものと推定されています。
	 古墳は、大型のものと小型のものが検出されました。いずれも墳丘の盛土はすでに削られてしま
	っているために、埋葬部は残っていません。大型の古墳(古墳1・3・5)は一辺9〜12mの方
	形の墳丘裾に幅2〜2.5mの周溝があります。小型の古墳(古墳2・4)は5〜6mの円形と方
	形の墳丘裾に幅0.5〜1mの周溝があります。小型の古墳は大型の古墳に接するようにつくられ
	ていて、大小古墳1基づつで組み合わせになっていると考えられています。
	 また、少し後の時代の墓2基も見つかり、これは墳丘や周溝がなく、棺を埋めただけの簡単な構
	造になっています。墓穴の長さは約3m、幅は約1mで、棺と遺体は朽ちて残っていませんでした
	が、埋納された須恵器の杯や甕が完全な形で出土しました。
	 竪穴住居は64棟発見され、床には上屋を支える柱跡、窓際にはカマドや貯蔵用の穴などがあり
	ました。また掘立柱建物は26棟発見され、住居や高床式の倉庫と推定されています。 また、こ
	の第79次発掘調査でも、第74次調査時と同様に、旧石器時代の石器製作のときの剥片(はくへ
	ん)等が見つかっています。この第79次発掘調査結果をふまえて、完成した「勧修寺第二市営住
	宅」前に、中臣遺跡の発掘現場であったことを示す「案内板」が設置されました。(以下)




	中臣遺跡(なかとみいせき)〜洛東最大の集落遺跡〜

	 中臣遺跡は、後期旧石器時代(約20,000年前)【写真1】から室町時代(約500年前)
	に及ぶ、山科盆地の中心的な集落遺跡です。遺跡は東を山科川、西を旧安祥寺川で囲まれて、両
	河川の合流点より北側に拡がっています。この市営住宅の建て替えに伴い、1998年11月か
	ら2000年3月まで中臣遺跡第79次発掘調査を行いました。
	検出遺構の主なものは、古墳時代後期から平安時代にかけての古墳や土壙墓などの墓跡と、竪穴
	建物や掘立柱建物などの集落を構成する建物跡があります【写真2】。古墳は主として方墳で、
	5世紀中頃から6世紀初頭のものが9基見つかりました。
	墳丘と埋葬部は失われていましたが、周溝が残存し、周溝の一画に葬儀や祭祀に関わると思われ
	る須恵器5〜6個を納めた遺構が見つかりました。また、土壙墓と呼ばれる細長い穴だけの墓も
	8基検出し、その内の一つから、朝鮮半島の百済地域で作られたと考えられる甕が出土していま
	す。古代の山科地域と朝鮮半島との交流を示す資料として、貴重なものです。
	この他にも6世紀末から8世紀初頭の竪穴建物64棟、7世紀中頃から9世紀にかけての掘立柱
	建物26棟を検出し、古墳時代後期から平安時代に続く集落の様子が明らかになりました。
	中臣鎌足らを出した中臣氏(後の藤原氏)の本拠地であり、そしてまた大津宮や平安京の隣接地
	である山科盆地は、歴史的に重要な役割を果たした地域です。中臣遺跡は、その証拠に満ちた貴
	重な遺産と言えるものなのです。

	2001年12月10日 京都市(資料提供:財団法人京都市埋蔵文化財研究所)


	 案内板に記載のある「朝鮮半島の百済地域で作られたと考えられる甕」というのは、須恵器の
	甕で、外面には「縄席文(じようせきもん)」といって板に縄を巻き付けて叩いたた際の編目が残
	り、その上に沈線が残っているような特徴を備えた土器で「韓式系土器(かんしきけいどき)」と
	総称されています。
	 京都では西京区の大原野や右京区の和泉式部町遺跡などで発見されていますが、「希有な出土
	品」(京都市埋蔵文化財研究所)とされています。この第79次発掘調査で、「鳥足文(ちよう
	そくもん)叩き目」のある甕が発見されています。これは百済地方からの招来品とされるものです。
	 この背景には古墳時代中期頃から、新たな開発技術を持った渡来系の人々が定着したことが想
	定されています。北山背(やましろ)の代表格は秦氏ですが、秦氏は藤原氏と姻戚関係を結ぶこと
	によって、桓武天皇とも結び、奈良にあった都を長岡京、平安京へと遷都する原動力にもなりま
	した。桓武天皇の生母である高野新笠(たかののにいがさ)は、百済王族の血を引く人物で、桓武
	天皇も山科へはたびたび遊猟に訪れています。ただし、中臣遺跡が秦氏と関係があったかどうか
	については確認されていません。



「かまど」の復元模型







邪馬台国大研究/歴史倶楽部/第205回例会案内