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「北の縄文 文化回廊」展
2007年9月17日(月) 岩手県一戸町 御所野遺跡博物館






	「北の縄文文化回廊展」       北海道・青森県・岩手県・秋田県共同事業 

	北海道・北東北地域には、三内丸山遺跡をはじめとする数多くの遺跡が存在し、はるか縄文の昔、津軽海峡を挟み豊かな文化が広がって
	いたことが明らかになっている。こうした歴史を踏まえ、平成16年度から北海道、青森県、岩手県、秋田県の4道県の連携のもと、縄
	文文化を核にした地域間交流や情報発信を行う「北の縄文文化回廊づくり事業」がスタートしている。平成16年度から始まった「北の
	縄文文化回廊づくり」事業は今年度が最終年。4道県で発掘された縄文土器類370点、それぞれの発掘現場などの写真パネル100点
	ほどを展示している。道民・県民が縄文時代の生活文化を通じて、あらためてこの地域の魅力を再発見し、地域の活性化につなげていく
	とともに、この地域を「北の縄文文化回廊」として内外にアピールしていくため、現在様々な取組が進められている。


	「北の縄文文化回廊」5日開幕/一戸(2007/09/03) 「デーリー東北新聞」
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	岩手県立博物館と一戸町教育委員会などは五日から三十日まで、同町の御所野縄文博物館を会場に青森、岩手、秋田、北海道南で発掘さ
	れた縄文時代の出土品を集めた企画展「北の縄文文化回廊」を開く。
	同展は四道県の縄文時代の出土品について、その類似性を指摘しながら、北東北三県と北海道南が津軽海峡を挟んだ一つの文化圏として、
	活発な交流があったことを紹介する。
	四年前から四道県で開かれてきた巡回展で、岩手県が最後の開催となる。同町での企画展は、八月二十六日まで開催された盛岡市の県立
	博物館の企画展に続くもので、長倉遺跡(軽米町)の注口土器や土偶、是川遺跡(八戸市)の香炉形土器などを展示する。品数は三百六
	十点程度となりそうだ。期間中の十六日午後一時半からは、一戸町コミュニティーセンターで「北の縄文文化回廊フォーラム」を行う。
	作家の椎名誠さんの講演や、パネルディスカッションが予定されている。定員四百人。入場は無料だが、整理券が必要。

	「北の縄文文化」 一堂に/一戸で企画展(2007/09/16)  「デーリー東北新聞」
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	青森、岩手、秋田、北海道南で発掘された縄文時代の出土品を集めた企画展「北の縄文文化回廊in岩手2007」(主催・岩手県立博
	物館、一戸町教育委員会など)が、岩手県一戸町岩舘の御所野縄文博物館で開催され、訪れた考古学ファンに、北海道南と北東北三県が
	一つの文化圏として、活発な交流があった様子を紹介している。三十日まで。
 	同展は、八月二十六日まで開催された盛岡市の県立博物館の企画展に続くもの。「海をこえた広がり」「墓とマツリ」など七つのテーマ
	を設け、土器や石器など約三百七十点を展示している。初日は、同縄文博物館で開会セレモニーが開かれ、岩手県教育委員会生涯学習文
	化課の中村英俊世界遺産担当課長、県埋蔵文化財センターの相原康一所長、開催地の稲葉暉一戸町長らがテープカットを行った。セレモ
	ニー終了後、同町の御所野愛護少年団約四十人などが、会場で同町教育委員会職員から説明を受けながら、展示を見学した。


	(1) 北の縄文文化回廊の形成	  津軽海峡の形成とはじめて海峡を越えた人々 草創期・早期の土器・石器展示
	(2) 環状列石と周提墓	  北東北3県と北海道の環状列石と周提墓 写真と遺物の展示
	(3) 海を越えた交流
     	ヒスイの道         各地出土のヒスイ玉
     	貝の道           南方の貝製品と模倣品
     	円筒土器文化の広がり 北東北と道南部の土器 押型文土器文化との対比
	(4) 北の縄文文化回廊と大陸の文化
     	大陸と関連する遺物   石刃鏃文化など
     	ミニ展示コーナー     @ふしぎな形  A イノシシとクマの造形  B足形付き土版

	会場には四道県から集められた、貴重な発掘品が並べられ、長い縄文時代を通して北部東北と北海道が、共通の文化圏であったことが一
	目でわかる展示になっている。


		図表  展示資料出土遺跡の分布			図表 縄文文化年表




	縄文時代で最も暖かい時期は約6千年前の縄文前期の初め頃で、平均気温が現在よりも1℃〜2℃程高かったと推測されている。この
	温暖化の影響を受けて植物の分布も大きく変わり、北海道では西半分の地域のほぼ全域と十勝平野にはオニグルミやミズナラなど落葉
	広葉樹林が進出し、北部・東部地域にはエゾマツなどの常緑針葉樹林が進出した。温暖化とほぼ同時期に暖流(対馬海流)も勢いを増
	して北部の海域に流入した。この変化は地上の気候にも少なからぬ影響を与えたのである。
	北海道と本州の間には最短で20kmほどある津軽海峡がある。津軽海峡の海流は8の字に回っていて、北海道と北東北のどちらから
	でも海を渡ることができ、この地域の文化を繋ぐ交流の道となった。「しょっぱい川」と呼ばれるこの海峡は潮流が速く、今でも航海
	の難所として知られているが、縄文時代を通して、本州との交流や文化が分断される事はなかった。むしろ、海の道として積極的に利
	用していたようである。北海道と北東北地方の縄文前期〜中期の遺跡か発見された土器には、極めて高い類似性が見られる。形は筒型
	で、口縁部は山型の突起のあるものや、ラッパ状に開いてひも状の貼り付け装飾が施されているのが特徴である。この時期に津軽海峡
	の両側の地域に発達した文化は、円筒土器文化と呼ばれている。土器以外でも石器や石製品等にも両地域の共通点が多くみられ、海を
	渡っての交流が盛んだったことを示している。


























