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伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡
2007年9月14日(金)
秋田県北秋田市脇神小ヶ田


	伊勢堂岱遺跡	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	伊勢堂岱遺跡(いせどうたいいせき)は、秋田県北秋田市(旧鷹巣町)脇神にある遺跡である。

	秋田内陸縦貫鉄道の小ヶ田駅の南方の小川をこえた標高40〜45メートルの河岸段丘の北端台地の上にある縄文時代後期前半の
	遺跡である。 保存状態が良く、学術的な価値が高いことから2001年1月、国の史跡に指定された。

	縄文時代後期の遺跡で、A〜Dの4つのストーンサークルや掘立柱建物跡、土坑墓、土器埋設遺構、捨て場、フラスコ状土坑、日
	時計型組石などから構成されている。
	4つのストーンサークルからやや離れた場所に、日時計型組石が数個ある。これは大湯環状列石と同じように、この組石の中心
	からストーンサークルAを見ると、夏至の日に太陽が沈む位置とだいたい一致する。ストーンサークルAは直径が約32mで上空か
	らの平面形がメロンのような形をしており、つるの部分が特徴的である。祭祀の際の特別の通路として機能していたのではない
	かとの指摘もある。 ストーンサークルBは円ではなく欠けた弧状をしており、これは国鉄阿仁合線(現在の秋田内陸縦貫鉄道)
	の建設時に壊されたものであると考えられる。または、未完成のストーンサークルだとする見解もある。 最大のストーンサー
	クルCには石を縦横に組み合わせた構造もあり、これは、青森市の小牧野遺跡の小牧野式配石と呼ばれるものと共通する珍しい
	配石である。直径が45mもあり列石の輪が三重になっている。周囲には6本柱の掘立柱建物跡があり、これは大湯環状列石にも共
	通するものである。新たに発見された直径約36mのストーンサークルDは現在発掘中である。

	立石(日時計様組石)や列石に建物が附属する点では大湯環状列石との共通点があり、また、小牧野式配石もみられる本遺跡は、
	同一遺跡のなかで異なる文化要素をあわせもっている点で着目される。
	ストーンサークル近くの沢やフラスコ状土坑からは板状土偶やヒョウタン型土器、キノコ型土製品なども発見されており、捨て
	場や貯蔵穴の墓への転用が考えられる。土坑墓には土器や石器が供えられていることが多く、共同墓地と個人用墓地との関係や
	再葬の可能性などについては、今後もひきつづき検討を要する。
	大湯環状列石では立石下に死者が埋葬されているが、伊勢堂岱遺跡では丸く配置されている石の中央に死者が埋葬されている。

	この遺跡は大館能代空港へのアクセス道路建設(あきた北エアポートライン)の際に発見された。遺跡を埋め戻すことも考慮
	されたが、遺跡の重要性からアクセス道路の進路を曲げて、この遺跡を保存しさらに発掘することを決定した。




	秋田県立博物館からここへやってきた。大館能代空港のそばである。上は車の中から写したのですこしピンボケだが、国道2
	85号線から見えている「伊 勢 堂 岱 遺 跡 」の大きな立て看板である。あの上の台地は水平に整地されている。
	縄文人が整地したのである。大規模土木工事と言えるが、発掘当時の写真を見ると、廻りには木も生えて無く、この台地だけ
	が独立して存在している。遺跡へは、285号線をここから少し行って左折し、この台地の麓に駐車場があって、そこから台
	地上へ歩いて登るようになっている。2,3分で台地の上に出る。




	ここも前から行ってみたい場所の一つだった。上記の記事は、あの有名な岡村道夫が監修した「訪ねてみたい日本の古代遺跡
	100(成美堂出版)」という本からの転載だが、数年前に買ったこの本のなかで、藤村新一が捏造した遺跡を除けば、まだ
	行っていない遺跡の一つだった。100の遺跡の内、未訪問はもうわずかな数となったが、一大土木工事をした、台地上にあ
	る環状列石。これこそ縄文人達の大いなる祀りの場であり、葬送の場である。上記の解説書では「北秋田郡鷹巣町」となって
	いるが、現在は北秋田市である。またその後の発掘で、環状列石の発見は4基になっている。

	伊勢堂岱遺跡(いせどうたいいせき)は、北秋田市郊外の標高40〜45mの台地上に位置する、縄文時代後期前半(今から
	約4千年前)の大規模な祭祀場遺構である。湯車川に囲まれた舌状台地に位置し、平成7年、大館能代空港のアクセス道路建
	設に先立つ発掘調査で発見された。今日迄、約7,000uが発掘調査された。その結果、環状列石や配石遺構、掘立柱建物
	跡、土壙墓、捨て場など、多くの祭り・祈りの施設が見つかった。




