Music: 春の小川

	
	大阪本町・歴史倶楽部 第214回例会 ふたたび馬見古墳群を歩く
	==========================================
	日時: 4月24日(日)
	集合: 近鉄田原本線・池部駅 AM9:30集合
	持物: 弁当・水筒他、弁当は必需。付近にコンビニ等はありません。
	概要: 今回の例会は馬見丘陵公園(うまみきゅうりょうこうえん)である。馬見丘陵公園は四季折々の花々
		  と古墳の公園として有名で、奈良県北葛城郡河合町と広陵町にまたがっている。公園は大和平野のほ
		  ぼ中央、奈良盆地の西に東西3キロ、南北7キロにわたって横たわっている馬見丘陵上にあり、ここ
		  はわが国では有数の大型古墳の集中密度が高い地域である。
		  「馬見古墳群」と呼ばれているこの一帯は、主な古墳だけでも数十基を数え、大和川合流の低地の北
		  部(川合大塚山古墳など)、丘陵中央部の地域(巣山古墳、新木山古墳など、馬見丘陵公園の部分)、
		  それから築山古墳、新山 古墳などが存在する南部とに分かれている。今日はこのうち中央部をめぐる。
	コース: 添付の地図を参照

	尚、筑前は大阪府文化財教会の「郷土の歴史を尋ねる会」で2005年に、また2006年には歴史倶楽部第108会
	例会でもこのコースを歩いたので、詳細な解説、写真は以下のURLを参照して下さい。また必要なら各自
	印刷して持参して下さい。では24日にお目に掛かりましょう。参加不参加を、掲示板、mailでお知らせくだ
	さい。
	
	−馬見古墳群− 2005.11.13(日)奈良県北葛城郡河合町・広陵町
	
	歴史倶楽部 第108会例会 2006.02.25(土)奈良県北葛城郡河合町・広陵町





というわけで、以下の解説等々は、全て前2回の訪問時と同じ文章を転載している。あしからず。








	この公園は、もともと原野(雑木林)や畑だったところを整備して造ったようで、公園のうちそとに、古墳、
	水田、ため池、雑木林など、里山の風景が広がっている。公園内には多くの花々も植えられてきれいに整備
	されており、人と自然が融和している。実に気持ちがいいところだ。
	また、公園館の周辺には涼しげな小川が流れる「流れのある坂道」、6万株の見事な花が咲き誇る「菖蒲園」、
	紫陽花の「だんだん広場」、バラの花が咲き乱れる「バラの休憩所」など、見所が沢山ある。



	
	近鉄池部駅・河合町役場を出て歩きだすと、ほどなく「馬見丘陵公園」につく。歩き出してすぐ、大きな
	カーブの	尾根に説明板が設置されている。旧石器時代の遺跡「馬見二ノ谷遺跡」だ。







	
	馬見二ノ谷遺跡
	---------------------------------------------
	■所在地 : 北葛城郡河合町大字山坊字二ノ谷
	■規模  : 調査面積 約1500m 2(平米) 
	■築造時期: 旧石器時代 

	「馬見二ノ谷遺跡」の詳細はココをクリック。



二の谷遺跡を抜けて県道を横切る。この公園は南北に長いため、
至る所を車道が分断している。そのせいで陸橋が多い。













	「馬見古墳群」と呼ばれているこの一帯は、主な古墳だけでも数十基を数え、大和川合流の低地の北部(川合
	大塚山古墳など)、丘陵中央部の地域(巣山古墳、新木山古墳など、馬見丘陵公園の部分)、それから築山古
	墳、新山古墳などが存在する南部とに分かれている。今日はこのうち中央部をめぐるわけだ。

