Music: Quiet Village

ビショップ博物館 2012.2.9




	
	バーニス・P・ビショップ博物館 Bishop Museum 出典:ウィキペディア(以下このHPの字部分はすべてウィキペディアより)

	バーニス・P・ビショップ 博物館は、アメリカ合衆国ハワイ州、オアフ島ホノルルにある博物館である。歴史や科学などを扱い・展示
	している。1889年に設立された、ハワイでも最大の博物館。特徴として、ポリネシアの文化に関連したコレクションが数多く展示され
	ている点などが挙げられる。昆虫の標本が多いことでも知られ、その数およそ1350万に上るコレクション数は、アメリカ合衆国全体で
	も3番目に多いという。1982年7月26日に、アメリカ合衆国の登録史跡(U.S. National Register of Historic Places)に登録された。
	この博物館は、実業家として名をはせたチャールズ・リード・ビショップ(Charles Reed Bishop)が、妻を称えて建設したもの。
	彼の妻バーニス・パウアヒ・ビショップ( Bernice Pauahi Bishop、博物館の名称の由来である)は、カメハメハ王家の血筋を引く、
	最後の直系の子孫であった。現在までに増改築を経て、学習施設としても機能。別に、ホノルルのダウンタウンにあるHawaii Maritime
	Center(ハワイ・マリタイム・センター)も運営している。しかし、現在マリタイムセンターは閉館になった。
 








	
	ポリネシア、ハワイを中心に太平洋地域の自然・文化等に関するコレクションが200万点以上収蔵されているハワイ州最大の博物館。
	1889年にチャールズ・ビショップ氏が妻のパウアヒ王女の追悼のために建てたもので、妻が設立したカメハメハ・スクールの敷地内に
	建てられている。特に興味深いのはハワイアンホールとポリネシアンホールで、火山活動によってできたハワイ諸島にポリネシア人が
	移住してきた時代からハワイ王朝時代にかけての貴重なコレクションが所狭しと展示されている。またハワイアン・ミュージックショ
	ーやレイ作り、フラやウクレレのレッスンなども行われている(要予約)ほか、日本語によるガイドツアーもある。入口横のショップ
	ではハワイに関する書籍や記念品が販売されている。敷地内は結構広く、色んな草花がうっそうとしている。日本語ツアーもあり、参
	加するとベテランのおじいちゃんがメインどころの王様を紹介してくれるそうだ。
 
	住 所: 1525 Bernice St., Honolulu
	電 話:  (808)847-3511 
	入場料: 大人……14.95ドル  4歳〜12歳、シニア……11.95ドル、 3歳以下は無料
	時 間: 9:00-15:00 (12/25は休館)
	H P: http://www.bishopmuseum.org/

 







	
	<季節ごとに興味深い展示が行われるキャッスル館>」
 
	ポリネシアン、ハワイアン・ホールに隣接する「キャッスル館」では、マルチメディアを駆使した体験型の特別展示が季節ごとに催され
	る。また、キャッスル館2階ではビショップ博物館の所有する膨大な学術資料が厳重に保管され、1日に15人だけが参加できる「ビハ
	インド・シーン・ツアー」で、その収集品を見ることができる。このツアーに参加しても、収集品を保管している部屋に居られる時間は
	ごく限られ、もちろん素手で所蔵品に触れることもできない。これは、見物客が持ち込んでくる雑菌から大切な所蔵品を守るためで、入
	室の際には生モノの持ち込みも禁止されている。保管室には、神聖なイプヘケやサメの歯を埋め込んだ古代の武器、ウクレレ、移民が持
	ち込んだ生活用品などが保存されている。長ければ長いほど利用価値があるとされた古代の槍は、現在のテクノロジーをしても持ち手の
	位置や先端のとがり具合といった全体のバランスを計算するのが難しく、槍1本に生死を懸けている戦士だからこそ作ることができた究
	極の芸術品といえよう。