	思えば、私はストーンサークルが好きなようである。大湯のストーンサークルや、北海道の忍路、音江なども廻ったし、イギ
	リスのストーンヘンジにも行った。縄文人達が、石のモニュメントを目の前にして、一体誰に、何を祈ったのかを考えると、
	しばしその場に佇んでしまう。膨大なエネルギーを費やして行われた古代人たちの想いが、まだその辺りに漂っているような
	気になって、なかなかそこから立ち去れない。
	4箇所の環状列石(ストーンサークル)は、一番大きいものは、直径50mほどの、三重になる石の輪であった。石を組んだ
	墓(配石遺構)や墓穴(土壙墓)、埋設土器などが発掘され、多くの建物跡も見つかり、又祭祀にかかわる遺物も数多く出土
	したので、「祭り」や「祈り」を行う大規模な葬祭の場であったという推測が一番強力な意見のようである。






	環濠も石組も台地の上へ登っていく途中にある。斜面に住居を造り環濠を掘っているのだ。ここを聖なる場として、それを護
	る人々が斜面で暮らしていたのだろうか。また下の写真で、青いシートの所にストーンサークルを造っている。こんな崖の上
	にも、と驚く。
	遺存状態がよく学術的価値が高いことから、縄文時代の墓制や精神世界・社会構造などを解明する手がかりとなる遺跡と判断
	され、アクセスルートの変更と遺跡の現地保存が決定された。平成13年、伊勢堂岱遺跡は国の史跡に指定された。当初は住
	居跡は見つかっていなかったが、2006年9月、1基の竪穴住居跡が発見され、この遺構を製作した人々のものではないか
	と論議を呼んだが、その分析はまだ今からのようである。なお、発掘調査は現在も続行しており、この日訪れたのが午後5時
	前後だったので、台地の上から車で帰宅する発掘作業のオバチャンたちの群れと何台もすれ違った。


	竪穴住居跡1棟発見 2006.9.1
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	国の史跡に指定されている北秋田市小ヶ田の「伊勢堂岱遺跡」で、竪穴住居跡が発見された。同遺跡は、全国最大 規模の環状
	列石(ストーンサークル)が集中して発見されるなど、全国でも類例のない大規模な葬祭祀後として注目されているが、これま
	での調査では住居跡は1棟も見つかっておらず、環状列石を造営した人が何処に住んでいたのか、という点が難問だった。
	市教委では「(住居跡発見は)今年度最大の 成果」としている。しかし、まだ1棟のみの発見にとどまっているため「この住
	居の意義を十分検討する必要がある」としている。(奥羽魁日報)







	下の駐車場で待っとくというwifeを置いて、登ってきたところにある発掘作業現場。おばちゃんたちも帰ってしまって、小屋
	の鍵を閉めている担当者しかいなかった。少し質問したかったが、いかにももう早く帰りたそうだったので諦めた。でも頼ん
	だら巻末に掲載した遺跡紹介のパンフレットをくれた。御礼を言う間もそこそこに、さっさと車に乗って帰ってしまったので、
	一人で縄文人としばらく会話した。




	小又川の本流である米代川流域にも、こうした東北地方北部全体と同様に特色ある縄文文化の遺跡群がある。なかでも阿仁川
	との合流点近くの、この伊勢堂岱遺跡の発見とその調査成果は、米代川流域が後期の大規模環状列石が作られる中心地域のひ
	とつであったことを示した点で重要である。東北地方北部の縄文文化の歴史の中で、伊勢堂岱遺跡をはじめとする大規模環状
	列石がもつ意味は何か。それぞれの集落或いは集団ごとに独立した祭祀場を保有して、一団の繁栄と未来を祈っていたのだろ
	うか。ここから約80km離れた、青森県の「小牧野遺跡」も大規模環状列石の遺跡だが、ここと同じような形式を持ってい
	るとものの本にある。してみると、縄文時代後期に、北東北一帯で大きな祭祀センターを持つことが流行していたのかもしれ
	ない。






	当遺跡の範囲は台地全体に及んでいると見られ、15,000u以上のひろがりを持つと推定されている。この遺跡全体の範囲を確
	認するための発掘調査が現在も行われており、今後さらに10年ほどに及ぶ調査が継続予定という。