	馬の背の形をしている丘というので「馬見丘陵」と言われ地元に親しまれており、四季を通じて人々に美しい
	緑を提供している。そして公園内に足を踏み入れると、雄大な古墳の数々を見渡すことができる。
	園内には4世紀から5世紀にかけてのわが国有数の古墳群があり、中でもナガレ山古墳は土取りで破壊しかけ
	たものを住民等の努力で復元し、国の指定史跡となったもので、墳丘に葺石が葺かれ、周りに円筒埴輪・朝顔
	形埴輪の列が置かれており、整備公開されている。諸説はあるものの、これら古墳群の被葬者は未だ不明であ
	る。

	この丘陵の東側には、「山の辺の道」で有名な天理市の大和古墳群が存在し、北側には奈良市の佐紀盾列古墳
	群がある。名だたる古墳群に囲まれて、一般的にはさほど有名ではないが、大王級の古墳もあり、古代の勢力
	分布、被葬者を考える上では重要な位置を占めている地域の一つなのである。

	

	上の地図が今日のコース。大部分が「馬見丘陵公園」の中だ。帰りは牧野(ばくや)古墳で解散して五位堂へ
	出るか、バスで王寺へ出るかだ、反省会の店の多さでは王寺へ出た方が正解だろう。
	下は、この馬見丘陵古墳群の主要な古墳であるが、規模といい副葬品の豪華さといい、この地域にも大王級の
	豪族たちがいたことがわかる。文献から推測するに、時期的にこれだけの規模があるということで葛城氏の祖
	先たちという説が出現したのだろうが、伝承としても残らず、まったく文献に登場していない大王たちであった
	可能性も大いにある。

	

	





	
	乙女山古墳(国史跡)
	--------------------------------------------------------------------------------
	■所在地 : 北葛城郡河合町大字佐味田小字乙女
	■規模  : 全長130m、後円部径104m、高さ14.7m、前方部幅52m、長さ30m、高さ3.5m
	■築造時期: 古墳時代中期(5世紀後半) 

	「中央エリア」に入るとすぐ「乙女山古墳」がある。大和地方には20数基を数える帆立貝式古墳があり、
	乙女山古墳はその中で最大の規模を誇る。周りは広陵町だが、この古墳一帯は河合町の飛び地になっている。
	古墳は、北西からの尾根を利用し、南東を向いて築かれている。前方部は幅50mに対して長さは30mし
	かなく、前方部というより祭祀を行った張り出しの1種という人もいるほど短くずんぐり型である。
	後円部は3段築造の墳丘である。



	
	この古墳は、後円部西側にも幅23m、長さ11mの方形の張出部がある。これもくびれ部の造出しと合わ
	せて祭祀に利用されたものと思われる。86年、87年の発掘調査で、後円部の墳丘1段目をめぐる円筒埴
	輪列、方形張出部の凝灰岩の葺石、造出し前面の埴輪列などが検出された。



	
	円筒埴輪列は隙間無く立てられ、その中の一つに、中に土師器の、小型の丸底壷が7個納められていた。
	1段目埴輪列の前面はバラス敷き、そこに家形埴輪と楕円筒埴輪が2個づつあり、家形の1個は復元の結果、
	切妻造りで平入り(玄関が正面)であった。バラス敷きの上から籠目土器や高坏が出土した。地元の伝承で
	は、戦後、墳頂部から大量の滑石製の勾玉や、刀子、斧など、祭祀用の模造品が出土したという。
	粘土槨の存在が推定されており、5世紀後半の築造と見られている。1956年に、墳丘と周濠部が国史跡
	に指定された。



乙女山古墳の前方部突端。中へは入れない。このヤブでは入りたくも無いが。



「馬見丘陵公園館」の前で記念撮影。公園を抜けてほどなく、ナガレ山古墳が見えてくる。



円筒形のエントランスには、けったいな植物が並べてあったが、本物か偽物かわからなかった。」





こんなん聞いたこと無いから絶対お遊びの偽モンだよな。キャベツが大根から出てくるワケないわな。



白と紫の花が一本の木に咲いている。これはホンものかな?