	
	キャッスル館というま新しい建物へはいると、入り口右のコーナーに、この博物館を建てたチャールズ・リード・ビショップ(Charles
	Reed Bishop)と彼の妻バーニス・パウアヒ・ビショップ(Bernice Pauahi Bishop)の物語が掲示してある。実業家だったビショップが、
	カメハメハ王家の子孫であったバーニスと出会い結婚する件(くだり)から、彼らの愛に満ちた生活、ビショップが妻を偲んで、妻が運
	営していた学校跡地に博物館を建てる経緯など、時間があればゆっくり英語と格闘しながら読んでみるのもいい。上右の写真がビショッ
	プと妻バーニス。









ビショップ・コーナーから階段を上って2階へ上がると、「日本人移民の歴史」のコーナーがある。









	
	<伝統と変遷 −ハワイ日系移民の物語− >
                                                             
	ハワイの人口の約14%にもなる日系人。現在は5世、6世の時代で、7世も誕生している。今から100年以上前、19世紀末に海を
	わたってハワイへやってきた日本人移民は、当初プランテーション農場で働き、そのまじめな働きぶりで次第にハワイ社会の中に根付い
	ていって日系社会を築きあげた。日米開戦という不幸な時代を経て、今では社会的に地位のある人物も多数輩出し上院議員も出現した。
	ここには、農場で働いていた日系人たちの衣服や、家族の収蔵物、個人的歴史的な写真、日本語新聞、第二次大戦の記録など、移民たち
	が生きてきた記録がある。











	
	ビショップ・ミュージアムは、創設以来100年以上もの間、学術的収集品が展示されてきた。館内入口右側の特別展示場を抜けると、
	現れてくるのが「ポリネシアン・ホール」。ホールの外壁に使用されているのは火山の溶岩だ。



ハワイ諸島の地質学的な成立過程など、科学的なデータによる展示もある。















	
	装身具に使用されている素材は鼈甲(べっ甲・ベッコウ)、鯨の歯、珊瑚、真珠貝(主としてクロチョウガイ)や髪の毛などの有機質が
	中心で、胸飾り、鼻飾り、耳飾り、ネックレス、釧(くしろ:腕輪)、髪飾り、ニュージーランド・グリーンストーンと呼ばれるネフラ
	イトを彫刻したヘイティキなどがある。変わった所蔵品としては、人骨で出来た耳飾りやヘア ジュエリーもあった。



















	
	ハワイの歴史 出典:ウィキペディア(歴史部分のみを抜粋・加筆)

	<概 要>
 
	有史以前は太平洋を渡ってやってきたポリネシア人たちが持ち込んだ伝統を守りつつ生活を営んでいたが、1778年のジェームズ・クック
	による「発見」以降、ハワイは近代化の波へ飲み込まれることとなる。島同士の内戦を経てハワイ王国という 100年に及ぶ統一国家が確
	立し、欧米人との接触に伴って社会は急速に変容し始める。19世紀前半より宗教的基盤の確立と経済発展を求めた欧米入植者たちとその
	末裔は、次第に経済的安定を保障するための政治権力を欲するようになり、その影響は時代を経るにつれて強力なものとなっていった。
	サトウキビ農園とその交易による莫大な土地と富を手に入れた成功者たちは更なる産業発展を求めて安価な労働力を日本を中心とする様
	々な地域より大量に呼び込み、ハワイ社会は多くの人種が混合した複雑な文化を育んでいった。
	白人勢力はやがてハワイ人国家を倒し、近代化の名の下に1900年にはアメリカ合衆国の領土として併合がなされた。さらに戦時下におい
	ては東西に台頭したアメリカと日本の確執の余波をまともに受け、太平洋上の重要な軍事拠点として開発が進む一方で、ハワイへ労働者
	としてやってきた大量の日本人移民は深刻な差別に曝された。現代は観光都市として発展を見せる一方で、開発による環境汚染、歴史遺
	構の破壊や人口増加による地価・物価の高騰、ハワイ人問題事務局が提唱しているハワイ人による自治権の獲得など、複数の問題を抱え
	ている。ハワイは、その解決の糸口を模索しながら今日に至っている。