	<沢(捨て場)跡>

	環状列石で行われた祭祀に使った道具を捨てた場所と見られている。沢からは多くの土器・土製品が出土しており、特に土器
	は完全な形に復元できるモノが多いため、祭祀に使った道具は再使用せずそのまま「沢」に捨てたと見られる。土器にはヒョ
	ウタン形・朱塗りのモノ、土製品には鐸形・キノコ形等様々な形をしたモノが出土している。発掘調査はいまだ続行中で、今
	後新たな発見が報道されることがあるかもしれない。








	<掘立柱建物跡>

	建物跡と見られる多くの柱穴がいくつも重なり合って見つかり、柱穴は直径1mほど、深さ1.2m前後のモノがほとんどで
	あった。6本柱で亀甲形の建物と見られ、既に35棟が見つかっている。 
	これらの建物は住居ではなく祭祀用施設と考えられ、弧を描くように配置されている建物群の内側には環状列石Cが位置付け
	られている。土壙の覆土は、遺骸が納められた後直ちに埋め戻された状況にはない。何度も掘り下げ、底を作り直し、繰り返
	し使われた様子が窺えたという。これらの建物は、一次葬用の埋葬施設で、遺骸を土壙に納める前に葬儀の後一時保管された
	のではないかと考えられている。この地域の葬制を解明する糸口になることが期待されている。








	<環状列石A>

	環状列石とは自然の石を円形に並べた祭祀用施設を云い、縄文時代中期後半から後期前半(4,500〜4,000ほど年前)頃北海道・
	東北地方北部で造られたことが判明している。小規模なものは西日本にも存在するがわずかである。当遺跡の環状列石Aは地
	面を削って平らにし、約1,500個の河原石を並べたもので、広さは直径25〜30mで蔓のついたメロンのような形をし
	ている。組石の石材は7kmほど離れた米代川下流より運び込まれたと見られている。又石の環の下からは多くの土壙墓が見
	つかった。






	<環状列石C>

	環状列石Cは外周径42〜45m、中央にも径7〜8mの環状列石が見える。三重の、日本最大級の環濠列石である。環状列
	石の石組みは必ずしも円形・方形等定まった形のようには見えない。大工事を伴った環状列石のようだ。大湯環状列石のよう
	な「日時計型組石」は見つかっていない。列石の下からは100基以上の土壙が見つかっている。土壙内に遺骸は発見されな
	かったが、朱塗りのモノを含む鉢や壷、鐸形・キノコ形の土製品が副えられた墓である。出土した土器の中に埋葬したようだ
	と解説にある。環状列石Bも見つかったが、道路工事中に破壊されたそうだ。




	ここからは、礫散在箇所、集石遺構、溝などが発見されている。礫散在箇所の石は、こぶりの川原石で焼けているものがほと
	んどだそうだ。祭祀遺物も少数ながら出土していて祭祀場の可能性が高い。溝はなんらかの区画のために掘られたものと思わ
	れ、現在9条見つかっている。このほかにも土抗墓(?)や落とし穴、列石につながる石組みや石囲炉、柱穴等が検出された。
	また環状列石構築時の土木工事の痕跡も確認したそうで、中心から見て北側の外帯が高くなるようにつくられている。
	石囲炉は2つあり、焼けて赤くなった石を用いていて、特徴としては左のものは小さい立石がひとつで、右のものは四隅に立
	石がある。これらの焼けた石は、どこかで焼いてから持ってきたものらしい。何のためにそんな事をしたのか。
 

土壙墓(上左)。素堀りの墓。墓穴の中には、土器や石器が供えられている。
埋設土器(上右)。死者の骨を土器に納め、埋めた墓。土器の上には小さな石が置かれていた。







	<環状列石D>

	最後に見つかった環状列石Dは、直径36mの二重の環状列石だ。付近は草茫々、木の切り株だらけで、これは場所がどこだ
	か分からなかった。その先に現在発掘している現場があった。




	台地全体(200,000u)が巨大な祭祀施設と思われ、調査もまだまだこれからのようだが、伊勢堂岱遺跡の特徴は環状
	列石が密接して造られていることで、全国的に見てもあまり類例がない。又、環状列石Cの直径は45mとも60mとも言わ
	れ国内最大級である。現地では自由に見学が可能で、案内板が沢山あるので比較的わかりやすいが、もっと早く来れば担当者
	の話が聞けたのにと残念だった。発掘し、保存し、見学させながら、同時にまた発掘しているということらしいので、土日に
	はガイドさんが解説してくれるという。
	おびただしい配石群はそれぞれどんな意味があったのか、何故このように配置されているのか、そもそもどんな行事のときに
	ここを使っていたのか、また、ここを使用した人々はどこから来たのか、どこに住んでいたのだろうかと、いくら想像力を働
	かせても結論は出ないが、その質問は発掘担当者でもガイドのおばさんでも分からないかもしれない。

