Music: Hey pola





	ここに掲載した写真は、1999年3月6日と2000年3月5日および2001年3月3日に、大阪府和泉市池上町にある「大阪府立弥生文化博物館」
	で開催された「古代衣装復元撮影会」において撮影したものです。モデル着用の衣装は卑弥呼の時代から古墳時代にかけてのもので、
	衣装推定復元は、東大阪市民美術センター学芸員の酒野晶子氏によるものです。この日に撮影された写真によるコンテストも開催され、
	入賞作品は後日同博物館に展示されました。当日の撮影技術についてのアドバイザーは出合明氏(日本写真家協会会員・水門会会員)
	です。しばし、古代の夢にひたって下さい。



卑弥呼A


































卑弥呼B














卑弥呼C




















卑弥呼D
















卑弥呼E











卑弥呼F









卑弥呼G









【撮影データ】卑弥呼A:弥生時代(2000年) 卑弥呼B:古墳時代(1999年)  卑弥呼C:弥生時代(2000年) 
      卑弥呼D:古墳時代(2000年) 卑弥呼E: 2001年  卑弥呼F: 2001年   卑弥呼G: 2001年

撮影風景・雑記



復元衣装について説明する酒野晶子氏。酒野氏は衣装の復元については権威である。色んな雑誌等にも登場している。

 

カメラマンは、圧倒的に初老の男女(女性も結構多い)だ。その殆どが歴史に興味があるのではなく、写真そのものの趣味の為のようである。
その証拠に、カメラマンの中で博物館の展示に魅入っている人はごく少数であった。当然衣装そのものにも興味はなさそうである。

 

弥生時代の衣装は「貫頭衣」をイメージしたと酒野氏。古墳時代になると襟を前で合わせる着物が出現するらしい。

 

モデルは全て、博物館や酒野氏が依頼した学芸員等の素人モデルである。へんにポーズを取ったりしないのがいい。
でも、カメラマンのほうが撮影会には慣れていて、「もっとにっこり」とか「はい、目線こっち」とか注文をつけていた。

 

下の写真をHPに使って「弥生時代・卑弥呼の衣装」と紹介したら、弥生文化博物館から「あれは古墳時代の衣装だから訂正しなさい。」とクレームが来た。



大阪外大の武田佐知子教授によると、卑弥呼の衣装は中国で当時支配階層が着ていたものと殆ど同じではないかということで、
復元写真をみると色とりどりのちゃんとした中国風着物だ。(難波宮フェスティバルのコーナー参照)絹は出土しているので勿論
弥生時代からあった(北九州)わけだが、そんなに完成された衣装を着ていたかどうか? 布の断片ではなく衣服の出現が待たれる。

 

この「撮影会」イベントは面白い試みである。欲を言えば、すこし時間をとって撮影の前に「古代の衣装」や 「出土した繊維」とか
いうような講演でもやってくれると益々古代についての興味も増すと思うのだが、いかがでしょう、大阪府立弥生文化博物館様。









縄文後期の墓穴から赤漆の腰帯出土 北海道・恵庭の遺跡
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北海道恵庭市の「カリンバ3遺跡」で、縄文時代後期末(約3000年前)の地層から赤色の腰帯が見つかった。赤漆を染み込ませてあったため保存状態は極めてよく、筒状に編み上げた様子が肉眼でも確認できる。同じ場所からくしや布製の髪飾りなども見つかっており、埋葬された女性が身につけていたらしい。帯に関する考古学的な遺物は、5世紀の人形埴輪(はにわ)が最古とされてきたが、今回の発見は、これを一気に1500年さかのぼる。衣服に関係した縄文時代の布製装飾品が完全な形で見つかったのも初めてで、考古学関係者は「縄文人が布製の衣服を着ていたことを具体的に裏付ける画期的な発見だ。動物の毛皮をまとった縄文人の古典的なイメージは、根本的な変更を迫られるだろう」としている。
 発掘にあたった恵庭市教委などによると、帯は直径が約1.5メートル、深さ約80センチの墓穴(第123号土壙(どこう)墓)から見つかった。成人女性の腰回りと同程度の輪になっており、目測では幅約3―5センチで、全体の長さは1メートルを超えるという。
 墓穴の底からは、人間の歯の一部が複数出土。その分析から、成人の女性3人が埋葬されていることがわかった。帯のほかに、濃い紅色をした縦ぐし7点、腕輪4点、髪飾りとみられる織った輪が5点、勾玉(まがたま)なども出土した。首の位置からは飾り状の輪、リボン結びのある輪が、それぞれ1点見つかった。いずれも濃い紅色の漆で染めてあり、宗教的な意味が込められていたとみられる。市教委では、こうした副葬品から、埋葬されていた3人は生前、かなり高い地位にいた女性だった可能性が高いとしている。

 縄文時代の布を分析している東海学園女子短大の尾関清子名誉教授は「日本では本格的に織った布は弥生時代からで、縄文時代には、その存在が確認されていなかった。初めての発見だろう。恐らく、道具を使わずに笊(ざる)を編むような簡単な織り方だったのではないか」と話している。
縄文時代の「布」としては、青森市の三内丸山遺跡で見つかった網代(あじろ)編みの「縄文ポシェット」や平織りの編布(あんぎん)などがある。しかし、いずれも小片で、用途は不明だった。カリンバ3遺跡は、JR恵庭駅前の黄金地区土地区画整理事業に伴って今年5月から発掘を始めた。調査面積は約3000平方メートル。これまでに、縄文後期から晩期の土壙墓が約300基見つかっている。うち100基は未調査だが、現在までに石器や土器を含め、出土品数は約15万点になったという。
(asahi.com 1999.10.26 14:02) (c)Copyright Asahi Shinbun


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卑弥呼写真館/himiko@zeus.eonet.ne.jp