	先史時代
 
	ハワイの島々は火山の活動により海底から隆起して誕生したもので、北西部の古い島々は500万年前から100万年前、ハワイ島などの新し
	い島は約50万年前に形成された。他の大陸と陸続きであったことはないため無人の島であり、ジェームズ・クックがハワイに到達する以
	前の先住民たちは、どこかから海を渡り、この地へやってきたことになる。



	
	ハワイは他の太平洋の島々の多くがそうであったように、19世紀にアメリカの宣教師がアルファベットを伝えるまで、文字を持たない文
	化を形成していたため、これらの問いに応える歴史文書は存在していないが、言語学的な推測、熔岩に描かれたカハキイ(ペトログリフ)
	などの研究から、最初にハワイへやってきたのはオーストロネシア語族のポリネシア人であると考えられており、マオリやタヒチ人と同
	じ起源にさかのぼることができる。その年代については諸説があり、遺跡の放射性炭素年代測定にもとづき紀元前500年前後から3世紀頃
	までと考えられている。





	
	また、ハワイに伝わる神話クムリポからも考古学的な考察と検討が行われている。クムリポは伝記(クアウハウ)、お伽話(カアオ)、
	歴史伝承(モオレロ)といったジャンルの神話が歌や舞踏、チャントなどで代々の王家に伝承されたものであり、1700年ごろに作られた
	ものとされている。公式な発表としては1881年にカラカウアが公表したもの、1889年にリリウオカラニによって英訳されたものなどがあ
	る。クムリポでは創作された寓話を交えつつハワイ人の起源から13世紀前後の出来事までが語られている。
 
	言語学的見地、歴史遺構や伝承神話などからの類推により、ポリネシア人はカタマランやアウトリガーカヌーを操り、マルキーズ諸島を
	経由してやってきたと見られ、さらに数世紀後 900年ごろに、タヒチ島を中心とするソシエテ諸島からやってきたポリネシア系移民が定
	着したのが始まりとされている。なお、このポリネシア人たちの航海が本当に可能だったのかどうかについて、1976年から検証航海が行
	われた。ピウス・マウ・ピアイルグら17人の男女が乗り込んだ丸木舟「ホクレア号」は、マウイ島を出発し、31日目にタヒチに到着、
	1978年にはタヒチからマウイ島への航海も成功させ、ポリネシア人たちの太平洋の航海が不可能ではないことを証明した。
	ただし、なぜ彼らが移動する必要があったのかについては、ハワイの神話やペトログリフを紐解いてみても遠方への航海や交流を暗示す
	るものはあっても、その明確な記述は無く、それまで居住していた島が手狭になった、飢饉になった、他の島との戦で追放された、等の
	後年の歴史家による根拠の薄い仮説が打ち立てられているに過ぎない。
	彼らはハワイ諸島へ定住するため、タヒチ島間を断続的に往復し、タロイモ、ココナッツ、バナナといった植物や、豚、犬、鶏といった
	動物をハワイ諸島へ運び込んだ。この「大航海」は14世紀頃まで続いた。フラをはじめとする古きハワイの文化も、この交流の過程でも
	たらされたと考えられている。
	12世紀ごろには族長(アリイ)による土地の支配と統制がはじまり、階級社会が誕生した。アリイを頂点とし、神官(カフナ)、職人や
	庶民(マカアイナナ)、奴隷(カウバ)が続いた。土地の支配はアフプアアと呼ばれる制度で規律され、山頂と海岸を結ぶ二本の線を土
	地の基本単位とし、境界線には豚(プアア)をかたどった像(アフ)が備えられた。
	アリイはヘルメットを被り、羽編みのマントを身に付け、マナという特別な力を持つとされた。また、カウバは共同生活の規律を乱す犯
	罪者や他の土地の捕虜の階級で、顔に入墨を彫られ、他階級との交わりが禁じられていた。時にはカフナの行うまじないごとの生贄とさ
	れることもあった。