	以下が、担当者に貰ったこの遺跡の解説書。北秋田市教育委員会に深謝。







		一般見学 : 午前9時〜午後4時  ※11月上旬〜4月中旬までは、積雪のため閉鎖しています。
		休業日  : 期間中無休  
		入場料  : 無料 
		住 所  : 秋田県北秋田市脇神小ヶ田
		交 通  : 秋田内陸縦貫鉄道小ヶ田駅から徒歩5分
		駐車場  : 無料 40台 
		問い合わせ: 鷹巣町教育委員会 生涯学習課 TEL 0186-62-1111(内線426)


	北の縄文文化回廊フォーラム「ストーンサークルとマツリ」〜伊勢堂岱遺跡を中心に、
 
	考古学ファンなど約100人が参加した北の縄文文化回廊フォーラム(15日、市交流センター) 
	北東北の縄文文化について探る「北の縄文文化回廊フォーラム『ストーンサークルとマツリ』〜伊勢堂岱遺跡をめぐって」が
	15日、市交流センターで開催され、参加した考古学ファンらが、伊勢堂岱遺跡を中心とした縄文遺跡についての講演やパネ
	ルディスカッションなどで縄文文化について研さんを深めました。
	「北の縄文文化回廊」とは、北東北・北海道で花開いた独自の縄文文化を担った人たちの交流や地域間のネットワークなどを
	「回廊」=建物をつなぐ廊下=と呼んで、この文化をわかりやすく表そうとした言葉。秋田県と北海道、青森県、岩手県では、
	互いに連携し、この広域文化を内外にPRするため様々な事業を展開、このフォーラムもその一環として開催されたものです。
	開会行事では、秋田県生涯学習課文化財保護室の大野憲司室長が、「『北の縄文文化回廊事業』は、北東北と北海道に特徴的
	な縄文文化のPRなどで、地域のにぎわいを創出することをねらいとしている。今日の講演とパネルディスカッションを通じ
	て、この地域には豊かな文化があったことを感じとっていただければ幸い」などとあいさつ、この後、専門家による講演、市
	内の縄文遺跡を発掘調査している市と県の担当者の報告、パネルディスカッションなどが行われました。
	講演は、縄文文化を研究されている盛岡大学の熊谷常正教授と、弘前大学亀ヶ岡文化研究センターの藤沼邦彦教授を講師に行
	われました。「北のストーンサークル」と題した熊谷教授の講演では、「伊勢堂岱遺跡のストーンサークルが作られた縄文後
	期前半は、大規模な集落が解体し、山間の小集落が増加、集落と墓地の文化も進んだが、それ以前の縄文中期には、環状集落
	が発展し、大型住居が建設されている。つまり、約4千年前にはじまる縄文後期は、新たな社会組織が形成された時代であっ
	た」と指摘。
	また、「敷石住居」と呼ばれる建物の中に石を敷き詰めた住居の構造は、その後作られるようになる環状列石の構造と共通点
	を有するが、この敷石住居などの配石は、関東甲信越をはじめ東日本全体で見られるもので、必ずしも東北地方北部だけに見
	られるものではない、といった環状列石成立の成り立ちなどについて自説を述べていました。

	「ストーンサークルとマツリの道具」と題した藤沼教授の講演では、縄文遺跡から出土した祭祀や生活に使われた土器類など
	を紹介した上で、
	▽縄文時代が1万年もの間続いたのは、縄文人が安定した小さな社会を持続させるため、農耕などで食料を生産する道をとら
	 ず、狩猟を基本に消費する社会を形成したため
	▽ストーンサークルは、労働や祭りという「消費」のための施設だった
	▽余剰生産物を持たず豊かな自然に身をまかせ、ゆったりと生活した
	▽遺跡から出土しているような優れた工芸品や記念物をつくり、祭りなどで精神を高揚させていたのではないか、
	と説いていました。

	この後、遺跡の調査報告に続いて会場の参加者を交えてのパネルディスカッションが行われ、各地のストーンサークルの特徴
	や成り立ち、考古学を中心とする縄文文化の研究方法など、熱い意見交換が行われました。
	【北秋田市HP】







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