古墳館内部。解説は有馬へん。見たまんまドス。





























須山古墳の模型が真ん中から2つに割れていて、スイッチで上下し内部構造が分かるようになっている。







2Fから1Fを見る(上)、と、2Fのベランダへ出る(下)。





へんな植物が置いてあるエントランス。





ガラスに映った旧友同士。15歳で知り合ったから、もうちょうど、丸50年付き合っている。




	昭和59年、馬見丘陵公園中央エリア入口付近の県道工事の際に発見され、ナガレ山古墳北側へ移築保存された
	古墳である。1,2号墳ともに竪穴の小石室で、1号墳の床面には飛鳥時代の瓦が敷き詰められていた。
	1号墳は7世紀前半、2号墳は6世紀末に築造されたものと推測される。 



佐味田石塚1号墳。小振りの石材を積んだ竪穴式小石室で、床面に平瓦を敷き詰めていた。築造7世紀中頃。




	佐味田石塚2号墳。解説にあるように墳丘は無かったとの事なので、果たして古墳と呼べるかどうか。或いは
	もう全面的に削平されていたのかもしれない。
	古墳館からナガレヤマ古墳へ行く途中の目立たないヤブの中にあるが、元の場所は、北西100m の馬見丘陵公
	園の入口付近。飛鳥時代の墓なので、もう古墳時代が終焉した再末期のものだ。3号墳には円筒棺が有ったそ
	うで、すぐ西側には、径60mの大きな円墳「佐味田坊塚古墳」もあったそうだが、これらはもう現存しない。







ナガレヤマ古墳前の説明板。



エラク立派な説明板である。後ろに見えているのが、表面の葺石を修復されたナガレヤマ古墳である。







「これこれ、この前TVでやってた」と乾さんが言う「ハンカチの木」。こんなもの存在すらしらなかった。



なるほどなぁ。ハンカチの木か。






「史跡ナガレ山古墳」石碑。裏面は、「昭和51年12月27日国史跡指定、平成9年3月31日整備工事竣工」。


	昭和63年(1988)から発掘調査が行われ、平成9年(1997)に整備工事が進められた。工事は、破壊された
	部分の墳丘をつくり、東側には埴輪を並べ葺石を葺いて築造当初の姿に復元した。さらに、西側は芝生を張
	って養生し、古墳に2つの面を持たせた。整備事業の完成には約10年の歳月を要している。写真は整備さ
	れた側で、裏側が芝生である。



	
	ナガレヤマ古墳

	【墳形】	  前方後円墳。後円部は三段、前方部は二段に築成
	【規模】  全長105m、後円部径65m、高さ8.75m、前方部幅70m、高さ6m
	【築造時期】5世紀前半
	【所在地】 北葛城郡河合町佐味田字別所下、ナガレ 
	【アクセス】近鉄大和高田駅から奈良交通バス「JR法隆寺駅行」、またはJR法隆寺駅から奈良交通バス
		 「近鉄高田駅行」で「佐味田」バス停下車(中央エリア) 
	
	この古墳は、奈良盆地の西を限る馬見丘陵の東支丘上に位置し、著名な馬見古墳群の中央部に所在する特別
	史跡巣山古墳、史跡乙女山古墳と近接している。
	本古墳は、南向きの2段築成の前方後円墳で、全長103メートル、後円部径64メートル、前方部幅70
	メートルを測る比較的大形の古墳であり、墳丘の周辺には築造時に削平し平坦に造った平場が残されており、
	墳丘と墓域を考える手掛りとなっている。
	昭和50年に墳丘の土取り工事が起こり、奈良県教育委員会が調査を実施した結果、墳丘裾部に埴輪をめぐ
	らすこと及びその良好な遺存状況が注目された。埴輪例は、布掘りの掘方の内に10センチメートル間隔で
	円筒埴輪を立て並べ、10本ないし20本ごとに形象埴輪と推定される大形の埴輪を配置したものであるこ
	とが判明した。墳丘裾部には葺石がみられ、埴輪列の外方約1.5メートルの位置に、板状安山岩を2?3
	段重ねて基底としている。くびれ部には埴輪により区切られた方形区画が発見され、埴輪の配置から1辺十
	メートルほどの規模と推定されている。
	この古墳は、埋葬施設は調査されていないものの墳丘の形態や埴輪の特徴からみて、5世紀前半ごろの築造
	と考えられ、馬見古墳群の形成過程を理解する上で欠くことのできない重要性を持つものである。