実物大のピリハレ(草葺きの家)



	
	ハワイ王国

	1778年、イギリスの海洋探検家ジェームズ・クックによって、1月18日にオアフ島が、1月20日にカウアイ島が「発見」され、ワイメア・
	ベイにレゾリューション号、ディスカバリー号を投錨し、ヨーロッパ人としてハワイ諸島への初上陸を果たした。クックは、上官の海軍
	本部長サンドウィッチ伯爵の名から、サンドウィッチ諸島と命名した。しかし、クックがサンドウィッチ諸島と名づける以前より、現地
	ハワイ人の間では既にハワイという名称が定着していた。
 
	<ジェームズ・クックの最期>
 
	突然の見たこともない大きな船の到来と、そこに佇む異様な衣を纏う乗組員に先住民は驚きおののいた。新しい海路の発見を目指す一行
	は同年2月に一旦ハワイを離れ、北西へと旅立った。その後、同年11月にハワイを再訪したクックは、マウイ島とオアフ島の船上調査後、
	1779年 1月17日、ハワイ島ケアラケクア湾へ上陸した。ハワイ島の王であったカラニオプウはクックをロノの化身と錯誤し、ヘイアウの
	奥に鎮座する祭壇へ案内し、神と崇めた。クックは先住民に神と間違えられる事は何度も経験しており、先住民らが望みそうな振る舞い
	を演じてみせた。先住民らにより豊穣の神ロノを讃えるマカヒキの祭が執り行われ、クックらに酒池肉林のもてなしを行う。
	長い航海で女に飢えていた乗組員らは現地の若い先住民の女を侍らせ、約3週間宴に興じた。2月4日、クック一行は必要な物資を積み込
	み、北洋へ漕ぎ出したが、カワイハイ沖で遭遇した暴風雨にレゾリューション号のメインマストが破損したため、2月11日、再度ハワイ
	島へ戻り修繕にあたろうとした。しかし、先住民らは「クックはあまりにも人間的な肉欲を持っている」「ロノ神の乗る船があのように
	傷つくものだろうか」といった疑念を持ち始める。
	先住民らが険悪な様相でディスカバリー号のボートを奪い取ろうとしたため、クックはカラニオプウを人質として拘束した。この諍いは
	乱闘へ発展し、1779年2月14日、クックは4名の水兵と共に殺害されるに至った。ディスカバリー号を率いていたチャールズ・クラークは、
	大急ぎで船の修復を終え、イギリスへと舵を取った。クラークは海軍本部、英国王立協会にクックの死、北方海路探索の失敗、そしてサ
	ンドウィッチ諸島の発見を報告し、欧米にその存在を知らしめた。
 
	<ハワイ王 カメハメハ1世>
 
	このころのハワイ諸島には大族長(アリイ・ヌイ)による島単位での統治が行われていた。ハワイ島をカラニオプウが、それ以外の島を
	マウイ島の大族長カヘキリが支配していた。大族長は世襲制であったため、1782年にカラニオプウが没すると息子のキワラオが王位を継
	承した。軍隊の指揮で頭角を現しつつあったカラニオプウの甥にあたるカメハメハはこのとき戦争の神(クカイリモク)という称号を授
	かり、コハラおよびコナの領地を譲り受けた。これに立腹したキワラオはカメハメハに戦争をしかけたが、モクオハイの戦闘で負傷し、
	逆に1790年、カメハメハによるハワイ島統一が成された。
 
