各位殿 今月の例会出欠の意向表明は今のところ以下の通りです。いまだ返事のない方または都合がつき参加 できるようになった方は折り返しお返事ください。なお、明日は天候も晴れの予報で気温14度と報 じられていますので穏やかな日になる予定ですね。 みなさんで話題の「浮世絵 春画展」を鑑賞の上京都東山の「哲学の道」近辺の探訪を楽しみましょう。 <参加表明の方> 京阪三条寄集合 河内さん 錦織さん 西本 細見美術館集合の方 橋本さん <欠席表明の方> 井上さん 井上靖さん 橋爪さん 杉本さん 栗本さん <当日探索の行程> 細見美術館(浮世絵春画展)−−−−平安神宮ーーーー三条蹴上インクラインーー疎水記念館 ーー南禅寺(水通橋)−−永観堂ーー哲学の道ーー浄土院ーーー銀閣寺(内部参観はせず)− −−−京大博物館 以上訪問寺社 博物館の内部の歩行を除くと 約6.5kmです。(三条駅からは7.5km) 添付資料は行程図です。 「今月の例会のテーマ」 ・話題沸騰の浮世絵春画展の鑑賞 ・平安神宮への探訪 ・京都疎水の見学(いかに琵琶湖より水を引いたか、京都市内でどのように使われたか。) インクライン・南禅寺中に見られる疎水遺跡の今も使われている水道橋の遺跡 ・永観堂から銀閣までの哲学の道 の散策 鹿ケ谷付近 ・京大博物館 特別展(京大キャンパス内の弥生時代発掘展) 費用は美術館入場費1500円 京大博物館 400円以外は無いように計画しました。 行程は町中なので途中どこでもバスによるショートカットで反省会へのエスケープルートもあります。 集合 :2月28日(日) 10時 集合場所 :1,2のどちらでもOK 1、細見美術館現地 10時 2、途中で集まる人 京阪三条駅出た地上で 9時40分集合(出発)
檀王法林寺(だんのうほうりんじ)三条大橋東詰。 浄土宗の寺。京都での通称寺名は「だんのうさん」。知恩院にほど近い京阪三条駅の北側、 にぎわう三条通りに面して「浄土宗だん王」と刻まれた石柱の立つ山門がある。ここが檀 王法林寺(信ヶ原雅文住職)の入口だ。境内でまず目につくのは重厚な造りの四天王楼門 と、「派祖望西楼」の石碑、そして本堂右手にある袋中(たいちゅう)と記された大きな 「南无(無)阿弥陀仏」の碑だ。 寺は720年ほど前の文永9年(1272)に、望西楼了慧(ぼうせいろうりょうえ)上人により 「悟真寺」として創建。その後一時、応仁の乱などで廃寺となったが、慶長16年(1611)、 袋中上人が「檀王法林寺」として復興、その弟子である團王(だんのう)上人により基礎 がきずかれ、更に念佛信仰の充実発展に努められた。 寺名は「朝陽山栴檀王院無上法林寺」というが、地元では親しみをこめて「だんのうさん」 と呼んでいる。了慧上人を「派祖」というのは、三祖良忠上人の門下から分かれた六派の 一つである「三条派」の祖であることを指す。その教えは法然上人の教えを忠実に守るも ので、特にその書、『漢語燈録(かんごとうろく)』『和語(わご)燈録』は、法然上人 の言葉を集めたもので、貴重な史料となっている。
夷川通(えびすがわどおり)は京都市内の東西の通りの一つ。東は鴨川西岸から西は堀川通まで。 鴨川と寺町通の間ではやや南にずれている。 平安京の冷泉小路(れいぜいこうじ)にあたる。和歌で有名な公家の冷泉家は、この通り沿いに 当初存在した。寺町通から烏丸通の間は建具・家具屋街として有名である。 鴨川東岸の冷泉通と二条通に挟まれた地域にも、西からの延長線上に夷川通が存在し、住所表示 として「夷川通」が用いられている。なお、昭和10年の大洪水までは、鴨川に橋があり、これら 東西の夷川通りはつながっていた。江戸時代の地図には西洞院川の上流部分で夷川通りの部分で 東西に水が流れる部分(現在の夷川公園の北辺り)が短いながらもあり、この川が通りの名前の 由来とされている。
<平安神宮> 主祭神 桓武天皇、孝明天皇 社格等 官幣大社・勅祭社・別表神社 創建 1895年(明治28年)3月 1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の 目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は実際に大内裏があった千本 丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に 実物の8 分の5の規模で復元された。博覧会に先立つ3月15日には、平安遷都を行った天皇で あった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、 平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。つまり、平安神宮 は、平安京最初と最後の天皇を祀っているのである。 1976年(昭和51年)1月6日、火災(平安神宮放火事件)が発生し本殿・内拝殿など9棟が炎上、 焼失した。ただし、外拝殿である大極殿は延焼をまぬがれている。創建が比較的新しかったこと から、当時はこれらの建物は文化財指定を受けていなかったため、再建のための国からの補助金 が見込めなかった。しかし、全国からの募金により、本殿や内拝殿は3年後に再建された。この 火災は、後に日本の新左翼活動家加藤三郎の犯行と判明した。
琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。 両疏水を合わせ、23.65m3/s[1]を滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。その内訳は、水道用水 12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、工業用水などに使われる。また、疏水を利用した水 運も行なわれた。水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。 その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用さ れ、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。水運は、琵琶湖と京都、さ らに京都と伏見・宇治川を結んだ。落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理の インクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラ インはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。 無鄰菴や平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また 京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている。一部の区間は国の史跡に指定されて いる。
京都市は禁門の変で市中の大半が焼け、明治維新と東京奠都に伴い人口が減少し産業も衰退し たため、第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖 疏水を計画した。そして主任技術者として、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ 設計監督にあたらせた。
南禅寺近くの「だるま堂」 正式名称は慈氏院といい南禅寺の近くにある。デカデカと「達磨大師」と書かれた石柱が立って いる。入って右側に達磨大師の像がありる。達磨大師とは、伝説では紀元前の人物である。イン ド国王の息子という釈迦に似た境遇だったそうである。国王の死後出家し、約40年間インドで 布教活動を続けた後、中国へ渡り禅僧となる。 達磨大師の逸話は数多くあり、9年間壁に向かって座禅をしていたため手足が壊死してしまい、 切断したため手足がなくなり、これが今のダルマ人形の元と言う。手も足も出ないわけだ。 また一方達磨大師は、「心だけ鍛えることは不可能。心身ともに鍛えなければ」と9年間洞窟で 座禅を組みながら、生き延びるために編み出したのが少林寺拳法とも言われる。いずれも後世の 付会であろう。
<熊野若王子神社> 【御祭神】 国常立神(くにのとこたちのかみ)伊佐那岐神(いざなぎのみこと)伊佐那美神 (いざなみのみこと) 天照皇大神(あまてらすおおみかみ) 【例祭日】 7月10日 熊野神社、新熊野神社とともに称される「京都三熊野」のひとつ。1160年(永暦元年)後白河 法皇が、禅林寺(永観堂)の守護神として熊野権現を勧請し、祈願所とされた正東山若王子の 鎮守だったが、明治の神仏分離によって、ここだけが残った。明治の頃には、境内に本宮・新 宮・那智・若宮などがあったようだが、たびたびの荒廃により、現在は一社相殿になっている。 熊野若王子神社のご神木は梛(ナギ)の木。梛は、昔、紀州熊野三山や伊勢神宮参拝の折、穢 れや罪を祓い清める禊(みそぎ)の木として用いられた。梛の木の葉で作られた御守は、すべ ての悩み事を”ナギ倒す”と言われている。
創建由緒 (熊野若王子神社HPより) 当社は永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神として勧請せら れ祈願所とされた正東山若王子の鎮守であったが、明治初年の神仏分離によって当社のみが今日 に残ったのである。夷川通りに鎮座せられていた室町時代作の恵比須を祀っている足利尊氏、義 政が、この地に花を愛で宴を開いたと伝えるが今日でも東方山中に瀑布が有り奇岩老樹も多く、 夏は納涼地、秋は紅葉の名所として聞こえている。社殿は度々荒廃し、明治の修築の際本宮、新 宮、那智、若宮などがあったが、現在は1社相殿になっている。
<吉田神社> 斎場所大元宮 吉田神社(よしだじんじゃ)は、京都府京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある神社。二十二社 (下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 祭神は次の4柱(「春日神」と総称)で、勧請元の春日大社と同じ。()内の漢字は春日大社での 表記。 建御賀豆智命(たけみかづちのみこと、武甕槌命) 伊波比主命(いわいぬしのみこと、経津主命) 天之子八根命(あまのこやねのみこと、天児屋根命) 比売神(ひめのかみ) 貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。 後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神名帳』への 記載はない(式外社)が、永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991年) には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。 鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間 (1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として文明16年 (1484年)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代 の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。寛永5年 (1665年)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神 道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。