	約6,500年前の遺跡から、幼児の足型をつけた土版が見つかっている。紐を通す為とみられる穴があけられている。子供の
	成長を願ったり、不幸にして亡くなった子供の形見としてこのようなものが作られていたと考えられる。青森市の三内沢辺(さ
	んないさわべ)遺跡から出土した足形土製品もわが子の成長記念や形見として作ったと思われる。




	▲北海道函館市の戸井(とい)貝塚から出土した骨刀。
	武器としての実用性が乏しいことから祭祀・儀式の時に使われたものと考えられている。 











































































■アスファルトの分布図


	■縄文人の装飾
	耳飾リ、首飾り、ペンダント、腕輪、足輪、ヘアピンなど現代でも使われているアクセサリーが多数見つかっている。それらの材料
	には石、貝、骨、牙歯、角、木など実に様々なものが使われている。なかにはヒスイ、コハクなど入手することが今よりもはるかに
	難しかったと思われるものもあり、装身具に対する、縄文の人びとのこだわりの強さが覗われる。
	縄文時代の墓からは、人骨とともに副葬品が多数見つかっている。貝製の平玉やヒスイの大珠等の装飾品やヤジリなどが見つかって
	おり、平玉は穴に紐を通して数珠つなぎにしてネックレスのようになっていたと思われる。







■ヒスイの分布図



北海道函館市の著保内野(ちょぼないの)遺跡から見つかった大型土偶レプリカは、原品で国宝。




































	縄文時代前期とそれに続く中期は、東北地方北半部に円筒系土器が、南半部に大木(だいぎ)式土器文化が成立し、両文化は互いに
	影響し合ながら発展した。この円筒土器は、バケツを長くしたような形状を示し、前期の土器を円筒土器下層式(円筒下層式)、中
	期の土器を円筒土器上層式(円筒上層式)と称している。両期に繁栄した円筒土器は、予想を超えた範囲に広がりを見せ、、北は津
	軽海峡を渡って北海道に上陸し、渡島半島を北上して現在の札幌市を通り、北端の宗谷岬や、海を隔てた礼文島にまで達している。
	また南は、岩手県中央部から西へ向かって奥羽山脈をこえ、秋田県北部の米代川流域か、ないしは八郎潟の付近にまで達している。
	さらに円筒系土器(円筒土器の系統をひく)の事例まで含めると分布領域は拡大し、南に波及した一部は日本海を南下して、遠く富
	山湾沿岸から能登半島にまで到達している。
	隆盛を誇った円筒土器の文化も、中期後半期になると大きく変質していった。東北南半部に栄えていた大木式土器文化が北上し、円
	筒土器文化圏に進出して、やがて円筒土器に変わって東北北半部を席巻した。さらに津軽海峡を越えて北海道にも進出するのである。







		■円筒土器の分布図		■黒曜石の分布図













	岩手県平泉町の泉屋(いずみや)遺跡から出土の人面付注口土器は蓋部分が顔で覆われているのが特徴。北海道八雲町野田生1遺跡
	からの赤彩注口土器、北海道千歳市キウス4遺跡の赤彩注口土器、岩手県二戸市浅石遺跡の注口土器などがある。






















	北海道、青森、秋田と開催されたこの展示会を、偶然にここで見れたのはめちゃくちゃラッキーだった。北九州の人間は、今まで遺
	跡が少なかった事もあって縄文時代にはあまりなじみがない。まして北東北が、古代にどのような様相を呈していたのか想像も出来
	なかったが、今回の「北東北の旅」でおぼろげながら1万年前の姿が見えてきた。弥生土器が、純粋に弥生土器として存在している
	のではなく、縄文土器の影響を色濃く残している事は驚きだったし、津軽海峡を挟んで北海道と北東北が盛んに交流していたことも、
	朝鮮南部と北九州の交流を思い起こさせて感慨深かった。

	縄文時代には人間の知恵や力が及ぶ領域が限られており、その分、自然界の万物に対する畏敬の念が強かったと思われる。このため、
	自然界に存在する万物に「カミ」の存在を認める「アニミズム」が当時の人びとの精神の根底にあった。発見されている土偶には豊
	満な肉体をイメージさせるものもあり、これらは生命と豊穣の象徴として作られたと考えられる。 
	縄文時代の一部の遺跡から、多くの副葬品とともに丁寧に埋葬された人骨が発見されている。また、貝塚や盛土遺構からは動物の骨
	や石器・土器などの道具がまとまって多数発見されている。これらの場所は動物の命を絶ったときや、道具がその役割を終えた時に、
	それらが持つ魂の再生を期待して「カミ」に返すいわゆる「送り」の場であったとも考えられている。こうした「送り」の儀式や精
	神性は、北東北とアイヌ民族とに共通性が見られる。 
	ここに展示されていた縄文人達の生活の痕跡、土器や土偶や装飾品や多くの遺物が、この地域が海を越えた大きなひとかたまりであ
	ったことをはっきりと示している。



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