	(以上、文化庁「文化遺産オンライン」HPより)






	
	ナガレ山古墳は、円筒埴輪やアサガオ型埴輪が一列に並んでいたことが特徴である。東側のくびれ部の前方
	部寄りに、2列の埴輪で区画された遺構が発見されている。これは葬送の時に墳丘を登るために造られた通
	路であると考えられている。また、北側埴輪列には間隔が広くなっている部分があった。この部分はくびれ
	部への出入り口と考えられている。 


	
	発掘調査で埴輪列が確認された墳丘の裾と中段に、埴輪列が復元されている。復元した埴輪は、494本が
	強化プラスチック(FRP)製である。しかし、181本は河合町民が粘土を積み上げて作った、手作り埴
	輪である。 


	 
	前方部の墳頂には、埋葬施設が残っていた。箱形木棺を粘土で覆った粘土槨だった。棺内は赤く塗られおり、
	特に赤の濃い部分に被葬者の頭があったと思われる。この前方部の埋葬の形は、女性を葬ったものと推定さ
	れている。後円部は盗掘されていて被葬者は発見されていない。しかし、前方部の被葬者とあわせて、夫婦
	を埋葬した可能性が指摘されている。 
	円筒埴輪、形象埴輪、石製模造品、石製玉類、鉄製品、土師器、須恵器、水銀朱など出土している。特に、
	円筒埴輪と形象埴輪の出土数は相当な数にのぼった。 




上の写真、クリックすれば大画面になります。



前方部憤頂より南側を臨む。





前方部憤頂より西側を臨む。





前方部憤頂より東側を臨む。





「古の丘」(いにしへのおか)と名付けられた草原(?)にて昼食。
一面タンポポが咲き乱れていたが、吹いても飛ばないのでたぶん咲いたばかりなのだろう。






後円部、憤丘の向こうが道路であり、真ん中で分断されている。
	
	佐味田狐塚古墳
	--------------------------------------------------------------------------------
	■所在地  : 北葛城郡河合町大字佐味田字スヤブ
	■規模   : 全長86メートル、後円部径66メートル、前方部幅25.5メートル
	■築造時期 : 古墳時代前期  帆立貝式古墳

	もともとは北東に伸びる尾根の先端を利用して築かれた、南向きの帆立貝式の古墳で、この古墳の前方部が
	巣山古墳の北西の周庭帯に食い込んだ形になっている。空濠の跡が前方部の一角や後円部の北側、東側にあ
	る。後円部中心を道路が貫通している。
	1975年に、都市計画道路の事前調査で、後円部中央に東西6.7m、南北3.8mの墓壙と板石を組合
	わせた排水溝が検出され、盗掘穴から、青銅鏡片、小刀の破片が発見された。周辺に円筒埴輪を利用した円
	筒棺があった。北枕に埋葬されていたという。 
	ここも車道が公園を分断しているが、ここでは公園どころか、古墳そのものを分断してしまっている。歩道
	橋の下に説明板がある。以下はその内容。ここは帆立貝式の前方後円墳だったが、後円部のど真ん中を道路
	が断ち切っている。
	結構大きな古墳である。三吉二号墳とともに巣山古墳の両脇にあることから、巣山古墳の陪塚ではないかと
	考えられている。古墳時代前期後半ということは、渡来してきてこの地域の平定に活躍した初期大和人かも
	しれない。



ここを過ぎると、この古墳群最大級の「巣山古墳」である。豊富な副葬品から大王墓とnewsになった。



巣山古墳遠景.