	クックのハワイ諸島発見以降、交易を求める者や植民地主義の帝国からの来航が頻繁に発生していたが、カメハメハは、外交手腕に優れ、
	欧米列国の領土的野心を封じる先見性も持っていた。カメハメハはクックの後継者とも言えるジョージ・バンクーバーを懇意にし、1794
	年 2月24日、ハワイにおけるイギリス人水兵の安全保障の見返りとして外国のハワイ侵略をイギリスが防衛する防衛援助協定を取り付け
	ることに成功した。これを契機に、イギリスから仕入れた銃器を手に1795年 2月、カメハメハはハワイ諸島統一に向けて動き出し、同年
	4月までにニイハウ島とカウアイ島を除くすべての島を制圧し、ハワイ王国を誕生させた。
 	1800年、残りの島の制圧を目指したが嵐や疫病の発生により不調に終わった。1810年、アメリカ人ウィンシップ兄弟の協力を得てカウア
	イ島大族長カウムアリイとの交渉を行い、カウムアリイの終身統治を条件としてカウアイ島およびニイハウ島の割譲に成功し、ハワイ諸
	島の統一を成し遂げた。
 
	<リホリホ(カメハメハ2世) > ハワイ王国の隆盛
 
	カメハメハが1819年5月8日に他界すると、長男のリホリホが王位を継承した。しかし、執政能力に不安を感じていたカメハメハは摂政
	(クヒナ・ヌイ)の地位を新設し、リホリホの義母にあたる妻のカアフマヌをその地位に充てた。カアフマヌは、リホリホの妻であるケ
	オプオラニと協力し12世紀以降続いていた禁令制度(カプ)の廃止を進めた。土着信仰として根付き、かつカフナたちの立場的優位性を
	築いてきたタブーを率先して破り、神および神官の存在を否定した。こうして古代宗教の神殿は破壊され、礼拝や生贄といった儀式も中
	止されることとなったが、階層構造により保たれていた秩序や規範も崩壊し、ハワイ王国は波乱の時代を迎えることとなった。
 
	1820年3月31日、アメリカ海外伝道評議会が派遣した聖職者ハイラム・ビンガム、アーサー・サーストンらを乗せたタディアス号がニュ
	ーイングランドよりコハラに到着した。彼らはそこで見たハワイ先住民たちの非道徳的な振舞いに衝撃を覚える。男はマロと呼ばれるふ
	んどしのような帯のみを身につけ、女は草で作った腰みのだけを身に付け、フラダンスという扇情的な踊りを踊り、生まれた幼児を平気
	で間引く彼らの文化は、無知で、野蛮で、非人道的なものであると理解するに十分であった。こうした風紀と社会秩序の乱れを回復すべ
	く、ビンガムを主導として宣教師らはプロテスタンティズムによる社会統制を試みた。こうしたアメリカ人宣教師らの影響は次第に教育、
	政治、経済の各分野へ広がっていった。
 	外交の発展により、ハワイ王国では貨幣経済が急速に浸透し、後払いによる外国製品の輸入を続けたため、みるみる負債が膨らんでいっ
	た。この状況を打破しようと、1823年11月23日、リホリホは王妃のカママルを連れ、貿易問題の解消を求めてイギリス・ロンドンへ赴い
	た。しかし一行は滞在先で麻疹に感染し、カママルは翌年7月8日に、リホリホは7月14日に他界してしまった。リホリホの死を受け、弱
	冠10歳の弟、カウイケアオウリが翌1825年6月6日に大王に即位する。宣教師たちは実質的な実権を握る摂政カアフマヌに近づき、ハワイ
	のキリスト教化をすすめることに成功した。
 

