第五日目 最終日 白老町アイヌ村・伊丹へ 2016.6.15


	6月15日(水)雨のち曇り いよいよ北海道最終日だ。



上、右端の囲いの中が露天風呂だった。野外露天風呂はここから下駄を履いて3分程らしい。



朝食は極めてオーソドックスな「日本の朝飯」だった。いやぁ、嬉しいねぇ。



支笏湖畔を白老町へ向かう。















上をクリックすればデカいマップが見れます。





















蝦夷地を「北海道」と名付けたのはこの松浦武四郎である。

	文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男
	として生まれる。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。別書では、代々
	百姓で、父・桂祐の次男として生まれたとしている。父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素
	養を身に付けたとされる。13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び、猪飼敬所、梁川星巌
	らと知己を得る。
	山本亡羊に本草学を学び、16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、故郷
	を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に
	出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、その探査は択捉島や樺太にまで
	及んだ。蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった。
	安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。
	明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名(当初は「北加伊道」)を与えたほかアイヌ語
	の地名をもとに国名・郡名を選定した。翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞し、従五位の官位も返上
	した。この間、北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。
	余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったという。天神(菅原道真)を篤く信仰し(天神
	信仰)、全国25の天満宮を巡り、鏡を奉納した。好古家としても知られ、縄文時代から近代までの国内外の古物
	を蒐集し、64歳のときには、自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎に描
	かせている。
	また、明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎から
	の影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。
	明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去。遺骨は染井霊園の1種ロ10号2側に埋葬されて
	いるほか、武四郎が最も好きだったという西大台・ナゴヤ谷に明治22年(1889年)に建てられた「松浦武四郎碑」
	に分骨されてもいる。
	なお、生地の三重県松阪市小野江町には、生家のほか、武四郎の遺した資料を保管する「松浦武四郎記念館」が
	ある(平成6年(1994年)開館)。また、公益財団法人静嘉堂文庫には、武四郎が収集した古物資料約900点が保
	存されている。(出典:ウィキペディア)



ブロニスワフ・ピウスツキ

	ブロニスワフ・ピオトル・ピウスツキ(Bronis?aw Piotr Pitsudski、1866年11月2日(ユリウス暦10月21日) 
	−1918年5月17日頃)は、ポーランドの社会主義活動家、文化人類学者。1918年に独立したポーランド共和国
	の初代国家元首ユゼフ・ピウスツキは弟。当時のロシア領ポーランドの公用語であったロシア語の読みでは、
	ピルスツキーと呼ばれる。
	現在のリトアニアの、ヴィリニュスから北東へ60km離れたシュヴェンチョニース (svenCionys) 郡のズウフ
	 (Zalavas)に生まれる。ヴィリニュスで高等学校を中退。
	1886年、サンクトペテルブルクでサンクトペテルブルク大学の法学部に入学。 1887年、アレクサンドル3世
	暗殺計画(この時処刑された首謀者の中にはウラジミール・レーニンの兄アレクサンドル・ウリヤーノフが
	いた)に連座して懲役15年の判決を受け、樺太へ流刑となる。
	サハリンへ着くと、初めは大工として働き始めたが、その後原住民の子供たちへ「識字学校」を作ってロシ
	ア語や算術・算盤教育を始める。「識字学校」の教師の中には、日本と樺太アイヌの間に生まれた千徳太郎
	治がいた。その後警察の事務局員となり、ニヴフ(ギリャーク)との交流が増えるようになる。

	1891年、同じく流刑されていた民族学者のレフ・ヤコヴレヴィッチ・シュテンベルクと知り合う。その後、
	ニヴフ文化研究及びニヴフ語辞書作成に没頭。
	1896年5月14日、アレクサンドル3世の死後に行われた大赦により、懲役刑が15年から10年に減刑される。こ
	の年になるとアイヌとも接触するようになり、資料収集を行う。12月6日にはアレクサンドロフスキー岬で
	開館された博物館に資料を提供。翌1897年に刑期満了。
	1899年にはウラジオストクへ渡り、翌1900年のパリ万国博覧会用の資料を提供する。1902年にアイヌとウィ
	ルタ(オロッコ)の調査のため樺太へ戻り、写真機と蝋管蓄音機を携えて資料収集を行う。同年農民身分と
	なる。年末には、樺太南部にある集落・アイ(日本名:栄浜村相原)で村長バフンケの従妹チュフサンマと
	結婚し、一男一女をもうける(二人の子どもは第二次世界大戦後、北海道に移住した。彼らの子孫が現在も
	日本で生活しており、長男木村助造(1903年−1971年)の子孫はピウスツキ家唯一の男系子孫である。チュ
	フサンマは晩年失明し、1936年1月に樺太で死去した)。
	その後もロシア語などをアイヌに教える一方でアイヌ、ウィルタ、ツングース族などの資料収集を行ってい
	たが、日露戦争勃発後の1905年、バフンケに反対されたため家族を止む無く残して日本へ渡る。
	1905年4月12日、「樺太アイヌ統治規定草案」(沿海地方国家歴史図書館蔵)を作成。
	日本では亡命ロシア人による反皇帝組織を支援したり、二葉亭四迷、横山源之助、上田将、大隈重信、鳥居
	龍蔵、坪井正五郎、宮崎民蔵、片山潜らと交流。同年にアメリカ経由でポーランドへ戻る。
	帰国後は、ヨーロッパ各地を転々としながら弟ユゼフらと文通を行い、亡命ポーランド人らと交流してポー
	ランドの独立運動に携わる。その一方でアイヌ研究を続けた。
	1918年、第一次世界大戦終結を前にしてパリでセーヌ川に身を投げて自殺。遺書は無かったために動機は不
	明である。(出典:ウィキペディア)

















































博物館の隣の家で、「今からアイヌの踊りをやりますから見て行ってくださぁーい」とお呼びがかかる。
「チセ」というのはアイヌの言葉で「家」の事だ。そういえば歴史倶楽部にいたチセちゃんは今どうしてるかねぇ。







































イナウ。これは人間の思いを神様に届ける「依代(よりしろ)」。日本の古代における青銅鏡のようなものかね。
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ポロト湖。アイヌの人達にとっては生命線のような水場だったんだろうな。静かな湖である。















千歳空港内で、「北海道名物」という「そば定食」を食った。















	当初の計画と予算では、全走行距離1,078km、総運転時間16:40、総費用156,898円という試算だったが、
	いずれも2割ほどオーバーした。費用は二人分だが、これはwifeがANAの飛行機を4ケ月前予約とかで、
	大阪ー札幌間、往復35,600円(二人分)で済んだから安いのだ。通常料金では一人でこの倍の値段であ
	る。
	五泊六日の北海道の旅、野趣溢れる知床半島は面白かったし、念願だった白滝の石器群も、白老のアイ
	ヌ村も見れた。でも私にとって、北海道の歴史はまだまだ未発掘である。続縄文文化、オホーツク文化、
	擦文文化、そしてアイヌ。知りたいことは山ほどある。邪馬台国も良いが、北海道の人々は一体どこか
	ら来たのだろうか、という疑問も私を捉えて放さない。北海道、蝦夷地、オホーツク、夢は尽きない。
	機会があれば、北海道にはまだまだ行ってみたいものだ。

北海道の旅・トップ  歌:藤圭子