古墳の廻りはいま田畑になっている。

	
	巣山古墳(特別史跡 : 昭和27年(1952)年3月29日指定。)
	--------------------------------------------------------------------------------
	■所在地 : 北葛城郡広陵町大字三吉小字巣山
	■規模  : 墳丘全長約220m、後円部直径約130m、高さ約19m、前方部幅約112m、高さ約16.5m
	■築造時期: 中期(4−5世紀始め) 

	馬見丘陵の中央部に位置する北向きの大型前方後円墳で、馬見古墳群の中心的な古墳である。丘陵の東端に、
	尾根を利用して北北東向きに作られ、墳丘全長約220mの規模があり、左右のくびれ部に造り出しを設け
	ている。大王の墓域が、佐紀から河内へ移動する時期に築かれたと考えられ、その時期は4世紀終わりから
	5世紀にかけてではないかと考えられる。
	馬見古墳群の中では最大級の古墳で、現在周濠は農業用溜池として利用されている。墳丘は3段築製で、葺
	石や円筒埴輪列が巡らされ、後円部頂上と前方部に竪穴式石室の石材と見られる板石が散乱していた。外提
	の西と南側に、外提と同じ幅の周提帯があり、その外側に円筒埴輪列があったことが確認されている。







	
	前回の例会で我々がココを訪れた数日前に、この古墳から「葬船」の木製品が見つかったというNEWSが新聞
	に載った。以下の新聞記事がそれである。

	葬送の「船」出土、7世紀の史書裏付け 奈良・巣山古墳 asahi.com 2006年02月23日06時18分

	
	巣山古墳から出土した木棺のふた(右)と舟形木製品=奈良県広陵町

	
巣山古墳で見つかった舟形木製品などの使われ方の想像図。 修羅(木製そり)に載せて引っ張った可能性があるという。=河上邦彦・神戸山手大教授の案を元に作成 奈良県広陵町にある大型前方後円墳、巣山(すやま)古墳(4世紀末〜5世紀初め)から、葬送儀式に使わ れたとみられる木棺のふたや舟形木製品が見つかった。同町教委が22日、発表した。木棺を載せた舟形木 製品を引っ張るなどして古墳まで運び、その後、遺体を別の棺(ひつぎ)に移して古墳に埋葬したらしい。 古事記などは「喪船(もふね)」と表現し、中国の史書「隋書倭国(わこく)伝」(7世紀)は古代日本の 葬送について「遺体を船に置き、陸地で引いた」と記している。それを裏付ける初の物証で、貴重な発見と いう。 巣山古墳は全長約220メートルで、有力豪族葛城氏の墓とみられている。前方部の周濠(しゅうごう)の 北東隅を調査したところ、多量の木製品が出土した。木棺のふたは長さ約2.1メートル、幅約78センチ で、かまぼこのような丸みがある。舟形木製品は長さ約3.7m、高さ約45センチの板状で、へさきか船 尾とみられる反り返りがあった。いずれも模様が刻まれて朱が残り、半分ぐらいで切断されていた。復元す ると木棺は長さ約4メートル、舟形木製品は同約8メートルとみられる。船の帆を表現したらしい三角形の 板や角材などもあった。 同町教委文化財保存センター長の河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は、左右2枚の舟形側板の間を角材 や板材などでつなぎ、その上に木棺を載せたと推測。「葬送用の特別な用具で、修羅(そり状運搬具)で引 っ張ったのでは」と話す。古墳の壁画や埴輪(はにわ)の表面などに、四角いものを載せた船が描かれてい る例があるほか、古事記や日本書紀にも似た記述がある。3月4、5日に広陵町役場で一般公開する。 問い合わせは文化財保存センターへ

