	<カウイケアオウリ(カメハメハ3世) >

	1827年、フランスよりカトリック教会の宣教師がハワイへ上陸したが、すでにプロテスタントが浸透しつつあったハワイでの他宗派の影
	響による混乱を危惧し、カアフマヌは退去を命じる。しかし1837年、再びカトリック司祭が来航したことから同年12月18日、ハワイでの
	カトリックの布教と信仰の禁止の命がカウイケアオウリより下された。この命は1839年に解除されたが、太平洋の他の諸島と違い、ハワ
	イにおけるプロテスタントの影響は優勢であり続けた[25]。プロテスタントの宣教師らはまずハワイ人に読み書きから教え始め、1822年
	にはアルファベットによるハワイ語が確立、1834年には太平洋地域で初となる新聞『カ・ラマ・ハワイ』(1834年6月、マウイ島)、
	『クム・ハワイ』(1834年10月、ホノルル)が発行され、1839年には聖書が出版された[26]。徹底した文教政策が奏功し、ハワイ住民の
	教育水準は飛躍的な高まりを見せ、近代化が加速度的に進行した。しかしこれは同時にハワイの伝統的な文化の断絶を意味していた。
 

	<アレクサンダー・リホリホ(カメハメハ4世) >

	1832年、カアフマヌが没したため、摂政の後任としてカメハメハの娘にあたるキナウが就任した。ハワイ王国は西欧的社会の移入を押し
	進め、イギリスのマグナ・カルタを基に1839年に「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にハワイ憲法が公布され、立憲君主制が成立した。
	1845年には基本法によって行政府として王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職が置かれ、15名の世襲制議員と7名の代議員
	からなる立法議会が開かれた。しかし、なじみの浅い西欧文化に戸惑うハワイ人を他所に、ハワイに帰化した欧米の外国人がハワイ政府
	の要職に就く様子が見られるようになる[注釈 6]。こうした土壌で、1852年にはハワイ新憲法が採択されることとなった。この新憲法に
	はエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を行うはるか前に奴隷制禁止条項が盛り込まれるなど、リベラルなものとなった。
	こうした西欧化はアフプアアを伝統とした土地制度にも及び、欧米的な土地私有の概念が取り込まれた。1848年には土地法が制定され、
	ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割された。しかし1850年、外国人による土地の私有が認められるようになると、対外債務
	を抱えていたハワイ政府は土地の売却で負債を補うようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島の約75%の土地が外国人の支配する土
	地となり、生活の基盤を失うこととなった。
 

	<ロト・カメハメハ(カメハメハ5世) >

	1854年、カウイケアオウリの没後、1855年1月11日、摂政であったキナウの次男アレクサンダー・リホリホが王位に就いた。この頃の行政
	府内にはアメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの対立したグループが形成されていた。前王が採択した一般成人男子の参政権
	獲得による王権の失墜を危惧したアレクサンダー・リホリホは兄のロト・カメハメハと協力し、貴族主義的な君主制の確立を目指した。
	イギリスの王制を高く評価していたアレクサンダー・リホリホは1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名のエピスコパルをハ
	ワイに設立し、イギリス本土よりトーマス・ステイリーをはじめとする英国国教会の聖職者を招聘した]。この背景には息子アルバートを
	洗礼させ、イギリスのヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的思惑があったとされる。
	しかし、1862年に溺愛する息子を亡くし、そのショックから立ち直れぬまま翌1863年11月30日にアレクサンダー・リホリホ自身も死亡し、
	この目論見が未達に終わる。王位は即日兄のロト・カメハメハが継承した。
 

	<カラカウア(第7代ハワイ王) >

	ロト・カメハメハは王権復古を目指して1864年8月20日に新憲法を公布した。親英の王が続いたことでハワイ王国がイギリスに傾斜するこ
	とを危惧した[注釈 7]アメリカ合衆国は、極秘裏にハワイ王国の併合計画をはじめた。こうした中、次代の王位継承者を指名することなく
	ロト・カメハメハが1872年に急逝する。王位決定権が議会に委ねられ、親米派のルナリロが1873年1月9日に即位した。ルナリロはアメリカ
	人を閣僚に据え、アメリカからの政治的、経済的援助を求める政策を執った。アメリカとの互恵条約締結を目的とし、交渉がなされたが、
	ルナリロが結核にかかり、そのまま没したため、王位は再び議会に委ねられることとなった。選挙の結果、カメハメハの有力な助言者カメ
	エイアモク、ケイアウェアヘウルの子孫にあたるカラカウアが当選し、1874年2月13日に即位した。
 
