Music: 北国の二人(ブルーコメッツ)

New 三内丸山遺跡 2007年9月15日(土)青森市







	またやってきた。歴史倶楽部の例会でここを訪れたのは1998年7月18日だったから、9年ぶりという事になる。HPを見直すと
	「第9回歴史倶楽部例会「東北遺跡の旅」」となっているので、歴史倶楽部が出来て1年目に訪問している事になる。あれからもう9
	年かぁ。
	遺跡はずいぶん変わっていた。「縄文時遊館」という建物が出来て、レストランやショップやシアターも備えている。また、以前はあ
	ちこちから遺跡の中へ入れたのに、今はこの時遊館からしか行けないようになっている。以前のHPには次のように書いている。

	1998年7月18日(土)からの3連休、我が歴史倶楽部はメイン・メンバーで青森・三内丸山遺跡の旅に出かけた。この
	旅は今年の課題ではあったのだが、秋頃だと誰もが思っていた。それがどうした事か、いきなりよし今度の連休に行こう!と
	いう事に相成った。全く計画性のない倶楽部だこと。2泊3日で、廻れるだけ名所旧跡を見て廻ろうという事になり、三内丸
	山遺跡だけでなく、亀ケ岡遺跡やキリストの墓(大陸書房系の人達が信じる遺跡:我が倶楽部にも一人二人信奉者が居るのだ。)
	にも行く事になった。中世津軽の大都市、十三湊の発掘現場や各博物館も巡った。大阪が暑くなるとき青森に着いて(青森は
	3日間25.6度の涼しい気温だった。大阪は雨が降ったらしい。)、青森が雨になって大阪へ戻った。なんて善人ばかりな
	んだろう。

	メンバーは、東江、平、服部、河原、栗本、井上の6人だった。河原さんは東京へ戻って、東江、平さんはもう例会に参加してくれな
	くなっているので、歴史倶楽部の現役としては半分になってしまった。そろそろ新しいメンバーでもう一度「北の旅」にも出かけない
	といかんかな。











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	この遺跡はもうあまりにも有名で、およそ歴史に興味がある人なら知らない人はいないだろうと思っていたら、会社の若いの(と言っ
	ても三十代だが)が、お土産に買って帰った「三内丸山クッキー」というのを見て、「どこですか、これ?」と聞いてきた。自分でも
	「歴史、好きなんですけど」と言っていたやつだったので驚いてしまった。この縄文の大遺跡を知らないのでは歴史好きとは言えまい。

	この遺跡の解説は、前回の旅でさんざん特集したのでそちらをご覧いただきたい。ここは今でもまだ発掘しているし、ストーンサーク
	ルが出現するなど新しい知見も増えているが、遺跡の性格としては基本的には10年前と同じである。遺跡の詳細は是非そちらでお願
	いしたいが、ここへも部分的に転載している(青字の部分)ので、一部重複しているがご了承を願いたい。

	前回訪れた「三内丸山遺跡」










	さて、縄文時代とはいつ頃の事を言うのであろうか。日本列島に人類が出現したのは数十万年前と言われている。青森県で人類の生活
	痕跡が発見されているのは、約2万年前の地層からである。この頃は氷河期で、日本全体で気温は現在よりも7〜10度低く、水位は
	百数十メートル低かったと考えられている。青森県も北海道と陸続きで、さらに大陸とも陸続きであった。旧石器時代の人類は、大型
	の動物を追いながら大陸から日本に、そして青森県に渡来し、氷河期の終わりとともにこの地に住み着いたと考えられる。気候の温暖
	化は、今から1万2千年前位からはじまり現在も続いている。現在は、次の氷河期との間に訪れている間氷期(かんぴょうき)なので
	ある。第4間氷期とよばれている。

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	この1万2千年前位からを、時代区分では縄文時代と呼んでいる。温暖化はこの頃から徐々に進み、約6千年前位にそのピークに達し
	たと考えられている。溶け出した氷河の氷は水位を押し上げ、日本列島全体で今より5m程水位が高く、海が各地で内陸部まで浸水し
	ていた。この三内丸山遺跡も、この近くまで海が入り込んでいたと言われている。








	この遺跡は今から約5500年前位から人々が生活を始め、約1500年の間続いた一大縄文集落の跡である。出土する遺物からは、食料とす
	る動物が大型からイノシシ・ウサギなどの中型、小型の動物に変わってきた事、針葉樹に変わってブナ・ナラなどの広葉樹林が広がっ
	てきた事、石器が「打製」から「磨製」へ変わってきた事、クジラ・マグロなどの大型海洋動物を食べた事から、集団による共同作業
	での狩りが定着していた事などが窺い知れる。しかし何と言っても我々を驚かせたのは、高度な技術に基づく大型建造物の存在と、計
	画された集団生活の定着化である。従来これらは全て弥生時代に入ってからのものとされていたため、この遺跡が古代史の分野に投げ
	かけた意味はとてつもなく大きなものとなった。












	当初はそんな馬鹿な、と思っていた人々も、その後続々と発見され続けている縄文遺跡の有り様に、縄文時代が我々の考えていた以上
	に高度な文化と技術を備えた時代であった事を認めざるを得なくなった。鹿児島県の上野原遺跡は、三内丸山よりもさらに4000年も前
	の縄文遺跡である事が判明したし、既に7500年前に弥生式土器に似た壺型土器も作られていた。古代は想像以上に発達した社会だった
	のである。


















	さて、現在の三内丸山遺跡跡には、幾つかの竪穴式住宅と大型竪穴式住居、高床式倉庫などが復元され、柱の跡とそこに残った木片、
	子供の墓地・大人の墓地、ゴミ捨て場の堆積跡なども一部見学できるように保存されている。また用途は不明だが、大型建造物の跡地
	にはロシアから輸入したクリの巨木で6本の柱による建造物が復元されている。このページの冒頭にある写真はそのミニチュアである
	が、おそらくこのような建造物であったろうという推定で製作されているのである。








	
	縄文海進はここまで来ていたのだ。これを見る限り、三内丸山ムラは海際にあった事になる。あの巨大柱はやはり、海からの標識と
	灯台を兼ねていた建造物と理解した方がいいような気がする。




	資料館は昔と変わっていないような気がした。それでも新しい展示は増えているのだろうから、なるべく前回HPで紹介しなかった
	ものをと心がけて写したつもりだが、或いは重複しているものもあるかもしれない。









































































ここが発掘中の現場。その解説書も時遊館に置いてあった。ストーンサークルだ。















まったく、縄文王国である。





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