	「ふーん、ここからあんなもんがなぁ。」
	「しかしデカイ古墳ですねぇ。」「やっぱこりゃ大王墓やな、うん」







巣山古墳の廻りをぐるりと半周する。反対側は田圃や資材置き場になっていて回れない。
















ここから行政区が変わる。道路を隔てて、河合町から広陵町になるのだ。公園の名前も変わる。
	
	<広陵町立竹取公園>

	広陵町が「竹取物語」の伝説を元に「町おこし」として建設した公園である。広陵町は、この公園の西側、
	馬見丘陵に広がる大規模な住宅地開発で潤ったと言われ、その上がりでこの公園を作ったのだろうか。
	家族連れで遊びに来れるように色々な遊具もあり、広い駐車場を備えている。一番奥には大きな図書館ま
	である。広陵町では、ここがかぐや姫の「竹取	物語」の地であるとして、様々なモニュメント等を製作し
	てPRに努めている。






	 
	昭和29年(1954)、大阪市立大学講師の塚原哲雄氏が『竹取物語』に書かれた竹取翁(讃岐造)とかぐや姫
	が住んでいたところは、大和国広瀬郡散吉郷(現在の広陵町)であると発表した事がきっかけで、ここ奈良
	県北葛城郡広陵町はかぐや姫の里であるという事になった。以来、かぐや姫は町おこしのシンボルとなる。

	四国の讃岐から斎部(いんべ)氏がこの付近に住みついて祀ったのが讃岐神社であるとされていて、神社は
	今も巣山古墳の近くの竹やぶに囲まれて鎮座している。前回は寄っていったが今回はパスした。





里中満智子の描いた「かぐや姫」の絵コンテがあった。トイレや水飲み場も「古代仕様」である。








	 
	広場で「靴下祭り」をやっていた。何を隠そう(隠してないが)、大隈君はグンゼ出身である。沢山この町
	に発注しているはずだ。
	全国で1年間に約6億足の靴下が生産されているが、そのうち約4割が広陵町で造られている。町内には、
	靴下を製造している会社が約150社あり、グンゼや福助といった大手靴下メーカーも、ここに下請けを持
	っている。現役時代、我が社のお客さんもそれらの会社の中の一つで、営業現役時代の大昔、この五位堂に
	はよく通ったが、駅前は昔とはすっかり変わってしまっている。




	上は「新木山古墳」である。

	新木山古墳 (陵墓参考地)
	--------------------------------------------------------------------------------
	■所在地 : 北葛城郡広陵町大字赤部字新木山
	■規模  : 全長200m、後円部径117m、前方部幅118.5m
	■築造時期: 古墳時代中期 

	南北に伸びる馬見丘陵から派生した丘の尾根を利用して、東向きに築かれた前方後円墳で、丘陵中央群の
	うちでも南に位置し、前方部を東に向けている。墳丘200mで、周濠がめぐっている。墳丘には葺石が
	あり、墳丘上に径20センチ前後の円筒埴輪があり、後円部頂上には大きな盗掘口があるという。後円部
	径117m、同高19m、前方部幅118m、同高17mを測る。くびれ部には造り出しが付き、周濠、
	外堤が伴う。周濠は後円部で幅20m、外堤部で幅25m、外堤部は幅20〜22mで高さ3m以上あっ
	たと考えられる。古記録では、後円部の西南付近の外提に接して、円墳が1列に並んで描かれている。
	昔は、陪塚が整然と配置されていたのかもしれない。現在は西方外提に接して三吉石塚古墳が残っている。

	古墳の築造時期は円筒埴輪から古墳時代中期後中葉(5世紀前半)と考えられる。埋葬施設の副葬品と考
	えられる勾玉、管玉、棗玉(なつめだま)が宮内庁に保管されている。
	巣山古墳とともに馬見古墳群で中核をなす大型の前力後円墳である。なお、広陵町南郷の山王神社に保管
	されている石棺仏は長持形石棺を利用しているが、この古墳から出土した可能性があるそうだ。





新木山古墳の向いに三吉石塚古墳が、これまた綺麗に整備されて公開されている。












	
	三吉石塚古墳 (県指定史跡)
	--------------------------------------------------------------------------------
	■所在地 : 広陵町大字三吉字石塚
	■規模  : 全長45m、後円部径41.4m、高さ6.5m、前方部長さ7m、幅22m
	■築造時期: 古墳時代中期後葉(5世紀末) 