	カラカウアは前王の意思を継ぎ、1875年6月3日、米布互恵条約締結を成し遂げた。この条約によりハワイの全ての生産品は非課税でアメリ
	カへの輸出が可能となったが、第4条として「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言
	が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾倒へ拍車がかかることとなった。有効期限を7年と定めていた最初の条約の期限が近づいた1883年、こ
	の条約は米や砂糖の生産業者などアメリカ国内において、合衆国の利益を損失するとして少なからぬ批判が噴出したが、上院議員ジョン・
	モーガンなどの帝国主義的拡張論者らにより、「その他の、より高次元な益がある」として反対勢力を押さえ込み、かねてよりモーガンが
	主張していた真珠湾の独占使用権を獲得することを条件として1887年11月に条約の更新がなされた。
 
	1887年、野党議員ロリン・サーストンが中心となって急進的な改革を志向する秘密結社ハワイアンリーグが設立された。同年6月30日、ハ
	ワイアンリーグはハワイの白人市民義勇軍ホノルルライフルズと協力し、カラカウアに対して首相であったウォルター・ギブソンの退陣
	と新憲法の採択を要求した。これに対し有効な対策が取れなかったカラカウアは自ら組閣した内閣を解散した。その後、ホノルルライフル
	ズらが起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させ、1887年7月6日に通称ベイオネット憲法が成立し、王権の弱体化はさらに進んだ。
	カラカウアは強大化するアメリカ系勢力を牽制しようと日本を盟主とする東洋諸国との同盟やベイオネット憲法の廃案を画策するなど王権
	の復古を試みたが、1891年1月20日、志を貫徹することなくサンフランシスコにて客死した。
 

	<リリウオカラニ(最後のハワイ王(女王)) >

	1891年1月29日、後任としてカラカウアの妹にあたるリリウオカラニが王位に就いた。しかし、リリウオカラニの指名した閣僚が再三にわ
	たりそれを拒否し、内閣が成立しない政治危機が続き、1892年11月8日、ようやく組閣のための閣僚承認がなされた。
	リリウオカラニは山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制度の下に許可するという法律を制定したが、
	この政策に対し、アメリカ系白人勢力から道徳的観点からの批判が噴出した。また、ベイオネット憲法に不満を募らせる王権派ハワイ人た
	ちへの対策として1864年の憲法をバックグラウンドとした新憲法の制定を計画した。こうした動きに危機感を覚えたアメリカ公使ジョン・
	スティーブンスはロリン・サーストン、サンフォード・ドールらと接触し、ハワイの併合に対して、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立と
	いう具体的な計画を始めた。
 











































	
	ポリネシアン・ホールの右半分は、「ベスティビュール・ギャラリー」という広大な空間。ここには、部屋いっぱいに長々と横たわる、
	丁寧に磨き上げられた一艘の巨大なアウトリガー・カヌーが展示されている。これだけのカヌーを、クギを使わずに作り上げたポリネ
	シア文化の奥深さに改めて驚かされる。ギャラリーの壁面にはポリネシア人のルーツを示した地図。ハワイ諸島に最初に上陸した人々
	は、約3800キロ南方のマーケサス諸島から訪れたと言われ、時は紀元 600年頃。このギャラリーには、他にもカヌーの模型や釣り具な
	どが展示されている。また、尖塔になっている2階部分には「太平洋の人々」と呼ばれるギャラリーと「ホール・オブ・ハワイアン・ナ
	チュラル・ヒストリー」があり、それぞれ、古代の太平洋諸島での人々の生活、社会、宗教についてとハワイ諸島の火山活動や生物形
	態の進化についての展示がある。 