	新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝式古墳で、新木山古墳の陪塚と思われる。もともとは円墳と
	見られていたが、87年に広陵町教育委員会が、墓地建設に伴う事前の発掘調査を実施して、後円部に
	ごく短い前方部がつく帆立貝式と判明した。墳丘全長45m、直径41.4m、高さ6.5mの後円部に、
	幅22m、長さ7mの短い前方部が付随してい	る。周囲に馬蹄(ばてい)形の周濠が掘られ、さらに外
	堤があり、堤を含めた全長は62mとなる。


	
	墳丘は2段築成で、第1段目に円筒埴輪と朝顔形埴輪が、墳頂とくびれ部に蓋(きぬがさ)、草摺(く
	さずり)、短甲、家、馬などの形象埴輪が立てられていた。古墳全体で370本の埴輪がめぐっていた
	と推定されている。馬蹄形の周濠が古墳の回りをめぐっている。周濠の幅は3メートル、深さ1メート
	ルと見られている。


	
	墳丘と周濠の内側には10センチから30センチほどの葺石が施され、葺石の作業単位がよく残ってい
	る。後円部に、やや大きめの葺石が縦に一列に並ぶ目地があり、この葺石の間、90センチが葺石をふ
	く作業単位であったと考えられている。葺石は、前方部には当麻町西に分布する黒雲母花崗岩、後円部
	には香芝市の二上山麓の輝石安山岩が使われて	いた。前方部の南東隅には、他に例のない張出部が設け
	られ、周濠幅が狭くなっている。外提部にも葺石が施されていた。



墳頂からは二上山、葛城山、金剛山などが望める。築造当時のままの葺石を残している
部分もあるが、幾世紀にわたる地盤の緩みや変動によって、荒い積み方のようになってしまっている。





さぁ、最後の訪問地「牧野古墳」(ばくやこふん)を目指して歩く。



近鉄五位堂駅はどっちですか、と聞いていたオバサン達が歩道橋の下を歩いている。



「牧野古墳」(ばくやこふん)全景。




	
	牧野古墳 (国指定史跡)
	--------------------------------------------------------------------------------
	■所在地 : 北葛城郡広陵町大字三吉字バクヤ
	■規模  : 南北の径55m、東西の径48m 円墳
	■築造時期: 後期(6世紀後半−7世紀始め) 

	これは誰もがマキノ古墳と呼ぶ。しかし「ばくや」である。馬見丘陵のほぼ中心、北から伸びてきた小
	さな尾根の南端にある直径約50mの、古墳時代後期でも有数の大型円墳で、墳丘は三段築成で造られ、
	早くから二段目の南側に横穴式石室が開口している。玄室の長さ6.7m、幅3.3m、高さ4.5m、
	羨道の長さ10.4m、幅1.8mで、全長17.1mを測る、県下第5位の巨大な石室である。壁面は
	いずれも1mを超す花崗岩と輝石安山岩の巨石を使っており、玄室は羨道から1段下がった床の一面に、
	小さな礫が敷かれている。


	
	玄室内には奥壁に沿って横向きに刳抜(くりぬき)式の家形石棺が安置され、その手前には組合せ式の
	家形石棺が置かれていた。玄室の奥に家形石棺の蓋があり、ここに石棺があったことは以前から知られ
	ていたが、83年の発掘調査で、玄室の前の部分にも凝灰岩の組合せ式石棺があったことがわかった。
	奥の石棺は兵庫県竜山石で、蓋の側面に各2個、短面に各1個の縄掛け突起があった。以下、石室内の
	写真は、前回訪問した時のもの。