	
	ハワイアン・ホールの天井には18メートルもあるマッコウ鯨の標本がぶらささがる
 
	「ポリネシアン・ホール」の隣りには「ハワイアン・ホール」が続き、このホールは中央が大きく吹き抜け、3層構造になっている回廊
	式の造りで、1階に西欧人到来以前の古代ハワイ社会、2階に西欧文化と融合し始めた王朝時代、3階に19世紀半ばから流入した日
	本や中国、韓国など移民文化に関する資料が展示されている。
	また、1階のフロア中央には実物大のピリハレ(草葺きの家)や西欧人が到来する前の情景のジオラマが展示され、遙か高い天井からは、
	全長18メートルもある迫力のマッコウ鯨の標本が、訪れる人々の視線を釘付けにする。

















	
	カメハメハ大王の名は、誰でも一度は耳にした事があるほど有名人だが、ハワイ諸島に移民した多数のポリネシアン達の部族を統一し、
	初めて王朝を築いたのがカメハメハ1世なのだ。下の絵はその戦いを描いた図である。頭部には戦いの神「クー」をかたどった帽子を
	かぶっている。 
 

















ピクチュアー・ギャラリー Picture Gallery



ここには、ハワイの歴史・景観を描いた絵画が壁一面に飾ってある。





















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ハワイ王朝・カメハメハ一族の部屋「カヒリルーム」

	

	「ポリネシアン・ホール」を入ってすぐ左側の部屋が「カヒリ・ルーム」といい、19世紀初期のハワイ王族の肖像画と王家のシンボル
	である鳥の羽でつくられた「カヒリ」が展示されている。巨大なダスターのような形をしたこのカヒリは、戴冠式や葬儀など、大勢の
	人が集まる祝祭事に、王家の人々がどこに座っているのかすぐに分かるように侍従が掲げ持ったものだという。カメハメハ王家伝来の
	宝飾品がある他、フランス領ポリネシア(タヒチなど)を中心としたポリネシア文化圏で使用されていた装身具類の展示が充実してお
	り、一見の価値がある。









Kamehameha I(カメハメハ1世) (1758年?〜1819年)の肖像画。



	
	カメハメハ2世とカメハメハ3世肖像画

	Kamehameha II(カメハメハ2世) (1797年〜1824年) 本名Liholiho
	Kamehameha III(カメハメハ3世)  (1813年〜1854年) 本名Kauikeaouli
 
	カメハメハ2世とカメハメハ3世は同母兄弟だが、共に子供が無く、しかも短命だ。それは続く4世、5世にも言えるそうで、総じて
	ハワイ国の王家は短命の者が多い。 



昔のハワイの部族間闘争はこのようなスタイルで行われた。





	
	カメハメハ1世のケープ

	職人が5世代かけて集めた約45万本もの羽を使用したといわれるカメハメハ1世のケープ。色鮮やかなこの羽が採れるのは、ハワイ
	固有のミツドリ科の鳥に限られ、赤い羽がイイヴィとアパパネ、黄色い羽がマモやオオから採取された。鳥を殺してしまうことがない
	よう、1羽の鳥からせいぜい5?6本しか採集しなかったので、ケープを完成するためには約8万羽のミツドリが必要だったという。 



	
	戦いの神、クー (Ku-ka-ili-moku)を表現している鳥のマスク。イースター島の「鳥人」といい、ニュージーランド、ハワイといい、
	ポリネシアンたちの鳥に対する崇拝は独特である。カメハメハ家に代々伝わった赤い羽根でコーティングされたこの帽子(?)は、
	戦いの神を祀ったもので、カメハメハ家に最強の力を与えてくれると信じられた。解説には「先祖代々の崇められる軍神(the coveted
	ancestral war god)」とあった。













カメハメハ5世

























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