	石棺は、ともに大部分が破壊されていたが、副葬品として、多くの馬具、武器、各種の玉、土器、埴輪
	が出土した。装身具類は金環(きんかん)と各種の玉(金銅製山梔玉(くちなしだま)・ガラス小玉・
	粟玉(あわだま))が、馬具では、鏡板、杏葉、雲珠、辻金具、鞍金具、花弁形飾り金具、革帯飾り金
	具、壷鐙などが出土し、木心鉄地金銅張の壺鐙(つぼあぶみ)や、縁金具のある障泥(あおり)、心葉
	形の鏡板(かがみいた)と杏葉(ぎょうよう)等が二組分出土している。中でも障泥縁金具は、85年に
	藤ノ木古墳からさらに優れたものが出土するまで、始めて全体像が復元できるとして注目された。

	
	武器は、銀装の大刀と400本近い鉄鏃(てつぞく)があり、羨道に集中していた容器類のなかには、
	木心の金銅張容器と総数58点の須恵器があった。横穴式石室では珍しく、木製容器も出土した。径20
	センチの皿形容器と口径14センチの木芯金銅椀で、ケヤキ製。1万個以上の粟玉を亀甲つなぎに縫い付
	けた遺物もあった。

	多数出土した須恵器などから、6世紀末(古墳時代後期末葉)の築造と推定されている。馬見丘陵地帯
	は粘土の山で、「豆山3里小石一つなし」といわれたほど自然石の少ないところで、平群谷あたりから
	わざわざ巨石を運び、しかも、前期や中期古墳の多いこの地域に、6世紀末葉になって突如として巨大
	な石室の墳墓を築いたのは異例だそうだ。その	規模や豊富な副葬品などから、被葬者は、延喜式に「大
	和国広瀬郡の成相(なりあい:ならい)墓」と記載されている
	敏達天皇の第1皇子で舒明天皇の父、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)が有力
	視されている。



この日はカギが掛かっていて、懐中電灯を付けても中が良く
見えなかったので、まだ中へ入れていた当時の写真をどうぞ。







古墳をぐるりと半周すると、片隅に石棺の底石が置かれている。
文代山古墳という広陵町にあったと伝わる古墳の遺物である。









さぁ反省会だ。やはり王寺へ出ようというのでバス停で待機。ほどなく奈良交通のバスが来た。



王寺の「かごのや」で反省会となる。大いに反省しなくては。



皆さんお疲れ様でした。今日は花に囲まれた一日でしたね。また次回も宜しく。


以下は時間があれば行きたかった「佐味田宝塚古墳」である。
今回はパスしたが、古墳時代の住宅文様の刻まれた鏡が出土した古墳で、牧野古墳の近くにある。



	
	佐味田宝塚古墳 (国指定史跡) 家屋文鏡など36面の青銅鏡
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	■所在  : 北葛城郡河合町大字佐味田字加明
	■規模  : 全長100メートル、後円部径50メートル、前方部幅40メートル
	■築造時期: 4世紀後半 

	牧野古墳の北東300mにある。馬見丘陵中央の、小さな丘を利用し北東に向かって築かれた前方
	後円墳で、明治14年に盗掘され、その際、周囲に礫を使った排水溝をめぐらせ、木棺を粘土でく
	るんだ粘土槨があったといわれる。このとき、多くの副葬品が出土した。圧巻は大量36面出た青
	銅鏡で、なかでも径22.7cmの家屋文鏡は四棟の家が配置されたユニークなもので、わが国で
	はここでだけ出土した。4〜5世紀当時の家屋の状況を知る貴重な資料となっている。
	ほかに、勾玉、管玉、臼玉などの装身具、銅鏃、盾の飾り、石釧、鍬形石、刀子、鑿、斧など140点
	もの遺物	が出土している。それらは今、宮内庁と東京国立博物館にある。

	この家屋文鏡(かおくもんきょう)は、わが国ではこの古墳から出土しているだけである。古墳時
	代の家屋の様子や、家の周りの様子などを窺い知ることのできる貴重な資料となっている。蓋(キ
	ヌガサ)などは、ここに載っていることで、古墳時代から、統一された大和朝廷の時代へ移る貴人
	の系譜を見ることができる。



 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/214回例会・umami古墳群を歩く